【古河公方館跡】
古河公方館(こがくぼうやかた)は
茨城県古河市鴻巣にあった中世の城館です。
鴻巣御所・鴻巣館とも呼ばれています。
古河御所と呼ばれる場合もあります。
現在、古河公方館跡地の大半は
古河総合公園(古河公方公園)にあります。
享徳4年(1455年)、
享徳の乱の際に、
初代古河公方の足利成氏により
築かれたと考えられています。
古河城本丸から南東へ
1km程度離れた鴻巣の地にあり、
御所沼に突き出た半島状台地に
築かれた連郭式の中世城館です。
天正18年(1590年)には、
最後の古河公方足利義氏の娘である
氏姫(氏女)の居館でした。
寛永7年(1630年)に、
氏姫の孫にあたる尊信が
下野国の喜連川に移ったのちは主を失い、
時宗十念寺の寺域となります。
現在、当時の建築物は残されてはいません。
城跡の大半とその周辺は
古河総合公園(古河公方公園)として
整備されています。
【別名】
鴻巣御所・鴻巣館
【城郭構造】
平城
【天守構造】
なし
【築城主】
足利成氏
【築城年】
享徳4年(1455年)
【主な城主】
足利成氏、氏姫
【廃城年】
寛永7年(1630年)
【遺構】
堀、土塁
【指定文化財】
茨城県指定文化財(史跡)
【所在地】
〒306-0041 茨城県古河市鴻巣399−1
(古河公方公園<古賀総合公園>)
【開園時間】
・日の出から日の入りまで。
※園内に街灯はありません。
・管理棟窓口:午前8時30分~午後5時
(年末年始12月28日~1月4日を除く)
【交通アクセス】
【列車】
◆JR宇都宮線「古河」駅下車⇒
タクシー約10分
バス約5~16分
徒歩約40分(約2.6km)
◆ 東武日光線「新古河」駅下車⇒
タクシー約10分
徒歩約40分(約2.6km)
【車】
◆東北自動車道:
「久喜IC」から約30分(約16km)
「館林IC」から約20分(約15km)
◆圏央道:
「境古河IC」から約30分(約14km)
「五霞IC」から約30分(約15km)
(引用元:公式サイトより)
<場所>
青印は公園の駐車場出入り口付近です。
※駐車場は無料です。
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【古河公方公園(古賀総合公園)からのお願い】
新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、
咳エチケットの徹底等、ご協力の程お願いいたします。
発熱などの風邪の症状がみられる場合、
公園の利用はできません。
また、当面の間、
飲食を伴う宴会などのご利用はお控えください。
ご理解、ご協力の程、よろしくお願い致します。
【古河公方】
古河公方(こがくぼう)は、
室町時代後期から戦国時代にかけて、
下総国古河(茨城県古河市)を
本拠とした関東足利氏。
【享徳の乱】
享徳4年(1455年)、
第5代鎌倉公方・足利成氏が
鎌倉から古河に本拠を移し、
初代古河公方となりました。
その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと
約130年間引き継がれました。
御所は主に古河城でした。
古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、
両方をあわせて
関東公方と呼ぶこともあるそうです。
【日本史上における古河公方の位置付け】
古河公方が成立した享徳の乱は、
応仁・文明の乱に匹敵するもので、
関東における
戦国時代の幕を開ける事件ともいえます。
それまでの政治体制が大きく動揺し、
新興勢力の小田原北条氏が
台頭する遠因ともなったとのことです。
これまで、関東における戦国時代については、
小田原北条氏を軸にして
捉える傾向がありました。
そのため、
小田原北条氏以前の実態には
関心が比較的低かったとのことです。
けれども、近年の研究により
関東諸豪族から
鎌倉公方の嫡流とみなされた
古河公方を頂点とする権力構造が
存在したことが明らかになっています。
小田原北条氏の関東支配は
古河公方体制に接触し、その内部に入り込み、
やがて体制全体を換骨奪胎、
自らの関東支配体制の一部として
包摂する過程であったのでした。
関東における戦国時代は、
享徳の乱時の古河公方成立で始まり、
豊臣秀吉による小田原北条氏滅亡で
終結したとの見解ができるそうです。
【鎌倉府の設置と関東分国】
貞和5年(1349年)、
室町幕府は関東分国統治のために
鎌倉府を設置しました。
関東分国には、
上野国・下野国・常陸国・武蔵国
上総国・下総国・安房国・相模国・伊豆国
甲斐国(現在の関東地方と伊豆半島・山梨県)が含まれ、
後には陸奥国・出羽国(現在の東北地方)も
追加されたのでした。
【鎌倉府の構成】
鎌倉府は鎌倉公方とその補佐役である
関東管領、諸国の守護、奉行衆、
奉公衆らで構成されました。
