鎌倉殿の13人

北条義時~鎌倉幕府2代執権~冷酷無情・現実を客観視して行動できる理想家なのか?

北條執権館跡(宝戒寺)



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北条義時

北条 義時(ほうじょう よしとき)は、
平安時代末期から
鎌倉時代初期にかけての武士です。
北条氏の一門で鎌倉幕府の第2代執権です。
伊豆国の在地豪族・
北条時政の次男で北条政子の弟です。
得宗家2代目当主。

1219年に、
鎌倉幕府の初代から3代にわたる
源氏将軍が鎌倉から滅亡すると、
得宗の北条義時が鎌倉幕府の
実質的な支配者となりました。
幕府と朝廷の対立が激化すると、1221年に
後鳥羽上皇より北条義時追討の宣旨が
全国に発布され朝敵となりましたが、
幕府軍は京都に攻め上り、朝廷を制圧しました。
仲恭天皇の皇位を廃し、3人の上皇を配流しました。

【時代】
平安 時代末期 – 鎌倉時代初期

【生誕】
長寛元年(1163年)

【死没】
元仁元年6月13日(1224年7月1日)

【改名】
義時、観海、徳宗

【別名】
江間四郎、江馬小四郎、
相州、右京兆、奥州

【墓所】
静岡県伊豆の国市南江間 北條寺
神奈川県鎌倉市頼朝法華堂の東の山
法華堂跡(鎌倉)

【官位】
相模守、従四位下、右京権大夫、陸奥守

【幕府】
鎌倉幕府十三人の合議制
第2代執権(1205年 -1224年)

【主君】
源頼朝⇒頼家⇒実朝⇒藤原頼経

【氏族】
北条氏(自称・桓武平氏)

【父】
北条時政

【母】
伊東祐親の娘

【兄弟】
宗時、政子、義時、時房、政範、阿波局、時子他

【妻】
正室:姫の前
継室:伊賀の方
側室:阿波局、伊佐朝政の娘、他

【子】
泰時、朝時、重時、有時、政村、
実泰、時尚、竹殿、女子(一条実雅室) 他

【青年期】
北条時政の次男として生まれ、
江間小四郎と称していました。
母は「伊東祐親(入道)の娘」です。
北条義時が15~6歳の頃に
姉の北条政子が伊豆の流人であった
源頼朝の妻となっています。

石橋山の戦い
治承4年(1180年)8月17日、
北条義時は父親である北条時政と
兄である北条宗時と共に源頼朝の挙兵に従います。
しかしながら、石橋山の戦いで大庭景親に敗北して
兄である北条宗時が戦死しました。
源頼朝、土肥実平らは箱根山から真鶴半島へ逃れ、
28日、真鶴岬(神奈川県真鶴町)から出航して
安房国に脱出しました。




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【甲斐国へ】
一方、北条時政と北条義時親子は
文献により途中経過が異なってはいますが、
石橋山の戦いの後、
甲斐国へ向かい甲斐源氏と
行動を共にすることになったとのことです。

【鉢田の戦いと富士川の戦い】
10月13日、
甲斐源氏は北条時政及び北条義時と共に
駿河に進攻し、富士川の戦いに勝利しました。
その後、北条時政と北条義時親子は
源頼朝のもとに戻ったとのことです。

平家越

【鎌倉・大倉亭】
12月12日、
源頼朝は新造の大倉亭に移徙の儀を行い、
北条義時も北条時政や他の御家人と共に列しました。

【家子の専一として】
養和元年(1181年)4月、
北条義時は源頼朝の寝所を警護する
11名の内に選ばれました。
(『吾妻鏡』養和元年4月7日条)
他の10名は、下河辺行平・結城朝光・和田義茂・
梶原景季・宇佐美実政・榛谷重朝・葛西清重・
三浦義連・千葉胤正・八田知重です。
主に有力御家人の二世世代であり、
将来を担う人材の育成という面も
あったと見られています。

この源頼朝の個人的な側近・親衛隊は
「家子」と呼ばれて門葉(源氏血縁者)と
一般御家人の中間に位置づけられていました。
北条義時はその中でも「家子の専一」とされたのでした。
(『吾妻鏡』宝治2年閏12月28日条)。

亀の前襲撃事件が起こる】
寿永元年(1182年)11月、
源頼朝は愛妾・亀の前を
伏見広綱の宅に置いて寵愛していましたが、
この事を継母の牧の方から知らされた
姉の政子は激怒し、
牧の方の父・牧宗親に命じて
広綱宅を破壊するという事件を起こりました。
これに怒った源頼朝は牧宗親を呼び出して叱責し、
牧宗親の髻を切って辱めました。
これを知った北条時政は舅の牧宗親への仕打ちに怒り、
一族を率いて伊豆へ立ち退いてしまいました。
そうした中、北条義時は父に従わず鎌倉に残り、
源頼朝から称賛されたとのことです。

