その他

平将門~困っている人を放っておけない面倒見の良い大将は東国に新国家を創ろうとした。

平将門公



スポンサーリンク



【平将門】

平 将門(たいら の まさかど、平 將門、
延喜3年〈903年〉?⇒
天慶3年2月14日〈940年3月25日〉)は、
平安時代の関東の豪族です。

桓武天皇四代の皇胤であり、
平氏の姓を授けられた
高望王の三男の鎮守府将軍である
平良将の子です。

下総国・常陸国に広がった
平氏一族の抗争から、
やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、
その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、
京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して
「新皇」を自称し、
東国の独立を標榜したことによって、
遂には朝敵となったのでした。

しかし即位後わずか2カ月たらずで
藤原秀郷平貞盛らにより討伐されました
承平天慶の乱)。

死後は御首神社・築土神社・
神田明神・国王神社などに祀られました。
合戦においては所領から
産出される豊富な馬を利用して
騎馬隊を駆使しました。

【時代】
平安時代

【生誕】
延喜3年(903年)?

【死没】
天慶3年2月14日(940年3月25日)

【別名】
相馬小次郎、滝口小次郎、坂東の虎

【墓所】
東京都千代田区 将門塚(首塚)
茨城県坂東市 延命院(胴塚)

【氏族】
桓武平氏、房総平氏

【父】
平良将

【母】
県犬養春枝女

【兄弟】
将持、将弘、将門、将頼、将平
将文、将武、将為、将種、将広

【妻】
正室:平真樹の娘・
御前:平良兼の娘
側室:藤原村雄の娘?
桔梗姫[注釈 2]など

【子】
良門、将国、景遠、千世丸、
五月姫、春姫(平忠頼室)、如蔵尼

【生年について】
平将門の生年は9世紀終わり頃から
10世紀初めとされていますが、
正確な生年は不詳となっています。
一説には討ち取られた年齢が
38歳(満37歳)とされることから、
延喜3年(903年)とされています。
室町後期成立の一巻本「応仁記」
(宮内庁書陵部蔵)には
「将門平親王」が己酉の歳の生まれと
記されており、
これによれば寛平元年(889年)となります。
元慶8年(884年)頃
とする説もあるとのことです。
なお一部の書籍
(特に児童・生徒向けに書かれた物では疑問符付き)で
903年としていますが、
これは平将門が火雷天神(菅原道真)の
生まれ変わりとするとの
伝承からきていると考からとのことです。

平将門が反乱を起こした際に
藤原忠平に宛てた書状の中に
「(私こと将門は)少年時代に
あなた様の家臣となって以来数十年云々」
という意味の記述があることから、
数十年を40年と仮定すると
平将門が忠平の家臣となったのは899年頃、
その頃の将門の年齢は15~16歳
であろうか、との可能性を
示唆している専門家もいるとのことです。




スポンサーリンク



【生い立ちと平氏一族の争い】
父の平良将は下総国佐倉(現千葉県佐倉市)が
領地と伝えられており、
同市には将門町という地名も残っていますが、
根拠となる史料は今のところはないとのことです。
また、母の出身地である相馬郡で
育ったことから「相馬小次郎」
と称したとされていますが、
これは相馬郡に勢力があったわけではなく、
実際の勢力範囲は同国の豊田・猿島両郡
であったと考えられています。
平将門は地方より15~16歳のころに
平安京へ出て、藤原北家の氏長者であった
藤原忠平を主君としたとのことです。

平将門は鎮守府将軍である父を持ち、
自らも桓武天皇の五世でしたが、
藤原氏の政権下では
滝口の衛士でしかなく、
人柄を藤原忠平に認められていましたが
官位は低かったのでした。
平将門は12年ほど在京して、
当時軍事警察を管掌する
検非違使の佐(すけ)や
尉(じょう)を希望したものの
入れられなかったとのことです。
日本外史や神皇正統記は
「それを恨みに思って東下して反逆を犯した」
としていますが、
それは現実的でなく、
謀反は「制度に対しての行動」
としている「山陽外史」の
見方があるとのことです。
この後平将門は東下します。
この東下の際、
叔父の平国香(平貞盛の父)らが
上野国花園村(現群馬県高崎市)の
染谷川で平将門を襲撃しましたが、
叔父で平国香の弟にあたる平良文が
平将門を援護し、これを打ち破っています。
ただし、この戦は後の蚕飼川の戦い
(子飼渡の合戦とも)がモデルで、
妙見神を讃えるために
創作されたもので
実在しなかったという説もあるとのことです。

以後「平将門の乱」へつながる騒擾が
おこりますが、
それらの原因について
いくつかの説があり、
いまだ確定ならず、とのことです。

【「平将門の乱」の諸説】
長子相続制度の確立していない当時、
平良将の遺領は伯父の平国香や平良兼に
独断で分割されていたため
争いが始まった、という説。

常陸国(茨城県)前大掾の源護の娘、
あるいは平良兼の娘を巡り
争いが始まったとする説。
(「将門記」などより)。

源護と平真樹の領地争いへの
介入によって争いが始まったとする説。
「源護・源護の縁者と将門の争い」
ではないかとも言われています。
平将門が当初は伯父らと争っているため、
「坂東平氏一族の争い」と
見られがちですが、
平国香・良兼・良正は
源護の娘を娶っており、
平将門の父の平良将とは
違うことがその理由となります。

