武田氏

武田信玄~風林火山の軍旗のもとに、戦に明け暮れ駆け抜けていった53年の人生でした。

武田信玄公の像



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武田信玄

武田 信玄(たけだ しんげん) /
武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、
戦国時代の武将、甲斐の守護大名戦国大名
武田氏は清和源氏の中の河内源氏系の
新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の棟梁です。
武田氏は甲斐守護も務め、
武田信玄は第16代当主に当たります。
諱は晴信、通称は太郎(たろう)。
正式な姓名は源 晴信(みなもと の はるのぶ)。
「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。

【概要】
甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家
第18代・武田信虎の嫡男です。
先代である信虎期に武田氏は
守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、
武田信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻します。
その過程で越後国の上杉謙信長尾景虎)と
五次にわたると言われる川中島の戦い
抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、
甲斐本国に加え信濃・駿河・西上野
および遠江・三河・美濃・飛騨
などの一部を領しました。
次代の勝頼期にかけて
領国をさらに拡大する基盤を築いたものの、
西上作戦の途上に三河で病を発し、
信濃への帰還中に病没しました。

【出生】
大永元年(1521年)11月3日、
甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として生まれました。
母は西郡の有力国人大井氏の娘・大井夫人。
幼名は太郎です。
武田信玄の出生は信虎による
甲斐統一の達成期にあたり、
生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として
知られる要害山城、または積翠寺です。
武田信虎は駿河国今川氏を後ろ盾とした
甲府盆地西部(西郡)の
有力国衆大井氏と対立していました。
大永元年(1521年)10月には
今川家臣の福島正成率いる軍勢が
甲府に迫り、武田信虎は
甲府近郊の飯田河原合戦において
福島勢を撃退しています。
この際、既に懐妊していた大井夫人は
詰城である要害山へ退いていたといわれ、
武田信玄は要害山城において
出生したということです。

要害山城

【国内統一化が進む】
また、甲斐国では上杉禅秀の乱を契機に
守護武田氏の権威が失墜し、
有力国衆が台頭していました。
武田信玄の曾祖父にあたる
武田信昌期には
守護代跡部氏を排斥するなど、
国衆勢力を服従させて
国内統一が進んでいました。
武田信昌期から
父の信直(後の信虎)期には
武田宗家の内訌に
新たに台頭した有力国衆・対外勢力の争いが関係し
甲斐は再び乱国状態となりますが、
武田信虎は甲斐統一を達成し、
永正16年(1519年)には
甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした
城下町(武田城下町)を開府。
家臣団組織が整備され、
戦国大名として武田氏の地位が
確立されていました。




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傅役は不明ですが、
甲陽軍鑑」では譜代家臣板垣信方
傅役であった可能性を示しています。
土屋昌続の父、金丸筑前守も
傅役であったと伝わっています。

【武田氏の嫡男となる】
大永3年(1523年)、
兄の竹松が7歳で夭折した為、嫡男となりました。

【弟・武田信繁誕生】
大永5年(1525年)、
父である武田信虎と大井夫人との間に
弟・次郎(武田信繁)が生まれました。
「甲陽軍鑑」では、
父の寵愛は次郎に移り、
太郎を徐々に疎むようになったと言うことです。

【北条方との抗争】
武田信虎後期には駿河今川氏との和睦が成立。
関東地方において相模国の新興大名である
小田原北条氏と敵対していた
扇谷上杉氏と結び、
領国が接する甲斐都留郡において
北条方との抗争を続けていました。

【正室と子の死去】
天文2年(1533年)、
扇谷上杉家当主で
武蔵国川越城主である
上杉朝興の娘・「上杉の方」が
武田晴信の正室として迎えられました。
これは政略結婚ですが、
武田晴信との仲は良かったと
伝えられています。
けれども、天文3年(1534年)に
出産の折、難産で上杉の方も子も死去しました。

【元服】
天文5年(1536年)3月、
太郎は元服して、室町幕府の第12代将軍である
足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、
名を晴信と改めました。
官位は従五位下・大膳大夫に叙位・任官。
元服後に継室として
左大臣・三条公頼の娘である
三条夫人を迎えています。
この年には駿河で今川氏輝が死去し、
花倉の乱を経て今川義元が家督を継いで
武田氏と和睦しており、
この婚姻は京都の公家と緊密な
今川氏の斡旋であったとされています。
「甲陽軍鑑」では輿入れの記事も見られ、
武田晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり、
勅使は三条公頼としていますが、
家督相続後の今川義元と武田信虎の同盟関係が
不明瞭である時期的問題から疑視もされています。

【初陣】
武田信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し、
信濃国佐久郡侵攻を進めていましたが、
武家の初陣は元服直後に行われていることが多く、
「甲陽軍鑑」では武田晴信の初陣は
天文5年(1536年)11月、
佐久郡海ノ口城平賀源心攻め
であるとしています。
「甲陽軍鑑」に記される武田晴信が
城を一夜にして落城させたという伝承は
疑問視されていますが、
時期的にはこの頃であると考えられています。




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【武田信虎の甲斐追放】
武田晴信は武田信虎の信濃侵攻に従軍し、
天文10年(1541年)の
海野平の戦いにも参加しています。
「高白斎記」では、
甲府へ帰陣した同年6月には、
武田晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、
飯富虎昌らによる
武田信虎の駿河追放が行われ、
武田晴信は武田家の
第16代目の家督を相続します。
けれどもこの直後に上杉憲政
信濃佐久郡を掠め取られます。

