史跡・城跡

石見銀山の歴史・日本最大の銀山~世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」

清水谷製錬所跡と山吹城



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【石見銀山】

【所在地】
〒694-0305 島根県大田市大森町イ1597−3

石見銀山(いわみぎんざん)は、
島根県大田市にある、
戦国時代後期から江戸時代前期にかけて
最盛期を迎えた日本最大の銀山です。
現在は閉山となっています。
上述の最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を
産出したとも推定されており、
中でも石見銀山産出の銀が
そのかなりの部分を占めたとされています。

石見銀山遺跡案内図

石見銀山は、
大森銀山(おおもりぎんざん)とも呼ばれ、
江戸時代初期は佐摩銀山
(さまぎんざん)とも呼ばれていました。
明治期以降は枯渇した銀に代わり、
銅などが採鉱されました。

【石見銀山】
鉱脈は石見国東部、
現在の島根県大田市大森の地を中心とし、
同市仁摩町や温泉津町にも広がっていました。
日本を代表する鉱山遺跡として
昭和44年(1969年)に
国によって史跡に指定されました。
2007年(平成19年)6月28日に
ニュージーランドのクライストチャーチで
開催されていた第31回世界遺産委員会で
ユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決まり、
7月2日に正式登録されました。
一般的に、
銀山開発においては銀の精錬のため
大量の薪炭用木材が必要とされていました。
けれども、石見銀山では
適切な森林の管理がなされたことにより
環境への負荷の少ない開発がなされ、
今日に至るまで銀山一帯には
広葉樹などを含む森林が残されている
点が特に評価されているとのことです
更に、2007年には
日本の地質百選にも選定されています。

初期には仙ノ山(別名:銀峰山)山頂付近で
銀鉱石の露頭の採掘が行われたとのことです。
石見銀山では銀鉱石は
福石(ふくいし)と呼ばれていました。
開発が進行するにつれ鉱脈に沿って
地下深くに採掘が進んでいきましたが、
江戸期の採掘で良質な銀鉱石は枯渇し、
後年には黄銅鉱、黄鉄鉱、方鉛鉱など
鉱石を主体とする
永久鉱床(えいきゅうこうしょう)の採掘に移行しました。

石見銀山 紅葉1

【石見銀山の発見】
石見銀山の発見について
「石見銀山旧記」は鎌倉時代末期の
延慶2年(1309年)に周防の大内弘幸が
石見に来訪して
北斗妙見大菩薩(北極星)の託宣により
銀を発見したという伝説について記しています。
この頃からある程度の露天掘りが
なされていたと考えられています。

その後、大内氏が一時的に
採掘を中断していた石見銀山を再発見し、
本格的に開発したのは
博多の大商人、神谷寿貞であるとされています。
神谷寿貞は博多三傑・神屋宗湛の曽祖父。
姓については神屋、
名については寿禎・寿亭とも表記されています。
海上から山が光るのを見た神屋寿貞は、
領主・大内義興の支援と
出雲国田儀村の銅山主・三島清右衛門の協力を得て、
大永6年(1527年)3月、
銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出したのでした。

大内義興の死後、大内義隆が九州経営に
気を取られている間、
享禄3年(1530年)に
地方領主である小笠原長隆が銀山を奪いましたが、
3年後に再び大内氏が奪回しました。
大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点としました。

山吹城(遠景)

天文2年(1533年)8月、
神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き、
海外渡来の銀精錬技術である
灰吹法により精錬されました。
この技術でより効率的に銀を得られるようになり、
全国の鉱山に伝えられ、
日本における銀産出に
大きな貢献をすることになったのでした。
灰吹法確立以前は、
鞆ヶ浦(仁摩町馬路)・沖泊(温泉津町)から
鉱石のまま積み出され博多湊などで取引されました。