平将門の父の平良将が
鎮守府将軍時代に築いた
陸奥国の基盤や、
平将門が拠点とした
下総国猿島郡に存在した
陸奥国に至るまでの
常総地域の道路・内海などの
交通網を巡った説。




スポンサーリンク



【源護の子らに襲撃される】
承平5年(935)2月、
平将門は源護の子の源扶らに
常陸国真壁郡野本(筑西市)にて
襲撃されますが、これらを撃退し
源扶らは討ち死にしました。
そのまま平将門は大串・取手(下妻)から
源護の本拠である真壁郡へ進軍して
源護の本拠を焼き討ちし、
その際に伯父の平国香を焼死させました。
同年10月、源護と姻戚関係にある
一族の平良正は軍勢を集め
鬼怒川沿いの新治郷川曲(八千代町)に
陣を構えて平将門と対峙します。
が、この軍も平将門に撃破され、
平良正は平良兼に救いを求め、
静観していた良兼も平国香亡き後の
一族の長として放置できず
平国香の子の平貞盛を誘って軍勢を集めます。
承平6年(936年)6月26日、
上総国を発ち平将門を攻めますが、
平将門の奇襲を受けて敗走、
下野国の国衙に保護を求めました。
平将門は下野国国府を包囲しますが、
一部の包囲を解いて
あえて良兼を逃亡させ、
その後国衙と交渉して
自らの正当性を認めさせて帰国したのでした。

伝・源護館・大串陣営

【すべての罪の赦免】
同年、源護によって出された告状によって
朝廷から平将門と平真樹に対する
召喚命令が出て、平将門らは
平安京に赴いて検非違使庁で
訊問を受けます。
承平7年(937年)4月7日の
朱雀天皇元服の大赦によって、
全ての罪を赦されました。

【再びの一族との対立と争い】
帰国後も、平将門は良兼を初め
一族の大半と対立し、8月6日には
良兼は平将門の父の良将や高望王など
父祖の肖像を掲げて
平将門の常羽御厩を攻めました。

【敗けるも朝廷に訴える】
この戦いで平将門は敗走し、
良兼は平将門の妻子(良兼の娘と孫とされる)
を連れ去りました。
けれども弟たち
(「将門記」には「舎弟と語らいて」
とあり公雅や公連とされている)の
手助けで9月10日に再び出奔し、
平将門の元に戻りました。
妻子が戻ったことに力を得た平将門は、
朝廷に対して自らの正当性を
訴えるという行動に出ます。
そこで朝廷は同年11月5日に
一つの太政官符を出しました。

【太政官符を出す】
従来、この官符は平良兼・平貞盛・
源護らに対して出された
平将門追討の官符であると
解釈されてきましたが、
前後の事実関係との
つながりとの食い違いが
生じることから、
これを公的には馬寮に属する
常羽御厩を良兼・貞盛らが
攻撃してしまったことによって
良兼らが朝廷の怒りを買い、
彼らへの追討の官符を
平将門が受けたと解釈する説が
有力となっています。




スポンサーリンク



【平将門の名声】
いずれにしてもこれを機に平将門は
良兼らの兵を筑波山に駆逐し、
それから3年の間に良兼は病死し、
平将門の威勢と名声は
関東一円に鳴り響いたのでした。

平将門公 レリーフ

源経基が将門らを訴える】
天慶2年(939年)2月、
武蔵国へ新たに赴任した権守、
興世王(出自不明)と
介源経基(清和源氏の祖)が、
足立郡の郡司武蔵武芝との紛争に陥りました。
平将門が両者の調停仲介に乗り出し、
興世王と武蔵武芝を会見させて
和解させましたが、
武芝の兵がにわかに
源経基の陣営を包囲(経緯は不明)し、
驚いた源経基は京へ逃げ出してしまいます。
京に到着した源経基は
平将門、興世王、武芝の謀反を
朝廷に訴えたのでした。

伝源経基館跡 入り口

【源経基は誣告の罪で罰せられる】
将門の主人の太政大臣藤原忠平が
事の実否を調べることにし、
御教書を下して使者を東国へ送りました。
驚いた平将門は上書を認め、
同年5月2日付けで、
常陸・下総・下野・武蔵・
上野5カ国の国府の
「謀反は事実無根」との
証明書をそえて送りました。
これにより朝廷は
平将門への疑いを解き、
逆に源経基は
誣告(ぶこく・わざと事実を偽って告げること)
の罪で罰せられました。
平将門の関東での声望を知り、
朝廷は平将門を叙位任官して
役立たせようと議していました。

【朝廷側の認識は私戦】
この時期には平将門と敵対者の戦いは
あくまでも私戦
(豪族間の個人的ないざこざ)とみなされ、
国家に対する反乱であるという
認識は朝廷側にはなかったと
考えられています。