【信濃諏訪領への侵攻】
武田信虎期の武田氏と敵対している勢力は
小田原北条氏のみで、駿河国今川氏、
上野国山内上杉氏・扇谷上杉氏、
信濃諏訪氏と同盟関係を持ち、
武田信虎末期には
信濃佐久郡・小県郡への
出兵を行っていました。
武田晴信は家督を相続すると
武田信虎路線からの変更を行い、
信濃諏訪領への侵攻を行います。

【諏訪平定】
天文11年(1542年)3月、
瀬沢の戦いがありました。
なお異説があります。
天文11年(1542年)6月、
武田晴信は諏訪氏庶流である
伊那の高遠頼継とともに
諏訪領への侵攻を開始し、
桑原城の戦いで諏訪氏は
和睦を申し入れ、
諏訪頼重を甲府へ連行して
自害に追い込み、諏訪領を制圧しています。
天文11年(1542年)9月25日、
武田軍と高遠頼継軍が
信濃国宮川で戦いました。
武田方はこれを撃破して諏訪を掌握しました。

【伊那平定】
天文12年(1543年)、
武田方はさらに信濃国長窪城主である
大井貞隆を攻めて、自害に追い込みました。

天文14年(1545)4月、
上伊那郡の高遠城に侵攻して
高遠頼継を滅ぼし、
続いて6月には
福与城主である藤沢頼親を追放しました。

高遠城址

【小田原北条氏との和睦】
天文13年(1544年)、
父である武田信虎時代は
対立していた小田原後北条氏と和睦し、
その後も天文14年の今川氏と
小田原北条氏の対立(第2次河東一乱)を仲裁して、
両家に大きな「貸し」を作りました。
それによって西方に安堵を得た北条氏康
河越城の戦いで大勝し、
そうした動きが後年の
甲相駿三国同盟へと繋がっていきます。

村上義清との戦い】
今川・北条との関係が安定したことで、
武田方は信濃侵攻を本格化させ、
信濃守護小笠原長時
小県領主村上義清らと敵対します。

天文16年(1547年)、
関東管領勢に支援された
志賀城の笠原清繁を攻め、
同年8月6日の小田井原の戦いで
武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝します。
また、領国支配においても
同年には分国法である
「甲州法度之次第(信玄家法)」を定めています。

天文17年(1548年)2月、
武田晴信は北信地方に勢力を誇る
葛尾城主・村上義清と
上田原で激突します。
上田原の戦いにおいて
武田氏方は村上義清方に敗れ、
宿老の板垣信方、
甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失い、
武田晴信自身も傷を負い
甲府の湯村温泉で
30日間の湯治をしたということです。
この機に乗じて同年4月、
小笠原長時が諏訪に侵攻してきますが、
武田晴信は7月の塩尻峠の戦いで
小笠原長時軍を撃破しました。

【中信地方平定】
天文19年(1550年)7月、
武田晴信は中信地方に侵攻します。
これに対して仁科盛能は武田方に内通し、
小笠原長時には既に抵抗する力は無く、
林城を放棄して村上義清の下へ逃走しました。
こうして中信地方は武田の支配下に落ちました。

【砥石崩れ】
天文19年(1550年)9月、
村上義清の支城である砥石城を攻めます。
けれどもこの戦いで武田軍は
後世に砥石崩れと伝えられる
大敗を喫したのでした。

天文20年(1551年)4月、
真田幸隆(幸綱)の調略で
砥石城が落城すると、
武田氏軍は次第に優勢となりました。




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天文21年(1552年)8月、
武田晴信軍は3000人の兵で
仁科氏庶流小岩盛親が
500人で守る小岩嶽城を攻略しました。

【村上義清が越後に】
天文22年(1553年)4月、
村上義清は葛尾城を放棄して
越後国主の長尾景虎(後の上杉謙信)
の下へ逃れていきました。
こうして東信地方も武田家の支配下に入り、
武田晴信は北信地方を除き
信濃をほぼ平定したのでした。

【第一次川中島の戦い】
天文22年(1553年)4月、
村上義清や北信豪族の要請を受けた
長尾景虎は本格的な信濃出兵を開始し、
以来、善光寺平の主導権を巡る
甲越対決の端緒となります。
武田軍は村上義清の葛尾城を落とします。
この後、武田軍は5月の更科八幡の戦いにて
村上義清に敗れ葛尾城を奪還されます。
9月、武田軍は塩田城を落とします。
武田軍の先鋒は9月の布施の戦いにて
撃破されました。
長尾景虎(上杉杵謙信)は信濃領内に侵攻し、
荒砥城、虚空蔵山城を落とし、
青柳城と苅屋原城を攻めましたが
武田晴信は決戦を避けました。
その後は長尾景虎も
軍を積極的に動かすことなく、
両軍ともに撤退しました。

同年8月には長尾景虎の支援を受けて
大井信広(武石城主)が謀反を起こしますが、
武田晴信はこれを直ちに鎮圧しました。

【甲相駿三国同盟】
武田晴信は信濃進出に際して、
和睦が成立した後も
軍事的な緊張が続いていた
駿河の今川氏と
相模の北条氏の関係改善を進めており、
天文23年(1554年)には
嫡男武田義信の正室に
今川義元の娘嶺松院(武田信玄の姪)を迎え、
甲駿同盟を強化します。
また娘を北条氏康の嫡男である
北条氏政に嫁がせ甲相同盟を結びます。