温泉津

けれども灰吹法が広まることにより、
酸化鉛の粉塵を吸い込んだ作業員は
急性または慢性の鉛中毒に
かかるようになってしまいました。
鉱山での劣悪な環境も相まって、
当時の鉱夫は短命であり、
30歳まで生きられた鉱夫は
尾頭付きの鯛と赤飯で
長寿の祝いをしたほどであったそうです。
大森地内には若くして死んだ
鉱夫たちの慰霊を目的として
各宗派の寺院が多数建てられ、
鉱夫たちの家族構成はその多くが
独身もしくは夫婦のみであったと伝えられています。

<下河原吹屋跡>
発掘調査によって初めて発見された17世紀初頭(江戸時代初め)の銀精錬遺跡。
ここでは、鉛を利用した「灰吹」法と呼ばれる精錬法で銀を取り出していました。

下河原吹屋跡

【銀山争奪】
天文6年(1537年)、
出雲の尼子経久が石見に侵攻し、銀山を奪いました。
その2年後に大内氏が奪還しましたが、
更にその2年後に尼子氏が石見小笠原氏を使って
再び銀山を占領し、
大内氏と尼子氏による争奪戦が続いたのでした。




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大内義隆の死後、
毛利氏が大内氏に代わり台頭すると、
毛利元就尼子晴久との間で
銀山争奪戦を繰り広げました。
けれども、弘治2年(1556年)の忍原崩れ、
永禄2年(1559年)の
降露坂の戦いといった戦いでは
尼子氏が勝利し、
尼子晴久の存命中には
毛利元就は石見銀山を
奪取することができませんでした。

けれども、永禄4年(1561年)に
尼子晴久が急死すると、
後を継いだ尼子義久
家中の動揺を抑えるため、
永禄5年(1562年)に
毛利氏と「石見不干渉」を約した
雲芸和議を締結しました。
これにより、最終的に毛利氏が勝利を収めて
石見銀山を完全に手中に収めたのでした。
そして、山吹城には
吉川元春の家臣である
森脇市郎左衛門が置かれました。
そして同年12月には
石見銀山を朝廷の御料所として献呈しました。

天正4年(1576年)以降、
毛利輝元足利義昭を擁し、
織田信長との戦いを
長期にわたり繰り広げたのですが、
その長年の戦を可能にしたのは
この石見銀山からの富のおかげであったとされています。

その後、天正12年(1584年)に、
毛利輝元が豊臣秀吉に服属することになると、
銀山は豊臣秀吉の上使である
近実若狭守と
毛利氏の代官である
三井善兵衛の共同管理となり、
豊臣秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てられたのでした。

天正19年(1591年)、
毛利輝元は豊臣秀吉の命により
石見銀山を始めとする
領国の銀山を治めるため、
林就長および柳沢元政を奉行に任命しました。

慶長2年(1597年)には、
毛利輝元から豊臣秀吉に
銀3000枚(129貫、約480キログラム)が、
関ヶ原の戦い直後の慶長5年(1600年)の
割当では毛利家と徳川家の折半となり、
各々銀13000枚ずつが、
それぞれ運上されていました。

【商業への影響】
石見銀山が開発された時期は
日本経済の商業的発展の時期と重なっていました。
このため、製錬された灰吹銀は
ソーマ銀と呼ばれ、
そのまま日本産銀の銘柄のひとつとして
商取引に利用されました。
またこの灰吹銀を譲葉状に打ち伸ばし
加工された石州丁銀および
その後の徳川幕府による
慶長丁銀は基本通貨として広く国内、
主に西日本(但し東日本の高額貨幣は金)で
流通したばかりでなく、明(中国)、
16世紀以降に来航するようになった
ポルトガル、オランダなどとの
間の交易で銀が持ち出されました。
特に明は大口の商取引、兵士への給与などのため
広く秤量銀貨が使用され、
その経済規模の為に銀需要は大きかったのでした。
また、私貿易を禁止する明の
海禁政策にもかかわらず、
日明間の密貿易が活発となりました。
当時の日本の銀産出量は
世界全体の三分の一
(その生産量の平均は年間200トン程度、
その内、石見銀山が38トン(10000貫)
程度であったと推測されています。)
に達していたとされております。
これはスペイン王国ペルー副王領ポトシ(現ボリビア)の
セロ・リコと並ぶ銀産出地として
西洋でも有名になったのでした。
石州丁銀は秤量貨幣
(額面が無く重量で価値が決定。
取引の際は必要に応じ切り分けて使用)のため、
原形をとどめる物は希少でしたが、
島根県は2007年までに
石見銀山の銀で製作されたとされる
御取納丁銀(おとりおさめちょうぎん)、
文禄石州丁銀、御公用丁銀を購入し、
これらは島根県立古代出雲歴史博物館
における企画展などで展示されているそうです。

