【織田信長】
織田 信長(おだ のぶなが、1534年⇒1582年)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名、天下人。
【人生】
織田信長は、織田弾正忠家の当主・織田信秀の子に生まれました。
小田信長は織田弾正忠家の家督を継いだ後、
尾張守護代の織田大和守家、
織田伊勢守家を滅ぼしました。
更に、弟の織田信行を排除して、
尾張一国の支配を徐々に固めていきました。
織田信秀とは 織田信長の父親~配下の清洲三奉行から戦国大名となり、信長に託す!
土田御前~織田信長の生母~信長を疎んじた理由とは?信長の側室・吉乃との繋がり、更には明智氏の家臣とも。
勝幡城~織田信長誕生の城、二重の堀に囲まれた館城で尾張の中近世史上、重要な城跡と見られています。
名古屋城~日本100名城、特別史跡、日本三大名城、名勝、金鯱、起源は今川氏が築城し織田信秀・信長が居城した那古野城でした。
お市~織田信長の自慢の妹、聡明で戦国一の美女と謳われた女性の激烈な人生。
五徳(徳姫)~織田信長の長女で徳川(松平)信康に嫁ぎ二人の娘が誕生、が夫と義母の罪状を出す。
末森城(尾張国)~織田信秀が東方防御の為に築城、小牧長久手の戦いで織田信雄が整備。
小牧山城(小牧城)~織田信長が初築城し、小牧・長久手の戦いでは徳川家康が本陣を置きました。
尾張・大野城~築城は一色氏でその後は佐治氏が4代支配、お江(崇源院)が佐治一成に嫁いできた城です。
柴田勝家~鬼柴田~武骨で勇猛果敢、幾多の戦を潜り抜け、潔く北ノ庄城にて死す
佐久間信盛~織田家筆頭家老として30年間織田家に身を粉にして仕えるも追放される。
池田恒興~織田信長とは乳兄弟で育ち幼馴染、最古参の家臣となり、長久手にて戦死します。
丹羽長秀~米五郎左~及び石田三成が城主となった佐和山城跡・龍潭寺
弘治2年(1556年)4月、長良川の戦い。
義父である斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いで敗死しました。
斎藤道三~晩年の足跡~鷺山城址・道三塚・常在寺、そして斎藤義龍(高政)
【桶狭間の戦い】
永禄3年(1560年)、
織田信長は桶狭間の戦いにおいて駿河の戦国大名・今川義元を倒しました。
そして、三河の領主・徳川家康(松平元康)と同盟を結びました。
今川義元~祝・生誕500年~足利一門の名門・海道一の弓取りと称された東海の覇者!
今川氏真~お坊ちゃま育ちで蹴鞠の名手、家は失えど強かに生き抜き明治まで子孫を繋ぎました。
桶狭間古戦場伝説地~国指定史跡、「桶狭間の戦い」の合戦が繰り広げられた伝説地です。
桶狭間古戦場公園~桶狭間の戦いの中心地の一つ、合戦当時の地形、城、砦がジオラマ化されています。
高徳院~桶狭間古戦場伝説地の横にあり、今川義元本陣及び墓、重臣の松井宗信の墓があります。
沓掛城~9代目城主の近藤景春の時、桶狭間の戦の為に今川義元本隊が出陣した城です。
大高城~松平元康(徳川家康)が兵糧を届け守備につき、本多忠勝が初陣及び元服しました。
徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!