小田原城址(北条時代)

これにより、今川氏と北条氏も
武田信玄及び今川家の太原雪斎
仲介して婚姻を結び、
甲相駿三国同盟が成立しました。
甲相駿三国同盟同盟のうち、
北関東において長尾景虎と
抗争していた北条氏との甲相同盟は
長尾景虎を共通の敵として
相互に出兵し軍事同盟として
特に有効に機能したのでした。

【南信地方平定、東濃地方平定】
天文23年(1554年)、
佐久郡や伊那郡・木曽郡に
残されていた反武田勢力を
完全に鎮圧して南信地方を
安定化させました。
これと同時期に、三河・美濃・信濃の
国境地帯に勢力を持つ東濃地方の
岩村遠山氏・苗木遠山氏の
両遠山氏も信玄に臣従してきたために、
美濃を支配する
斎藤道三・義龍父子とも
緊張関係を生じさせることになったのでした。

【第二次川中島の戦い】
天文24年(1555年)、
武田方の善光寺別当・栗田永寿が
旭山城(長野県長野市)に籠ります。
これに対し、長尾景虎は
裾花川を挟んで対岸に葛山城を築城します。
天文24年(1555年)、
川中島において200日余長尾軍と対陣しました。




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今川義元の仲介で和睦、両軍は撤兵。
和睦条件に武田方の旭山城破砕があり、破砕されました。

弘治2年(1556年)、
長尾家家臣の大熊朝秀が離反し、
会津の蘆名盛氏と共に
越後に侵攻しましたが撃退されました。

【第三次川中島の戦い】
弘治3年(1557年)2月15日、
武田信玄は葛山城を調略で落としました。

弘治3年(1557年)、
武田晴信の北信への勢力伸張に反撃すべく
長尾景虎は出陣しましたが、
武田晴信は決戦を避け、
決着は付きませんでした。
なおこの戦いは、上野原の戦いともいうとのことです。

【信濃守護補任】
弘治3年(1557年)、
室町幕府の第13代将軍・足利義輝による
甲越和睦の御内書が下されます。
これを受諾した長尾景虎に対し、
武田晴信は受託の条件に
信濃守護職を要求し、
信濃守護に補任されています。

一連の戦闘の結果、
北信地方の武田氏勢力は拡大しました。

永禄2年(1559年)3月、
長尾氏の有力な盟友であった
高梨氏は本拠地の高梨氏館(中野城、長野県中野市)
を落とされ、飯山城(長野県飯山市)に後退しました。
長尾景虎は残る長尾方の
北信国衆への支配を強化して、
実質的な家臣化を進めることになりました。

【永禄の飢饉】
永禄2年(1559年)、
永禄の飢饉が発生しました。
甲斐国が大規模な水害に襲われました。

【出家】
永禄2年(1559年)2月、
第三次川中島の戦いの後に出家しました。
「甲斐国志」によりますと、
武田晴信は長禅寺住職の
岐秀元伯を導師に出家し、
「徳栄軒信玄」と号したということです。
文書上では翌年に信濃佐久郡の
松原神社に奉納している願文が
「信玄」の初見史料となっています。

【出家の背景】
出家の背景には信濃をほぼ平定した
時期であることや、
信濃守護に補任されたことが
契機であると考えられているほか、
永禄2年(1559年)に
小田原北条氏で永禄の大飢饉を
背景に当主である北条氏康が
家督を嫡男である北条氏政に譲り
徳政を行っていることから、
同じく飢饉が蔓延していた武田領国でも、
代替わりに近い演出を行う手段として、
武田晴信の出家が行われた
可能性が考えられています。
「信玄」の号のうち「玄」の字は
「晴」と同義であるとする説や、
臨済宗妙心寺派の開山である
関山慧玄の一字を授かったとする説、
唐代の僧臨済義玄から一字を
取ったとする説などがあります。

【第四次川中島の戦い】
その間も武田信玄は北信侵攻を続けていました。
永禄4年(1561年)4月、
上杉政虎(永禄4年(1561年)3月、
長尾景虎より改名)が小田原北条氏の
小田原城を包囲します。
この間に武田信玄は信濃に
海津城(長野県長野市松代町)を築城します。
割ヶ嶽城(現長野県上水内郡信濃町)
を攻め落としました。
参謀の原虎胤が負傷。
代わって、山本勘助が参謀になります。

武田信玄は甲相同盟の小田原北条氏の
要請に応じて信濃に出兵します。
これを受けて上杉政虎
(永禄4年(1561年)8月より輝虎に改名)は
川中島の善光寺に出兵しました。

永禄4年(1561年)8月、
第四次川中島の戦いは
一連の対決の中で最大規模の合戦となりました。
武田方は武田信玄の実弟である
副将武田信繁をはじめ重臣室住虎光、
足軽大将の山本勘助、
三枝守直ら有力家臣を失い、
武田信玄自身までも負傷したのでした。

第四次川中島合戦で
信濃侵攻は一段落し、
武田信玄は西上野侵攻をさらに進めていきます。




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【第五次川中島の戦い】
永禄7年(1564年)、
上杉謙信が武田軍の飛騨国侵入を
防ぐために川中島に出陣しましたが、
武田信玄は決戦を避けて
塩崎城に布陣するのみで、
にらみ合いで終わりました。

【西上野侵攻】
詳細は「西上野侵攻」を参照
弘治3年(1557年)より、
武田信玄は川中島の戦いと
並行して西上野侵攻を開始しましたが、
山内上杉家の長野業正が善戦した為、
当初は捗々しい結果は得られませんでした。