ヨーロッパ人の見た石見銀山

<御取納丁銀・レプリカ>
御取納丁銀・レプリカ

その繁栄・栄華ぶりは、
当時のポルトラーノ地図にも記載されています。
スペイン国王はイスラム圏から入手した
地図を大量に持っており、
自らも地図を作成したとのことです。
銀山を手中にした大名家
(大内氏、尼子氏、毛利氏、豊臣氏、徳川氏)の利益は大きく、
銀10000貫は米に換算すれば
100万石を下らない収入となるそうです。
なお、イギリス船やオランダ船は
日本で産出される銀を「ソモSomo」あるいは
「ソーマSoma」と呼んでいたといわれています。
これは銀鉱のある大森地区の旧名である
「佐摩」に由来するとされています。

【江戸幕府による支配】
【石見銀山領の設置】
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、
慶長5年(1600年)11月に
石見銀山の接収のために
大久保長安と彦坂元正を下向。
石見の江の川以東を中心とする地域
(石見銀山の所在地、
邇摩郡大森を中心に
安濃郡・邑智郡・那賀郡の4郡146か村と、
美濃郡・鹿足郡で6か村の飛地)を
直轄領(天領)としました。
そして翌年の慶長6年(1601年)8月、
初代銀山奉行として大久保長安を任命しました。
銀山開発の費用・資材(燃料など)を賄うため、
周辺の郷村には直轄領である
石見銀山領(約5万石)が設置されました。
大久保長安は山吹城の下屋敷のあった
吉迫の陣屋で支配を行いましたが、
後任の竹村丹後守により
大森に奉行所が置かれました。

石見銀山 集落 ジオラマ

【幕府による銀山開発】
大久保長安は山師(鉱山経営者)安原伝兵衛らを使って
石見銀山開発を急速に進め、
徳川家康に莫大な銀を納め、
朱印船貿易の元手にもなったのでした。
慶長7年(1602年)に、
安原伝兵衛が釜屋間歩を発見して
産出された銀を徳川家康に献上すると、
徳川家康は非常に喜び、
安原伝兵衛に「備中」の名と
身につけていた辻ヶ花染胴服を与えたそうです。

安原伝兵衛の釜屋間歩の発見などにより
17世紀初頭(慶長年間から寛永年間)に
銀の産出はピークに達し、
「当代記」によりますと、
慶長7年(1602年)の運上銀は
4~5千貫に達したといわれているそうです。
その後、銀産出量は次第に減少し、
延宝3年(1675年)に銀山奉行の職は
大森代官に格下げされたのでした。
また大森の奉行所は大森代官所となりました。




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海岸部には炭生産のノウハウを有する
たたら経営者の製鉄工場が林立し、
たたら経営者の中には銀採掘に使われる道具などで
消費される鉄と銀製錬のために
消費される炭とを本年貢や
鍛冶年貢の代替として供給する者もいたのでした。

2017年5月には
町年寄を務めた家系の家屋から
江戸時代の鉱物資料標本が発見されています。

【銀山街道 鞆ヶ浦道】
当初、産出した灰吹銀は
現在の大田市のや
沖泊から船で搬出されていました。
冬の日本海は季節風が強く
航行に支障が多いため、
大久保長安は大森から尾道まで
中国山地を越え
瀬戸内海へ至る陸路の「銀山街道」
(大森-粕淵-九日市(美郷町)-三次-甲山-御調-尾道)
を整備し、尾道から京都伏見
(慶長13年(1608年)に洛中の両替町に移転)
の「銀座」へ輸送するようにしました。
大森町にある熊谷家は
幕府に上納するための公儀灰吹銀を
天秤で掛け改め勘定を行う
掛屋として任命されていました。

