女性

千姫~織田の血を引く将軍家の超お嬢様、祖母譲りの美貌、波乱万丈の人生でも自分らしさを貫きました。

伝通院 千姫墓所



スポンサーリンク



千姫

千姫(せんひめ)は、
安土桃山時代から戸時代の女性。
豊臣秀頼本多忠刻の正室。
父は徳川秀忠、母は浅井長政の三女である
浅井江(太閤豊臣秀吉の養女・達子)。
号は天樹院。

【生誕】
慶長2年4月11日(1597年5月26日)
山城国伏見城(現・京都市伏見区)

【死没】
寛文6年2月6日(1666年3月11日)
江戸(現・東京都)

【墓地】
傳通院・天樹院弘経寺・知恩院

【住居】
伏見城、大坂城、桑名城姫路城江戸城

【別名】
天樹院

【配偶者】
豊臣秀頼
本多忠刻

【子供】
勝姫、幸千代

【養子】
天秀尼、徳川綱重

【父】
徳川秀忠、

【母】
浅井江

【親戚】
弟妹:
珠姫、勝姫、初姫、徳川家光、
徳川忠長、和姫

【異父姉】
豊臣完子

【異母弟】
徳川長丸、保科正之

【生涯について】
慶長2年(1597年)4月11日、
徳川秀忠と江の長女として、
山城国伏見城内の徳川屋敷で
産まれました。

【豊臣秀頼との婚礼】
慶長8年(1603年)に
7歳で豊臣秀頼と結婚し、
従者ともに大坂城に入ります。
この時豊臣秀頼は11歳でした。
豊臣秀頼の母である淀殿
千姫の母であるお江は実の姉妹です。
したがって、
2人はいとこ同士でありました。
政略結婚ではありましたが、
とても仲が良かったと
言われています。
けれども、生涯2人の間に
子どもは授かりませんでした。
大阪城

【徳川家との溝】
慶長10年(1605年)4月、
徳川家康は将軍職を辞任します。
徳川秀忠に征夷大将軍を譲りました。
将軍職は徳川家が世襲することを
意味していることになります。
これに対し怒ったのが、淀殿でした。
徳川家康は、豊臣秀頼に上洛と
京都での謁見を希望しましたが、
淀殿が拒否しました。
謁見すれば、豊臣秀頼が
徳川家康に従ったと見なされると
考えたからでした。
徳川家康と淀殿との間で溝が生じました。




スポンサーリンク



【成長著しい秀頼】
慶長16年(1611年)、
後水尾天皇」の即位のため
徳川家康が上洛します。
その際に、今度は豊臣秀頼から
「千姫の祖父に会いたい」と言い、
二条城」にてようやく謁見が
実現しました。
このとき豊臣秀頼は、19歳。
身長が6尺5寸(197cm)もある、
立派な体格の青年に成長していました。
高身長であるのは
浅井家の遺伝子なのでしょうね。

大坂の陣、豊臣家の滅亡】
この姿に脅威を感じたのが徳川家康でした。
豊臣家に政権を戻す気が
微塵もなかった徳川家康は
方広寺鐘銘事件」で難癖を付け、
慶長19年(1614年)、
「大坂冬の陣」が起きます。、
そして一度は和解しましたが、
慶長20年(1615年)に
「大坂夏の陣」が勃発します。
大坂城は落城し豊臣秀頼と淀殿は
自害に追い込まれ、
ついに豊臣家は滅亡しました。

【天秀尼を救う】
その大坂夏の陣では、
祖父である徳川家康の命により
落城する大坂城から千姫は救出されます。
その後、豊臣秀頼と側室の間の娘である
天秀尼が処刑されそうになった時に、
千姫は彼女を自らの養女にして
命を助けたのでした。
だたし秀頼と淀殿に対する
助命嘆願は聞き届けられませんでした。

【一目ぼれ】
このように
徳川家康の命により
大坂城から救出された千姫ですが、
この時に本多忠刻に
ひと目惚れをしたとの逸話があるそうです。
本多忠刻は、慶長元年(1596年)生まれで
千姫とは1歳年上のほぼ同年代です。
徳川家康の重臣である本多忠勝の孫です。
祖父の本多忠勝は、
生涯57戦を経験しながらも
負けなしだったと言われた猛者。
孫の本多忠刻も
本隊の指揮を執る強者。
しかも、誰もが振り返る
美男子と言われていました。
そうした強くてイケメンの
本多忠刻の姿を見て恋に落ちたと
いわれています。
それは、関東へ移動する道すがら、
桑名(現在の三重県桑名市)の
七里渡しの船中だったとも。
桑名城跡 二ノ丸方向 水城