永禄4年(1561年)、
長野業正が死去すると、
武田軍は跡を継いだ長野業盛を激しく攻め、
永禄9年(1566年)9月には箕輪城を落とし、
上野西部を領国化しました。
これにより箕輪城は
対小田原北条氏の最前線となりました。

元亀2年(1571年)12月、
甲相同盟が回復すると
小田原北条氏との争いが止まりました。
甲相同盟は天正7年(1579年)3月まで続きました。

【飛騨国内紛への介入】
永禄7年(1564年)、
武田氏が江馬時盛を、
上杉氏が三木氏・江馬輝盛を支援して
介入しました。
江馬輝盛は家臣団として
飛騨先方衆に組み込まれています。

永禄7年(1564年)6月、
武田信玄は家臣の山県昌景・甘利昌忠を
飛騨へ派遣し、これにより
三木氏・江馬輝盛は劣勢となり、
武田氏方と通じます。

永禄7年(1564年)8月、
上杉輝虎は武田信玄の
飛騨国侵入を防ぐため、
川中島に出陣しました。
武田信玄は長野盆地南端の
塩崎城まで進出しましたが決戦は避け、
2ヶ月に渡り対陣。
10月になって、両軍は撤退して終わりました。

【越中国への介入】
永禄年間(1558年以降)に入ると、
越中国の有力国人である
椎名康胤は長尾景虎の
従弟・長尾景直を養子に迎えました。
同じく有力国人の神保長職
武田氏と同盟を結んで対抗しました。
武田信玄は石山本願寺の顕如と縁戚関係にあり、
越中一向一揆も神保方を支援しました。
このため、越中の内乱は
武田氏方の神保・一向一揆と
上杉氏方の椎名による、
いわゆる武田・上杉の代理戦争
という形となりました。

永禄11年(1568年)7月、
椎名康胤が武田氏の調略に応じ、
上杉氏から離反しました。
武田氏は越中国における
家臣団・越中先方衆に
椎名氏を組み込んでいます。

【外交方針の転換と今川・北条との戦い】
永禄3年(1560年)5月、
駿河の今川義元が桶狭間の戦いにおいて、
尾張国の織田信長に敗れて討死しました。
当主が今川氏真に交代しましたが、
今川領国では三河で
松平元康(徳川家康)が
独立するなど動揺が見られました。
武田信玄は今川義元討死の後に
今川との同盟維持を確認していますが、
この頃には領国を接する
美濃においても織田信長
斎藤氏の内訌に介入して抗争しており、
織田信長は斎藤氏との対抗上、
武田との関係改善を模索、
武田信玄も木曾・東濃地域における
両勢力の対立を避けたかったのでした。
こうした経緯から
諏訪勝頼(後の武田勝頼)正室に
織田信長養女が迎えられています。
川中島合戦・桶狭間合戦を
契機とした対外情勢の変化に伴い
武田と今川の同盟関係には緊張が生じました。

木曽福島城と福島の町並み

【甲駿同盟の破綻】
永禄10年(1567年)、
今川氏の甲州への塩止め(交易停止)が行われ、
甲相駿三国同盟が破綻しました。

永禄10年(1567年)10月、
武田家において親今川派とされた
嫡男の義信が廃嫡される事件が発生しています。

【駿河侵攻の開始】
永禄11年(1568年)12月、
遠江での今川領分割を約束した
三河の徳川家康と共同で
駿河侵攻を開始し、
薩垂山で今川軍を破り、
今川館(後の駿府城)を一時占拠します。
江尻城(静岡県静岡市)を築城します。

【甲相同盟の解消】
武田信玄は駿河侵攻に際して
北条氏康にも協調を持ちかけていましたが、
北条氏康は今川氏救援のため出兵して
永禄11年(1568年)、
甲相同盟は解消されました。
北条氏は越後上杉氏との
越相同盟を結び武田領国への圧力を加えます。




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【徳川氏の離脱】
さらに徳川氏とは遠江領有を巡り対立し、
永禄12年5月(1569年)に
徳川家康は今川氏と和睦し、
徳川家康は駿河侵攻から離脱しました。

【甲越和与】
この間、織田信長は足利義昭を奉じて
上洛していました。
武田信玄は織田信長と
室町幕府の第15代将軍に就いた
足利義昭を通じて
越後上杉氏との和睦(甲越和与)を試み、
永禄12年8月(1569年)には
上杉氏との和睦が成立しました。

【北・東関東の反北条勢力との同盟】
さらに武田信玄は越相同盟に対抗するため、
常陸国佐竹氏や下総国簗田氏など
北・東関東の反北条勢力との
同盟を結んで小田原北条領国へ圧力を加え、
永禄12年10月(1569年)には
小田原城を一時包囲します。

三増峠の戦い
撤退の際に、三増峠の戦いで
北条勢を撃退しました。
これにより永禄12年(1569年)の
第三次駿河侵攻にて、
小田原北条氏は戦力を
北条綱重の守る駿河の蒲原城に回せず、
これを落とすことに成功しました。
こうした対応策から小田原北条氏は
上杉・武田との関係回復に方針を転じたのでした。