【平将門の乱】
【興世王が将門を頼る】
この頃、武蔵権守となった興世王は、
新たに受領として赴任してきた
武蔵国守百済王貞連と不和になり、
興世王は任地を離れて
平将門を頼るようになりました。

【藤原玄明を庇護】
また、常陸国で不動倉を破ったために
追捕令が出ていた藤原玄明が
庇護(ひご)を求めると、
平将門は藤原玄明を匿い
常陸国府からの引渡し要求を
拒否しました。

【常陸国府が宣戦布告】
そのうえ天慶2年11月21日(940年1月3日)、
軍兵を集めて常陸府中(石岡)へ赴き
追捕撤回を求めたのでした。
常陸国府はこれを拒否するとともに
宣戦布告をしたため、
平将門はやむなく戦うこととなりました。

【常陸国府に勝ってしまった】
平将門は手勢1000人余ながらも
国府軍3000人をたちまち打ち破り、
常陸介藤原維幾はあっけなく降伏。
国衙は平将門軍の前に陥落し、
平将門は印綬を没収しました。

【関東一円を手中にする】
平将門は側近となっていた
興世王との進言を受け、
同年12月11日に下野に出兵、
事前にこれを察知した
守藤原弘雅・大中臣完行らは
平将門に拝礼して鍵と印綬を差し出しましたが、
平将門は彼らを国外に放逐したのでした。




スポンサーリンク



続いて同月15日には上野に出兵、
迎撃に出た介藤原尚範
(同国は親王任国のため、
介が最高責任者。藤原純友の叔父)
を捕らえて助命する代わりに
印綬を接収してこれまた国外に放逐、
19日には指揮官を失った
上野国府を落とし、
関東一円を手中に収めました。

【「新皇」を自称】
八幡神と菅原道真の霊の神託が
降ったことにより、
「新皇」を自称するようになり、
独自に除目を行い岩井(茨城県坂東市)に
政庁を置きました。
即位については舎弟平将平や
小姓伊和員経らに反対されましたが、
平将門はこれを退けたのでした。

【菅原道真の霊】
菅原道真の霊がここで登場するのは、
菅原道真の子息たちが
東国の国司に任命されており
(菅原景行が常陸介、菅原旧風が武蔵介、
菅原兼茂が常陸介)、
特に菅原兼茂は承平年間の後半ごろに
常陸介であっただけでなく、
「扶桑略記」には彼が父である
菅原道真の霊と対話したという
逸話が記されているため、
菅原兼茂が常陸で
このことを語ったことが、
平将門の「新皇」即位にも
影響したのではないかという説が
あるとのことです。

【新皇将門による諸国の除目と素性】
下野守:平将頼(平将門弟)
上野守:多治経明(陣頭・常羽御厩別当)
常陸介:藤原玄茂(常陸掾)
上総介:興世王(武蔵権守)
安房守:文屋好立(上兵)
相模守:平将文(平将門弟)
伊豆守:平将武(平将門弟)
下総守:平将為(平将門弟)

【「坂東王国」の任命】
なお、時代は遡りますが
天長3年(826年)9月、
上総・常陸・上野の三か国は
親王が太守(正四位下相当の勅任の官)
として治める親王任国となっていました。
しかしこの当時は既に太守は
都にいて赴任せず、
代理に介が長官として
派遣されていました。
「坂東王国」であるなら
朝廷の慣習を踏襲する必要は全く無く、
常陸守や上総守を任命すべきと思われますが、
何故か介を任命しています。
ここでの常陸、上総の介は
慣習上の長官という意味か、
新皇直轄という意味か、
将門記の記載のとおり
朝廷には二心がなかったという
意味なのかは不明となっています。
その一方で上野については
介ではなく守を任命しており、
統一されてはいませんでした。
作家の海音寺潮五郎は
これを平将門の無知の証拠として
指摘しているとのことです。

【平将門謀反・藤原純友の乱の報告】
将門謀反の報はただちに
京の都にもたらされ、
また同時期に西国での
藤原純友の乱の報告もあり、
朝廷は驚愕します。
直ちに諸社諸寺に
調伏の祈祷が命じられ、
翌年の天慶3年(940年)1月9日には
源経基が以前の密告が
現実になったことが賞されて
従五位下に叙され、
1月19日には参議藤原忠文が
征東大将軍に任じられ、
藤原忠文は屋敷に帰ることなく
討伐軍長官として出立したということです。

【将門、平貞盛らを探索】
同年1月中旬、関東では、
平将門が兵5000を率いて
常陸国へ出陣して、
平貞盛と維幾の子為憲の行方を
捜索していました。
10日間に及び捜索しましたが、
平貞盛らの行方はわからずでした。
けれども平貞盛の妻と
源扶の妻を捕らえました。
兵士らによってぞんざいな扱いを
受けていたとのことですが、
平将門は着物などを与え、
帰したとの逸話もあります。
平将門は下総の本拠へ帰り、
兵を本国へ帰還させました。
「将門記」では、
この平将門の一連の行動を
「浅はか」であると評しており、
事実その足場を固めねばならない
大事な時期に平貞盛らの捜索のために
無駄に時間と兵力を使ったことは、
後々の運命を見ると
致命的となったとのことです。