【北条家の嫡子について】
兄である北条宗時が戦死したため、
嫡子になったとされていますが、
北条義時は「吾妻鏡」で
北条姓ではなく所領とした
江間の姓で記される事が多く、
分家の江間家の初代であったと見られています。

江間の地(伊豆)

文治5年(1189年)に
北条時政の後妻である
牧の方を母として生まれた異母弟の北条政範は
16歳で従五位下に叙され、
26歳年長の北条義時と並ぶ地位にありました。
北条時政は北条政範を将来の嫡子に
考えていた可能性もあったとの見方があります。
なお、北条義時の次男である北条朝時が
北條時政の屋敷であった名越邸を
継承していることから、
北條時政は北条朝時を
後継者に考えていたとする説もあります。
ただし北条朝時の名越邸継承の時期は不明であり、
北条時政の真意は定かではありません。

【西国・奥州従軍】
元暦2年(1185年)、
源範頼率いる平氏追討軍に属して
西国へ赴き、葦屋浦の戦いで武功を立てました。
文治5年(1189年)7月、
奥州合戦に従軍しました。

【右近衛大将拝賀の随兵】
建久元年(1190年)に
源頼朝が上洛した際、
右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれて
参院の供奉をしました。
なお他の6名は、
小山朝政、和田義盛梶原景時
土肥実平、比企能員畠山重忠です。




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【3代執権・北条泰時の誕生と婚姻】
北条義時は21歳の時に長男である
北条泰時をもうけていましたが庶子でした。
建久3年(1192年)9月25日、
源頼朝の仲介により
比企朝宗の娘で
当時のキャリア女子である
誉れ高い幕府女房であった
姫の前を正室に迎えます。
そして翌年には嫡男となる北条朝時を儲けました。

【北条義時の目覚め】
源頼朝存命中は
それほど表立つ事はありませんでしたが、
源頼朝死後に鎌倉幕府内の
権力闘争が激化すると
頭角を現してくるようになります。

【政権簒奪闘争の幕開け】
正治元年(1199年)の源頼朝の死後、
跡を継いだ2代将軍である
源頼家の独裁を押さえるための
十三人の合議制に加わりました。
梶原景時が失脚した
梶原景時の変で北条義時とは
同母姉妹となる阿波局が関わります。

【比企能員の変】
建仁3年(1203年)、
7月に源頼家が病に倒れると、
9月2日に北条時政は源頼家の乳母父で
舅である比企能員を自邸に呼び出して謀殺し、
源頼家の嫡子である一幡の邸である
小御所に軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼしました。
次いで源頼家の将軍位を廃して
伊豆国修善寺へ追放しました。

修禅寺

【北条時政が政所別当に就任】
北条時政は源頼家の弟で
阿波局が乳母を務めた12歳の源実朝
3代将軍に擁立し、10月9日には
大江広元と並んで政所別当に就任して実権を握りました。

【源頼家、義時の手の者に暗殺される】
「愚管抄」によりますと、
11月になって襲撃から
逃げ延びた一幡が捕らえられ、
北条義時の手勢に殺されました。
元久元年(1204年)3月6日、
北条義時は相模守に任じられました。
7月18日、源頼家が伊豆国修禅寺で死去。
「愚管抄」や「増鏡」によりますと、
源頼家は北条義時の送った手勢により暗殺されたのでした。

【北条時政との父子の対立】
この時期の北条氏による有力御家人排除(粛清)は、
北条時政と北条義時が一体となって行われました。
けれども元久2年(1205年)の
畠山重忠の乱、
続く牧氏事件で父子は対立するようになります。
「吾妻鏡」では北条時政が
後妻の牧の方の讒言により
人望の厚かった畠山重忠を謀殺して
御家人たちの反感を買い、
北条義時は謀反など起こすはずがないと
畠山討伐に反対したということですが、
これは父を追放した北条義時の背徳を
正当化する「吾妻鏡」の脚色であると見られています。

【北条本家の先妻の子と後妻の確執】
ただし、近年の研究では
北条宗家ではなく
分家の江間家の初代とみなされる
北条義時が、北条時政の意思を拒否できた
可能性が低いことも考慮する
必要性ありとの説も出されています。
武蔵国の最有力在庁であった畠山氏排除と
同時に発生した牧氏事件の背景には、
元久元年(1204年)に
乱の引き金となった
北条本家の後継者である
北条政範の急死があり、
北条政範亡き後、
娘婿である平賀朝雅を将軍に立てようとする
北条時政・牧の方と、
先妻の子である北条義時及び政子らの
確執があったと考えられています。