鎌倉公方は室町幕府初代将軍足利尊氏の
次男である足利基氏を初代とし、
足利氏満・足利満兼と継承されました。
けれども次第に幕府から
独立した行動を取り始めます。
【永享の乱】
永享11年(1439年)、
第4代鎌倉公方足利持氏と
6代将軍足利義教・関東管領上杉憲実とが対立し、
足利持氏が討たれて鎌倉府は滅亡しました。
【結城合戦】
翌年の永享12年(1440年)、
幕府と関東管領・上杉氏に反発する
結城氏朝を始めとする諸豪族が
足利持氏の遺児である
春王丸及び安王丸兄弟を奉じて
下総の結城城に立て籠もりました。
これを上杉清方が鎮圧し、
其の後も不安定な状態が続いたのでした。
永享の乱と結城合戦の結果、
上杉氏は所領を拡大しましたが、
それとは逆に、
圧迫された伝統的豪族の反発は
後の大乱の遠因ともなったとも言われています。
【鎌倉府再興】
足利義教の死後、
幕府は持氏旧臣らによる
鎌倉府再興の要望を受け入れ、
文安4年(1447年)に、
足利持氏の遺児で
春王丸と安王丸の兄弟の足利成氏が
第5代鎌倉公方に就任しました。
幕閣内では前管領の畠山持国の支援があり、
上杉氏も新たな鎌倉公方が対立する
諸豪族との仲介になることを期待していました。
なお、関東管領は
上杉憲実の子である上杉憲忠に交替しました。
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【関東の豪族と上杉氏の緊張関係】
けれども、
小山氏・結城氏・宇都宮氏
千葉氏・那須氏・小田氏等の伝統的豪族と、
関東管領山内上杉家・扇谷上杉家との
緊張関係は改善する様子がありませんでした。
【江の島合戦】
しかも、宝徳2年(1450年)には、
山内上杉家の家宰である
長尾景仲及び扇谷上杉家の家宰太田資清が
足利成氏を襲撃する事件が発生したのでした。
難を逃れた足利成氏は、
両者の処分を幕府に訴えましたが
実現には至りませんでした。
【鎌倉公方への姿勢】
享徳元年(1452年)、
管領が細川勝元に代わると、
幕府の対東国政策も変化し、
関東管領の取次がない書状は
受け取らないなど、
鎌倉公方に対して
厳しい姿勢をとるようになりました。
【古河公方の成立】
享徳3年(1454年)、
足利成氏による関東管領である
上杉憲忠の謀殺をきっかけとして
享徳の乱が勃発したのでした。
享徳4年(1455年)、
分倍河原の戦いと
小栗城(筑西市)の戦い等、
緒戦は足利成氏勢が有利でした。
けれども、室町幕府は足利成氏討伐を決行。
同年6月、上杉氏援軍の今川範忠勢は、
足利成氏が遠征中で不在となっていた
本拠地である鎌倉を制圧しました。
そのため、足利成氏は
下総の古河を新たな本拠としたのでした。
そうして古河公方と称されるようになりました。
【「享徳の乱」と称された理由】
享徳4年(1455年)7月、
元号が康正に改められましたが、
足利成氏は改元に従わず、
享徳を使用し続け、
これにより、
このときに始まる内乱は
「享徳の乱」と呼ばれるように
なったとのことです。
【古河公方VS幕府・堀越公方・関東管領】
一方、長禄2年(1458年)、
室町幕府は足利政知を
新たな鎌倉公方として東下させました。
けれども足利政知は鎌倉へ行けず、
伊豆の堀越を御所としたため、
堀越公方と称されました。
以後およそ30年間にわたり、
おもに下野国・常陸国
下総国・上総国・安房国を勢力範囲とした
古河公方・伝統的豪族勢力と、
おもに上野国・武蔵国・相模国・伊豆国を
勢力範囲とした幕府・堀越公方
関東管領山内上杉氏・扇谷上杉氏勢力とが、
関東を東西に二分して戦ったのでした。
【古河公方と幕府の和解】
緒戦で不利だった上杉勢は、
五十子陣を始めとして、
河越城・岩付城・江戸城などの
拠点を整備して反撃に転じ、
長年に渡って一進一退の戦況が
続いたとのことです。
けれども文明8年(1476年)、
山内上杉氏家宰の後継争いに起因した
長尾景春の反乱が発生し、
上杉氏内部の矛盾が大きくなります。
そしてようやく機運が熟して、
足利成氏と幕府との和睦が成立したのでした。
文明14年11月27日(1483年1月6日)
であったとのことです。
【古河公方の承認】
この和睦の結果、
堀越公方は伊豆一国を
支配することになりました。
それは実質的には、
足利成氏は関東公方の地位を
あらためて幕府に承認されたと
見なされるものでした。
【鎌倉に戻れない足利成氏】
しかしながら、長享の乱と称される
古河公方と堀越公方の
並立、山内・扇谷両上杉氏間の抗争の勃発など、
不安定な状態は依然解消されず、
足利成氏が鎌倉に戻ることはなかったとのことです。
【鎌倉の支配者が伊勢宗瑞になる】
鎌倉は相模守護である
扇谷上杉氏の支配下でした。
その後、永正9年(1512年)8月頃、
伊勢宗瑞(北条早雲)の
支配下に置かれることになるのでした。
【古河の本拠地化】
古河移座の背景