【駿府の掌握】
永禄11年(1568年)9月、
将軍・足利義昭を奉じて
織田信長が上洛を果たしました。
ところが織田信長と足利義昭はやがて対立し、
足利義昭は織田信長を滅ぼすべく、
武田信玄やその他の大名に
織田信長討伐の御内書を発送しました。
永禄12年(1569年)6月、
大宮城を攻め、降伏させました。
永禄12年(1569年)10月、
碓氷峠方面から武田信玄による小田原城侵攻。
撤退の際に、三増峠の戦いが発生します。
この結果、小田原北条家は北条氏信(綱重)
率いる蒲原城に援軍を回せなくなり、
蒲原城が落城しました。
永禄12年(1569年)末、
武田信玄は再び駿河侵攻を行いました。
また、永禄年間に
下野宇都宮氏の家臣益子勝宗と
親交を深めていました。
益子勝宗が武田信玄による
西上野侵攻に呼応して出兵し、
軍功を上げると武田信玄は
益子勝宗に感状を贈っています。

【海に面した地域を入手】
元亀元年(1570年)1月、
武田勝頼らが花沢城を攻め落とし、
清水袋城を築城します。
この結果、海に面した地域を
手に入れたので、
武田水軍を編成します。
徳一色城(田中城)を攻め落とします。

静岡 海

元亀元年(1570年)8月、
駿河に攻め入り、武田信玄は
黄瀬川に本陣を置き、
軍勢を分けて韮山城を攻略しましたが、
攻め落とすことはできませんでした。

韮山城跡

秋山虎繁敗れる】
元亀元年(1570年)12月、
武田家臣の秋山虎繁は徳川氏を攻めましたが、
織田・徳川連合軍が
小田子合戦(恵那市)にて秋山虎繁を破りました。

【遠江・三河侵攻】
元亀2年(1571年)2月、
武田信玄も織田信長の勢力拡大を危惧したため、
織田信長の盟友である徳川家康を討つべく、
大規模な遠江・三河侵攻を行いました。
武田信玄は同年5月までに
小山城足助城田峯城
野田城、二連木城を落としましたが、
武田信玄が血を吐いたため甲斐に帰還しました。




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【尻垂坂の戦い】
元亀2年(1571年)4月、
武田勝頼が加賀一向一揆の
杉浦玄任に書状を送り、
加賀・越中の一向一揆が協力して
上杉謙信に対抗するよう求めました。
元亀3年(1572年)5月、
顕如より総大将に任命された
杉浦玄任率いる加賀一向一揆が、
上杉方に対して挙兵しました。
これにより、上杉謙信は
元亀4年(1573年)8月まで、
度々越中に出兵する必要がありました。

【甲相同盟を回復】
元亀2年(1571年)10月3日、
かねてより病に臥していた
北条氏康が小田原で死去しました。
跡を継いだ嫡男の北条氏政は、
「再び武田と和睦せよ」
との亡父の遺言に従い
(なお、北条氏政独自の方針との異説あり)、
上杉謙信との同盟を破棄して
弟の北条氏忠北条氏規を人質として
甲斐に差し出し、
12月27日には武田信玄と甲
相同盟を回復するに至りました。

この時点で武田家の領土は、
甲斐一国のほか、信濃、駿河、
上野西部、遠江・三河・飛騨・
越中の一部にまで及び、
石高はおよそ120万石に達しています。

【西上作戦】
【織田家との同盟関係】
尾張の織田信長とは
永禄年間から領国を接し、
外交関係が始まっており、
永禄8年(1565年)には
東美濃の国衆である
遠山直廉の娘(織田信長の姪にあたる)を
織田信長が養女として
武田家の世子である
武田勝頼に嫁がせることで
友好的関係を結んでいます。
その養女は男児(後の武田信勝
を出産した直後に死去しましたが、
続いて織田信長の嫡男である
織田信忠と武田信玄の娘である
松姫の婚約が成立しています。
織田氏の同盟国である徳川氏とは
三河・遠江をめぐり対立を続けていましたが、
武田と織田は友好的関係で推移していました。

【織田家との同盟の破綻】
元亀2年(1571年)の
織田信長による比叡山焼き討ちの際、
武田信玄は織田信長を
「天魔ノ変化」と非難し、
比叡山延暦寺を甲斐に移して
再興させようと図ったとのことです。
天台座主の覚恕法親王正親町天皇の弟宮)も
甲斐へ亡命して、仏法の再興を
武田信玄に懇願しました。
武田信玄は覚恕を保護し、
覚恕の計らいにより
権僧正という高位の僧位を
元亀3年(1572年)に与えられました。

また、元亀2年には
甲相同盟が回復しています。

【遠江侵攻】
元亀3年(1572年)10月3日、
武田信玄は将軍・足利義昭の
織田信長討伐令の呼びかけに
応じる形で甲府を進発しました。
武田勢は諏訪から伊那郡を経て遠江に向かい、
山県昌景と秋山虎繁の支隊は
徳川氏の三河へ向かい、
武田信玄本隊は馬場信春
青崩峠から遠江に攻め入ったとのことです。

武田信玄率いる本隊は、
織田信長と交戦中であった
浅井長政朝倉義景らに
織田信長への対抗を要請し、
10月13日に
徳川氏の諸城を1日で落とし進軍しました。

仏坂の戦い
山県昌景の支隊は
柿本城井平城(小屋城、 静岡県浜松市)
を落として信玄本隊と合流しました。

岩村城の戦い】
秋山虎繁の支隊は、11月に
織田信長の叔母のおつやの方が治める
東美濃の要衝岩村城が
秋山虎繁に包囲されて軍門に下りました。

一言坂の戦い
これに対して、織田信長は
武田信玄と義絶しますが、
浅井長政、朝倉義景、
石山本願寺の一向宗徒などと
対峙していたため、
徳川家康には
佐久間信盛、平手汎秀らと
3000の兵を送る程度でした。

