【源頼家】
源 頼家(みなもとのよりいえ)は、
鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で
母は北条政子です。
(源頼朝の子としては第3子で次男、
政子の子としては第2子で長男となります)。
【源頼家の人生】
父親である源頼朝の急死により
18歳で家督を相続し、
鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、征夷大将軍となります。
若年の源頼家による従来の習慣を無視した
独裁的判断が御家人たちの反発を招き、
疎外された母方の北条氏を中心として
十三人の合議制がしかれることとなり、
源頼家の独断は抑えられたとされていますが、
当事者である北条氏の史書の記録のみでしか、
確認することができません。
そもそも、本当に独裁的であったのかもわかりません。
合議制成立の3年後、
源頼家は突然の重病に陥ったとされ、
源頼家の後ろ盾である比企氏と、
弟の源実朝を担ぐ北条氏との対立が起こります。
そして北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡してしまいました。
源頼家は将軍職を剥奪され、
伊豆国修禅寺に幽閉された後に、突然に暗殺されました。
源頼家追放により、
北条氏が念願であった(?)
鎌倉幕府の実権を握る事になるのでした。
【生誕】
寿永元年8月12日
(1182年9月11日)
【死没】
元久元年7月18日
(1204年8月14日)
享年23歳(満21歳没)
【改名】
万寿(幼名)、頼家
【別名】
鎌倉殿、左金吾
【墓所】
福地山修禅寺境内の指月ヶ丘
【幕府】
鎌倉幕府第2代征夷大将軍
(在任:1202年 – 1203年)
【氏族】
清和源氏(河内源氏)
【父】
源頼朝
【母】
北条政子
【兄弟】
千鶴丸、大姫、頼家、貞暁、乙姫、実朝
【妻】
若狭局、
昌寛女、足助重長女など
なお、「吾妻鏡」で若狭局は愛妾、
足助重長女は室と書かれていますが、
若狭局所生の一幡は
嫡子に等しい扱いを受けており、
誰が正室かははっきりしていないそうです。
【子】
一幡
公暁
栄実
禅暁
竹御所
【鎌倉殿の嫡男として】
寿永元年(1182年)8月12日、
源頼朝の嫡男として鎌倉比企ヶ谷の
比企能員の屋敷で生まれました。
幼名は万寿で、
母は源頼朝の流人時代に妻となった北条政子です。
源頼朝はこの時36歳、
鎌倉入り3年目にして待望の後継者男子として、
周囲の祝福を一身に受けての誕生であったそうです。
【鶴岡八幡宮若宮大路の段葛】
北条政子が頼家を懐妊した際、
源頼朝は安産祈祷のため
鶴岡八幡宮若宮大路の整備を行い、
有力御家人たちが土や石を運んで段葛を作り、
源頼朝が自ら監督を行ったとされてます。
【源頼家の乳母父】
頼家の乳母父には
源頼朝の乳母であった比企尼の養子である
比企能員が選ばれました。
乳母には最初の乳付の儀式に
比企尼の次女(河越重頼室)が呼ばれ、
梶原景時の妻の他、
比企尼の三女(平賀義信室)、
比企能員の妻など、
主に比企氏の一族から選ばれました。
・・・北条方は面白くなかった事でしょうね。
【頼家の鹿狩りを巡る頼朝と政子のすれ違い】
建久4年(1193年)5月、
富士の巻狩りで、12歳の源頼家が初めて鹿を射ると、
源頼朝は喜んで政子に報告の使いを送ります。
しかし政子は武将の嫡子なら
当たり前の事であると使者を追い返したのでした。
これについては、源頼家の鹿狩りは
神の使いである鹿を射止めたということは
神によって彼が源頼朝の後継者とみなされた事を
人々に認めさせる効果を持ち、
そのために源頼朝はことのほか喜んだのでしたが、
政子にはそれが理解できなかったとする解釈が
なされています。