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【独り言】
畠山重忠討伐の時は北条義時も加わったのだし、
武蔵国を掌握するために、
まずは父子として自らの意思で畠山重忠討伐に
加わったのだと考えています。
利害関係の一致、というわけですね。
そして畠山氏と平賀氏粛清の後に、
北条義時にとっては「本命」となる
北条時政追放に至ったのだと思います。
北条時政は自分にとって邪魔な存在は
消してきましたが、
北条義時は、父親譲り、それ以上の
人物で手強いですね。
いやコワイ・・。
畠山氏が何とも不憫です。

【北条義時、政所別当になる】
元久2年(1205)閏7月、
姉である尼御台の政子と協力し、
母方の従兄弟である有力御家人の三浦義村
協力を得て北条時政を伊豆国に追放した
北条義時は、父に代わって
政所別当の地位に就任しました。

【武蔵国の掌握】
武蔵国は有力者の
畠山重忠・平賀朝雅の排除によって、
北条義時が信頼する弟の北条時房が
同国の守護・国司となりました。

【幕政の実権も掌握】
平賀朝雅誅殺後、
儀式における序列は長年にわたり
源氏門葉として御家人首座にあった
平賀氏(大内惟義)を凌ぎ、
北条義時が第一位を占めるようになりました。
北条義時は常に政子と
源実朝を表面に立てながら、
政所別当・大江広元、
源頼朝の流人時代以来の近臣である
安達景盛らと連携し、
幕政の最高責任者として
実権を握ったのでした。

【権力独占をさけるために】
北条時政の性急な権力独占が
多くの反発を招いた事から、
北条義時は柔軟な姿勢を示し、
北条時政一人の署名による
下知状という文書形式は
一時姿を消します。
代わって御家人達の要望に応えた
「頼朝公以来拝領した所領は、
大罪を犯した場合以外、一切没収せず」
との大原則を明示したのでした。
一方で北条執権体制の障害となる

【有力御家人に対する抑圧策推進】
有力御家人に対する
抑圧策を進めていきます。
北条時政失脚直後の8月、
下野国の宇都宮頼綱
(北条時政の娘婿)に
謀反の疑いありとして
守護の小山朝政に追討を命じ、
宇都宮頼綱は無実であるとして出家遁世しました。

【源実朝に反対される】
承元3年(1209年)11月、
年来郎従
(伊豆国住民で北条氏の家臣、御内人の原型)
の中で有功之者を侍に准じることを要望しましたが、
源実朝の反対により断念しました。

【職務の定期交替制も反対される】
同月には諸国守護人の
職務怠慢をついて終身在職を改め、
定期交替制にしようとしましたが、
千葉氏・三浦氏・小山氏など
豪族御家人達の激しい反発を招いて断念しています。

【執権殿と呼ばれて】
この頃から北条義時の地位は
執権と呼ばれるようになり、
次第に独裁的政治を展開して
執権政治の基礎を築いていきます。
その後も有力武士への攻撃は続き、
幕府創設以来の重鎮で
侍所別当の地位にあった
和田義盛を建保元年(1213年)2月、
和田合戦において滅ぼしました。

【幕府指導者としての地位】
北条義時は和田義盛に代わって侍所別当となり、
政所別当と合わせて幕府の最も枢要な職を独占し、
北条氏の幕府指導者としての地位が定まりました。
和田の乱の3年後の建保4年(1216年)、
従四位下に叙し、翌年5月に右京大夫、
12月に陸奥守を兼ねて父の官位を超えたのでした。

【離縁と再婚と次男の義絶】
私生活では比企の乱直後に、
比企一族である姫の前と離別し、
(源頼朝との約束を反故にしましたね)
伊賀の方を継室に迎えて
元久2年(1205年)に
五男となる北条政村をもうけています。
北条政村は建保元年(1213年)12月、
三浦義村を烏帽子親として元服し、
その際に北条義時の「鍾愛の若君」と呼ばれています。
建暦2年(1212年)5月、
姫の前所生の次男の北条朝時が
将軍である源実朝の怒りをかったため義絶し、
駿河国へ蟄居させています。




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【源実朝の暗殺】
承久元年(1219年)正月27日、
鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の際に、
将軍である源実朝が兄の源頼家の子である
公暁によって暗殺される事件が起こり、
ここに源氏の正統が断絶しました。
その日の拝賀式で、源実朝の脇で
太刀持ちをする予定だったのは
北条義時でしたが、
「吾妻鏡」では当日急に体調不良を訴えて
源仲章と交代して自邸に戻り、
結果として源仲章は源実朝と一緒に暗殺され、
北条義時は生き延びています。

