鎌倉殿の13人

静御前~源義経の愛妾、儚い幸せとその後の寂寞たる足跡は今に語り継がれています。

鶴岡八幡宮 舞殿



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静御前

静御前(しずかごぜん、生没年不詳)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期の
女性白拍子です。
母は白拍子の磯禅師。
源義経の愛妾でした。

源義経との出会い】
源義経が京都堀川第で兄頼朝の刺客である
土佐房昌俊に襲われたとき、
機転によって源義経を助けました。
以後、源義経に従うようになったとされています。
「吾妻鏡」では、源平合戦後、
兄の源頼朝と対立した源義経が
京を落ちて九州へ向かう際に同行しましたが、
源義経の船団は嵐に遭難して岸へ戻されてしまいます。
吉野で源義経と別れ京へ戻ってきます。
けれどの途中で従者に持ち物を奪われ、
山中をさまよっていた時に、
山僧に捕らえられ
京の北条時政に引き渡されます。
文治2年(1186年)3月に
母の磯禅師とともに鎌倉に送られたのでした。

【鶴岡八幡宮での舞】
鎌倉では源義経の所在に関して
厳しい訊問を受けたとされています。
けれども静御前は固く
沈黙を守ったということです。
源頼朝の妻である北条政子は、
静御前が舞の名手であると聞き、
同年4月8日、
静御前は源頼朝に
鶴岡八幡宮社前で
白拍子の舞を命じられました。
工藤祐経が鼓を打ち、
畠山重忠が銅拍子を勤めたとされています。

しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
(倭文(しず)の布を織る麻糸を
まるく巻いた苧(お)だまきから
糸が繰り出されるように、
たえず繰り返しつつ、
どうか昔を今にする方法があったなら)

自分の名前「静」を「倭文(しず)」とかけつつ、
頼朝の世である「今」を
義経が運栄えていた
「昔」に変えることができれば、と歌っているとのことです。
「伊勢物語」32段
「古(いにしえ)のしづの
をだまきくり返し昔を
今になすよしもがな」を本歌としています。

吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
(吉野山の峰の白雪を踏み分けて
姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい)

吉野山は静御前と源義経が別れた場所です。
「古今和歌集」の冬歌、
壬生忠岑による
「み吉野の山の白雪踏み分けて
入りにし人のおとづれもせぬ」を本歌としています。

鶴岡八幡宮 舞殿(遠景)

と源義経を慕う歌を唄い、
源頼朝を激怒させてしまいます。
ですが妻の北条政子
「私が御前の立場であっても、
あの様に謡うでしょう」
と取り成して命を助けたとのことです。
「吾妻鏡」では、静御前の舞の場面を
「誠にこれ社壇の壮観、
梁塵(りょうじん)ほとんど動くべし、
上下みな興感を催す」と絶賛しています。

【由比ヶ浜に消えた赤子】
この時、静御前は源義経の子を妊娠していました。
源頼朝は女子なら助けるが、
男子なら殺すと命じました
これは当時は御家人と白拍子の間の子は、
男子であれば父の下で武士として育てられ、
女子であれば母の下で
白拍子として育てられた、とのことです。
女子であれば白拍子である静御前の子で、
源頼朝には関わり合いのない者になります。
しかし男子であれば謀反人である
源義経の子であるので、
将来の禍根を絶つために、木曾義高同様に
殺害しようとしたと考えた、ということです。

閏7月29日、静御前は男子を産みました。
安達清常が赤子を受け取ろうとしますが、
静御前は泣き叫んで離さなかったとのことです。
静御前の母親である磯禅師が
赤子を取り上げて安達清常に渡しました。
北条政子の助命嘆願もむなしく、
源頼朝は赤子を鎌倉由比ヶ浜に沈めさせました。

由比ヶ浜

【芸能作品】
静御前を主題とした謡曲には
「吉野静」「二人静」があり、
浄瑠璃に「義経千本桜」があります。




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【帰京とその後の消息】
9月16日、
静御前と磯禅師は京に帰されました。
憐れんだ北条政子と大姫
多くの重宝を持たせたということです。
その後の消息は不明となっています。

【吾妻鏡における静御前】
以下、「吾妻鏡」に静御前が登場する
箇所の現代語訳です。
(ウキペディアより)

