城跡

勝間田城跡~かつての名門一族の支配地は茶畑が広がる丘陵地

勝間田城跡 説明




勝間田城跡】

勝間田城(かつまたじょう)は、
静岡県牧之原市勝田にある日本の城跡です。
静岡県指定史跡となっています。

<勝間田城跡 案内図>
勝間田城跡 案内図

【築城主】
勝間田氏
【築城年】
15世紀中頃とされています。
【主な城主】
勝間田氏
【廃城年】
文明8年(1476年)?
永正3年(1506年)ともされています。
【遺構】
曲輪、土塁、空堀
【指定文化財】
静岡県指定史跡
昭和58年(1983年)2月25日
1991年(平成3年)12月17日追加
【再建造物】
建物跡(平面復元)

<御城印について>
勝間田城跡 御城印について

【勝間田城と勝間田氏】
城主であった勝間田氏は古くから
この地(勝田庄)を本領としていました。
鎌倉時代には御家人、
室町時代には奉公衆として幕府に仕え、
鎌倉後期には
「夫木和歌抄」の選者である
勝間田長清を輩出している名族であります。
また勝間田城の南西、菊川流域を支配した
横地城の横地氏とは同族とされています。

【地理地形】
勝間田城は、勝間田氏が15世紀中頃に築城したと
考えられています。
牧之原台地に連なる
尾根標高100~130メートル程、
勝間田川最上流部に築城されていました。
尾根の最上部に「本曲輪」・「二の曲輪」・「三の曲輪」
という三つの主要区画があり、
周囲の稜線にも
曲輪や堀切、土塁、空堀などが残っています。
このことからも戦国時代以前の原型を残した
貴重な山城といえます。
現在は発掘調査ののち史跡公園となり、
遺構のほか駐車場やトイレなども整備されています。
城の規模は東西2000メートル、
南北310メートル、
総面積12,69平方メートルを測ります。

現在の勝間田

【城の構造や遺構】
1985年度から数次にわたる発掘調査により、
多くの遺構(建物跡・井戸・堀)や
遺物(土器・木簡・古銭等)が検出され、
築城過程、建物の配置、
城内生活の実態を知ることがわかってきました。

本曲輪を中心に狭小である南区域に対し、
幅10メートル程度の大堀切を挟む
北区域二・三の曲輪は、
一区画が広く外縁部に土塁を巡らしています。
このことから南区域より後代改修の可能性が考えられています。

東方を向いて配置された堀・土塁・曲輪は
今川氏に対する備えとも考えられます。

文明8年(1476年)、
当時の駿河の守護であった
今川義忠に対し横地氏と共に対抗しましたが、
今川義忠に攻められ落城しました。
しかしながら落城の時期が
永正3年(1506年)の今川氏親に攻められた際に
落城したとも伝わっています。
伊勢盛時が関わっていますから、
こちらの年代が信ぴょう性があるのかもしれませんね。

【所在地】
〒421-0406  牧之原市勝田2160-5 
※駐車場は牧之原市勝田2174-6





<勝間田城のトイレ>
駐車場は道路の向かい側です。
勝間田城跡 トイレ

【勝間田氏】

勝間田氏(かつまたし、かつまたうじ)は
日本の氏族の一つです。
本貫は遠江国蓁原郡勝田
(静岡県牧之原市の勝間田川流域一帯)でした。
勝田、勝間、勝俣などの異表記もあるそうです。

なお、平安時代に成立した
「和名類聚抄」によりますと、
この地は「加知末多」または
「加都万多」と表記されていたとのことです。
一説によりますと、
「加都万」は湿地帯の植物の名をさし、
この地の地勢に由来しているそうです。
後に「勝田」と表記するようになり、
これを「かつまた」と読んだとのことです。
そして「勝間田」とも書いていたとか。
江戸時代には勝間田村として続いていたそうです。
明治時代になって村を編成するにあたり、
かつての勝田郷の隣り合う2村のあいだで
どちらが「勝間田村」を称するか論争になりました。
そして一方が「勝田村」、
もう一方が「勝間村」とすることで決着しました。
両村はのちに合併し結局、
勝間田村となったとのことです。

【勝間田氏の歴史】
出自については諸伝あるとのことです。
藤原南家の工藤氏の系統とする説、
桓武平氏の平良文の系統とする説などです。
横地氏と同族ともされています。

【文献への登場】
保元の乱(1156年)の際に
源義朝勢の家人として
「遠江国の勝田」として言及があるそうです。
このことから古くから源氏にしたがってきた
一族とみられています。

勝間田城跡 花

相良地域には「相良氏」、
榛原地域には「勝間田氏」が、荘園の発達に伴い、
「武士団」として台頭していました。
そして鎌倉時代には勝間田氏は
館か城を構えたとされ、
小笠の「横地氏」と力を合わせて
領域を治めていたとされています。

【室町時代の勝間田氏】
室町時代には応永の乱(1399年)や
永享の乱(1438年 – 1439年)では、
室町幕府方の勢力として登場しています。
文明8年(1476年)に
駿河国の今川義忠が遠江に進出すると、
勝間田氏や横地氏は今川氏に抵抗しました。
けれども敗れ、滅亡したということです。
清浄寺が菩提寺と伝わっています。

【勝間田氏の執念が今川氏の内乱をおこす?】
けれどもただ滅亡したわけではありませんでした。
勝間田城の落城後、
駿河にひきあげる今川義忠に対して
勝間田氏らの残党が奇襲を仕掛けたのでした。
そして今川義忠は流れ矢に当たって落命したということです。
これにより今川家では家督争いの内乱に陥ったのでした。

現在の勝間田 茶畑

【その後の勝間田氏】
この後、残党は一族の勝間田修理之亮(伊野八郎)とともに
富士山の東の裾野へ落ち延びていったとされています。
そこで林野を拓いて土着し、
「伊野」が転訛して「印野村」
(現在の御殿場市印野、
東富士演習場の隣接地)となったということです。
今でも御殿場には
「かつまた」様が多くいらっしゃるとのことです。

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