善照寺砦~織田信長が今川義元との戦に備えて築いた三砦の一つです。
鳴海城~築城は足利義満の時代、戦国期は織田信秀から今川義元直轄となり、織田信長が手にする。
鷲津砦~織田信長が今川方の大高城と鳴海城の往来を遮断するために築いたとのこと。
丸根砦~織田信長が今川義元との争いの前線として 整備した砦とされています。
水野信元~徳川家康のかなり頼れる伯父だが、最期は織田信長から殺害命令が下る。
安祥城~織田・松平・今川で激しい戦闘が幾度もあった城で三河安祥之七御普代の発祥地。
清洲城~織田信長の天下統一への出発地、「清州同盟」「清州会議」と歴史上重要拠点となった天下の名城です。
永禄8年(1565年)、
犬山城の織田信清を破り尾張の統一を達成しました。
犬山城 ~現存天守12城・日本100名城・国の史跡で国宝、木曽川沿いの丘上にある美しい城です。
永禄の政変で室町幕府将軍足利義輝が殺害されました。
興聖寺と足利庭園~朽木氏岩神館跡~室町幕府12代将軍義晴、13代将軍・足利義輝の安全地帯
朽木元網~信長の窮地を助けた武将~高島七頭の一族の名門、現在も系統は続く
細川晴元~名門・細川吉兆家の血筋ゆえに覇権争いの波乱万丈の生涯となる
細川藤孝(細川幽斎)~武道・文芸・芸術・コミュ能力と多才多芸な武将~巧みに世を渡り、運も引き寄せる
【美濃攻略】
西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就)などを味方につけ、
永禄10年(1567年)には稲葉山城の戦いにて
斎藤氏の駆逐に成功しました。
そして、幕府再興を志す意を込めて、
「天下布武」の印を使用しました。
稲葉良通~稲葉一鉄・頑固一徹の語源である西美濃三人衆~多才な人物で信長に好かれる
岸信周・岸信房父子~中濃衆~妻も勇猛で往年の女武将の如く・堂洞城を枕に壮絶に散る
長井道利~中濃衆~義龍に父との決別を促し明智を滅ぼす・出目も最期もナゾ残す人物
氏家直元(氏家卜全)~西美濃三人衆~美濃国人衆の中で最大の勢力、次男は家康に惜しまれながらも大坂夏の陣で果てる
安藤守就~西美濃三人衆~娘婿は竹中半兵衛、最期は稲葉一鉄に滅ぼされる
佐藤忠能・佐藤忠康父子と娘の八重緑と加治田城攻防~織田信長の東美濃攻略~琵琶湖・百足退治も
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【伊勢侵攻】
永禄10年(1567年)
織田信長は北伊勢に攻め寄せ、
滝川一益をその地に配しています。
永禄11年、
北伊勢の神戸氏に三男の織田信孝を、
長野氏に弟の織田信良(信包)を養子とさせ、
北伊勢八郡の支配を固めています。
織田信雄~織田信長の次男、散々な目に遭うも長生きしその血筋は明治維新まで受け継がれました。
永禄11年(1568年)10月、
足利義昭とともに織田信長は上洛し、
三好三人衆などを撃破して、室町幕府の再興を果たしました。
足利義昭・最後の室町幕府将軍、懲りずに粘って兄の分まで生きる!歴代足利将軍の中で最も長生き!
【堺の直轄地化】
永禄12年(1569年)2月、
堺の商人・今井宗久の代官職を安堵して
自らの傘下に取り込むことで堺の支配を開始します。
そして翌年の元亀元年(1570年)4月頃、
松井を友閑を堺政所として派遣し、
松井友閑ー今井宗久(後に津田宗及・千利休が加わる)
を軸として堺の直轄地化を進めていきます。
【第一次信長包囲網】
第一次信長包囲網が起こります。
元亀元年(1570年)4月、
朝倉義景を討伐するため、越前国へ進軍します。
そして浅井氏が離反し、金ケ崎の戦いにて撤退します。
織田信長の撤退戦である金ケ崎退き口・古墳もあり平安時代から繰り返す金ケ崎古戦場跡
阿月~浅井家侍女、ある事とは「小豆袋」の逸話か?そして侍女「盛秀」伝説。
同年6月、姉川の戦いが起こり、
近江国姉川河原で徳川軍とともに
浅井・朝倉連合軍と合戦になり勝利します。
同年8月、織田信長は三好三人衆を討つべく出陣しますが、
石山本願寺が織田信長に対して挙兵しました。
更に浅井・朝倉連合軍3万が近江国坂本に侵攻します。
織田軍は重臣・森可成と信長の実弟・織田信治を失います。