鞆ヶ浦の湊

幕府(代官所外では沿道各藩)により
領内の郷村に対する
人的・物的負担や、街道各村の銀輸送にあたる
人馬の負担が割り当てられましたが、
これらの賦役は民衆から
嫌気される傾向にありました。
時として訴え出る者や
争議が勃発しましたが、
この輸送は幕末まで続いたのでした。

【幕府による銀山支配の終焉】
石見銀山は銅も算出され、
江戸時代前期にも
日本の膨大な銀需要を支えましたが、
元禄期になると次第に産出量が少なくなり、
江戸末期には深く掘らなければ
銀を産出できなくなり、
地下水にも悩まされ採算がとれなくなっていました。

慶応2年(1866年)6月の
第二次長州戦争において、
幕府は石見国に紀州藩・備後福山藩・
浜田藩・松江藩の藩兵を出動させましたが、
長州軍の進発を食い止めることは叶わず、
7月に浜田藩主・松平武聡は
浜田城を脱出しその後落城したのでした。
これにより長州軍の石見銀山領への進撃は
不可避なものとなり、
最後の大森代官であった
鍋田三郎右衛門成憲は
7月20日の夜に銀山付の役人を引き連れて
備中国倉敷へと逃亡し、
石見銀山の幕府支配は終焉を迎えたのでした。
以後、旧石見銀山領は
長州藩によって支配されることとなり、
鍋田成憲が逃亡したのちに発生した
一揆は長州藩などによって鎮められました。
そして明治2年(1869年)8月に
大森県が設置されたことによって
長州藩による支配は終わりました。

浜田城址

【明治期以降の石見銀山と終末】
石見銀山は明治元年(1868年)の
太政官布告による民間払い下げにより
田中義太郎が経営権を取得しましたが、
明治5年(1872年)の
浜田地震の被害でしばらく休山となりました。
その後、明治19年(1886年)からは
大阪の藤田組(現在はDOWAホールディングス)により
再開発の試みが続けられました。
藤田組は採鉱施設・事務所などを
大森から柑子谷(仁摩町大国)の
「永久鉱山」に移しましたが、
その頃主に採掘されていた
銅の価格の暴落や
坑内の環境の悪化などにより
大正12年(1923年)には休山となりました。
その後、日中戦争、太平洋戦争の最中、
軍需物資としての銅の国産化を目論み、
昭和16年(1941年)より
銅の再産出を試みましたが、
昭和18年(1943年)の水害で
坑道が水没する大打撃を受け、
完全閉山となりました。

2006年。鉱業権が
DOWAホールディングスから
島根県に譲与されました。

<清水谷製錬所跡>
石見銀山 清水谷製錬所跡

【石見銀山の坑道】
【「間歩」の広がり】
2015年の段階で、
銀山採掘のために掘られた「間歩」(まぶ)
と呼ばれる坑道や水抜き坑が
700余り確認されています。
主な坑道としては、
◆釜屋間歩
◆龍源寺間歩
◆大久保間歩
◆永久坑道
などが挙げられます。

石見銀山 間歩(坑道)

【大久保間歩】
江戸時代から明治時代にかけて開発されました。
大久保長安が槍を持って
馬に乗ったまま入れたとされています。
大久保間歩の下方に位置する金生坑は、
明治時代に作られた水抜き坑道であり、
大久保間歩内部より
金生坑に通じる階段を見ることが出来るそうです。
大久保間歩は、坑道周囲に住む
住民の通路としても使用され、
山を抜けて反対側の学校に通学する
子供たちの通学路ともなっていたそうです。
大久保間歩は江戸時代は手掘りでしたが、
後にドリルによって坑道が拡大され、
木製軌道が敷かれて
トロッコを用いて鉱石の搬出が行われたそうです。