文治元年11月6日(1185年12月15日)
都落ちした義経の一行が
九州へ渡るべく大物浜(尼崎市)から乗船するが、
暴風雨によって難破し一行は離散。
義経に従っていたのは源有綱・堀景光・武蔵坊弁慶並びに
妾の静のみであった。

11月17日
義経が大和国吉野山に
隠れているとの噂があるので、
吉野山の執行(修行)僧兵によって
捜索するも見つからなかったところ、
夜10時頃、義経の妾の静が
藤尾坂を下り蔵王堂にたどり着く。
その姿がいかにも怪しいので
衆徒達はこれを見咎め、
執行坊に連れてきて詳細を問う。
静「私は九朗大夫判官の妾です。
大物浜より豫州(義経)はこの山に来ました。
5日間逗留しましたが、衆徒蜂起の噂を聞いて、
伊豫守は山伏の姿を借りて
逐電してしまいました。
その時数多くの金銀類をわたくしに与え、
雑色男たちを付けて
京に送ろうとされました。
しかし彼らは財宝を奪い取り、
深い峯雪の中に捨て置いて
行ってしまったので、
このように迷って来たのです。」

11月18日
静の証言によって義経を探すため、
吉野の大衆はまた雪を踏み分け
山を捜索する。
吉野執行は静を大変気の毒に思い、
充分労ってから鎌倉へ差し出すことになった。

吉野 山

12月8日
吉野の執行が静を京都にいる
北条時政の屋敷に送る。
義経を捜すための軍が
吉野山に差し向けられる。

12月15日
北条時政から鎌倉へ送られた手紙より静の証言。
「豫州が都を出て西海へ赴いた明け方、
一緒に連れ立って大物浜に到着しました。
それから船が難破し
海を渡ることができませんでした。
その夜は天王寺で宿泊し、
豫州はそこから逃げて姿を隠しました。
迎えを寄越すので
一両日の間ここで待つように約束し、
ただし約束の日を過ぎたら
すぐさま立ち去るように言われました。
しばらく待っていると、
馬を送ってきたのでこれに乗り、
どこへ行くかわからないまま
三日目に吉野山に着きました。
そこで五日間逗留し、
それを最後にお別れしました。
その後の行方は知りません。
私は深山の雪を凌ぎ、
やっとのことで
蔵王堂に着いたところ、
吉野執行に捕らえられました。」

12月16日
静を鎌倉へ召し出すよう
時政に返書が送られる。

1月29日
義経の行方未だに分からず。
さらに問いただしたいことがあるので、
静を差し出すように北条時政に伝えられる。

2月13日
鎌倉に京都の時政から静を送る旨の返事が届く。

3月1日
静、母の磯禅師と共に鎌倉に到着。
安達清常の屋敷に入る。

3月6日
すでに京都で時政に調べられたが、
はなはだ信用できないとして
再び問注所の役人に
義経の行方を問われる。
静「吉野の山中ではなく、
その僧坊である。
しかし山の大衆蜂起の事を聞いて、
そこから(義経は)山伏の姿になり、
大峰に入ると言って
僧に送られて山に入りました。
自分もまた跡を慕って
一の鳥居の辺りまで行ったが、
その僧に女人は大峰に入るべからずと
叱られたので、やむなく都の方へ向かった。
ところが同行していた雑色達が
財宝を奪って逃げてしまい、
蔵王堂に迷い着きました。」
重ねて僧の名を尋ねると
それは忘れたと言う。
およそ京都での申し立てと
今の言葉といささか違っているし、大
峰に入ったと言っているが、
多武峯に向かったあと
隠れたとの噂があるので、
それらにきっと虚偽があるだろうから
重ねて取り調べるよう命じられる。




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3月22日
静再び子細を尋ねられるも、
義経の行方は知らないというだけであった。
義経の子を妊娠しているので
出産ののち帰すとの沙汰。

4月8日
頼朝と政子が鶴岡八幡宮に参拝。
舞を行うよう控えの間から
静を廻廊に召し出す。
この事は以前から命じていたところ、
病気のためと称して断ったり、
わが身の不遇はあれこれ
言うことはできないといえども、
豫州(義経)の妾として
晴れの場に出るのは
すこぶる恥辱であると言って
渋り続けていたが、
政子が
「天下の舞の名手が
たまたまこの地に来て、
近々帰るのに、
その芸を見ないのは残念なこと」
としきりに頼朝に勧め、
「八幡大菩薩に供えるのだから」
と言って静を説得。
別離からまだ日も浅く、
気が塞いでいるので
舞う気にならないと
その場になっても固辞するのを、
再三の命によって舞うことになった。