聖衆来迎寺・森可成の墓~織田家の重臣で森乱丸(森蘭丸)の父~
【第二次信長包囲網】
元亀2年(1571年)9月、比叡山を焼き討ちします。
明智光秀・織田家臣初の築城許可の功績~比叡山延暦寺焼き討ち~
元亀3年(1572年)3月、
三好義継・松永久秀らが共謀して織田信長に敵対します。
同年7月、織田信長は嫡男・奇妙丸(後の織田信忠)を初陣させました。
同年11月14日、
織田方であった岩村城が開城し、
武田方に占拠されました。
武田信玄~風林火山の軍旗のもとに、戦に明け暮れ駆け抜けていった53年の人生でした。
同年12月、三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍が
武田信玄に敗れました。
三方ヶ原(三方原)古戦場~徳川家康の生涯において「伊賀越え」と並ぶ人生の危機となった戦です。
元亀4年(1573年)、野田城の戦いが起こります。
武田軍が遠江国から三河国に侵攻し、2月に野田城を攻略しました。
元亀4年(1573年)、足利15代将軍である足利義昭は
織田信長を見限ります。
元亀4年(1573年)4月12日、
武田信玄が病死します。
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【足利義昭を追放】
織田信長は足利義昭と敵対することとなり、
元亀4年(1573年)7月、
槇島城の戦いにて足利義昭を京都から追放しました。
槇島城・足利義昭が籠城し、室町幕府の実質的な終焉の地~忘却の城跡~巨船出現す!!
天正元年(1573年)8月、
細川藤孝に命じて、
淀城に立て籠もる三好三人衆の一人・岩成友通を討伐しました。
諏訪盛直(諏訪飛騨守)~明智光秀家臣~山崎の戦いでの激闘で華々しく散る!淀古城・京都諏訪氏とは?
【天下人への道】
将軍不在のまま中央政権を維持していく織田信長は、
天下人への道を進み始めました。
元亀から天正への改元を実現すると、
天正元年(1573年)中には
浅井長政・朝倉義景・三好義継を攻めて滅ぼすことに成功しました。
淀殿~母はお市で浅井三姉妹の長女、波乱万丈の人生を烈火の如く駆け抜けました。
お江(崇源院)~2代将軍・徳川秀忠の正室は浅井三姉妹の三女、波乱万丈な人生を送りその血筋は現代の皇室に繋がっています。
朝倉義景の墓~義景清水~孤独を纏う朝倉家最後の当主・戦よりも芸事と内政が得意
一乗谷館跡と朝倉氏~一乗谷朝倉氏遺跡・国の三重指定、103年間の栄華の跡
浅野長政~豊臣秀吉の姻戚で五奉行筆頭、政治面で手腕を発揮、関ヶ原では徳川家康を支持します。
【越前一向一揆】
天正2年(1574年)の正月、越前一向一揆。
朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、
地侍や本願寺門徒による反乱が起こり、
朝倉氏旧臣で織田信長によって
守護代に任命されていた桂田長俊が一乗谷で殺されました。
【長島一向一揆】
天正2年(1574年)7月、
織田信長と織田信忠は、織田信雄・滝川一益・九鬼嘉隆の
伊勢・志摩水軍を含む大軍を率い、
伊勢長島の一向一揆を水陸から完全に包囲しました。
信長の庶兄・織田信広ら織田方の有力武将が討ち取られました。
そして中江城、屋長島城に立て籠もった
長島門徒2万人に対して、
城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させています。
豊臣秀長~豊臣秀吉の実弟で右腕以上の存在、兄の天下統一に大きく貢献、惜しまれながら52歳で他界する。
【長篠の戦い】
天正3年(1575年)、長篠の戦いで武田氏に勝利しました。
右近衛大将に就任し、室町幕府に代わる新政権の構築に乗り出しました。
長篠城 (日本100名城)~城をめぐる激しい攻防戦で有名、国の史跡に指定されています。
長篠・設楽原の戦いの古戦場~織田・徳川連合軍と武田軍の決戦の地です。
奥平信昌~攻防最前線である奥三河の国人、徳川家康の娘婿となり、武田軍猛攻の中長篠城を死守する。
鳥居強右衛門~奥平家の家臣で長篠の戦いで英雄となった戦国時代の「走れメロス」