スポンサーリンク



・・・が、それは後世の見方であるとも思うのです。
何をどう選択するか、
後からではいくらでもジャッジできますが、
その当事者になってみないと
その判断は難しいでしょうね。
平将門は確実にいえることは
「諜報」に関しては疎かった、あるいは
手薄だったのでしょう・・。
それも将門の人柄だったかもしれません。

それすらも後世の人間だから言えますね。

【平貞盛の動きを知る】
間もなく、平貞盛が
下野国押領使の
藤原秀郷と力をあわせて
兵4000を集めているとの
報告が入りました。

【少ない兵数で出撃】
平将門は諸国から召集していた
軍兵のほとんどを
帰国させていたこともあり
手許には1000人足らずしか
残っていませんでしたが、
時を移しては不利になると考えて
2月1日を期して出撃したのでした。

【指揮統制が取れずに敗走】
平将門の副将である
藤原玄茂の武将多治経明と
坂上遂高らは平貞盛および
藤原秀郷軍を発見すると
平将門に報告もせずに
攻撃を開始してしまいます。
元来老練な軍略に長じた
藤原秀郷軍に玄茂軍は瞬く間に敗走。

【平将門軍、退却】
平貞盛・藤原秀郷軍はこれを追撃し、
下総国川口にて平将門軍と合戦となります。
平将門自ら陣頭に立って奮戦したために
平貞盛・秀郷らもたじろぎますが、
時が経つにつれ数に勝る官軍に
平将門軍は押され、
ついには退却を余儀なくされたのでした。

・・・平将門は「浅はか」ではなく、
優秀な「参謀」や「軍師」が
いなかったのでしょうね・・。

【追い詰められた平将門】
この手痛い敗戦により
追い詰められた平将門は、
地の利のある本拠地に敵を誘い込み
起死回生の大勝負を仕掛けるために
幸島郡の広江に隠れました。
けれども平貞盛・藤原秀郷らは
この策には乗らず、
勝ち戦の勢いを
民衆に呼びかけ更に兵を集め、
藤原為憲も加わり、
2月13日、
平将門の本拠石井に
攻め寄せ焼き払う「焦土作戦」に出ました。

【民衆の気持ち】
これによって民衆は
住処を失い路頭に迷ってしまいましたが、
追討軍による焼き討ちを恨むよりも、
平将門らにより
世が治まらないことを
嘆いたということです。

【形勢は不利になる一方】
当の平将門は身に甲冑をつけたまま
平貞盛らの探索をかわしながら
諸処を転々とし、
反撃に向けて兵を召集しますが
形勢が悪くて思うように
集まらないために攻撃に転ずることも
ままならず、僅か手勢400を率いて
幸島郡の北山を背に陣をしいて
味方の援軍を待ったのでした。
けれども、
味方の来援よりも先に
その所在が敵の知ることとなり
寡兵のまま最後の決戦の時を
迎えることとなったのでした。

・・・これはアレですね。
内通者もしくはスパイが手勢の中に
潜んでいたのでしょうね・・。




スポンサーリンク



【最後の決戦・・そして討死】
2月14日未申の刻(午後3時)、
連合軍と平将門の合戦が開始されました。
北風が吹き荒れ、
平将門軍は風を負って
矢戦を優位に展開し、
連合軍を攻め立てました。
平貞盛方の中陣が奇襲をかけるも
撃退され、貞盛・秀郷・為憲の軍は
撃破され軍兵2900人が逃げ出し、
わずかに精鋭300余を残すのみになりました。
しかし勝ち誇った平将門が自陣に引き返す途中、
急に風向きが変わり南風になると、
風を負って勢いを得た連合軍は
ここぞとばかりに反撃に転じたのでした。
平将門は自ら馬を駆って
陣頭に立ち奮戦しましたが、
風のように駿足を飛ばしていた
馬の歩みが乱れ、
平将門も武勇の手だてを失い、
飛んできた矢が平将門の額に命中し、
あえなく討死し、生涯を閉じたのでした。
なお「扶桑略記」では、
平将門の戦死を平貞盛の放った矢により
負傷落馬し、そこに藤原秀郷が馳せつけ
首を取ったとされております。
「和漢合図抜萃」では、
藤原秀郷の子の千常が
平将門を射落とし
首級をあげたとされています。

首は平安京へ運ばれ、晒し首となりました。
獄門が歴史上で確認されている
最も古く確実な例が、平将門となります。

この平将門の乱は、ほぼ同時期に
瀬戸内海で藤原純友が起こした乱と共に、
「承平天慶の乱」と呼ばれています。

【将門の描いた国家】
王城を下総国の亭南(柏市大津説がある)と定め、
檥橋を京の山崎、相馬郡の大井の津を
大津になぞらえて、
左右大臣・納言・参議など
文武百官を任命し、内印・外印を鋳造し、
坂東に京に模した国家を
樹立しようとしたとされています。

