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お牧の方(於牧の方) 若狭武田氏からの出自を追ってみた

お牧の方(於牧の方)






お牧の方(於牧の方)(おまきのかた)は、明智光秀の母とさける女性で、明智牧(あけち-まき)とも書きます。
2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」では、演歌歌手で女優の石川さゆりさんが演じられます。
鈴木叢書の十三所収「明智系図」によると、後瀬山城主である若狭・武田氏を出身とする娘で、明智光秀の父親である明智光隆の名前の下に、妻武田義統妹とあります。
これをそのまま受け取れば、若狭武田氏7代である武田信豊(たけだ-のぶとよ)の娘(武田義統の妹)となります。





明智光秀が、丹波・八上城を包囲していた際に、守備する波多野秀治は1年も籠城を続けました。
この時「もし開城を迫られるのであれば、波多野一族の保障として、光秀殿の母御を差し出されよ」との申し出を受けて、明智光秀の母・於牧は「和平のためならば喜んで人質となりましょう」と八上城に入ったと言います。
しかし、安土城にて織田信長に面会した波多野三兄弟は、切腹を命じられました。
そのため、於牧は、八上城にて十字架にかけられて、磔にされたと言われています。
遠山信春が書いた軍記物「総見記(そうけんき)」にそのように記載されているのですが、もちろん、諸説あります。
八上城跡には「磔の松」が残っているそうですが、もっとも1年も籠城していれば、八上城内の惨状は餓死寸前と想像がつきますので、わざわざ、1年もたってから、人質を差し出す意義が薄いと言う事ですね。

ここからは、お牧の方(於牧の方)が、明智光秀の母なのか?、少し、いじわるですが、年代から検証してみたいと思います。

於牧の方の父と考えられる、武田信豊の生年は1514年で没年は1580年とされます。
お牧の母が、武田信豊の正室とは限りませんが、正室が産んだ子であれば、六角定頼の娘が実母となります。

諸説ありますが、明智光秀の父とされる明智光綱の生年は1497年で、斎藤道三に美濃・明智城を攻められて討死したのが1535年とされます。
お牧の方の兄とされる武田義統が生まれたのは、1526年です。

明智光秀が生まれた年も、諸説ありますが、大きく分けると、明智軍記などでは1528年説、当代記では1516年説、兼見卿記にある明智光秀の妹・お妻木(御ツマキ)の記述からは1540年以降と推定されています。
ただし、御ツマキに関して、恐らくは、明智光秀の正室(継室か?)になった、妻木煕子(明智煕子)の妹、すなわち義妹と推測するのが妥当ですので、吉田兼見の日記からの1540年以降と言うのは、可能性が薄いと考えられます。





これらの事から、お牧の方(於牧の方)が明智光秀の母なのであれば、兄とされる武田義統が生まれたのは1526年より後に、お牧の方(於牧の方)は生まれたと推定できます。
となると、お牧の方(於牧の方)は、1527年頃~1537年頃に生まれたのではと推定できます。
ただし、これは、武田義統の本当の「妹」と言うことが大前提です。
お牧の方(於牧の方)は、武田義統の実の妹ではなく、若狭武田氏の養女になったなどは考慮していません。

1527年頃~1537年頃に、お牧の方が生まれたとして、成長して、明智家に嫁いだとしたら、15年後と仮定して、1542年頃~1552年頃と推測されます。
もちろん、嫁いだ歳は、13歳くらいから20歳くらいと幅もあるでしょうから、あくまでも、1542年頃~1552年頃と言うのは推測です。
嫁いで、すぐに、明智光秀を産んだとしても、概ね、1543年頃~1553年頃と推定されます。

ところが、明智光秀の父とされる明智光綱は、前述したとおり、1535年に死去しています。
そして、まだ、明智光秀が幼かったため、叔父の明智光安が後見しました。
となると、この1535年の時点では、明智光秀は既に生まれていて、子供であったと言う事になります。
しかし、お牧の方(於牧の方)は、兄とされる武田義統が生まれた翌年の1527年に誕生していたとしても、1535年ですとまだ10歳ですので、子供を産むにも無理があります。

となりますと、どこかで「間違い」があると言う事が言えます。
どこが間違っているのか?は、もはや確かめるすべがありませんが、明智光秀の母が、お牧の方と言う事であれば「武田義統の妹」と言う部分が、おかしいのかな?とも感じます。
武田義統の妹ではなく、武田信豊の娘でもなければ、支障がないと言う事になります。
そもそも、若狭・武田氏が出自と言う事で、武田信豊の娘と言う事が確定している訳ではありませんので、やはり「養女」になて、お牧の方は明智氏に嫁いだのかな?と感じてしまいます。

また、明智光秀じたい、父は明智光綱ではないとする説がいくつもあります。

明智氏一族宮城家相伝系図書によると、母が明智光綱の妹で、実父は山岸信周(進士信周)で、その4男・進士藤延が明智光秀。
若狭国の刀鍛冶・冬広の次男が明智光秀になったともあります。
こんな感じで、明智光秀の出身じたいも、諸説ありますので、母に関しては、もっと分からないことが多いとも言えます。

と言う事で、結論はでません。
考えれば、考えるほど、難しくなり、切がありません。

1556年、鷺山城主・斎藤道三が長良川の戦いで敗れて命を落とした際に、明智氏は斎藤義龍の軍勢に攻められて没落しました。

もっとも、お牧の方は、母親ではなく、明智光秀の最初の正室であるとする説もあります。
この場合には、明智光秀と明智牧の年齢的には、適合してきます。
でも、大変失礼ながら、ベテラン歌手の石川さゆりさんが、明智牧と言う事は、NHK大河ドラマでの介錯としては、やはり、明智光秀の母と言う事なのでしょう。

於牧の方の墓が岐阜県恵那市明智町にありますが、美濃・明智城の近くです。
ただし、江戸時代の中期になる寛保3年(1743年)に建てられた石塔で、供養塔と言えるでしょう。





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