5月14日
工藤祐経・梶原景茂・千葉常秀・
八田朝重・藤原邦通ら御家人たちが
酒を持って静の宿所に向かい宴会を催す。
磯禅師が舞を舞う。
酒に酔った景茂から
艶言を投げかけられ、
静は大泣きして
「豫州(義経)は鎌倉殿の御兄弟、
私はその妾です。
御家人の身分でどうして
普通の男女の事のように思われるのか。
豫州が落ちぶれなければ、
あなたごときに対面する事さえ
できないはずなのに。
ましてやそのような艶言などもってのほかです。」

5月27日 夜、
頼朝の長女大姫の依頼により、
南御堂に舞を納めて禄を給う。

閏7月29日(閏は2度目の7月)
静男子を出産する。
これは豫州(義経)の息子である。
出産を待ってから
京に帰すことになっていたので、
今日まで留め置かれていた。
その父は関東に背き
謀反を企て逃亡した。
その子が女子ならば
すみやかに母に返されるが、
男子であれば今は産着の中にあっても、
将来に禍根を残す恐れがあるので、
赤子のうちに命を絶つように
決まっていた。
よって今日、安達清常に
由比ヶ浜に捨てるよう命じられる。
これに先立ち清常が使いとして
赤子を受け取ろうとした。
静はまったくこれを出さず、
(赤子を)衣にまとい抱き臥し、
叫喚数刻に及ぶが、
清常は厳しく催促する。
磯禅師が恐縮し、
赤子を取り上げて使いに渡した。
この事は、政子が頼朝に嘆願し
宥めたが叶わなかった。

9月16日
静母子帰洛。
憐れんだ政子と大姫が多く重宝を賜う。

【伝説】
静御前に関して
史料による記録が見られるのは、
上記の「吾妻鏡」のみであり、
同時代の都の貴族の日記などで
静御前に関する記録は一切見られません。
「吾妻鏡」は時の権力者で
源氏から政権を奪った
北条氏による編纂書であり、
静御前の舞の場面は源氏政権の否定、
北条氏(政子)礼賛という
北条氏の立場に拠ったものである事から、
北条氏の政治的立場による
曲筆との見方もあるそうです。

【比企氏の娘の存在を消すために利用?】
また、史実から確認できる
静御前以外の源義経の妻妾は
河越重頼の娘(正室・郷御前)と
源氏の敵である
平時忠の娘(蕨姫)しかいませんが、
北条氏と政治的に対立した
比企氏の存在を否定的に描く
「吾妻鏡」では、
比企氏の外孫となる
河越重頼の娘の存在感を消すための
曲筆の手段として
静御前の存在を利用したとする見方もあります。
ちなみに「吾妻鏡」において
源義経の正室である
河越重頼の娘の記事はわずか3か所のみです。
その他のエピソードは、
鎌倉時代に成立した軍記物語である「平家物語」
「土佐房被斬」章段の一部と、
室町時代初期に書かれた「義経記」
の創作によるものであるとされています。

妙本寺 二天門

【河越重頼の娘の逸話も入っている?】
ということは、
本来ならば、河越重頼の娘にまつわる
逸話も「静御前」の話としてすり替えられて
入っている可能性もある、ということですかね。
鎌倉からの帰京後は、
存在感がまるで空気のような感じですからね。
静御前は。
河越重頼の娘は夫である
源義経と共に最期を遂げているので
北条氏側からみればまずいのでしょうね。
その存在が目立ってしまうから。

静御前は利用されたけれども、
源義経を深く愛した、
ということは本当であると信じたいし、
きっとそうなのでしょう。
最期を共にできなかったのは、
静御前の最大の哀しみ・・。
ある程度生きた、という伝承が少なく、
多くが若いうちに亡くなったとされています。




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【「義経紀」による静と義経の馴れ初め】
「義経記」によると、日照りが続いたので、
後白河法皇
神泉苑の池で100人の僧に
読経させましたが効験がありませんでした。
そこで次は100人の容顔美麗な
白拍子に舞わせ雨を祈らせました。
99人までは効験がありませんでしたが、
100人目である静御前が舞うと
たちまち黒雲が現れ、
3日間雨が降り続いたということです。
静御前は法皇から
「日本一」の宣旨を賜りました。
また法皇は、静御前を見て
「カノ者ハ神ノ子カ?」
と感嘆したと言うことです。
その後、住吉での雨乞いの時に、
静御前を見初めた源義経が召して
妾にしたということです。