鶴岡八幡宮 大銀杏

【源実朝暗殺を企てた真犯人は?】
この事や暗殺事件後の収拾策などから、
源実朝の暗殺は
北条義時が裏で操ったという説や、
将軍親裁を強める源実朝に対する
北条義時及び三浦義村ら
鎌倉御家人の共謀という説があります。
この共謀説は源実朝は北条氏の傀儡ではなく
将軍親裁が機能しており、
後鳥羽上皇との連携を目指した源実朝に対し、
北條義時と三浦義村は手を結んで
源実朝および後鳥羽上皇と
源実朝を結びつける後鳥羽上皇の近臣である
源仲章の排除に乗り出した、ということです。
あるいは北条氏に対抗する三浦義村単独説や、
または幕府転覆を望む
後鳥羽上皇が黒幕という説もあり、
またそれらの背後関係よりも
公暁個人の野心に最も大きな
要因を求める見解もあって、
真相は明らかにはされてはいません。
「愚管抄」では、北条義時は源実朝の命により、
太刀を捧げて中門に留まっており、
儀式の行われた本宮には同行しておらず、
自邸に戻ったとはされてはいません。
北条義時は実際には殺害現場にいましたが、
目の前で発生した将軍殺害を防げなかった
北条義時の失態を隠蔽するために
「吾妻鏡」が曲筆したとする説も出されています。

ま、源実朝と公暁の死によって
最も得をした人物が黒幕でしょうね。
と、すると・・・。

源実朝と朝廷の動きなどを鑑みて
個人的には北条義時と三浦義村ら
鎌倉御家人の共謀説を
支持しています。
傀儡だと思っていたら実は違った、というのが
源実朝ですからね。
ただそうなると、
母親の北条政子さんが不憫でなりません。

【源氏の血筋の粛清】
事件の前年から、子のない源実朝の後継者として
後鳥羽上皇の親王を将軍として
東下させる事が検討されていました。
尼御台の政子が上洛して
卿二位と話が進められていたのです。
源氏の正統が絶えた事による
幕府内での動揺は大きい中、、
北条義時は源頼朝の異母弟となつ
阿野全成の子で
将軍の座を望んで挙兵した阿野時元を討ち、
また公暁に荷担したとの嫌疑で
公暁の異母弟禅暁も誅殺しています。
なお、阿野時元に関しては、
兵を指しむかられたので
勝ち目はなくともやむなく
挙兵したとの見方があります。

阿野氏館跡(大泉寺)

【尼将軍と補佐する執権政治】
源実朝暗殺後、幕府は新たな将軍として
親王の鎌倉下向を朝廷に要請しました。
けれども後鳥羽上皇はこれを拒否します。
皇族将軍東下問題と絡ませて
上皇の寵姫の所領の地頭廃止を要求します。
幕府方は当然ながらこれを拒否して、
北条義時の弟である北条時房を
一千騎を率いて上京させて
交渉に当たらせましたが、
両者の態度は強硬で
交渉は不調に終わりました。
幕府はやむなく皇族将軍をあきらめ、
源頼朝の遠い縁戚である
摂関家の藤原頼経を
4代将軍として迎え入れました。
もっとも、藤原頼経は当時は
生後1年余の幼児であったので、
すぐに征夷大将軍に任じられる
状況ではありませんでした。
なお、実際の将軍補任はこの7年後となります。
このため、北条政子が尼将軍として
藤原頼経の後見と空白となっていた
鎌倉殿の地位を代行し、
北条義時がこれを補佐して
実務面を補うことで
実権を握る執権政治がここに確立したのでした。

【幕府と朝廷の対立】
源実朝死後の半年にわたる将軍後継者問題で、
後鳥羽院政と鎌倉幕府の対立が先鋭化します。
北条義時は承久2年(1220年)2月に
義兄の伊賀光季を京都守護として派遣し、
娘婿である大江親広も京都守護として上洛させました。

【北条義時最大の危機、承久の乱】
一方、後鳥羽上皇は着々と軍備を拡張し、
承久3年(1221年)5月14日、
流鏑馬ぞろいと称して
諸国の兵を招集すると、
院政内の親鎌倉派を粛清して
伊賀光季を殺害し、倒幕の兵を挙げました。
15日、北条義時追討の宣旨が全国に発布され、
諸国の守護人・地頭たちに、
上皇の元に馳せ参じるよう命が出されます。
京都朝廷・天皇の権威は未だ大きく、
幕府にとって容易ならぬ事態であり、
北条義時は生涯最大の難局に
直面する事になったのでした。

