史跡・城跡

鎌刃城跡~攻防の境目の城~最後の城主は堀秀村、家老は樋口直房。

鎌刃城遠景






鎌刃城跡(かまのはじょうあと)】

所在地: 〒521-0025 滋賀県米原市番場
鎌刃城(かまはじょう / かまのはじょう)は、
滋賀県米原市にあった日本の城です。
城跡は2005年に国の史跡に指定されています。
2017年(平成29年)4月6日、
続日本100名城に選定されました。
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<位置>
青印は町屋橋付近にある登城用の駐車場そばです。

<概要>
江北と江南の国境線に位置する境目の城で、
湖北最大級の山城でした。
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文明4年(1538)年に
京極方の今井氏が六角氏方の堀氏を攻めたという記録があります。
其の後天文7年(1538)には六角氏の手に落ちて、
六角氏の城となります。
そして永禄2年(1559)には、
浅井氏に属した堀氏が入場し、浅井氏方になりました。
元亀元年(1570)に浅井長政が信長に反旗を翻した時は、
鎌刃城の城主である堀秀村は織田方につき、
諸説ありますが、坂田郡で六万石を賜り、
信長に湖北支配を任され、
鎌刃城はその拠点となりました。
けれども、信長が美濃と近江を平定後の
天正2年(1574年)に
堀秀村が突然の改易となり、まもなく廃城となりました。

築城主: 土肥氏(土肥三郎元頼)
築城年: 応仁の乱以前(定かではありません)

【土肥氏】
元は神奈川県湯河原の出身です。
鎌倉幕府の重臣でこの地へ地頭として派遣され、
番場の殿屋敷に館を建ててこの地を治めました。
「蓮華寺」には築城主と伝わる土肥三郎元頼公のお墓があるそうです。
土肥三郎元頼公は正応元年(1288)に逝去したと伝わっているそうです。
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<遺構>
曲輪、堀切、石垣、枡形虎口

<鎌刃城の見どころ>
土づくりの城だと考えられていたそうですが、
発掘調査によって石垣を用いた城であることが
わかりました。
パンフレットに詳細に載っています。
北西の尾根・西の尾根・南東の尾根の三方向に
曲輪・堀切・土塁が設置されています。
城の規模は東西・南北とも400mに及び、
湖北では小谷城に次ぐ規模を誇っているそうです。
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【堀秀村】
父親は浅井家に仕えていましたが、
秀村が幼少期に他界したそうです。
そのため堀家の家老である樋口直房が後見役をして
万事を取り仕切っていました。
秀村も当初は浅井長政に仕えていましたが
樋口直房の勧めで信長に仕えるようになりました。
姉川の戦いにも、信長旗本の先手として参加しました。
秀村は秀吉の与力的な立場にあったにも関わらず、
堀氏はやがて坂田郡の半ばを所領に収めて、
秀吉よりも支配地が広かったそうです。
坂田郡は秀村・直房の支配権と
信長・秀吉の支配権が重なる二元統治のような格好になっており、
信長は取り潰しの機会を伺っていたと考えられています。

天正元年(1573年)、
越前朝倉攻めで木ノ芽城の守備を任されましたが、
翌天正2年(1574年)に、同城を越前一向一揆に攻められて、
樋口直房が防備すべき城を放棄して
勝手に一揆衆と和睦して逃げるなどしたため、
直房は秀吉に追われて妻もろとも討ち取られてしまいます。
秀村もすぐに改易とされ、
6万石とも10万石相当とも言われる所領を全て没収されて、
信長に追放されてしまいました。
その後の足取りとしては、
天正16年(1588年)、
紀伊国桐部谷の一揆鎮圧に出動して池田秀雄と共に
豊臣秀長の指揮下で戦っているので、
秀長に仕えていたと推測されます。
関ヶ原の戦いの前年である慶長4年(1599年)に没し、
享年は43でした。
其の後の子孫としては、江戸時代に旗本として存続していたことが
判明しています。





【樋口直房】
樋口 直房(ひぐち なおふさ)は通称を三郎左衛門といいます。
浅井氏に属し、近江国坂田郡を代々治めた堀氏の家老でした。
幼少の主君・堀秀村に代わって家中を取り仕切るなど
経営手腕を発揮していました。
兵法・軍略に通じ、優れた民政家でもあったため、
人望も厚く近江一の智謀の将と謳われた程であったそうです。
また、書や茶道、連歌など風流好きでもありました。
美濃国において斎藤氏の家臣・竹中重治(竹中半兵衛)が
稲葉山城を奪う無血クーデターを起こし隠退する際に、
近江に逗留した重治に住処を世話をするなど
親しくなったと伝わっています。
その後、元亀元年(1570年)、
織田信長朝倉氏攻めを決行します。
直房は、羽柴秀吉に仕えていた重治からの調略に従い、
浅井側から織田方に転身し、主君・秀村を説得しています。
以降、秀吉の有力な与力として招かれ、
重治と共に重きをなしていきます。
朝倉氏滅亡後、織田軍は小谷城を包囲します。
その折も、秀吉に従い転戦しています。
浅井氏が滅びた翌年、
横山城守将など要職を秀吉から任されていましたが、
越前木目峠に布陣した際、
鎮圧途中の一揆勢力と単独で講和を試み
退転したことが秀吉に知られてしまい、
逆鱗に触れた直房は妻、一族郎党とともに秀吉の追跡を受けて
関盛信に捕えられ、殺害されてしまいます。
その首は、妻の首と共に
長島一向一揆の鎮圧に当たっている信長の元に届けられました。

このように、信長の家臣の中には、
一時は活躍したものの、
その後、失脚や粛清された者が多く存在します。
そうした家臣たちを目の当たりにして、
光秀はどのような思いを抱いたのでしょうか。

<続日本100名城スタンプ設置場所>
Cafe&Gallery「源右衛門」案内パンフレットボックス
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パンフレットは1部100円となります。

【登城及び散策の注意】
(1)
獣害が著しいため、
獣除けの柵を巡らせてあります。
扉の開閉は自由にできますが、
開けた後は必ずきちんと閉めてください。
(2)
登城道は山道であるため、
トレッキングや軽登山の装備で登城しましょう。
(3)
単独ではなく、複数での散策及び登城をおすすめしています。
(4)
ヒルが出るため、肌の露出は必ずせず、
ヒル除けスプレーを足元・首筋に吹き付けましょう。
(5)
ハチも出ることがあります。
ハチは黒い物を攻撃する性質があるため、
白色系の帽子をかぶりましょう。
また、においにも刺激を受けますので、
香水などにおいの強いものは控えましょう。
(6)
鹿やイノシシなどに遭遇しないように、
鈴やラジオなど音の出る物を携帯し、
人が山に入っていることを知らせるようにしましょう。
(7)
国が指定した史跡なので、
石垣や土塁などの遺構を壊さないようにしてください。
また、地面を掘り起こしたり火を使うことも遠慮してください。

阿閉貞征・阿閉貞大父子~元は浅井家の家臣~秀吉への不信感!!光秀に組して秀吉に一族もろとも滅亡させられる

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