10月14日、徳川家康は
武田軍と遠江一言坂において戦い
敗退しています。

二俣城の戦い】
元亀3年(1572年)12月19日、
武田軍は遠江の要衝である
二俣城を陥落させました。

二俣城

三方ヶ原の戦い
劣勢に追い込まれた徳川家康は
浜松城に籠城の構えを見せましたが、
浜松城を攻囲せず西上する
武田軍の動きを見て出陣しました。
けれども、遠江三方ヶ原において、
12月22日に武田信玄と決戦し
大敗しています。
しかしここで武田信玄は、
盟友・浅井長政の援軍として
北近江に参陣していた
朝倉義景の撤退を知ります。
武田信玄は朝倉義景に文書を送りつけ
(伊能文書)
再度の出兵を求めたものの、
朝倉義景はその後も動こうとしませんでした。




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野田城の戦い
武田信玄は軍勢の動きを止め
浜名湖北岸の刑部において越年しましたが、
元亀4年(1573年)1月には三河に侵攻し、
2月10日には野田城を落としました。
3月6日、岩村城に秋山虎繁を入れました。

【信玄の最期と遺言】
武田信玄は野田城を落とした直後から
度々喀血を呈したとのことです。
一説では、三方ヶ原の戦い
首実検の時に喀血が再発したいわれています。
持病が悪化し、武田軍の進撃は
突如として停止します。
このため、武田信玄は長篠城において
療養していましたが、
近習・一門衆の合議にて
4月初旬には遂に甲斐に撤退することとなりました。

元亀4年(1573年)4月12日、
軍を甲斐に引き返す三河街道上で、
武田信玄は死去したとのことです。
享年は53歳でした。
臨終の地点は
小山田信茂宛御宿監物書状写によりますと
三州街道上の信濃国駒場
(長野県下伊那郡阿智村)
であるとされていますが、
浪合や根羽とする説もあります。
戒名は法性院機山信玄。
菩提寺は山梨県甲州市の恵林寺

辞世の句は、
「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」

【遺言】
「甲陽軍鑑」によりますと、
武田信玄は遺言で
「自身の死を3年の間は秘匿し、
遺骸を諏訪湖に沈める事」や、
武田勝頼に対しては
「信勝継承までの後見として務め、
越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、
重臣の山県昌景や馬場信春、
内藤昌秀らに後事を託し、
山県に対しては
「源四郎、明日は瀬田
(我が武田の)旗を立てよ」
と言い残したということです。

武田信玄の遺言については、
遺骸を諏訪湖に沈めることについては
「甲陽軍鑑」では、
重臣の協議により
実行されなかったとのことです。
また三年秘匿や武田勝頼が
嫡男信勝の後見となっている
可能性はあるとの指摘があり、
文書上から確認される事跡もあります。

【遺言を守る】
武田信玄の死後に家督を相続した
武田勝頼は遺言を守り、
武田信玄の葬儀を行わずに
死を秘匿しています。

【火葬地】
駒場の長岳寺
甲府岩窪の魔縁塚を
武田信玄の火葬地とする伝承があり、
甲府の円光院では
安永8年(1779年)に
甲府代官により発掘が行われて、
武田信玄の戒名と
年月の銘文がある棺が
発見されたという記録があります。
このことから死の直後に火葬して
遺骸を保管していたということも
考えられています。

【死後・法要など】
天正3年(1575年)3月6日、
山県昌景が使者となり、
高野山成慶院に日牌が建立されています。
(「武田家御日牌帳」)。

天正3年(1575年)4月12日、
「甲陽軍鑑」品51によりますと、
恵林寺において武田勝頼による
信玄三周忌の仏事が行われています。
この時、恵林寺住職の快川紹喜
大導師を務め、葬儀が行われたということです。
(「天正玄公仏事法語」)。
同年5月21日に
武田勝頼は長篠の戦いにおいて
織田・徳川連合軍に大敗しました。

天正4年(1576年)4月16日、
武田勝頼により恵林寺で
武田信玄の葬儀が行われています。




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【江戸時代、柳沢吉保
江戸時代には寛文12年(1672年)に
恵林寺において百回忌の法要が
行われています。
宝永2年(1705年)4月10日には
恵林寺において甲府藩主・柳沢吉保による
百三十三回忌の法要が行われています。
柳沢吉保は将軍・徳川綱吉の側用人で、
宝永元年(1704年)に
甲府藩主となっています。
柳沢吉保は武田信玄を崇拝し、
柳沢氏系図において
武田氏に連なる一族であることを強調し、
百三十三回忌法要では
伝信玄佩刀の太刀銘来国長を奉納し、
自らが武田信玄の後継者であることを
強調していたとのことです。

大正4年(1915年)11月10日、
武田信玄は従三位を贈られました。

【生誕500年】
令和3年(2021年)11月3日、
甲斐善光寺(甲府市)において
「信玄公生誕500年祭大法要」が営まれ、
武田信玄から数えて17代目の当主、
武田英信氏らが参加しました。