なお、この巻狩りで曾我兄弟の仇討ちが起こり、
叔父の源範頼が頼朝に謀反の疑いを受けて
流罪となったのち誅殺されています。
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【政子、頼朝のそれぞれの思惑】
政子自身も女子でありながら、
子供の時から動物を追いかけ
普通に狩りを行っていたとの説があるので、
政子にとっては現実的に
「今更なに?」という気持ちだったのかもしれません。
政治的にも自分の後継者であると
内外に示したかった頼朝の行動ですが、
政子にとってみれば、
政治的にも私的にも大事な出産のときに
アナタいなかったじゃん!となるので
政子と頼朝のすれ違いがここでも
表れていたのかもしれませんね。
源頼朝にとっては源頼家が
自慢すべき息子であったことは
確かなようです。
【都で後継者としてのお披露目】
建久6年(1195年)2月、
源頼朝は政子と源頼家・大姫を伴って上洛します。
源頼家は6月3日と24日に参内し、
都で頼朝の後継者としての披露が行われました。
建久8年(1197年)、
16歳で従五位上右近衛権少将に叙任されました。
生まれながらの「鎌倉殿」である源頼家は、
古今に例を見ないほど
武芸の達人として成長していきます。
【第2代将軍として】
建久10年(1199年)1月13日、
父である源頼朝が急死しました。
源頼家は同月20日付けで左中将となり、
ついで26日付けで家督を相続し、
第2代鎌倉殿となりました。
この時18歳でありました。
1~2月頃には武士達が大勢京都に上り、
急な政権交代に乗じた
都の不穏な動きを警戒する
態勢が取られており、
この間に三左衛門事件が発生しています。
【三左衛門事件】
三左衛門事件(さんさえもんじけん)は、
源頼朝急逝直後の
正治元年(1199年)2月、
一条能保・高能父子の遺臣が
権大納言である土御門通親の襲撃を企てたとして
逮捕された事件です。
なお「三左衛門」とは、捕らえられた
後藤基清、中原政経、小野義成が
いずれも左衛門尉であったことに
由来しているとのことです。
三左衛門は鎌倉に護送されましたが、
鎌倉幕府が身柄を受け取らなかったため
京都に送還されました。
後藤基清は讃岐守護職を解かれましたが、
他の2名の処分は不明です。
騒動に関連があるとして、
西園寺公経と持明院保家は籠居となり、
源隆保は土佐、
源頼頼朝が依を受けていた僧である
文覚は佐渡へそれぞれ配流となりました。
なお「平家物語」によりますと、
文覚が保証人となることで
一命を救われていた六代
(平維盛の子で平清盛の直系の曾孫)が、
この時に処刑されたということです。
「愚管抄」によりますと、
一条能保・高能父子が相次いで没し、
更に最大の後ろ盾だった源頼朝を失ったことで
主家が冷遇される危機感を抱いた
一条家の家人が、
形勢を挽回するために
土御門通親襲撃を企てたということです。
【13人の合議制】
源頼家が家督を相続して3ヶ月後の4月、
北条氏ら有力御家人による
十三人の合議制がしかれ、
源頼家が直に訴訟を裁断することは停止されました。
これに反発した源頼家は
小笠原長経、比企宗員、比企時員、中野能成
以下若い近習5人を指名して、
彼らでなければ
自分への目通りを許さず、
またこれに手向かってはならないという
命令を出したのでした。
また正治元年(1199年)7月、
小笠原、比企、中野、和田朝盛らに対して、
安達景盛(安達盛長の嫡男)の留守を狙い、
その愛妾を召し連れて来るように命じたとのことです。
この辺りの「吾妻鏡」には、
源頼家が側近や乳母一族である比企氏を重用し、
従来の習慣を無視した
独裁的判断を行った挿話が並べられています。
(・・・・果たしてこれらの挿話の真意のほどは?)