山県(飯富)昌景~武田家重臣の筆頭格で部隊の軍装「赤備え」が有名です。
穴山信君(穴山梅雪)~武田氏の家臣で御一門衆、信玄から厚い信頼がありましたが、勝頼の代になると裏切ります。
【越前への侵攻と統治】
天正3年(1575年)1月、
桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、
本願寺門徒では、内部分裂が起こっており、
越前国を一揆の持ちたる国としていました。
織田信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、
越前国に行軍しました。
そして、一説には12250人を数える
越前国および加賀国の門徒が織田軍によって討伐されました。
其の後、織田信長は、
越前八郡を柴田勝家に任せるとともに、
府中三人衆(前田利家・佐々成政・不破光治)
ら複数の家臣を越前国に配し、分割統治を行わせました。
今江城~加賀一向一揆出陣の城~時を経て織田軍との対戦し、落城する
不破光治・不破直光(不破彦三勝光)親子~戦国の世をしぶとくゆったりと生き抜く~
【事実上の「天下人」】
天正3年(1575年)11月4日、
織田信長は権大納言に任じられました。
11月7日には右近衛大将を兼任することになりました。
これで朝廷より「天下人」であることを、
事実上公認されたのでした。
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【安土城の築城】
天正4年(1576年)1月、
琵琶湖岸に安土城の築城を開始しています。
安土城は天正7年(1579年)に
五層七重の豪華絢爛な城として完成しました。
織田信長 人生の結晶~安土城~琵琶湖・水上ネットワークの完成
【第三次信長包囲網】
天正4年(1576年)1月、
織田信長に誼を通じていた丹波国の
波多野秀治が叛旗を翻しました。
さらに石山本願寺も再挙兵し、
再び反織田信長の動きが強まり始めます。
天正4年(1576年)、三瀬の変。
織田信長は北畠具教ら北畠家の一族を虐殺させました。
同時期に織田信長と協力関係にあった
関東管領の上杉謙信との関係が悪化します。
そして上卯木謙信や石山本願寺に続き、
毛利輝元・波多野秀治・雑賀衆などが
反織田信長に同調し、結託しました。
天正5年(1577年)2月、紀州攻め。
織田信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣し、
3月に入ると雑賀衆の頭領・鈴木孫一らを降伏させました。
天正5年(1577年)以降、
松永久秀、別所長治、荒木村重らが次々と
織田信長にそむいていきます。
【松永久秀の最期】
天正5年(1577年)8月、
松永久秀が織田信長に謀反を起こしました。
織田信忠率いる織田軍に攻撃され、
10月に信貴山城は陥落し、松永久秀は自害しました。
松永久秀~三好長慶に忠義を誓った人物~官僚であり武将として時代の中心で活躍するも信貴山城にて死す。
同年11月、手取川の戦い。
能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻しました。
織田軍は手取川において1000人余が討死し
渡河の際にも多数の行方不明者を出したという記録が
戦果を喧伝した上杉謙信の書状のみに記録されています。
その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、
北陸では上杉側が優位に立ちました。
【月岡野の戦い】
天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信が急死。
養子の上杉景勝と上杉景虎とで、
後に御館の乱と呼ばれる後継ぎ争いが勃発しました。
織田信長が斎藤利治を総大将に、飛騨国から越中国に侵攻し、
上杉軍に勝利し優位に立ち、全国の大名へ書状を送りました。
その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、
越中国にも侵攻する勢いを見せました。
そうしてまたもや信長包囲網は崩壊しました。
【織田軍団の結成】