【孫娘を応援】
この淡い恋の話を聞いた徳川家康は、
徳川将軍家のために
いとこでもあった最初の夫を死に追いやり、
辛い目に合わせた孫娘に対して
申し訳ない気持ちがあったのか、
千姫の恋を応援したとのことです。
そして千姫と本多忠刻の婚姻を
あっという間にまとめたのでした。

【本多忠利と結婚】
元和2年(1616年)、
千姫は本多忠刻と結婚します。
千姫は20歳、本多忠刻は19歳でした。
徳川家康から結婚に当たり、化粧料として
播磨姫路(現在の兵庫県)に10万
(現在価値にして100億円)を頂戴します。




スポンサーリンク



なお、父である徳川秀忠は
「千姫は豊臣秀頼と共に
自害するべきだった」と
冷ややかであったとのことです。
翌年の元和3年(1617年)、
本多家が播磨姫路に
移封になった時には、
桑名を発って姫路城に移り、
播磨姫君と呼ばれるようになりました。
姫路城(兵庫県姫路市)に
武蔵野御殿と化粧櫓を新築します。
美男・美女カップルと持て囃され、
1男1女に恵まれて、
幸せなひと時を過ごしたのでした。

【千姫事件】
それは本多忠刻と結婚した年に起こりました。
津和野藩主である坂崎直盛が
輿入れの行列を襲って
千姫を強奪する計画を
立てていることが発覚しました。
坂崎直盛は家臣により殺害され、
それを坂崎直盛が自害したように
見せかけましたが、
坂崎家は改易処分となったのでした。

【坂崎直盛とは】
大坂夏の陣の際に、
千姫を実際に大坂城から救出した人物が
坂崎直盛でした。

坂崎直盛は、
出羽守(現在の山形県と秋田県の長官)で、
宇喜多秀家の従兄弟です。
元々は宇喜多姓を名乗っていましたが、
関ヶ原の戦いから徳川家康に仕えて
坂崎姓を名乗り、
石見国津和野(現在の島根県浜田市)に
3万石を賜りました。
徳川家康から千姫を救出するよう命じられ、
その褒美として千姫との結婚を
約束されたと言われています。

【絶対にイヤ!】
けれども、千姫は
坂崎直盛との結婚を
断固拒絶したとのこと。
その理由については
諸説あるとのことですが
助けて貰ったときに
坂崎直盛が負った傷を見て
気持ち悪かったからとか、
坂崎直盛本人との結婚ではなく、
坂崎直盛が選んだ公家との縁談が
嫌だったからなど、とのことです。
が、前述で「一目ぼれ」した相手が
いたからことも拒絶した諸説の中の
一つかもしれませんね。

【相次ぐ別れ】
元和4年(1618年)には
長女・勝姫(池田光政正室、池田綱政生母)、
元和5年(1619年)には
長男・幸千代が生まれました。
けれども、元和7年(1621年)に
幸千代が3歳で没したのを始め、
寛永3年(1626年)には
最愛の夫である本多忠刻が、
結核のため30歳という若さで
この世を去ったのでした。
千姫の幸せな再婚生活は
約10年にして終わりました。
更に姑である熊姫
松平信康の娘、いとこでもある)、
母・浅井江が次々と没するなど
不幸が続きました。




スポンサーリンク



【豊臣家の呪い?】
これは、豊臣家の呪いでは
ないかとも言われてしまい、
千姫は本多家を娘・勝姫と共に
出ることとなったのでした。
江戸城に入り、出家して天樹院と号します。
なお、千姫は本多家を出る際、
夫の本多忠刻の形見として、
本多忠刻の愛刀
「太刀 銘 包永[金象嵌]本多平八郎忠為所持之」
を譲り受けています。
そして娘と2人で竹橋御殿で
暮らしたのでした。