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【梶原景時の変、勃発】
合議制の設立から半年後の10月、
源頼朝の代から側近として
重用されていた侍所長官である
梶原景時に反発する御家人たちにより、
御家人66名による梶原景時糾弾の連判状が
源頼家に提出されました。
源頼家に弁明を求められた梶原景時は、
何の抗弁もせず所領に下ります。
謹慎ののち、鎌倉へ戻った梶原景時は
政務への復帰を源頼家に願います。
けれども源頼家は梶原景時を救う事が出来ず、
梶原景時は鎌倉追放を申し渡されたのでした。
正治2年(1200年)1月20日、
失意の梶原景時は一族を率いて
京都へ上る道中で
在地の御家人達から襲撃を受け、
一族もろとも滅亡したということです。
九条兼実の「玉葉」正治2年正月2日条によりますと、
梶原景時は源頼家の弟である
千幡(のちの源実朝)を将軍に立てようとする
陰謀があると源頼家に報告し、
他の武士たちと対決したものの、
言い負かされ一族とともに
追放されたということです。
また慈円は「愚管抄」で、
梶原景時を死なせた事は
源頼家の失策であると評したとのことです
【城氏一族の乱】
建仁元年(1201年)正月から5月にかけて、
梶原景時与党であった
城氏一族が建仁の乱を起こして鎮圧されました。
源頼家は、捕らえられて鎌倉に送られてきた
城氏一族の女武者・板額御前を引見しています。
【板額御前(はんがくごぜん)】
城氏は越後国の有力な平家方の豪族でしたが、
治承・寿永の乱を経て没落しました。、
板額御前は、反乱軍の一方の将として奮戦したとのことです。
「吾妻鏡」によりますと、
「女性の身たりと雖も、百発百中の芸殆ど父兄に越ゆるなり。
人挙て奇特を謂う。この合戦の日殊に兵略を施す。
童形の如く上髪せしめ腹巻を着し矢倉の上に居て、
襲い到るの輩を射る。中たるの者死なずと云うこと莫し」
と書かれています。。
最終的には捕虜となり、反乱軍は崩壊し、
板額御前は鎌倉に送られ、
2代将軍・源頼家の面前に引き据えられます。
が、その際全く臆した様子がなく、
幕府の宿将達を驚愕せしめた、とのことです。
この態度に深く感銘を受けた
甲斐源氏の一族で
山梨県中央市浅利を本拠とした浅利義遠(義成)は、
源頼家に申請して彼女を妻として
貰い受けることを許諾されたとのことです。
その後、一男一女をもうけたということです。
浅利義遠が本拠とした山梨県中央市浅利に近い
笛吹市境川町小黒坂には
板額御前の墓所と伝わる板額塚があります。
容姿に関して「吾妻鏡」では
美人の範疇に入ると表現されているとのことです。
が、後世では不美人扱いされ、
更に江戸時代には
浄瑠璃・歌舞伎上の人物となりましたが、
醜女の蔑称になってしまいました。
武勇に優れた女子へのひがみなのでしょうか?
特に江戸時代以降は、
女子への偏見が強くなってしまった
時代でもあったようですから。
源頼家が板額御前と面会した時、
外見だけではなく
内面からもくる「強さ」というものを
自分の母である「政子」と
重なった部分があると思った事でしょうね。
【征夷大将軍】
建仁2年(1202年)7月22日、
従二位に叙され、征夷大将軍に宣下されました。
【叔父の阿野全成を殺害】
梶原景時滅亡から3年後の建仁3年(1203年)5月、
源頼家は千幡(源実朝)の乳母である阿波局の夫で
父方の叔父でもある阿野全成を
謀反人の咎で逮捕、殺害しました。
さらに阿波局を逮捕しようとしましたが、
阿波局の姉妹である政子が引き渡しを拒否しました。
【源頼家、危篤状態に】
阿野全成事件前の3月頃から
体調不良が現れていたとされる源頼家は、
7月半ば過ぎに急病にかかり、
8月末には危篤状態に陥りました。
(毒でも盛られ続けられていたのでしょうか?)