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【釜屋間歩】
大久保間歩の更に上側に位置する坑道です。
安原伝兵衛によって開発されたとされています。
周囲には現場で精錬を行った
遺跡も発掘されています。
これらの坑道は内部で互いに接続しており、
最深部は永久坑道の標高400mのところから
200m掘った坑道が確認されています。
山頂部には露頭を掘った跡や
集落の跡が残っており、
当時高価だった
海外製の陶器の破片などが発掘されています。
坑道から搬出された鉱石のうち、
不要な石(ズリ)は、
周辺の谷を埋め平地を作るのに使用されました。
電灯が導入されるまでは、
サザエの殻に、菜種油を満たした灯り、
「らとう」が長く使用されていたそうです。
ちなみにこのサザエの殻を使用した灯りは、
大田市のマスコットキャラクター、
らとちゃんのデザインにも用いられています。

大田市のマスコットキャラクター・「らとちゃん」

【龍源寺間歩】
石見銀山資料館から徒歩圏内の龍源寺間歩は、
通年で一般公開され内部を見学できます。

<佐毘売山神社>
読みは「さひめやまじんじゃ」です。

全国一の規模の山神社。
特に拝殿の重層屋根は
天領特有のものだそうです。
龍源寺間歩の出口から
約200mほど離れたところにあります。
急勾配の石段を上ると境内があります。
創建は16世紀中で鉱山の守り神とされています。
精錬の神「金山彦命」を祀り、
銀山に生きる人々の心のよりどころとして
地元では親しみを込めて
「山神さん」と呼ばれているとのことです。
なお、神社を挟んで両側には、
かつて銀山で働いてた多くの人々の
住居跡の石垣が遥か
奥まで棚田のように続いているそうです。
また、所々には小さな間歩(坑道)
の入り口も見えるとのことです。
(島根県西部公式観光サイトより)

佐毘売山神社 石見銀山

【大久保間歩の限定公開】
2008年より、
大久保間歩の内部も一般公開されましたが、
ツアー形式で週末のみの
限定公開となっています。
大久保間歩の見学ツアーは
予約が必要とのことですが、
空いて入れば予約なしでも
参加可能であるそうです。
但し冬季はコウモリの越冬のために
開催されていません。
見学ツアーは、
石見銀山世界遺産センターより
バスで10分ほど移動し、
その後しばらく山中を徒歩で登る
形式で開催されており、
釜屋間歩や金生坑の坑道口なども
見学できるそうです。

【世界遺産】
【市・県・国による文化財指定と保護】
石見銀山にある歴史的な建造物や遺構は
市・県・国などによって
文化財に指定・選定され保護されてきました。
1967年(昭和42年)に
石見銀山は島根県から「大森銀山遺跡」として
県指定史跡に指定されました。
さらに1969年(昭和44年)には
国から「石見銀山遺跡」として
史跡に指定されました。
そして、大森銀山地区の町並みは
1987年(昭和62年)に
重要伝統的建造物群保存地区(種別 鉱山町)
として選定されました。

石見銀山 大森地区の町並み

銀の積出港であった温泉津地区の町並みは
港町・温泉町として2004年(平成16年)に
重要伝統的建造物群保存地区(種別 港町・鉱山町)
として選定されました。
また、大森銀山伝統的建造物群保存地区は
2007年に、
温泉津伝統的建造物群保存地区は
2009年に、それぞれ選定区域を拡大しています。

【登録までの経緯】
日本政府は「石見銀山遺跡とその文化的景観」
の世界遺産登録を目指し、
2001年に「暫定リスト」に掲載。
2006年1月にユネスコ世界遺産委員会に
推薦書を提出しました。

【登録延期の勧告】
2007年5月、各国から推薦された
世界遺産登録候補を審査する
ユネスコの諮問機関である
国際記念物遺跡会議(ICOMOS)が、
遺跡の「顕著な普遍的価値」の証明が
不十分であることを理由に
「石見銀山は登録延期が適当」と勧告しました。

【日本政府の巻き返し】
それを受け、ユネスコの日本政府代表部は、
委員会構成国の大使や専門家に、
勧告に反論する110ページにわたる
英文の「補足情報」を送るなどして、
石見銀山の特徴である
「山を崩したり森林を伐採したりせず、
狭い坑道を掘り進んで採掘するという、
環境に配慮した生産方式」を積極的に紹介し、
巻き返しのための外交活動を展開したのでした。