【一人娘が嫁ぐ】
寛永5年(1628年)に
勝姫が父である徳川秀忠の養女として
池田光政の元へ嫁ぎ、
一人暮らしとなります。
池田家に嫁いだ一人娘のことを心配し、
「天樹院書状」を送っています。

【父の死】
寛永9年(1632年)、
父である徳川秀忠が薨去。

【孫の誕生】
寛永16年(1639年)、
池田光政と勝姫の
嫡男となる池田綱政(千姫の外孫)が
誕生しました。

【大奥の最高顧問的な権威】
正保元年(1644年)には
弟・徳川家光の厄年を
避けるために江戸城から移った
徳川家光の側室・夏(後の順性院)と
その後生まれた家光の三男・綱重と
暮らすようになりました。
綱重を養子にすることで
大奥に対して大きな発言権を持つようになり、
4代将軍・家綱の時代になっても
大奥の最高顧問的な権威をもっていました。
寛文5年(1655年)の
越前松平家(福井藩主・松平光通)の
婚姻に関して、嫁側である
越後高田藩・勝姫
(千姫の妹、越後高田藩主・松平光長の母)
に依頼されて、幕府に対して
介入を行ったとのことです。

東慶寺
また、夫と離縁したい女性を
支援するための縁切寺「東慶寺」
に援助していました。
東慶寺は養女である天秀尼が
入山し20世住持となった寺です。

明暦3年(1657年)の
明暦の大火で竹橋の邸が
焼失した時には、
叔父・徳川頼宣(紀州藩主)の
屋敷に一時寄留しました。

【最期】
寛文6年(1666年)2月6日、
江戸で死去しました。
享年は70歳でした。
死因は肺炎と見られているとのことです。

【墓所】
墓所は、
「伝通院」(でんづういん:東京都文京区)、
「弘経寺」(ぐぎょうじ:茨城県常総市)、
「知恩院」(ちおんいん:京都市東山区)の
3ヶ所に納められています。

亡くなった夜、曾祖母・於大の方
菩提寺である小石川伝通院に納められ、
導師・知鑑(知恩院37世)により
葬儀が行なわれました。
<伝通院の千姫の墓所>
伝通院の千姫の墓所
墓所は伝通院と
茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり、
また徳川家(松平家)が
三河時代から帰依していた
浄土宗の総本山である京都の知恩院に、
定例により分骨され宝塔に納められました。
知鑑は後に位牌や遺物を祭るため、
伊勢に寂照寺を開きました。
戒名は「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。

長らく遺髪のみ納められたと
言い伝えがあった天樹院弘経寺の墓所では
近年、千姫の頭蓋骨や
高価な宝飾品が確認されていることから
伝通院のほうこそが遺髪のみ、
あるいは分骨である可能性が
示唆されているとのことです。
幕府からの寄付を目的に
貴人の墓石だけ置かれる事自体は
珍しい事ではなく伝通院に
本当に遺骨が実在するか
どうか少なくとも記録には無いとのことです。
そもそも千姫単独で
弔われているのは
茨城の弘経寺だけであること、
鬼怒川を上っていくと
日光東照宮があることからも
本当の墓は弘経寺だと
考えれているとのことです。




スポンサーリンク



【千姫と常陸国】
明暦の大火からの復興に
明け暮れた晩年の千姫にとって
風光明媚な常陸国は
夢にまで見た安楽の都であった
ともいわれています。
甥で養子の徳川綱重が
母の弔いにと自ら
天樹院弘経寺へと足を
運んでいることからも
常陸国が徳川家にいかに
重要視されていたかがわかるとのことです。
袋田の滝

【人となり】
<豊臣秀頼との仲>
従兄にあたる初めの夫・豊臣秀頼とは
夫婦仲睦まじく、千姫が16歳のとき、
豊臣秀頼が女性の黒髪を
揃える儀式「鬢削」を
千姫にしていたのを
侍女が見ているとのことです。

<穏和で優しい性格>
穏和な性格の持ち主と
伝えられる一方で、
秀頼と側室の間に生まれた娘・
天秀尼が処刑されそうになった際に
体を張って必死の助命嘆願を行い、
その結果、天秀尼は助けられたとされています。
天秀尼は後に「縁切り寺」として
有名な東慶寺の住職となりました。
千姫は同情深く、夫の側室や
その子と揉めるどころか
受け入れて保護していることからも、
嫉妬とは無縁の気が優しい
性格の姫だったことが伝わっています。