【頼家の危篤は計略通り?】
鎌倉はまだ源頼家が存命しているにも関わらず、
「9月1日に源頼家が病死したので、千幡が後を継いだ」
との虚偽の報告が9月7日早朝に都に届き、
千幡の征夷大将軍任命が要請された事が、
藤原定家の日記「明月記」の他、
複数の京都側の記録で確認されています。
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【比企能員の変】
使者が鎌倉を発った前後と思われる9月2日、
鎌倉では源頼家の乳母父で
長男・一幡の外祖父である
比企能員が北条時政によって謀殺され、
比企一族は滅ぼされています。
【北条時政が実権を握る】
一人残った源頼家は多少病状が回復して
事件を知り激怒します。
北条時政討伐を命じるものの、
これに従う者はなく、
9月7日に鎌倉殿の地位を追われ、
弟の千幡がこれに替わったのでした。
これによって北条時政は
鎌倉幕府の実権を握る事になったのでした。
【「吾妻鏡」による比企能員の変への流れ】
「吾妻鏡」によりますと、
「頼家が重病のため、あとは6歳の長男・一幡が継ぎ、
日本国総守護と関東28ヶ国の総地頭となり、
12歳の弟・千幡には関西38ヶ国の
総地頭を譲ると発表された」とのことです。
このように千幡に譲られる事に
不満を抱いた比企能員が、千幡と北条氏討伐を企てた、
とあります。(8月27日条)
「病床の頼家と能員による北条氏討伐の密議を
障子の影で立ち聞きしていた政子が時政に報告し、
先手を打った時政は自邸に能員を呼び出して殺害、
一幡の屋敷を攻め、
比企一族を滅ぼし一幡も焼死した」(9月2日条)としています。
【京都側の記録「愚管抄」では】
京都側の記録である「愚管抄」では、
源頼家は大江広元の屋敷に滞在中に
病が重くなったので自分から出家し、
あとは全て子の一幡に譲ろうとしていました。
これでは比企能員の全盛時代になると
恐れた北条時政が比企能員を呼び出して謀殺し、
同時に一幡を殺そうと軍勢を差し向けました。
一幡はようやく母親が抱いて
逃げ延びることができましたが、
残る一族は皆討たれてしまいました。
やがて回復した源頼家はこれを聞いて憤慨し、
太刀を手に立ち上がったものの、
政子がこれを押さえ付け、
其の後修禅寺に押し込めてしまったのでした。
11月になって一幡は捕らえられ、
北条義時の手勢に刺し殺されたということです。
【最期】
源頼家は伊豆国修禅寺に護送され、
翌年の元久元年(1204年)7月18日、
北条氏の手兵によって殺害されました。
享年は23歳ですが、満年齢では21歳でした。
「吾妻鏡」でははその死について、
ただ飛脚から頼家死去の報があった事を短く記すだけです。
(7月19日条)。
ですが殺害当日の日付の「愚管抄」によると、
生々しく残虐なモノでした。
祖父の源義朝と同じく入浴中を襲撃され
激しく抵抗した頼家の首に紐を巻き付け、
急所を押さえてようやく刺し殺したということです。
「修禅寺にてまた頼家入道を刺殺してけり。
とみに、えとりつめざりければ、頸に緒をつけ、
ふぐりを取りなどして殺してけりと聞えき。」
源頼家は武芸の達人です。
病で弱っていたとはいえ、
また入浴中とはいえ、
かなり手ごわかったのでしょう。
それゆえ、残酷な描写で
最期を迎える羽目となったのでしょうか。
それにしてもひどすぎますね。
【伊豆市修善寺にある源頼家の墓】
建仁2年(1202年)に
建仁寺(京都市東山区)を建立し、
その寺には江戸時代に作られた
源頼家の木造が安置されています。
三嶋大社には建仁3年(1203年)に
突如発病した際、
その平癒を祈願した
自筆の般若心経が奉納されています。
幽閉された伊豆市修善寺には
政子が源頼家の供養のために建てた指月殿、
江戸時代に建立された源頼家の供養塔などがあります。
【修善寺でのエピソード】
源頼家が修善寺にいた頃のエピソードがあるそうです。
<1.子供の面倒見が良い>
近隣の子供達と付近の山々を遊びまわったりして
子供の面倒見は良かったとのことでした。
後年、地元の有志によって
子を思う源頼家を偲んだ
将軍愛童地蔵尊が建てられています。
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<2.修禅寺に伝わるお面>
岡本綺堂が新歌舞伎の傑作
「修禅寺物語」を書くきっかけとなった面、
「頼家の仮面」と称する奇妙な面が
修禅寺にあります。
詳細は不明ということで
そのまま寺宝として伝わっています。
寺伝によりますと、
源頼家は鎌倉の付き人の策略で
漆が入れられた風呂に無理やり入浴させられ、
その為、全身が漆で被れて
膨れ上がったということです。
その時の面相を政子に見せるために
作られたものだということです。
・・・事実であるかは
わかりませんが、何とも
胸やけがするようなイヤなエピソードです。
我が子ですよ、政子にとっては。
政子がこんな面を見て喜ぶでしょうか?