【政子の声明と京への出撃】
幕府では朝敵となる事に
動揺する御家人たちに対し、
尼将軍である北条政子が
源頼朝以来の恩顧を訴える声明を出し
団結させました。
幕府首脳による軍議では慎重論も出る中、
大江広元の
「防御では東国御家人の動揺を招く」
という助言により、京への出撃が決定しました。
北条義時は嫡男となった北条泰時を
総大将として東海道から
京都へ向けて軍勢を送り、
次男である北条朝時、
弟である北条時房を大将軍として
北陸・東山の三道から京へ上らせました。
幕府首脳部の積極作戦が功を奏し、
東国武士たちが続々と動員令に応じて、
総勢19万の大軍となって
都へ攻め上ったのでした。
道中、信濃国の武士市河氏が
北陸道の大将軍である
北条朝時の到着を待たず積極的に進軍し、
越後・越中の境、親不知付近を突破して前進すると、
北条義時はただちにその功を賞して
「一人も残らず殲滅せよ。山狩りをしても召し捕れ。
敵を掃蕩せずに功を急いで
京を攻め上ろうとするな」と、
意気盛んかつ慎重な司令を発しています。

【幕府軍の完勝】
5月21日に鎌倉を発した幕府軍は
木曽川、宇治川の京都防衛線を突破して、
6月15日には京都を制圧しました。
北条義時追討の宣旨発布から
わずか一ヶ月後、
幕府軍の完勝となりました。




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【ズルい弁明をしても罪は消せない】
敗北した後鳥羽上皇は
倒幕計画は自分の考えではなく
近臣が勝手に起こしたものであると弁明しました。
が、幕府は乱の首謀者たる
後鳥羽上皇以下に対して
極めて厳しい態度を取り、
後鳥羽上皇は隠岐島、
順徳上皇は佐渡島に配流されました。
倒幕計画に反対していた
土御門上皇は自ら望んで
土佐国へ配流され、後に阿波国へ移されました。
後鳥羽上皇の皇子の雅成親王、頼仁親王も
それぞれ但馬国、備前国へ配流となりました。

【朝廷の再編成】
在位70日余りの仲恭天皇は
廃されて新たに後堀河天皇が立てられ、
親幕府派の公家・西園寺公経らを中心として
朝廷の再編成が行われました。

【武士と貴族も厳しい沙汰】
上皇側に与した武士の処分は最も厳しく
大半が斬罪され、貴族も処刑・流罪・解官となりました。

【荘園の没収と六波羅探題】
後鳥羽上皇の莫大な荘園は没収され、
後高倉院に寄進されましたが、
最終的支配権は幕府が握っていました。
公家政権の監視にあたる出先機関として
六波羅探題が新たに京都に設置されました。
京方の貴族・武士たちの所領3万ヵ所は
すべて幕府に没収され、
新たに東国武士たちが恩賞として
地頭に任命されました。

【承久の乱での勝利がもたらしたもの】
この勝利により、京方についた
旧将軍独裁時代の勢力は一掃され、
執権北条義時の幕府内での
最高権力者たる地位が確定したのはもちろんの事、
北条義時の主導する鎌倉政権が
公家政権に対して支配的地位を持って
朝幕関係を完全に逆転させる事に成功したことです。
こうして新たに展開された執権政治は、
全国的政権としての新たな段階に進む事になるのでした。

【「承久記」による記述】
軍記物語である「承久記」では、
勝利の報を受け取った北条義時は
「今は自分に思い残す事はない。
この義時の前世からの果報は
王の果報に勝っていたのだ。
この世に報われる善行が
一つ足りなかったために、
卑しい身分に生まれたに違いない)」
(現代語訳:ウキペディア)
と公然と述べたということです。

【「吾妻鏡」による記述】
一方、幕府編纂書の「吾妻鏡」では、
上記の「承久記」のこの記述はなく、
幕府軍が鎌倉を発った直後の6月8日、
北条義時の邸に雷が落ち、
下働きの男が一人死亡しました。
これを恐れた北条義時は大江広元に
「朝廷を倒すための上洛で
このような怪異が起きた。
幕府の運命もこれまでという前兆だろうか」
と尋ね、これに対して大江広元は
「君臣の運命は天地が定めるものであり、
何も恐れる事はない。
かつて勝利を収めた奥州合戦では落雷があった。
幕府にとって落雷は吉兆である」
と返答して狼狽する北条義時をなだめたとの事です。
そして陰陽師を呼び占わせたところ、
結果は最吉と出た、という話が描かれています。
この話は、北条義時が神の末裔である皇族に
弓矢を引くことに恐怖を感じていたこと、
天皇を絶対的な権威とする当時の「常識」を、
北条義時もまた持っていた証であると
指摘されているとのことです。