織田信長は部下の武将に大名級の所領を与えて統治させ、
周辺の攻略に当たらせるようになりました。
美濃・尾張・飛騨の抑え・織田信忠・斎藤利治・姉小路頼綱
対武田方面・滝川一益・織田信忠軍団(天正元年結成)
対本願寺方面・佐久間信盛軍団(天正4年結成 – 天正8年消滅)
北陸方面・柴田勝家軍団(天正4年昇格)
近畿方面・明智光秀軍団(天正8年昇格)
山陰・山陽方面・羽柴秀吉軍団(天正8年昇格)
関東方面・滝川一益軍団(天正10年結成)
四国方面・織田信孝・津田信澄・丹羽長秀・蜂屋頼隆軍団(天正10年結成)
東海道の抑え・徳川家康(形式的には同盟国であり織田軍団の一部ではない)
伊勢・伊賀方面の抑え・織田信雄・織田信包
(紀伊方面の抑え・織田信張)
(引用元:ウキペディアより)
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【三木合戦】
天正6年(1578年)3月、三木合戦。
播磨国の別所長治の謀反による戦いが起こりました。
なお、天正8年(1580)1月、
別所長治が切腹し、三木城は開城となりました。
【上月城の戦い】
天正6年(1578年)7月、上月城の戦い。
毛利軍が上月城を攻略し、
織田信長の命により見捨てられた
山中幸盛ら尼子氏再興軍が処刑されました。
同年11月6日、九鬼嘉隆率いる織田水軍が、
毛利水軍に勝利し、本願寺への兵糧補給の阻止に成功しました。
【有岡城の戦い】
同年12月、有岡城の戦い。
荒木村重と残された女性や家臣たちの悲惨な最期~有岡城の戦い~
黒田長政~朝鮮出兵で活躍するも石田三成と対立、徳川方になり関ケ原では一番の功労者となる。
【丹波・丹後の平定】
天正7年(1579年)6月、
明智光秀による八上城包囲の結果、
波多野秀治が捕らえられ、処刑されました。
なお、明智光秀は同年中に丹波・丹後の平定を達成しています。
亀山城(丹波国)~明智光秀の丹波経営の拠点~やがて本能寺へ向かう
福知山城~初代城主は明智光秀~領民に慕われた証の御霊会、城代は婿で重臣の明智秀満
内藤如安~明智光秀の丹波攻め~ナゾに包まれた八木城と丹波内藤氏の栄枯盛衰
黒井城~丹波三大山城~250年間続いた中世から戦国時代の貴重な城郭
赤井直正~丹波の赤鬼・悪右衛門~光秀を追い詰めた武将、黒井城攻防と丹波平定
波多野三兄弟と八上城~七度の攻防戦があった城~光秀によって陥落、波多野氏とは?
【第一次天正伊賀の乱】
天正7年(1579年)9月、第一次天正伊賀の乱。
前年の天正6年(1578年)に伊勢国の出城・丸山城構築を
伊賀国の国人に妨害されて立腹していた織田信雄が
独断で伊賀国に侵攻しましたが、
織田信雄の家老である柘植保重が
植田光次に討ち取られるなど敗退しました。
織田信長は織田信雄を厳しく叱責し、謹慎を命じています。
【家康・嫡男である松平信康の切腹】
同じ年、織田信長は徳川家康の嫡男である
松平信康に対し切腹を命じたとされています。
理由は松平信康の乱行と松平信康の生母・築山殿が
武田氏への内通などを理由としたものであったと言われています。
徳川家康は織田信長の意向に従い、
築山殿を殺害し、信康を切腹させたということでした。
築山殿(瀬名)~徳川家康の正室で松平信康と亀姫の生母ですが、後に非業の死を遂げます。
松平信康~将来を有望されていた嫡男でしたが、築山殿と共に非業の死を遂げます。
【小田原北条氏の従属】
天正8年(1580年)3月10日、
関東の北条氏政から従属の申し入れがあり、
北条氏を織田政権の支配下に置きました。
【石山本願寺との決着】
天正8年(1580年)、
長きにわたった石山合戦に決着をつけました。
石山本願寺~11年にも及んだ石山合戦~織田信長VS本願寺顕如及び浄土真宗
天正8年(1580年)8月、
大坂本願寺戦争の司令官だった
佐久間信盛とその嫡男である佐久間信栄に対して、
織田信長は折檻状を送り付けました。
そして、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、
高野山への追放を命じました。
さらに、重臣の林秀貞をはじめ、
安藤守就とその子・定治、