<だが頑固>
だが穏やかだったとされる反面
頑固であり、許せないことに対しては
誰が相手でも引くことはなかったとのことです。

<母方譲りの美貌>
父方の聡明さと母方の美貌を受け継いだ、
美しい姫君であったということです。
2人目の夫である本多忠刻
(母・熊姫は徳川家康と織田信長の孫で、
千姫の従姉である)も
精悍さが評判の凛々しい
武士であったといわれ、
美男美女夫婦で仲睦まじかったとのことです。
お市

<孫娘作品が指定文化財>
亡くなった際、娘・勝姫の長女である
奈阿姫(本多忠平室)は
祖母の菩提を弔うために
「浄土三部経」を書き写し、
弘経寺に納めました。
奈阿姫の書いた
「浄土三部経(紺紙金泥阿弥陀経)」は現在、
茨城県常総市指定文化財となっています。

<歴代将軍との仲は良好>
祖父・家康や父・秀忠から可愛がられ、
また、弟・家光とも
姉弟仲は良好だったとのことです。
歴代の幕府もその経歴から
処遇に関しては細心の注意を払ったとのこと。




スポンサーリンク



<安定した人格>
徳川家光の長年に渡る信頼ぶりから、
安定した人格の人物だったことが
窺い知れるとのことです。
実際、落城や夫の死、
明暦の大火など
人生の節目で地に足がついた選択をし、
結果70歳まで長生きして
寿命を全うした部分に、
彼女の思慮深さが垣間見えるとのこと。

<歴代将軍に一目置かれる>
目の前の事件に惑わされることがない
視野の広さは、祖父・徳川家康、
父・秀忠、弟・家光、甥・家綱といった
歴代将軍に一目置かれたほどでした。

<将軍で弟の家光との仲>
千姫が体調を崩すたびに
弟・家光が御殿に
見舞いに来ていたという記録があります。
お忍び好きの家光にとって
本丸の外に出る格好の
口実だったと思われています。
肺を病むことが多かった姉に
蓮根粉を運ばせたとの伝承もあるとのこと。
江戸城 富士見櫓
・・・人格良し、器量良し、
聡明で安定志向で幼い時からすでに
波乱万丈の人生を歩んでいる姉は
家光にとって偉大なる存在であり、
なかなか女性を好きにならなかったとも
千姫の存在に一理あるとも思います・・。

<誹謗中傷レベル>
江戸時代に「吉田御殿」
(あるいは「千姫御殿」)の伝承があります。
内容は夜な夜な美男を招き入れては
殺す千姫像は、錦絵や浪曲にもなりました。
昭和時代においても
その伝承を基にした映画や
テレビドラマが制作され、
広く知られていましたが、
当然史実ではありません。
豊臣家や「千姫事件」の
坂崎直盛への同情が生んだ
民間伝承とのことです。
これらの流言蜚語は
政争で作られたものもあれば、
離反した従者や立場上
強く出られない身内など、
千姫の存在を内心良く思わない
人物の嫉妬が発端であったともされています。

瀬名姫(築山殿)と似たものを感じますね。
どうも徳川家の女性は悪く言われてしまうのが
宿命・・なんでしょうね。

<千姫の居城>
千姫の居城として有名な
白鷺城がある兵庫県姫路市、
菩提寺がある茨城県常総市のみならず、
近年では三重県桑名市、愛知県岡崎市、
祖父や両親と往来した
岐阜県大垣市ほか、
全国各地に点在する
徳川・豊臣・織田ゆかりの領地で
親しまれています。
逆に江戸城があった東京圏における
千姫の知名度は高くはありません。
これは目立つことを好まなかった千姫が、
江戸幕府に自らの記録を
滅多に残させなかったためという説が
あるとのことです。

<風貌>
千姫のものとされる着物が
各地に伝わっており、
徳川の姫らしく小柄ながらも
色白でふくよかな女性だったと
言われています。

<かるかん>
鹿児島銘菓の軽羹は
江戸の菓子職人が
考案したものですが、
江戸菓子の歴史を遡っていくと
時期的に千姫とともに
播磨から江戸城下に移った
商家がそのルーツと考えられています。