むしろ逆でしょうに。
苦しんで悲しむでしょうに。
あ、一人だけ喜びそうな人物がいますね・・・。
ま、牧の方・・・。
<3.修禅寺物語>
夜叉王(やしゃおう)という面作りの名人が、
伊豆修善寺・桂川のほとりの
古びた藁葺きの家に、
二人娘(姉かつら、妹かえで)と
かえでの婿春彦とともに暮らしていました。
そこに源頼家が訪れます。
自分の面体を後世に残したいと思った源頼家は、
自分に似せたる面を作れと
夜叉王に命じたのでした。
けれども何度作っても、死に面相となり
中々完成させることができません。
依頼から半年ほど経ったある晩の事。
源頼家は催促のために夜叉王の処に訪ねます。
夜叉王は死相が面に出てしまうので
お渡しできないと断ると、
源頼家は激怒して夜叉王を斬ろうとします。
それを止めるように二人の間に入った娘の桂。
桂は死相が入った面を源頼家に渡します。
やがて桂は源頼家の側女となります。
その後、源頼家は北条方の刺客によって
命を落とします。
頼家の身代りとなって、
頼家の面をつけて奮戦した桂も
斬られ、瀕死の状態となって
やっとの思いで実家にたどり着きます。
夜叉王はその時悟ったのでした。
死相が何度も現れたのは、
決して自分の技量が劣っているのではなく、
頼家の運命を予兆していた故であったことを。
夜叉王は瀕死の娘の顔を写し取ろうとしたのでした。
【頼家祭り】
修善寺温泉街では、毎年7月に頼家祭りが行われています。
【源頼家のこどもたち】
源頼家には四男一女がいましたが、
4人の男子は皆非業の死を遂げています。
嫡男の一幡は建仁3年(1203年)、
比企能員の変で北条氏に殺害されました。
残された男子(いずれも異母弟)は
それぞれ出家しましたが、
母が三浦胤義と再婚した三男の栄実は、
建保2年(1215年)の泉親衡の乱に擁立されて
自害に追い込まれています。
三浦義村に預けられたのち、
叔父の貞暁の受法の弟子となった
次男の公暁は建保7年(1213年)に
実朝暗殺を実行した直後に討たれています。
四男・禅暁は公暁に荷担したとして
承久2年(1220年)に北条氏の刺客によって
京で殺害されています。
女子の竹御所(一幡と同母妹)は
祖母である政子のもとにいました。
北条氏が擁立した
4代将軍・藤原頼経の御台所となりますが、
天福2年(1234年)
33歳で迎えた初産が難産となり、
男子を死産した後に死去しました。
叔父の源実朝同様、
源頼家の子供たちも子を生さぬまま
早世したため、竹御所の死によって、
源頼朝と政子の血筋は完全に断絶したのでした。
【断絶させた真犯人は?】
うーむ、出来すぎていますね。
彼らの正統である血筋が生きていると、
やがては
正統ではないのに権力を独占したい
ある者たちを脅かす存在になるので、
それを恐れた者が用意周到に
始末していったのでは?