【評価の東西差】
中世の貴族の日記に
平将門の名が現れるピークが
大きく二つあったことを調べた専門家がいます。
一つは12世紀後半の源平争乱期、
もう一つが14世紀前半の
南北朝の動乱期とのことです。
どちらも大きな戦乱が起きた際に
その先例として
平将門の名が挙げられており、
中央の貴族にはいわば
トラウマの様な形で
平将門の乱が
伝承されていたとの見方をしています。

【千葉氏などの武士団】
またこれとは別に中世以降、
平将門を祖先とした
千葉氏を中心とした武士団により
平親王や日本将軍として受け入れられ、
逆臣的要素が払拭され、
平将門伝説が伝承されていきました。
将門伝説は千葉一族の分布する
場所に多く見られるとのことです。

千葉常胤の銅像

【強欲の為政者にうんざりした東国の民衆】
また当時の史料から東国の民衆は
疲弊していたことが窺えますが、
その原因について環境史研究の成果から、
決して異常気象などの天災ではなく
欲にかられた為政者が起こした
人災であったと考えられています。




スポンサーリンク



【十和田湖噴火】
ただし延喜15年(915年)に
有史上日本最大の噴火とされる
十和田湖の噴火が起こっており、
東北一帯を火山灰が覆い
京都でもまた扶桑略記に
「昼間なのに太陽が月のようであり
皆不思議がった」と記されているほど、
降灰の影響で東国でも
大規模な不作が発生した可能性も存在します。
そうした背景などから結果的に
反権力闘争を起こした
平将門は東国の民衆から
支持を得ていたという説があります。こ
れらから必然的に平将門の評価は
東西で相反するものになるとのことです。

【将門伝説と民衆の支持】
近世になると東国政権という意味から、
初めて坂東を横領した平将門に関心が寄せられます。
神田明神が江戸総鎮守となり、
平将門は歌舞伎や浮世絵の題材として
取り上げられます。
将門伝説は文芸化と共に
民衆の支持を受けたといえます。
その多くが平将門を誇張し
怨霊として描いており、
滝夜叉姫の伝説などが生まれました。
平将門を日本三大怨霊の一つとするのも
この頃からと考えられています。

【明治期の排斥と将門信仰】
明治期には将門は天皇に逆らった賊とされ、
政府の命により神田明神などの
神社の祭神から外されたり
史蹟が破壊されてしまいました。
その結果多くの史料が
失われてしまいましたが、
一方で民衆の信仰は厚く、
排斥を徹底させることは
できなかったのでした。
また、これらの排斥運動から
将門塚を保護するため、
将門の怨霊譚が喧伝されたとされています。

【テレビドラマと小説・映画】
戦後、天皇制に関する研究が解禁されます。
一方で社会には大河ドラマ「風と雲と虹と(1976年)」が
放映され、好意をもって広く受け入れられ、
「帝都物語(1987年日本SF大賞・1988年映画)」
により将門=怨霊・祟り神のイメージがより定着したとも。




スポンサーリンク



【先祖】
桓武天皇の曾孫の高望王が、
寛平元年(889年)平姓を賜わり
平高望となります。
昌泰元年(898年)に
上総介に任じられます。
当時の国司は任国へ赴任しない
遥任国司であることが常でしたが、
高望は一族を連れて東下しました。
そのころ東国では騒乱が多発しており、
高望一族には東国鎮撫が
期待されていたと考えられています。
高望の子らは土豪と
血縁関係を結び、後の坂東平氏となります。

【父】
平良持:平高望の三男。
従四位下・鎮守府将軍。
尊卑文脈などの史料は良将。
墓は常総市蔵持に伝承が残っています。

【母】
一部の系譜には
縣犬養春枝の娘と記載されています。
縣犬養氏は土豪だと言われ、
万葉集にみえる縣犬養浄人
(奈良時代に下総少目を務める)
の末裔とする説もありますが、
確証はないとのことです。
茨城県取手市には
縣犬養春枝の屋敷跡との伝承が残っています。

【妻】
平将門の婚姻関係については
確実となる史料がなく、
「将門記」の堀越渡しの合戦にて
「将門の妻は夫を去って留められ、
怨み少なからず、その身生きながら
魂は死するが如し」などと
記されるのみとのことです。
この妻が誰であるのかについては
諸説あり、以下の通りとなります。

【平良兼の娘】
「将門略記』に平良兼と平将門は
「舅甥の仲」と書かれている事から、
娘が平将門に嫁いでいたとする説です。
これを補足する説として、
堀越渡しの合戦で妻が奪われた
(原文:妻子同共討取)のは
妻が平将門の元にいる事を意味し、
当時の婚姻制度(通い婚)にそぐわず、
平将門は妻を平良兼の反対を押し切り
連れ去っていたとする説や、
その後に「然る間、妾(妻の意)の舎弟ら、
謀を成し九月十日をもって
豊田郡に環り向かわしむ」とあることから、
舎弟とは妻の兄弟で
なおかつ妻を開放できる立場にあった者、
つまり平良兼の息子であったとする説があります。