【辞職して無官】
承久の乱の翌年に陸奥守と右京権大夫を辞職し、
無官となっています。

【大倉御所と政子の邸宅の火災】
貞応2年(1223年)、
将軍御所であった大倉幕府が
手狭であることから拡張することが
議論となっています。

承久元年12月に発生した火災で
三寅の邸宅とされた大倉御所と
政子の邸宅である亡き実朝の私邸が
共に焼失したため、
三寅・政子共に大倉御所の
北条東隣の義時邸にて
生活することになりました。
北条義時は大倉御所の西の大路を挟んだ
反対側にある在京中の北条泰時に譲った邸宅
(三浦義村邸の南隣でもある)に住んでいました。

【三浦義村へのけん制】
北条義時はこの拡張計画自体に賛同して、
政子を勝長寿院内に建てた御所に移しながらも、
最終的には陰陽師の判断を理由に
計画を先送りにしてしまいました。
これは政子と三寅を引き離すことに
成功させて自らの三寅への影響力を強めると共に
移転計画の利用して発言力を強めようとした
三浦義村への牽制を
意図していたと考えられています。

【北条政子の優位性の解消】
当初の計画では大倉御所の敷地を
西方に拡張する予定でしたが、
その場合には通りの反対側にある
三浦義村・北条泰時(義時居住)両邸にも
影響を与える計画でしたが同時に
三浦義村としては三寅との関係性を
誇示することにもなり、
北条義時には不都合な側面もありました。
また、政子の北条義時邸からの退去は
引き続き北条義時邸を仮御所とする
三寅のための空間拡張の敷地を確保すると共に、
政子が三寅を擁することで得ていた
北条義時に対する優位を
解消することになったのでした。

【亡くなる年も精力的に活動】
元仁元年(1224年)に入ると、
北条義時は自身の健康長寿などを願って
3月19日から100日間の
泰山君府祭を開始した一方で、
同じ日に甘縄山麓の南側で大火があり、
千葉胤綱邸まで類焼しています。
また、4月27日には九条兼実の要望を受けて、
三寅の手習始の儀が行われて、
北条義時は一条実雅と共に
中心的な役割を果たすなど、
精力的な活動を続けていました。




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【突然の死去】
ところが、6月13日、
北条義時は62歳で急死しました。
「吾妻鏡」では死因は
衝心脚気のためとされていますが、
偉大な幕府指導者の
急死であったため憶測を呼び、
後妻の伊賀の方に毒殺されたとする
風聞(「明月記」)がありました。
承久の乱の京方首謀者の一人で
逃亡していた尊長が、
北条義時の死の3年後に捕らえられて
六波羅探題で尋問を受けた際に、
苦痛に耐えかねて
「義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」
と叫んで武士たちを驚かせた事を、
藤原定家が書きとどめているとのことです。
尊長は北条義時死後に起こった
伊賀氏の変で将軍候補とされた
一条実雅の実兄でした。

また、近習の小侍に刺し殺されたとの
異説(「保暦間記」)もあります。
これは「保暦間記」の原文には
「害された」としか書かれておらず、
刺殺ではなく伊賀氏の意向を受けた
近習の小侍が毒を盛ったとする
解釈があるとのことです。

【得宗】
なお、北条義時の別称は得宗と呼ばれ、
以後の北条氏の嫡流の呼び名となりました。
得宗の語源は北条義時の法名にちなむとも
言われてはいますが、はっきりとはしていません。

【北条義時の墓所】
「吾妻鏡」に
「頼朝の法華堂の東の山をもって墳墓となす」
とあり、近年になって
北条義時法華堂跡の発掘調査が行われました。
なおこの時代に北条義時クラスの者が
やぐらに葬られた記録はない、そうです。

北条義時の墓は臨済宗建長寺派の北條寺境内にあり、
北条泰時が建てたものと伝えられています。

<北条義時夫妻の墓>
向かって左が継室で
向かって右が北条義時の供養塔となります。
北条義時夫妻の墓

【北條寺】
鎌倉幕府創立に功があった北条時政の息子、
北条義時が創建した寺です。

北條寺

北条義時の嫡子が大蛇に襲われ命を失った時、
七堂伽藍を建立し、
仏殿の阿弥陀如来像を運慶に命じ作らせまhした。
また、観世音菩薩像は中国宋風の仏像であり、
鎌倉極楽寺にあったものを北条政子が
北條寺に奉納したと伝えられています。

北條寺の説明

寺宝は、北条政子が中国に制作させた
牡丹鳥獣文繍帳三帳があり、
境内には北条義時夫妻の墓があります。
なお、北条義時の妻の墓は、
北條寺の説明によると「佐伯氏の娘」とあります。
ただ、墓石の側面には、
藤原朝光の娘と彫られているとのことです。
藤原朝光は伊賀朝光です。
藤原朝光の娘は継室の伊賀の方です。
伊賀の方は謀反を起こしたとされ、
伊豆国へ配流となっています。
但し、謀反を起こしたとされる人物が
夫婦並んで一緒の墓、というのは
通常ならあり得ないのですが、
墓を建てた北条泰時は、
伊賀の方の謀反は否定しています。