【京丹後市(京都府)における伝承】
静御前は、京都府京丹後市網野町磯地区で
禅師の娘として誕生したとされており、
現在では記念碑が立っているとのことです。
また近くには静神社があるそうです。
様々な遺品や源義経から
静御前宛の恋文などが
伝世していましたが
1782年の火災で消失したとのことです。

【宇都宮市(栃木県)における伝承】
宇都宮二荒山神社の下之宮西側に
鏡ヶ池という大きな池があります。
その池から発見された鏡が
静御前が奥州の源義経のもとへ
向かう途中に、
源義経の無事を祈願するために、
立ち寄った宇都宮大明神
(現・宇都宮二荒山神社)で、
参拝前に手を清めた際に
落とした鏡とされています。
その鏡は宇都宮大明神に
奉納されたとのことです。
また、宇都宮七名水の一つとされる
「亀井の水」(宇都宮市下河原)は
お供の亀井六郎が
槍で地面を突いた際に湧き出た水で、
静御前のどの渇きを潤したと
伝わっているそうです。
そして宇都宮大明神を後に
日光街道を北上した
現在の宇都宮市野沢町には
御前桜・静さくらが現在まで
伝わっているそうです。
ちなみに現存する桜は12代目となります。
奥州へ向かう途中、
源義経が衣川で討ち死の報を
この地で聞いたとされ、
静御前が源義経より贈られ
大切にしていた桜の杖を
地にさしたところ芽が吹き
後の世まで伝わったとされています。

【御前桜・しずか桜】
義経終焉の地とされる衣川、
及び静御前の墓と伝わる
埼玉県久喜市栗橋の「静女の墳」には
しずか桜が植えられています。
これは栃木県宇都宮市野沢の御前桜、
しずか桜が原木で、
この原木より接ぎ木して
現代に伝わったものであるとのことです。

【静御前の終焉の地について】

【鈴ヶ神社】
岩手県宮古市鈴久名にある鈴ヶ神社は、
静御前を祀る神社として
最北端となるようです。
源義経が平泉を抜け出して、
北海道に渡ったという
源義経北行紀の
経路箇所にあたります。
静御前はここで源義経の2人目の子を
出産しようとしますが、
難産のすえ、
母子ともに亡くなったということです。
地区の人たちは、静御前を尊び、
その後は神様として祀ったのが
鈴ヶ神社となります。
鈴久名の地名は静の訛りから
変化してできた地名ともいわれています。
神社のふもとには
静御前供養塔が建てられていますが、
これは近年になってから建てたものとのことです。




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【高柳寺】
かつて埼玉県久喜市栗橋区域にあった
高柳寺(現・茨城県古河市の光了寺)には
「巌松院殿義静妙源大姉」という
静御前の戒名があるとのことです。
その過去帳には
文治5年(1189年)9月15日に他界した、
とのことです。
埼玉県久喜市栗橋区域の伝説によりますと、
源義経を追ってきた静御前は
文治5年(1189年)5月、
現在の茨城県古河市下辺見(しもへいみ)で
源義経の死を知ったとのことです。
当時栗橋町にあった
高柳寺(現光了寺。古河市中田)
で出家しましたが、
慣れぬ旅の疲れから病になり
同年9月15日に亡くなったとのことです。
栗橋駅東口には静御前の墓と
源義経の招魂碑、
さらには生後すぐに源頼朝によって
殺された男児の供養塔があるそうです。
毎年9月15日には
「静御前墓前祭」と称する
追善供養が行われています。
また10月第3土曜の「静御前まつり」では
市民が源義経や静御前、白拍子などに
扮してパレードが行われるということです。

【静村】
埼玉県久喜市栗橋区域には、
かつて静村という村があったとのことです。

【しづの郷】
兵庫県淡路市志筑(しづき)は
かつてしづの郷と呼ばれたそうです。
静御前は鎌倉で
源義経との子を殺されましたが
命を助けられ、源頼朝の妹の夫である、
一条能保に預けられたということです。
一条家の荘園が志筑にあったため
ここに隠れ住み、建暦元年(1211年)の冬に
47歳で没したため、
供養として宝篋印塔が建てられたと伝えられています。