【世界遺産の登録が決定】
結果、「21世紀が必要としている環境への配慮」が
すでにこの場所で行われていたことが
委員の反響を呼んだのでした。
6月28日、
世界遺産委員会の審議により、
世界遺産(文化遺産)としての登録が
満場一致で決定されました。
日本の世界遺産登録としては14件目であり、
文化遺産としては13件目、
産業遺産としてはアジア初の登録となります。

【登録対象】

石見銀山遺跡の範囲

<銀鉱山跡と鉱山町>
◆銀山柵内
(Ginzan Sakunouchi, 1246-001a)
◆仙ノ山・仙ノ山城郭群
◆本谷間歩群~大久保間歩・釜屋間歩・金生坑など
◆大谷間歩群~龍源寺間歩など
◆清水谷間歩群~清水谷精錬所やトロッコ軌道跡
◆安原谷間歩群
◆於紅ヶ谷間歩群
◆石銀間歩群・石銀集落跡
◆昆布山谷間歩群
◆山吹城跡
◆佐毘売山神社
◆大森銀山重要伝統的建造物群保存地区
(Ômori-Ginzan, 1246-001f)
◆代官所跡(石見銀山資料館)
(Daikansho Site, 1246-001b)
◆重要文化財熊谷家住宅
(House of the Kumagai Family, 1246-001h)
◆羅漢寺五百羅漢
(Rakan-ji Gohyakurakan, 1246-001i)
◆宮ノ前地区
(Miyanomae, 1246-001g)
◆矢滝城跡
(Yataki-jô Site, 1246-001c)
◆矢筈城跡
(Yahazu-jô Site, 1246-001d)
◆石見城跡
(Iwami-jô Site, 1246-001e)
◆街道
(石見銀山街道)
◆鞆ヶ浦道
(Iwami Ginzan Kaidô Tomogauradô, 1246-002a)
◆温泉津沖泊道
(Iwami Ginzan Kaidô Yunotsu-Okidomaridô, 1246-002b)

<港と港町>
◆鞆ヶ浦
(Tomogaura, 1246-003a)
◆沖泊
(Okidomari, 1246-003b)
◆温泉津重要伝統的建造物群保存地区
(Yunotsu, 1246-003c)

<その他周辺>
◆石見銀山処刑場
◆千人壷
◆胴地蔵
◆人切岩

【移動手段】
環境負荷の少ない
移動手段の導入も進められています。
<レンタサイクル>
大森代官所前や大森バス停などで
貸し出しが行われています。
原則として電動自転車です。

石見銀山 レンタサイクル

【交通アクセス】
【車】
山陰自動車道出雲ICまたは
江津ICより国道9号を利用します。
大田市市街地より県道46号を南西に進みます。

【公共交通機関】
出雲空港から出雲市駅までリムジンバスで約30分
⇒「出雲市」駅からJR「大田市」駅まで
普通列車で約40分。
大田市駅より石見交通バスに乗車します。

龍源寺間歩 ・世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の構成資産の一つ

熊谷家住宅 ~世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の構成資産の一つ

石見銀山資料館~大森代官所跡・世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の構成資産の一つ

山吹城 ・石見銀山遺跡に登録の城跡~石見銀山の利権で大内氏・尼子氏・毛利氏が争奪戦を繰り広げた要害山城

五百羅漢(世界遺産)・羅漢寺 (大田市) ~「石見銀山遺跡とその文化的景観」

石見銀山世界遺産センター~「石見銀山遺跡とその文化的景観」

温泉津温泉(ゆのつおんせん)~世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」

鵜丸城(うのまる)・温泉津~当時の最先端技術で築城された毛利水軍の拠点~櫛島城と笹島城と連携。

石見城~世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」、芋代官「井戸平左衛門正明」とは?

月山富田城~出雲国守護の城、170年間尼子氏6代の本拠地で別名は天空の城、日本五大山城です。

浜田城 ・続日本100名城~立派な石垣、自然の地形を生かした縄張り、絵になる本丸からの眺めと良港。

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