と思います。
一気にやると逆に怪しまれるので、
疑いをもたれないように、
始末する正当な理由までつけて・・。
【「吾妻鏡」の源頼家像】
北条氏の編纂である「吾妻鏡」における源頼家像は、
遊興にふけり家来の愛妾を寝取る暗君として
描かれています。
ただし比企氏滅亡と源頼家追放に関する
「吾妻鏡」の記述は、
京都側の史料とは明らかな相違があり、
源頼家をことさら貶める記述は
北条氏による政治的作為と考えられています。
【常に監視の目が光っていた?】
源頼家近習であった
信濃国の御家人である中野能成は、
「吾妻鏡」では源頼家に連座して
所領を没収され遠流とされた事になっていますが、
「市河文書」に残されている書状では、
比企氏滅亡直後の
建仁3年(1203年)9月4日の日付で
北条時政から
「比企能員の非法のため、所領を奪い取られたそうだが、
とくに特別待遇を与える」
という所領安堵を受けています。
この中野能成と深い関係のあった
北条時政の子である北条時房も
源頼家の蹴鞠の相手となっており、
源頼家の周辺には北条氏による
監視の目があったと見られています。
【朝廷の反幕府派】
源頼朝死去の前後、建久七年の政変や
三左衛門事件により
朝廷の反幕府派が攻勢を強めていました。
十三人の合議制がしかれたのは、
源頼家が源頼朝の跡を継いで
わずか3ヶ月後であるので
このことから
源頼家の政治能力の欠如によるもの、
とは判断が出来かねます。
【源頼家排斥の黒幕は?】
源頼家排斥は北条氏の陰謀のみではなく、
幕府成立の起動力となった
東国武士達の将軍独裁への鬱積した不満が
背景にあったと考えられています。
十三人の合議制の導入と
同じ月に行われた問注所の移転に関する
「吾妻鏡」の記事にも
矛盾点があると専門家からの指摘があるとのことです。
源頼家が行ったとされる
独裁的な親裁は実は頼朝時代からのもので、
「吾妻鏡」において源頼朝と御家人の間で
対立が生じていたのを隠す曲筆が行われた結果、
源頼家の行為だけが
記録されたとする見解もあるそうです。
【私的見解・東国武士とは?】
源頼朝が完全に東国武士を
統括できなかったのでしょうね。
東国武士はそれでなくとも
西の人々には
さんざん侵略され、搾取されてきたし。
源氏も元々は東国武士にとっては、
侵略者の犬扱いでした。
だから自分たちで守るのです。
親が討たれても、子供が討たれても
自分が生きている限りは戦うのです。
だから強くなる。
東北育ちの自分は
小学校の歴史の時に習いました。
源頼朝を支えた有力御家人たちも
自分たちの事で精一杯で大局的な見方が
まだできなかったのでしょう。
北条一族や比企一族も結局は
自分ガー自分ガーの人たちにしか見えない。
でもこれは東国武士が初めて
手にするであろう「権力」だったと考えれば
自分ガーとなっても仕方のないことかもしれません
貴族社会から権力を武士社会に移した
序盤ですからね、この時代は。
【暗君ではないから殺された可能性】
源頼家は為政者としては
殆ど特色を示せないまま、
或いは示せないように妨害され
やがて殺されました。
最も、暗君であったならば生かして
神輿として担がれたかもしれません。
排斥され、残虐に殺された、ということは
実は有能であった証拠だと思うのです。
源頼家とある人物が重なります。
足利幕府13代将軍の足利義輝です。
この時代になってもまだ繰り返される悲劇・・。
【執権政治及び得宗専制へ】
それ以降は御家人達による
泥沼の権力闘争が続く事になっていきます。
そして数代を経て有力御家人達が
合従連衡を繰り返して滅びていく中、
権力闘争を勝ち残っていった
北條氏の権力が次第に特出し、
執権政治及び得宗専制となっていくのです。
2022年NHK大河ドラマ
「鎌倉殿の13人」では
金子大地(かねこ だいち)さんが演じられます。
河内源氏の栄枯盛衰~形成から興隆、衰退、初の武家政権となった鎌倉幕府と次の室町時代。
源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。
つつじ(辻殿)~源頼家の正室で「吾妻鏡」では公暁の生母、父は足助重長、祖父は源氏の勇者と名高い源為朝です。
土御門通親~村上源氏の嫡流で九条兼実を失脚させ、やがては朝廷政治を掌握します。
平賀義信~源氏御門葉及び御家人筆頭として権勢を誇る。平賀氏は2つの系統があります。
平知康~後白河法皇からの信任篤き人物でしたが木曾義仲、源義経、源頼家と源氏との相性はイマイチでした。
北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。
梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。
梶原景季~梶原景時の嫡男で治承・寿永の乱や宇治川の先陣争い、箙に梅花の枝など軍記で華やかな逸話がある人物。
北条義時~鎌倉幕府2代執権~冷酷無情・現実を客観視して行動できる理想家なのか?