【磯野禅尼の里】
奈良県大和高田市の磯野は
磯野禅尼の里で、
静御前も母の里に戻って
生涯を終えたとする伝説が伝えられています。

【新潟県の静御前の墓】
新潟県長岡市栃尾地域(栃堀)にも、
静御前のものと伝えられる墓が存在しています。

【美女池・静御前堂】
福島県郡山市には、
源義経の訃報を聞いた静御前が
身を投げたと言われる美女池や、
その供養のために建立された
静御前堂があり、
静御前堂前の大通りは
静御前通りと名づけられています。
2005年には
静御前堂奉賛会により
鶴岡八幡宮の東の鳥居付近に
「静桜」が植樹されました。

【「静の桜」】
長野県大町市美麻大塩には、
静御前が奥州と大塩を間違えてたどり着き、
そこで亡くなりその時、
地面に刺さった杖から芽吹いたという、
イヌザクラの巨木「静の桜」があります。
別名「千年桜」ともいわれており、
山中深く美麻の丘に
一本佇む姿は「神聖な桜」とも伝えられ、
修行僧が静御前の魂を供養し、
千年桜より癒されたといわれています。
また、薬師寺には
勧融院静図妙大師という
静御前の戒名を記した墓と、
磯禅尼の供養碑もあるとのことです。

【福岡県にある静御前の墓】
福岡県福津市にも墓があります。
伝承によりますと、
落ち延びた静御前は、
豊後国・臼杵を経て
宗像氏能の計らいで、
勝浦村・勝田の地に移住し、
実子の臼杵太郎を産みました。
その息子が大分県の大友氏に仕い、
静御前は源義経を探しに
京都に上洛したということです。

【思案橋】
茨城県古河市下辺見には、
静御前が行き先を思案したとされる
思案橋という橋があります。




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【長尾寺】
香川県東かがわ市には
次のような言い伝えがあるそうです。
愛児を殺され、
生きる望みを失った静御前は
自殺を考えましたが、
母磯野を伴っていたため、
それも叶いませんでした。
文治3年8月、
母の故郷である讃岐国入野郷小磯
(現・東かがわ市小磯)へ母と共に帰ります。
文治4年3月、
讃岐国井閇郷高木
(現・香川県木田郡三木町井戸高木)
にある長尾寺において宥意和尚から得度を受けました。
剃髪後、母は磯野尼、静御前は宥心尼と
それぞれ名を改め、
薬師庵において
信仰の日々を送るようになったとのことです。
後年、母磯野尼は長尾寺への参詣の帰り、
井戸川の畔で寒さと老衰のため倒れ、
69歳で亡くなったとされています。
まもなく静御前も母の後を追うように
建久3年3月、源義経に逢うことなく
24歳の短い生涯を閉じたとのことです。
長尾寺には静親子が
剃髪したときに使用したとされる
剃刀を埋めた剃髪塚、
井戸川橋のある県道沿いには
母磯野尼の墓が、
昭和地区には静御前が
俗世への想いを断ち切るために、
吉野山で源義経から
形見としてもらった
紫檀の鼓(初音)を
井戸川橋に棄てたとされる「鼓ヶ淵」があります。
その他、小磯には静屋敷が、
三木町中代には静庵・静の本墓・位牌・
下女琴柱の墓があり、
同町下高岡の願勝寺にも
静の墓とされるものがあるとのことです。

【古典】
<舟弁慶>
源義経と静御前の別れを扱った能です。
のちに歌舞伎化もされました。

<賤の小田巻(賤の苧環)>
源頼朝に鶴岡八幡宮社前で
白拍子の舞を命じられた
場面を表した日本舞踊です。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
石橋静河(いしばし しずか)さんが演じられます。

源義経~戦略家且つ戦術家であった若き天才~その悲運な生き様はやがて伝説となった。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。

大姫~源頼朝と北条政子の長女~生涯をかけて愛を貫いた儚くも一本気な姫、静御前と心を通わせる

工藤佑経~復讐の連鎖の果てに~曽我兄弟の仇討の相手で後見人の伊東祐親に所領と妻を奪われてしまった人

菅谷館跡と鶴ヶ峰・二俣川の古戦場散策~畠山重忠公の足跡を訪ねて。

後白河院(後白河院天皇)(後白河法皇)「治天の君」の地位を保持した「日本一の大天狗」の異名をとる人物。

郷御前(里)~父は河越重頼で祖母は比企尼、源義経に寄り添い最期を共にした正妻です。

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