明智家臣

三箇城~畠山義就が築城されたと伝わる城~河内キリシタン本拠地で明智光秀に味方した三箇氏の居城

三箇城址の碑



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三箇城

三箇城(さんがじょう)は、大阪府大東市にあった城です。

【立地など】
三箇は深野池西側に浮かぶ複数の島の地名でした。
池の水位によって3つから4つの島で
構成されていたとされています。

【城郭構造】
平城

【天守構造】
なし

【築城主】
畠山義就とされています。

【築城年】
文明年間(1470年)ごろ

【主な城主】
三箇頼照、三箇頼連

【廃城年】
天正12年(1584年)

築城時期は、はっきりとはわかっていませんが、
畠山義就と畠山政長が北河内を舞台にして
争った1470年前後と考えられているそうです。
文明3年(1471年)7月には、
畠山義就方の遊佐五郎が
三箇に立て篭った記録があります。
当初は野崎城の支城であり、
飯盛山城築城後は飯盛山城の支城でありました。

三好長慶時代】
永禄3年(1560年)に三好長慶
畠山高政・木沢長政を破り、
河内国を領国として飯盛山城を本拠としました。
永禄4年(1561年)12月には
畠山高政が城兵の油断を突き、
三箇城を落とし守将の三好政成を討ち取りました。
一時は三好長慶の本拠地飯盛山城を
おびやかした畠山高政でしたが、
翌年5月には三好長慶勢が盛り返し、
畠山高政は紀州に逃れていきました。

【三箇頼照】
三箇氏は大和国宇智郡の出自で、
畠山政長に従って
この地に移動してきたものと推測されていますが、
記録で明らかになるのは
三箇頼照(洗礼名:サンチョ)の代からです。
三好長慶の配下で三箇領主であった
永禄5年(1562年)に、
三箇頼照は飯盛山城で
ロレンソ了斎の説教を聞いて改宗を決意します。
夏に妻や一族、
家臣の多くと共に洗礼を受けたとされています。

石山本願寺勢から防ぐ】
三箇頼照は、永禄7年(1564年)に
三好長慶が死ぬと三好義継に従い、
天正元年(1573年)に
三好義継が敗れると織田信長に降りました。
織田信長と石山本願寺の関係が悪化すると、
大和川を遡上してたびたび本願寺勢が
三箇に攻め寄せてきましたが援軍の助けもあって
全てこれを防いでいます。

天正6年(1578年)多羅尾綱知によって
「毛利氏と内通している」との讒言を受け
閉居を命じられました。
まもなく許されましたが、
この時に家督を子の
三箇頼連(洗礼名:マンショ)に譲っています。

天正10年(1582年)、
本能寺の変の際には明智光秀につきましたが、
山崎の戦い明智光秀が敗れたため、
三箇親子は領地を捨てて逃亡し、
三箇城とその城下は焼き討ちにあいました。

三箇氏の後にはキリシタン武将である
結城如安(ジョアン)が城主となりました。
結城如安は天正12年(1584年)の
小牧・長久手の戦いで戦死し、
この頃に三箇城は廃城になったと推測されています。

<クスノキ>
三箇菅原神社社 クスノキ




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【城の存在した場所】
三箇城がどの位置にあったのかは
残念ながら分かってはいません。
お城の場所の候補地として三箇菅原神社社地や、
大畑の廃慶岸寺跡が挙げられています。
大正8年(1919年)に
三箇菅原神社(さんがすがわらじんじゃ)地に「三箇城址」の石碑が建てられました。

【所在地】
大阪府大東市三箇5-2-3

<三箇菅原神社>
三箇菅原神社社

【三箇のキリシタン】
永禄5年(1562年)に
三箇頼照とその一族がキリスト教に改宗すると、
三箇頼照はさっそく城下に聖堂を設けました。
三箇は岡山、砂(共に現在の四条畷市)と並んで
河内キリシタンの拠点となったとのことです。
京での実権を握った松永久秀
キリスト教に冷遇策をとったため、
京を脱出したヴィレラやフロイスらが
堺の商人小西隆佐らの手引きによって
三箇に拠っています。
永禄10年(1567年)には
京や堺などの信者を集め復活祭が行われたとあります。
ミサのあと、多数の船を繰り出して
魚を捕り船上で会食をした様子が、
フロイスの報告に記されているとのことです。
この復活祭は三箇氏が没落するまで毎年続けられました。
三箇頼照は主君の三好義継から
仏教への改宗を命じられましたがこれを拒否し、
一時期は三箇を離れ堺に逃れています。
永禄11年(1570年)頃には
従来の教会では手狭になり、
大きな会堂を建設しました。
この新しい教会の位置は現在では
明らかにはおりませんが、
「角堂(すみのどう)」の
地名の起こりとなったという説があります。

織田氏と石山本願寺の戦いにおいて、
本願寺の劣勢が明らかになってくると、
一向宗からキリスト教への
集団改宗も行われるようになったそうです。

天正6年(1578年)謀反の疑いにより
一時閉居された後戻ってきた三箇頼照は、
家督を子の三箇頼連に譲り、
自身は会堂に籠って信仰生活に没入しました。
石山本願寺との戦が終わった
天正8年(1580年)から天正10年にかけてが、
三箇領および三箇のキリシタンにとっての
最盛期であったと考えられています。

【明智光秀に味方するも】
天正10年(1582年)、
本能寺の変の際に三箇親子は
明智光秀につきましたが、
山崎の戦いで明智光秀が敗れたため、
三箇親子は領地を捨てて逃亡し、
三箇城と教会も含めた城下は焼き討ちにあいました。

【廃城へ】
三箇氏の後には岡山から
キリシタン武将である結城如安(ジョアン)が移り、
さらに結城如安が戦死した後には
同じくキリシタン武将の高山右近が領主となりましたが、
高山右近が大坂に新たな教会を作ったため、
熱心な信者らは大坂に去ったということです。

【駐車スペース】
三箇菅原神社の鳥居の向かいに
2台位の駐車スペースがあります。
道路の一部でもあるため、
長時間の駐車はご遠慮ください。
また付近一帯の道は狭いので、
走行される場合はくれぐれもご注意ください。

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