北条時房~初代連署で六波羅探題南方、北条義時の弟で甥の北条泰時とは最高の相棒であり好敵手でした。
足立遠元~十三人の合議制のメンバー、平治の乱で活躍し、東国武士ながらも文官の素養を持つ人物でした。
三善康信~鎌倉幕府の初代問注所執事で母は源頼朝の乳母の妹です。問注所とは裁判機関のことです。
二階堂行政、13人の合議制のメンバーで初期の鎌倉政権を支えた実務官僚でした。
指月殿~伊豆で最古の木造建築~北条政子が我が子である源頼家の菩提所として建立。
若狭局~比企一族で源頼家の妻で一幡と竹御所の母~大蛇となり比企ヶ谷を護る存在となった。
竹御所・源媄子(源鞠子)~源頼朝の孫で幕府の権威の象徴だったが赤子と共に散る
慈円~歴史書「愚管抄」の著者で九条兼実は同母兄、天台座主を務め小倉百人一首にも選出されています。
一幡~一幡之君袖塚~源頼家の長男として誕生するもわずか6歳で人生の幕を閉じる。
比企能員~源頼朝を支え有力御家人として権勢を握るも北条氏に嵌められ1日で滅ぶ。
比企尼~源頼朝の乳母~ずっと支え続けた偉大なゴッドマザーで鎌倉幕府創立の陰の功労者。
比企朝宗~比企一族で源頼朝と朝廷に仕えており才色兼備である姫の前の父親です。
比企能員の妻~渋河刑部丞兼忠の娘・「鎌倉殿の13人」では道、二つの渋河氏、比企氏と源氏の深い関係と安房国
1分でわかる姫の前~北条義時の正室、源頼朝お気に入りの女官で絶世の美女だが、比企一族の乱で離縁。
源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく
阿野全成~源頼朝の異母弟で源義経の同母兄~妻の実家側について甥の源頼家とやがて対立する。
大姫~源頼朝と北条政子の長女~生涯をかけて愛を貫いた儚くも一本気な姫、静御前と心を通わせる
三幡(乙姫)~源頼朝と北条政子の次女、父親と同じ年に14歳にて早世した姫
源実朝~3代将軍にて天才歌人~繊細で思慮深く秘めた志あり、やがて雪の中に散っていく。
源仲章~後鳥羽院の廷臣であり鎌倉幕府の在京御家人という二重スパイ的立場で実朝と共に散ります。
加賀美遠光~甲斐源氏で武田信義の叔父又は弟、小笠原氏・奥州南部氏の祖でもあります。
大弐局 ~加賀美遠光の娘で兄弟には小笠原氏・南部氏がおり、源頼家・源実朝の養育係を務めた女性です。
八田知家~小田氏の始祖であり十三人の合議制の一人で源氏4代に仕えた人物です。
浅利与一義成(浅利義遠)~甲斐源氏の一族で弓の名手であり武田信義・加賀美遠光とは兄弟です。
海野幸氏~弓馬の宗家と讃えられ曾我兄弟の仇討ちの際には源頼朝の護衛役、滋野氏の嫡流の家柄です。
牧の方~北条時政を操り?陰謀を巡らせジャマな将軍や御家人たちを消したヤバすぎる人
北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。
結城朝光~誇り高く抜け目ない政治力と巧みな弁舌で鎌倉幕府に重きを成していきます。
阿波局(北条時政の娘)~梶原一族滅亡の火付け役?夫は源頼朝の弟で源実朝の乳母だが姉同様に我が子を失う
泉親衡(泉小次郎)~泉親衡の乱は和田一族の炙り出し?泉小次郎館跡と小次郎馬洗いの池が泉区にあります。
北条泰時~道理の人~北条執権政治の中興の祖で御成敗式目を制定した。
亀の前~頼朝が流人時代から寵愛していた女性~そして政子の諸事情について
巴御前~強弓の名手で荒馬乗りの美貌の女武者、常に木曾義仲の傍にいたが最期の時だけは叶わず。
板額御前~鎌倉時代初期に実在した女武将、後に弓の名手の浅利与一の妻になりました。
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