丹羽氏勝らも追放の憂き目にあいました。
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【京都御馬揃え】
天正9年(1581年)2月28日、
京都で大規模な馬揃え(京都御馬揃え)を行い、
その勢威を誇示しています。
3月5日には再度、名馬500余騎をもって
織田信長は馬揃えを挙行しました。
更に8月1日の八朔の祭りの際、
織田信長は安土城下で馬揃えを挙行しました。こ
また、これには近衛前久ら公家衆も参加する行列であり、
安土城が武家政権の中心である事を
天下に公言するイベントととなったのでした。
織田信長・天下の奇祭「左義長まつり」がある日牟禮八幡宮、近江八幡の古社
【武田氏滅亡】
天正10年(1582年)、
甲州征伐を行い、武田勝頼を自害に追いやり武田氏は滅亡しました。
武田勝頼~甲斐源氏・戦国大名としての甲斐武田氏最後の当主、素質と環境が合わず悲劇が訪れます。
木曾義昌(木曽義昌)~妻は信玄の娘、武田勝頼を裏切った代償、やがて木曽から下総国阿知戸へ行きます。
恵林寺~1330年に開山された武田氏の菩提寺である臨済宗の古刹、庭園は国の名勝に指定されています。
【四国討伐の決定】
その後、織田信長は長宗我部元親討伐のために四国攻めを決定。
そして織田信長自身も毛利輝元ら毛利氏討伐のため、
中国地方攻略に赴く準備を進めていました。
けれども従来、長宗我部元親との取次役は
明智光秀が担当してきたので、
この四国政策の変更は明智光秀の立場を危うくするものでした。
石谷頼辰とは 明智光秀と長宗我部元親の関係を結ぶキーパーソン
【徳川家康への接待】
同年5月15日、駿河国加増の礼のため、
徳川家康が安土城を訪れました。
そこで織田信長は明智光秀に接待役を命じ、
明智光秀は15日から17日にわたって
徳川家康を手厚くもてなしたとあります。
織田信長の明智光秀に対する信頼は深かったとされています。
【光秀が信長に足蹴りされた話】
しかし一方で「フロイス日本史」によりますと、
織田信長が明智光秀に不満を持ち、
明智光秀彼を足蹴にしたと伝えています。
徳川家康への接待が続く中、
織田信長は備中高松城攻めを行っている
羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けています。
やがて、織田信長は明智光秀に
羽柴秀吉への援軍に向かうよう命じたとされています。
【信長の出立】
同年5月29日、
織田信長は未だ抵抗を続ける毛利輝元ら毛利氏に対する
中国遠征の出兵準備のため、
供廻りを連れずに小姓衆のみを率いて安土城から上洛し、
本能寺に逗留していました
徳善院玄以(前田玄以)~もとは僧侶、織田家の家臣から秀吉に仕え豊臣政権の五奉行となる。
【本能寺の変】
ところが、羽柴秀吉への援軍を命じていたはずの
明智軍が突然京都に進軍し、
天正10年(1582年)6月2日未明、
本能寺を襲撃したのでした。
織田信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で、
自害して果てたのでした。
享年は49歳、満年齢は48歳と伝わっています。
伊勢貞興~名門・伊勢宗家の若き武将で明智家重臣~二条城で織田信忠を攻める
美濃金山城跡~森蘭丸の生誕地~森可成・森長可・森乱丸(蘭丸)・森忠政と斎藤正義
崇福寺~岐阜城の麓~織田信長・織田信忠の霊廟があるところ、稲葉一鉄の修業の寺
西山本門寺・織田信長公の首塚~感銘を受けた富士山の麓で眠っています。
羽黒城~梶原景時の孫である梶原景親が築城し尾張梶原氏として存続するも「本能寺の変」にて殉じ、滅亡しました。
【織田信長の人となり】
【信仰】
熱田神宮のいわゆる「信長塀」は、
織田信長が桶狭間の戦いの戦勝の礼として
奉納したという伝承があります。
この熱田神宮や、津島神社、織田剣神社といった
織田氏と縁の深い神社に対しては、
織田信長は熱心に支援を行っていました。
また、織田信長は、
「南無妙法蓮華経」と書かれた軍旗を用い、
京都では法華宗寺院を宿所に選ぶなど、
一定の範囲で法華宗も信仰していた形跡が伺えるとのことです。
【武芸に励む】