【君の御前】
平将門の妻は平真樹の娘である
という伝承が茨城県桜川市に伝わるとのことです。
この伝承によりますと、
「将門記」の堀越渡しの合戦にて
開放された妾(平良兼の娘)と
討取られた妻は別人で、
討取られた妻こそが
君の御前であるとするものです。
亡くなった妻を弔ったのが
茨城県桜川市大国玉にある
后神社(新皇の妻という意味で后)
であるということです。
また異なる説もあり、
これを逆とする内容です。
つまり討取られた君の御前が愛妾で、
妻は平良兼の娘とする説です。
平将門の側室(愛妾)について
伝承が数多く伝わりますが、
伝説あるいは創作の域を出ないとのことです。

【桔梗の前】
桔梗姫ともいいます。
伝承地により内容が異なるとのことですが、
「将門の寵姫のなかでもとりわけ
寵愛が深かったが、俵藤太秀郷に内通して
将門の秘密を伝えた故に将門は討たれ、
自身も悲劇的な最期を遂げる」
というのが大筋であるとのことです。
また、関連する伝説として
桔梗忌避伝承も多いとのことです。

谷性寺 桔梗

【小宰相】
香取郡佐原領内の長者
牧野庄司の娘で、平将門が
この地に逗留した際に
目に留まり竹袋の城に
囲われたと伝わっているとのことです。
(千葉県香取市)
小宰相の名は御伽草子
「俵藤太物語」にも見えますが、
こちらでは桔梗の前との共通点が
多いとのことです。

【御代の前】
京人の管野某の妻で、
管野が将門調伏を志すと共に東下し、
平将門の妾として大野の城に入り、
内情を夫に知らしめたと伝わります。
(千葉県市川市・御代院伝)




スポンサーリンク



【車の前】
乱の後に千葉県柏市大井に遁れて、
平将門の菩提を弔ったと伝わります。
(千葉県柏市大井)。
また「相馬系図」によりますと
中村庄司の娘が乱が起こったとき
懐妊しており、
平将門は伯父中村才治に命じて
在所の大井に疎開させたとあり、
「千葉県東葛飾郡誌」は
この娘が車の前であるとしているとのことです。

【和歌の前】
茨城県結城市に平将門の愛妾である
和歌の前の墓が伝わります。
和歌が巧みで、平将門が
下野国府を攻めた際に
玉村の某との婚礼を襲い略奪され、
この地の綾戸城に囲われたと
伝わります。
(茨城県結城市)

【苅萱姫(さくらひめ)】
茨城県美浦村には平国香の家臣であった
大須賀内記の娘で、
平将門の死後に身籠っていた
信太小太郎文国を生んだと伝えられています。
文国が育ったとされる
信太郡(茨城県稲敷郡美浦村大字信太)は
大須賀氏の領地です。

【子】
「扶桑略記」の天徳4年(960年)10月2日条に
「将門の息子が入京したとの噂がたち、
検非違使らが探索をした」との記載があります。
そのような息子が
実在していたのかは
わかりませんが、
平将門の死後20年経ってもなお、
朝廷には将門末裔への
警戒心があったことが推測できます。

【千葉氏と相馬氏】
千葉氏は将門の娘の如春尼、
相馬氏は息子の将国の子孫であると
家系図などで伝わっています。
また「源平闘諍録」には
平将門の叔父の平良文は
平将門の養子になったとも
伝わっているとのことです。
ただしこれらの伝承は、
千葉一族が脆弱な在地支配や
一族の結束を強化するために
平将門を家系に取り込み、
12世紀~13世紀ごろに
成立した創作とする見方もあるとのことです。

【平良門】
平将門の長男とされる人物。
平良門は将門の復讐を果たすべく
挙兵するという話が
歌舞伎などで知られていますが、
そのような事件は
史料には残っておらず
近世の創作ともされています。
さらに平良門の子には
蔵念という僧がいたという
伝承があります。
(「今昔物語集」)。

【平将国】
平将門の次男と伝わる人物で、
乱ののちに信太郡に逃れて
信太氏を名乗ったとされています。
相馬家には平将国の子孫の
信田師国が相馬師常を養子に迎え、
相馬家となったと伝えられています。
(「相馬当家系図」など)
なお、平将国の子とされる
信太小太郎文国は
幸若舞の信田のモデルとされています。




スポンサーリンク



【五月姫】
平将門の娘とされる伝説上の人物で、
妖術使いとして浄瑠璃などで描かれています。
茨城県つくば市には
滝夜叉姫の墓と伝わる石板があります。

【如春尼】
平将門の次女とされる人物です。
千葉氏などの系図には
平忠頼に嫁ぎ、
平忠常や平将恒を
生んだとされていますが、
詳細は不明となります。

【如蔵尼】
平将門の三女とされる人物です。
平将門の死後、奥州の恵日寺に逃れ
寺の傍らに庵を結んだとされています。
國王神社は如蔵尼が
平将門の三十三回忌に創建したと伝えられています。

【関連寺社】
<神田明神>
東京都千代田区にある神社。
三之宮に除災厄除の神様
「平将門命(まさかど様)」として祀られています。
明治7年(1875年)に一時、
摂社・将門神社に遷座されましたが、
昭和59年(1984年 )に
再び本殿に奉祀されました。