北条泰時の生母の「阿波局」も
気になることがございまして、
ま、機会があれば・・。

なお、北条義時夫妻の墓は、
小山を上った処にあります。
少々わかりにくいです。

<北条義時夫妻の墓の入り口>
北条義時夫妻の墓の入り口

<北条義時夫妻の墓の説明>
北条義時夫妻の墓の説明

<所在地>
〒410-2221 静岡県伊豆の国市南江間862−1

<駐車場>
参拝者用駐車場があります。

<交通アクセス>
◆「伊豆長岡」駅からバスで15分程度
◆東海道新幹線「三島駅」⇒
伊豆箱根鉄道「韮山駅」⇒徒歩30分
もしくはバス「江間公園入口」~徒歩10分程度
◆沼津ICから車で40分程度

【北条義時の評価】
北条義時は、承久の乱における
幕府軍の総大将であり、
仲恭天皇の皇位を廃し、
3人の上皇を配流したことから、
明治時代においては尊皇の視点から
同情の余地の無い逆臣で不遜の人として、
多くの筆誅が加えられたとのことです。
またそれ以前の江戸時代でも
主君に対する忠誠を
武士道とすることから、
源氏将軍を滅ぼし、あるいは傀儡にして
将軍から実権を奪い取った事実から、
不忠の臣・陰険な策謀家として
描かれていました。

姉の北条政子も「悪女」と叩かれましたしね。

【陰険・悪辣・暴君・愚君揃いの歴代当主】
もともと北条氏の歴代当主は、
北条義時の嫡男となった北条泰時や
曾孫の北条時頼を除いて、
大半が陰険・悪辣・暴君・愚君とされており、
北条義時はその代表として
常に名が挙げられていました。
理由としては源氏将軍暗殺に限らず、
実父の北条時政まで追放して
執権になるなどの不義によって
強調される事となったのでした。
しかも、最終的には北条義時が
利益を得ている事から、
北条義時の関与が考えられている事件も
少なくないと見られています。
(そうみるのが自然だろうな・・)




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【「古今著聞集」の記述】
「古今著聞集」には、ある人物が見た夢の中で、
北条義時が武内宿禰の転生した
姿であることを知った、
という伝説が書かれています。
また、平政連が北条貞時を戒める為に奏上した
「平政連諫草」にも、
同様の記述があるとのことです。
これらの情報から、鎌倉時代末期には、
転生の伝説がある程度知られており、
また、「古今著聞集」の成立年代も考慮すると、
北条義時が没してほどない頃から
語り草になっていたのではないかと
推測されているとのことです。

1990年代でも
若い人を中心に
「前世」ブームがありましたが、
この時代からあったのですね。
正に歴史は繰り返す、ですね。
北条義時の違った面が見て取れます。
もしかして心の奥底は
夢想家だったのかもしれませんね。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
小栗旬(おぐり しゅん)さんが
演じられます。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

後鳥羽院(後鳥羽上皇)、承久の乱を起こし文武両道多芸多能で怨霊伝説もあるスゴイ人物。

藤原兼子~後鳥羽天皇の乳母で院政で権勢をふるい朝幕関係に手腕を発揮するも承久の乱後に権力を失う。

北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。

北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。

北条時房~初代連署で六波羅探題南方、北条義時の弟で甥の北条泰時とは最高の相棒であり好敵手でした。

北条泰時~3代執権で道理の人~北条執権政治の中興の祖で御成敗式目を制定した人物。

武田信義~甲斐源氏であり武田氏の初代当主となり、武田信玄の遠いご先祖様です。

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阿波局(北条時政の娘)~梶原一族滅亡の火付け役?夫は源頼朝の弟で源実朝の乳母だが姉同様に我が子を失う