【人物像】
<教養面>
教養面について、
武田信玄は京から公家を招いて
詩歌会・連歌会を行っており、
武田信玄自身も数多くの歌や
漢詩を残しています。
武田信玄の詩歌は「為和集」
「心珠詠藻』「甲信紀行の歌」
などに収録され、
恵林寺住職の快川紹喜や
円光院住職の説三恵璨により
優れたものとして賞賛されています。
また、漢詩は京都大徳寺の宗佐首座により
「武田信玄詩藁」として編纂してます。

<親としての一面>
武田信玄は実子である義信の廃嫡や
婚姻同盟の崩壊による
子女の受難などを招いている一方で、
娘の安産や病気平癒を祈願した
願文を奉納しているなど、
親としての一面が垣間見える
事実もあることから、
国主としての複雑な立場を
指摘する意見もあります。
<武田信玄公の像>
武田信玄公の像 JR中央本線「塩山」駅北口
※JR中央法線「塩山」駅北口にあります。

<名言>
「甲陽軍鑑」において
武田信玄は名君・名将として描かれ、
中国三国時代における
蜀の諸葛孔明の人物像に仮託されており(品九)、
甲陽軍鑑においてはいずれも
後代の仮託と考えられていますが
軍学や人生訓に関する数々の名言が記されています。

<自分専用の水洗トイレ>
躑躅ヶ崎館に、自分専用の
水洗トイレを設置していました。
これは躑躅ヶ崎館の裏から
流れる水を利用した仕組みで、
武田信玄がひもを引いて
鈴を鳴らすと伝言ゲームのように
配置された数人の家臣に知らされていき、
上流の者が水を流す仕組みでした。
武田信玄はここを山と言う名称で呼んでいました。
家臣が「何故、厠を山と言うのでしょう?」
と尋ねた所、武田信玄は
「山には常に、草木(臭き)が絶えぬから」
と機知に富んだ回答をしているとか。
敵襲に備えた武田信玄の考えから、
トイレの広さは六畳もあり
(狭いトイレだと非常時に
身動きがとれなくなるため)、
室内には机や硯も設置されており、
ここで用を足しながら
書状を書いたり作戦を考えていたとのことです。

風林火山
風林火山(ふうりんかざん)は、
武田信玄の旗指物(軍旗)に
記されたとされている
「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」
の通称です。
古くは「孫子四如の旗」と呼ばれていました。
雲峰寺に日の丸の御旗、諏訪神号旗とともに
現存するものが有名です。

其疾如風: 其の疾はやきこと風の如ごとく、
其徐如林: 其の徐しずかなること林の如く、
侵掠如火: 侵掠しんりゃくすること火の如く、
不動如山: 動かざること山の如し、
難知如陰: 知り難きこと陰かげの如く、
動如雷霆: 動くこと雷霆らいていの如し、
掠郷分衆: 郷を掠かすめて衆を分かち、
廓地分利: 地を廓ひろめて利を分かち、
懸權而動: 権を懸けて動く。

「風林火山」は、いざ戦争となった場合の
動きを示すための言葉であり、
動くべき時には風のように迅速に、
動くべきでない平常時には林のように静観し、
いざ行動を起こすときには烈火の如く侵攻し、
守るべき時には山のようにどっしりと構えるよう、
状況に応じて柔軟に対応するように、
との戒めであるとか。

転じて、「物事の対処の仕方」において、
時機や情勢などに応じた
適切な動き方を意味する
熟語となっています。
現代においては、
ビジネスの経営者の間でも
使われる場合があるとか。

孫氏の教えの要は序文の
「兵は詭道なり」であり、
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
という武田信玄の外交・調略を多く用いた方針を表しています。