<京都神田明神>
京都市下京区にある祠。
空也が平将門の首級を祀り
祟りを鎮め厚く供養し
建立した小祠と伝えられています。

<帝立山妙善寺>
千葉県東金市にある寺院。
東金市御門(みかど)にあります。
地名は新皇を名乗った平将門に
因むとのことです。
平将門が慈母桔梗の前の
菩提を弔うために
天慶元年(938年)4月、
真言宗の一刹を建立し
京の都より貞観法師を迎え
開基したと伝えられています。
戦国期に上総七里法華によって改宗、
現在は顕本法華宗寺院です。

<香取神社>
東京都江東区にある神社。
天慶年間(938年~947年)、
藤原秀郷が当社で平将門討伐の戦勝祈願をし、
成就したことから弓矢を奉納し、
「勝矢」と命名した由緒から
今日ではスポーツの神として
崇敬を集めています。

<國王神社>
平将門公終焉の地とされる
茨城県坂東市にある神社。
平将門の三女・如蔵尼が、
父の最期の地に庵を建てたのが
国王神社の創建とされ、
父の三十三回忌に当たって刻んだ
「寄木造 平将門木像」をご神体とします。

<将門塚>
東京都千代田区東京メトロ大手町駅から
徒歩3分のところにあります。
首を供養するために
石碑が建てられています。
偶然にも皇居大手門方面にあり
滝口武者であった若き日の彼の様に、
今でも皇居の守りを担っています。

<神田山延命院>
茨城県坂東市にある
真言宗智山派の寺院。
平将門の遺体を葬った胴塚があります。
その胴塚を抱くように
大きなかやの木が立っており、
西側には、昭和50年(1975年)に
東京都大手町の将門首塚から移された
「南無阿弥陀仏」の石塔婆が
建てられています。




スポンサーリンク



<駒形大神社>
千葉県市川市にある神社。
平将門がこの地に
出城を設けたという伝説があり、
平将門も祭神として祀られています。

<相馬神社>
福島県相馬市にある神社。
境内の国王社に素戔嗚尊と
相馬氏の祖と伝えられる
平将門があわせて祀られています。

<長禅寺>
茨城県取手市にある寺院。
承平元年(931年)、
平 将門が祈願寺として創建したと伝わります。

<築土神社>
東京都千代田区にある神社。
「相殿神」として平将門を祀ります。
平将門は東国においては
英雄として祀り上げられますが、
明治になると皇国史観の影響もあり、
将門を「逆賊」のように評する
風潮も見受けられました。
それまで築土神社では
平将門を唯一の祭神としていましたが、
明治7年(1874年)
社格を意識して便宜上、
天皇と関わりの深い神である
天津彦火邇々杵尊を
霧島神宮より勧請して
これを「主神」とし、
平将門を「相殿神」として祀るようになりました。

<七ツ石神社>
山梨県丹波山村と東京都奥多摩町の境界の山、
七ツ石山にある神社。
山名の由来である頂上の露岩には、
平将門の影武者七人衆の
わら人形を作り並べて
敵がそれを射貫いた瞬間、
岩に変化したという伝説があります。

<御首神社>
岐阜県大垣市にある神社。
南宮神社で平将門の首が
関東に戻ることにより
再び乱の起こることを恐れ
祈願したところ、
神社に座す隼人神が
矢をつがへ東に飛びゆく
平将門の首を射落とした。
この首が落ちた荒尾の地に
平将門を神として
崇め祀ることによって
再びその首が関東に戻らぬよう、
その怒りを鎮め霊を慰めるために
創建されたのが御首神社であると
伝わります。

<八幡の藪知らず>
千葉県市川市にある禁足地。
一説に平将門が朝廷軍と戦ったとき、
将門軍の鬼門に当たった場所
であるとされています。

<奈良の大仏>
千葉県市原市 にある釈迦如来像。
創建の目的は不明ですが、
平将門が関わったという伝承があります。

<鎧神社>
東京都新宿区にある神社。
一説に、藤原秀郷が重病を得た時、
平将門の鎧を円照寺内に埋め、
一祠を建てて平将門の霊を
弔ったところ病が癒えたということです。

<兜神社>
東京都中央区の神社。
境内には、「兜岩」とよばれる岩があり、
兜岩と呼ばれる理由は諸説ありますが、
その一説として、天慶3年(940年)、
平将門を討ち取った藤原秀郷が、
岩がある当地で平将門の兜を
地中に埋めて供養した、とあります。
この岩が「日本橋兜町」
の地名の由来となっています。

<将門神社と首洗い井戸>
千葉県我孫子市日秀に
築かれた賀沼を眼下の望む
高台南端に鎮座する神社。
近くに「首洗い井戸(将門の井戸)」があります。




スポンサーリンク



<将門神社>
東京都西多摩郡奥多摩町棚沢168
にある神社で、かつて日本武尊の祭った
多摩八座の一といわれる
穴沢天神があった地に、
鎮守府将軍藤原利仁が
陣中衛護の神として
八干戈命を祭って多名沢神社を起こし、
その後に平将門の長男良門が
亡き父の像を刻んで祀って以来、
社号を平親王社と呼ぶようになったとの
言い伝えがあります。
多摩川流域を領した
三田弾正忠平次秀は
将門宮を再修して地域の総鎮守とし、
江戸期には棚澤村東部地区の鎮守でした。
明治41年古里村棚澤の熊野神社に
合祀されたものの、
昭和50年に地域住民が神社を再建しました。