三浦義村~鎌倉幕府の創設期から執権政治の確立まで仕え権謀術数に優れた策略家

矢部禅尼~三浦義村の娘で北条泰時の正室、子供達は相模三浦氏や戦国大名の蘆名氏につながる。

三浦光村~三浦義村の四男で公暁の門弟、将軍派で反北条であり宝治合戦で三浦宗家が滅亡。

比企尼~源頼朝の乳母~ずっと支え続けた偉大なゴッドマザーで鎌倉幕府創立の陰の功労者。

比企朝宗~比企一族で源頼朝と朝廷に仕えており才色兼備である姫の前の父親です。

比企能員~源頼朝を支え有力御家人として権勢を握るも北条氏に嵌められ1日で滅ぶ。

比企能員の妻~渋河刑部丞兼忠の娘・「鎌倉殿の13人」では道、二つの渋河氏、比企氏と源氏の深い関係と安房国

一幡~一幡之君袖塚~源頼家の長男として誕生するもわずか6歳で人生の幕を閉じる。

梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。

天野遠景~工藤氏の一族で天野氏の祖~初代の鎮西奉行に就任。子孫が各地で根付き繁栄します。

中原親能~朝廷と幕府の交渉役のエキスパート~実務官吏でありながら戦にも従軍する

大江広元~四男の毛利季光は毛利氏の祖となりやがて戦国大名の毛利氏へと続きます。

三善康信~鎌倉幕府の初代問注所執事で母は源頼朝の乳母の妹です。問注所とは裁判機関のことです。

源頼家~悲劇の2代目~北条VS比企、時々朝廷、そして東国武士の権力闘争が渦巻く時期。

源実朝~3代将軍にて天才歌人~繊細で思慮深く秘めた志あり、やがて雪の中に散っていく。

源頼茂~摂津源氏で在京御家人で鎌倉と朝廷を仲介する立場、後鳥羽院に追討され自害。

つつじ(辻殿)~源頼家の正室で「吾妻鏡」では公暁の生母、父は足助重長、祖父は源氏の勇者と名高い源為朝です。

三浦胤義~三浦義村の弟で妻は源頼家の側室、承久の乱では京方として三浦一族と激闘の末、自害します。

藤原秀康~承久の乱での朝廷側の大将軍ですが、後鳥羽上皇に見捨てられ京で斬られます。

公暁~源頼家の息子で源頼朝の孫、叔父であり義理の父親でもある源実朝暗殺の実行犯となった。

源仲章~後鳥羽院の廷臣であり鎌倉幕府の在京御家人という二重スパイ的立場で実朝と共に散ります。

畠山重保~畠山重忠の嫡男「六郎さま」・訳も知らぬまま謀反の疑いをかけられあえなく散る。

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結城朝光~誇り高く抜け目ない政治力と巧みな弁舌で鎌倉幕府に重きを成していきます。

仁田館跡~慶音寺に今も残る土塁と堀。仁田忠常とは?

加藤景廉~頼朝挙兵以来の側近で承久の乱まで生き残る。長男は遠山氏の祖で有名となった子孫あり!

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泉親衡(泉小次郎)~泉親衡の乱は和田一族の炙り出し?泉小次郎館跡と小次郎馬洗いの池が泉区にあります。

天野政景、承久の乱で活躍し、遠江・武蔵・安芸国・信濃国等の各地に多くの所領を得ます。

牧の方~北条時政を操り?陰謀を巡らせジャマな将軍や御家人たちを消したヤバすぎる人

平賀朝雅~源氏門葉の一族で妻は北条時政と牧の方の娘、故に権力争いの渦中に巻き込まれていきます。

北条氏邸跡(円成寺跡)~北条氏の本拠地で鎌倉幕府滅亡後は尼寺として一族の冥福と鎮魂を祈った地

北条宗時~北条時政の嫡男であったが石橋山の戦いで散る~異説有り。

山木判官平兼隆館跡~源氏再興の狼煙はここから始まりました。

石橋山の戦い~源頼朝旗揚げの地!300VS敵3000!大敗するも真鶴から安房へ逃れて再挙を図る。

伊東佑親~源頼朝の配流地の監視役で八重姫の父であり、北条義時・曽我兄弟・三浦義村の祖父。

真珠院・八重姫御堂~八重姫とは?父親たちの選択によって明暗を分けた娘たち。

安達盛長~源頼朝を流人時代からの側近で生涯に渡って支え続け厚い信頼を得た人物。

足立遠元~十三人の合議制のメンバー、平治の乱で活躍し、東国武士ながらも文官の素養を持つ人物でした。

土肥実平とその妻~武士団「中村党」の中心であり頼朝から厚い信頼を受けた宿老~小早川家の祖。

大乗院~土屋氏屋敷跡、土屋宗遠を祖とする土屋氏は北条氏・足利氏・武田氏・北条氏政・徳川家に仕えました。

亀の前~頼朝が流人時代から寵愛していた女性~そして政子の諸事情について

運慶~日本彫刻史上最も有名な人物でその作風は力強く躍動的で写実的です。

慈円~歴史書「愚管抄」の著者で九条兼実は同母兄、天台座主を務め小倉百人一首にも選出されています。

大弐三位(紫式部娘・藤原賢子)~母からは和歌や文才を、父からは明朗で自由快活な気性を受け継ぎ、行動力溢れ長寿を全うしました。

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