武田信玄公之像

2023年NHK大河ドラマ
どうする家康」では
阿部寛(あべ ひろし)さんが演じられます。

躑躅ヶ崎館(武田氏館跡)~武田信虎が築城し、信玄、勝頼と3代続いた戦国大名武田氏の中心地です。

積翠寺にある武田信玄公産湯の井戸跡と背後の要害山城、続日本100名城です。

武田勝頼~甲斐源氏・戦国大名としての甲斐武田氏最後の当主、素質と環境が合わず悲劇が訪れます。

恵林寺~1330年に開山された武田氏の菩提寺である臨済宗の古刹、庭園は国の名勝に指定されています。

黄金の武田信玄像~恵林寺に隣接しているお土産・食事処「信玄館」にあります。

山県(飯富)昌景~武田家重臣の筆頭格で部隊の軍装「赤備え」が有名です。

穴山信君(穴山梅雪)~武田氏の家臣で御一門衆、信玄から厚い信頼がありましたが、勝頼の代になると裏切ります。

真田昌幸~武田信玄を敬愛し「表裏比興の者」は死しても徳川家に恐怖を与えました。

真田信幸(信之)~真田昌幸嫡男で真田家存続の功労者、信濃松代藩は江戸期を続き明治維新を迎えました。

真田信繁~「日本一の兵」と評された日本の国民的武将で英雄の真田幸村です。

武蔵・引田城~甲斐武田氏家臣で北条氏の庇護を受けた志村景元の居城でした。

武田義清(源義清 (武田冠者))~常陸国出身で配流となった先の土地に根差して甲斐源氏の祖となりました。

武田氏館と湫尾神社~ひたちなか市武田は甲斐武田氏発祥の地でした。

武田信義~甲斐源氏であり武田氏の初代当主となり、武田信玄の遠いご先祖様です。

甘利氏館と扇子平山城~甘利氏は甲斐源氏で、戦国時代には武田家臣の譜代家老を務めました。

石積出(いしつみだし)~武田信玄が築いたとされている治水工事で国指定遺跡です。

武田信成~武田信時の系統で安芸守護武田氏から甲斐国守護武田宗家となりました。

武田信春公館~甲斐源氏第12代及び武田氏9代当主であった武田信春の居館跡です。

栗原氏館跡(甲斐国)~甲斐守護・武田信成の子である武続が始祖となる栗原氏の館跡です。

中牧城(浄古寺城)~武田信玄時代に築城、後に徳川家康家臣が城代、遺構規模が多い城跡。

小笠原長清~弓馬四天王と称され、武家の有職故実を伝える小笠原一族の始祖です。

武蔵・小川城 (宝清寺)~築城は武蔵七党・西党の小川氏で寺の開基は甲斐武田氏縁者の青木氏。

甲斐・上野城(甲斐・椿城)~築城は小笠原氏の子供の上野氏でその後に秋山氏、大井氏の居城となります。

湯村山城~躑躅ヶ崎館の西の守りの詰めの城として武田信虎が築城しました。

長篠城 (日本100名城)~城をめぐる激しい攻防戦で有名、国の史跡に指定されています。

高遠城~国の史跡で日本100名城、春には珍しい品種の桜であるタカトオコヒガンが咲き誇ります。

苗木城と苗木遠山氏~天然の巨岩を配し木曽川を従える天空の山城~遠山七頭

木曾義昌(木曽義昌)~妻は信玄の娘、武田勝頼を裏切った代償、やがて木曽から下総国阿知戸へ行きます。

土屋右衛門昌続とその屋敷跡~武田24将の一人で武田信玄死後3年間遺体を隠した場所とのことです。

土屋惣蔵昌恒~出自は金丸氏で武田家最後の家臣にて忠臣、子供は大名になります。

山本勘助晴幸屋敷~隻眼・片足不自由だが摩利支天のようだと称えられた軍師の屋敷跡。

旧高野家住宅 甘草屋敷~国の重要文化財に指定された民家建築で江戸幕府御用の甘草の栽培と管理を担ってきました。

小幡景憲~甲州流軍学の創始者で「甲陽軍鑑」成立に携わった人物、墓所は厚木市にある蓮生寺。

千石墻の砦~小幡信真の配下であった浅香播磨守重明が秩父地方の攻略時に築いた砦とのことです。

尾附城 ~山中衆の土屋山城守高久が築城、武田の武将小幡氏の重臣である熊井土氏の配下です。

岡部元信~今川家の忠臣で歴戦の武将、後に甲斐武田家に仕え、徳川家康の前に立ちはだかり高天神城で散る。

歩き巫女~梓巫女、熊野比丘尼、くの一、信濃巫、甲斐武田氏では女性のみの集団で巫女頭の望月千代女がいました。

覚恕法親王(かくじょほうしんのう)~正親町天皇の異母弟、比叡山焼き討ちの時の天台座主。

足利義昭・最後の室町幕府将軍、懲りずに粘って兄の分まで生きる!歴代足利将軍の中で最も長生き!

今川義元~祝・生誕500年~足利一門の名門・海道一の弓取りと称された東海の覇者!

北条氏康~小田原北条3代目~相模の獅子 ・関東八州にその名を轟かした猛将は戦国随一の民政家。

北条氏政~小田原北条4代目~最大の領土を築くも、生きた時代と合わなかった慎重派で愛妻家で家族思い。

北条氏照~北条氏政の同母弟、文武両道で外交手腕に長けており、兄を補佐し盛衰を共にしました。

八王子城~日本100名城で日本遺産となった関東屈指の山城、城主は北条氏照でした。

滝山城~続日本100名城、国の史跡で中世城郭の最高傑作の一つであり遺構がよく残されています。

二宮城~木曽義仲の末裔である大石信重によって築城との記録あり、現在の二宮神社、武蔵守護代の大石氏とは?

武蔵・戸吹城(根小屋城)~滝山三城の一つで滝山城の支城群の一つ、崩落が進み関東一危険の城とも。

日向薬師~日本三大薬師の一つで開山は奈良時代、薬師如来の霊場として信仰を集め源頼朝も自ら参詣しました。

上杉謙信について~越後の龍・49年の生涯~駆け足で超手短に!

小谷城~浅井家三代~浅井亮政・浅井久政・浅井長政

朝倉義景の墓~義景清水~孤独を纏う朝倉家最後の当主・戦よりも芸事と内政が得意

織田信長について~駆け足で手短にわかる織田信長の49年の華麗で残酷な生涯

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

浜松城(続日本100名城)~前身は今川氏が築城した曳馬城、野面積みの石垣が有名で出世城ともいわれています。

二俣城~水運に恵まれた街道上の要衝で武田VS徳川の激しい攻防の舞台となり、徳川信康が切腹を遂げた城です。

三方ヶ原(三方原)古戦場~徳川家康の生涯において「伊賀越え」と並ぶ人生の危機となった戦です。

久松源三郎勝俊(松平康俊)~徳川家康の異父弟「久松三兄弟」、甲斐から三河へ脱出成功するも代償を払う。

雉岡城~山内上杉氏による築城で後に小田原北条氏、竹谷松平氏の居城となりました。

鉢形城~数万の敵に1か月も籠城した頑強な要害で日本100名城で国の史跡です。

金鑚神社~武蔵国五宮、社名は砂鉄からとの伝承があり、神体山を祀る古代祭祀の面影を残す神社です。

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