信長は武芸の鍛錬に熱心でした。
若き日の織田信長は、馬術の訓練を欠かさず、
冬以外の季節は水泳にの励んでいたという伝えがあります。
更に兵法や弓術、砲術といった事柄を修めたとのことです。
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【趣味は多彩】
織田信長の趣味として、
茶の湯・相撲・鷹狩が知られています。
【茶の湯】
信長は茶の湯に大きな関心を示していました。
上洛後の永禄12年(1569年)以降、
名物茶道具を収集する
「名物狩り」を行うようになったとあります。
この名物狩りは、「東山御物」のような
足利将軍家由縁のものを集めることで、
織田信長自身の権威付けを
目的としたものであったと見られています。
こうして手に入れた茶道具は、
家臣に恩賞として与えられ、政治的な目的でも利用しました。
とはいえ、織田信長は茶の湯を政治的に利用しただけではなく、
純粋に茶の湯を楽しんでいた面もあるとのことでした。
【相撲】
相撲見物も好んだとされています。
当時、相撲の風習があったのは西国のみでした。
上洛以後、織田信長は相撲見物が大の好物となり、
「信長公記」によりますと、
安土城などで大規模な相撲大会を
たびたび開催していたとのことです。
相撲大会では、成績の優秀な者は褒美を与えていました。
沙羅には、青地与右衛門などのように
織田家の家来として採用されることもあったそうです。
具体的な一例として、
天正6年(1578年)8月に行われた相撲大会では、
織田信長は優秀な成績を収めた者14名を
それぞれ100石で召し抱え、
彼らには家まで与えたということでした。
【新しいことが大好き】
織田信長は新しいものに好奇心をもち、
イエズス会の献上した地球儀・時計など、
西洋の科学技術に関心を持っていたそうです。
また、ヴァリニャーノの使用人であった
アフリカ(現・モザンビーク)出身の黒人に
興味を示して譲り受け、
「弥助」と名付けて側近にしていました。
【行事に対して趣向を凝らす】
各種の行事の際には風変わりな趣向を凝らしていました。
正月に「左義長」として安土の町で
爆竹を鳴らしながら大量の馬を走らせのは有名です。
「フロイス日本史」や「信長公記」に記述が見られる通り、
またお盆に安土城に明かりを灯して楽しんでいたそうです。
その様子も詳細に記されており、
城下町には明かりをつけることを禁じる一方で、
安土城の天守のみを提灯でライトアップし、
さらに琵琶湖にも多くの船に松明を載せて輝かせ、
とても鮮やかな様子だったということでした。。
【安土城を有料で見学させる】
織田信長はこの安土城を他人に見せることを非常に好み、
他大名の使者など多くの人に
黄金を蔵した安土城を見学させていました。
特に、 天正10年(1582年)の正月、
安土城の内部に大勢の人々を招き入れて
存分に楽しませた後、織田信長自らの手で
客1人につき100文ずつ礼銭を取り立てたということです。
【織田信長の血液型は?】
従来、織田信長はずっとA型とされてきました。
けれども、その根拠となったものが
別人の可能性があるとの事で、
現在は不明であるともされています。
そして実はB型ではないかとの説もあるそうです。
これまでの史料の内容を鑑みますと、
A型かB型のどちからかな?とも思います。
逆にO型かAB型の可能性は
とても低いと思います。
ちなみに羽柴(豊臣)秀吉はO型です。
伊達政宗はB型です。
真田信繁(幸村)や武田信玄はA型です。
上杉謙信はAB型だった説が濃厚とのことです。
私は約10年間、仙台に住んでいました。
東北地方では実はB型は多いのです。
夫・義母・母型の祖母もB型です。
史料で見られる織田信長の性格や素行は、
どちらかというと殆どA型である
父方の親戚に近いものを感じます。
武田信玄に相通じる慎重さや残虐性や冷酷性も感じます。
昔の事を蒸し返す様や
ストイックさや生真面目さも
どことなく「A型」らしさを感じます。
なので自分としては
やっぱり「A型」だった説をとりたいですね。
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