<日秀観音>
千葉県我孫子市。
平将門の守り本尊と伝えられる観世音菩薩。

<首曲(くびまがり)地蔵>
我孫子市日秀にあり、
平将門調伏を祈願した
成田不動尊を嫌い、
成田に顔を背けた姿といわれています。

【平将門銅像】
平将門公

<所在施設>
坂東市民音楽ホール ベルフォーレ
<施設の所在地>
〒306-0631 茨城県坂東市岩井5082
建物の前の広場にあります。
駐車場からはほど近いです。
<駐車場>
あります。

平将門公本據豊田館跡~平将門誕生の地と伝わる場所、後に豊田氏の向石毛(向石下)城址となりました。

國王神社~平将門公終焉の地に三女如蔵尼によって創建されたと伝わる古社です。

大国玉神社 (桜川市)~平将門の妻「君の御前」の父である平真樹の館がありました。

后神社(桜川市)~平将門の妻で平真樹の娘とされる「君の御前」を祀っています。

御門御墓(平将門居館?)~平将門の供養塔とされる五輪塔があり付近には妻を祀る后神社があります。

大宝城(茨城県)~関東最古の八幡宮である大宝八幡宮境内にあり下妻氏によって築城された城です。

伊佐城~伊達氏の祖とされる一族の伊佐氏が築城し、南北朝時代には南朝側について戦いました。

土浦城~伝説上では平将門の砦、文献上では八田知家後裔の若泉氏が築城、戦国期を経て土浦藩となる。

築土神社と世継稲荷~平将門信仰の象徴的神社と徳川秀忠が称賛した神社です。

兜神社~平将門公にまつわる言い伝えがあり証券界の守り神でもある東京のお社です。

鎧神社~日本武命や平将門公にまつわる伝承があり人々の崇敬を集めてきた東京のお社です。

将門塚~平将門公の首を祀る塚で大都会の超一等地に鎮座し、現在も静かに見守っています。

石井の井戸跡(坂東市岩井)~平将門が拠点である石井営所を決めた伝説がある古井戸です。

延命寺~「島の薬師」と親しまれているお寺で、平将門公持護仏の薬師如来像が祀られています。

真下城(上野国)~平将門伝説がありますが、確定しているのは天文年間に児玉党系統の真下氏が築城したことです。

伝・源護館跡陣営~平将門の乱の始まりの戦と嵯峨源氏である源護という人物について。

伝源経基館跡、源経基とは経基流清和源氏の初代で孫の代から摂津・大和・河内源氏へと分かれていきます。

唐沢山城~藤原秀郷の築城と伝わる「関東一の山城」と称される関東七名城。

藤原秀郷公墳墓と藤原秀郷~関東武士の憧れであり平将門の乱を平定した人物です。

武田氏館と湫尾神社~ひたちなか市武田は甲斐武田氏発祥の地でした。

水戸城~馬場氏が平安時代に築城し、江戸氏、佐竹氏が居城、その後は御三家・水戸徳川家の居城になりました。

藤岡城~平将門が弟に築かせ、藤姓足利氏の始祖・足利成行が再興したとのことです。

伝・平良兼館(竜ケ井城・竜崖城) ~平良兼は平将門の叔父にあたりこの地は「弓袋山の対陣」の舞台です。

関連記事

  1. 高天神城 入口 岡部元信~今川家の忠臣で歴戦の武将、後に甲斐武田家に仕え、徳川家…
  2. 赤木城跡 主郭から東郭及び南郭の眺め 藤堂高虎~渡り奉公人の代表格で主君とは対等に近し、築城三名人と称…
  3. 東大寺 大仏殿 東大寺大仏殿の戦いについて~松永久秀&三好義継VS三好三人衆&筒…
  4. 報国寺 池 茶屋四郎次郎(初代は茶屋清延)~三代に渡って徳川家康に仕え、多方…
  5. 大阪方面 河内源氏の栄枯盛衰~形成から興隆、衰退、初の武家政権となった鎌倉…
  6. 大原観音寺 石田三成の井戸 羽柴秀吉と石田三成の運命の出会い・光秀と三成の接点とは?~三成の…
  7. 八上城・遠景 波多野三兄弟と八上城~七度の攻防戦があった城~光秀によって陥落、…
  8. 黒井城址 黒井城~丹波三大山城~250年間続いた中世から戦国時代の貴重な城…



スポンサーリンク




コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

おすすめ記事

  1. 一戦場古戦場 ~安房に逃れた源頼朝が奇襲にあい、合流した三浦義澄が討ち取った古戦場 一戦場古戦場(魚見塚一戦場公園)

ピックアップ記事

  1. 浜松城
  2. 山本勘助春幸屋敷
  3. 五所八幡宮(中村荘司御殿跡付近)
  4. 毛越寺境内
  5. 佐和山城跡
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
PAGE TOP