スポンサーリンク



<侍女が残した千姫伝>
侍女の松坂局が残した
伝記が存在しているとのことです。
千姫を名乗る不届者が
度々現れても
当の本人は全く興味を示さず
周りだけが焼きもきしたとか。
お千代保(松坂局)から見た千姫は
淡々とした部分もあれば
好奇心が強く型に
嵌められることを嫌うところもあり、
自身が決めた事に対しては
融通が効かなかったり
同情深い反面それが必要な場面では
情け容赦なかったりなど、
人間臭い部分と
人間離れした部分が合わさった
魅力的な人物であったとのことです。

織田家の血筋、なのでしょうね。
どことなく織田信長を彷彿させます。

2023年NHK大河ドラマ
「どうする家康」では
原 菜乃華(はら なのか)さんが
演じられます。

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

徳川秀忠~江戸幕府2代将軍、幕藩体制の基礎を固め政権運営方針を次代に引き継ぐ。

お江(崇源院)~2代将軍・徳川秀忠の正室は浅井三姉妹の三女、波乱万丈な人生を送りその血筋は現代の皇室に繋がっています。

豊臣秀頼~従来は暗君だったとされているが実はカリスマ性があり明君の器があった故に滅亡させられた?

織田信長について~駆け足で手短にわかる織田信長の49年~

お市~織田信長の自慢の妹、聡明で戦国一の美女と謳われた女性の激烈な人生。

淀殿~母はお市で浅井三姉妹の長女、波乱万丈の人生を烈火の如く駆け抜けました。

寧々(おね・高台院)~豊臣秀吉の正室、夫を内助の功で支え続けやがて天下人にさせた「おかか」

羽柴秀吉(豊臣秀吉・木下藤吉郎)下層民から天下人の生涯を手短に!

大野治長(大野修理)~淀殿とは乳母子の間柄、豊臣家が滅するまで淀殿と豊臣秀頼の傍にいました。

阿茶局(雲光院)~徳川家康の厚い信頼を受け表裏共々活躍した戦国後期~江戸初期のバリキャリ女性。

松平信康(徳川信康)~将来を有望されていた嫡男でしたが、築山殿と共に非業の死を遂げます。

督姫~徳川家康の次女、和睦の為に北条氏直に嫁ぎ、その後は池田輝政と再婚して5男2女を授かりました。

池田輝政~徳川家康の婿殿で寡黙ながら大活躍し、姫路城を現在ある姿にしました。

福島正則~秀吉の子飼い、武勇に長ける荒武者だが地元では英雄扱いされ行政面でも功績を残す。

桑名城~築城の起源は永正10年、関ヶ原の戦いの後に本多忠勝が入封し城郭を建造しました。

関連記事

  1. 岡崎城 辰巳櫓 登与(酒井忠次の妻)~正室ならば徳川家康の叔母である碓井姫であり…
  2. 光秀と信長 お妻木~明智光秀の妹(義妹の説あり)~明智光秀と織田信長を結んで…
  3. 紅梅 和泉式部~和歌の才能にあふれた恋多き自由奔放な女性、娘への哀傷歌…
  4. 御殿雛 藤原穆子~源倫子の母親で藤原道長の才能を見抜き結婚を勧めた女性で…
  5. 報国寺 竹の庭 伊賀の方~北条義時の継室で7代執権の北条政村の生母、伊賀氏の変は…
  6. 桶狭間古戦場公園 大高城ジオラマ たね(築山殿侍女)~西郷局暗殺疑惑の侍女か、伊奈忠基の娘か、河井…
  7. お雪供養塔 お雪供養塔~一条兼定の想い人~
  8. 内裏雛 藤原定子~朗らかで才気に満ち華やかで美しい女性、父道隆の死で状況…



スポンサーリンク




コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

おすすめ記事

  1. 太平寺(那須烏山市)~創建約1200年の天台宗の古刹で蛇姫様こと於志賀姫の墓があります。 太平寺(那須烏山市)

ピックアップ記事

  1. 古渡城跡(常陸国)
  2. 大阪方面
  3. 十三士の墓 修禅寺
  4. 新田義貞公と勾当内侍の墓
  5. 苗木城跡・石碑
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
PAGE TOP