享徳の乱の際に、
足利成氏が新たな本拠地として
古河を選んだ理由としては、
以下が指摘されているそうです。
【鎌倉公方の経済的基盤】
経済的基盤:鎌倉公方の御料所は
家臣団により経営されて、
経済的基盤となっていました。
その主なものとしては、
(1)
鎌倉周辺の相模国内、
(2)
下河辺荘を中心とした関東平野中心部、
の二か所にありました。
そのうち、下河辺荘の拠点だった古河は
経済的にも適地であったのでした。
なお、足利家の家臣簗田氏と野田氏は、
それぞれ下河辺荘の水海・関宿と
古河・栗橋を地盤とし、
足利成氏の古河移座後も
関宿城及び栗橋城に拠って
古河公方を支えたのでした。
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【古河公方と上杉氏の支配下】
足利成氏の古河移座当時、
下野国・下総国全体、常陸国の大半が
古河公方勢力下にあったそうです。
一方上野国・武蔵国の大半と
相模国・伊豆国全体は上杉氏の支配下でした。
【係争地(けいそうち)】
係争地とは、
領有権を巡って争いや対立が起こっている
土地のことです。
上野国東部・武蔵国北東部・常陸国南部が
係争地でした。
従って、古河は各地に散在した
支持勢力の中心にあり、
且つこれらを束ねる扇の要の位置にありました。
古河公方を支持した武家・豪族は、
下野の宇都宮氏(明綱、正綱)、
那須資持・小山持政、
下総の結城氏(当初は成朝、のち氏広)、
千葉氏(康胤・輔胤・孝胤)、
常陸の佐竹義俊・小田持家、
上野東部の岩松持国等です。
特に小山持政は、
足利成氏が「兄弟の契盟」関係と呼ぶほど
強く信頼していたとのことです。
宇都宮氏や千葉氏は、
支持派と反支持派との内紛の結果、
古河公方側になっています。
また、上杉氏の影響力が弱い上総国・安房国には、
それぞれ、
古河公方家臣の武田信長、里見氏が入部しました。
一方、常陸国南部の
筑波郡・稲敷郡・真壁郡では
上杉氏の影響力が強かったのでした。
【当時の古河の地理地形について】
古河は水上交通の幹線となる
河川が集まっていました。
当時の河船は、
現在の鉄道・自動車に匹敵する
最大の物流・交通手段でした。
渡良瀬川・利根川水系では、
上流の渡良瀬川・思川が、
足利氏ゆかりの下野国足利荘、
および岩松氏や小山氏等の
有力豪族拠点と直結していました。
下流の太日川(現在の江戸川)は、
古河公方御料所である
下河辺荘を縦断していました。
なお、当時の渡良瀬川・利根川河口は東京湾でした。
また、常陸川水系では、
印旛沼に面した佐倉を拠点とする
有力豪族の千葉氏と結ばれていました。
なお、現在の利根川下流、茨城・千葉県境部に当たります。
利根川や渡良瀬川を始めとする
大小河川や湖沼・湿地が、
上杉勢に対する天然の堀となり、
守りやすい地形でありました。
また、南北朝時代から、
戦略上の要地として整備されてきました。
【中世都市・古河】
成氏の移座により、
古河は第二の鎌倉となり、
新たな東国の都となったのでした。
また、鎌倉府から継承された
政治・権力・組織を「古河府」とも称します。
町の様子は近世(江戸時代)に大きく変わったため、
現在では残念ながら当時の面影が残っていません。
けれども分かっていることは幾つかあるそうです。
古河公方御所(中世古河城)の場所は、
近世古河城の本丸に該当していました。
また、近世以前の奥州への古い街道が
古河城内を縦断し、
観音寺曲輪・桜町曲輪の場所に
宿場町があったそうです。
【記録に残る古河の都市】
「松陰私語」によりますと、
文明年間に上野国の岩松尚純が
古河に出仕したときの様子として、
居城の金山城から古河までは
利根川を舟で往来したこと、
御所には大きな「四足御門」があったこと、
御所の周辺に宿所と呼ばれる
家臣団の集落があったこと、
座頭・舞々・猿楽等の
芸能集団が活動していたことなどが
記されているそうです。
また、第二代政氏のときには、
連歌師の猪苗代兼載が
公方家侍医田代三喜の治療を
受けるために滞在し、
殿中で句会を開催したとのことです。
【古河の城下町】
古河には、
鎌倉から多くの奉公衆やその他の家臣、
僧侶・文化人が移住してきました。
古河城を中心に展開した城下町には、
廻船・陸運業、倉庫・金融業を営む特権商人、
および馬具作りなどの職人集団が住んでいました。
経済・医療・技術・宗教・文化面でも
東国の最先端地に成長しました。
鎌倉の持っていた
政治・経済・文化面の機能を
相当程度受け継いだと考えられています。
なかでも鎌倉府から
継承された政治・権力・組織を
「古河府」と呼ぶこともあるとのことです。
【両上杉氏間の抗争】
【扇谷上杉氏の優勢】
享徳の乱終結後、
長享の乱と称される
今度は山内上杉家と
扇谷上杉家との抗争が始まりました。
扇谷上杉定正が
家宰の太田道灌を暗殺した
直後の長享2年(1488年)、
山内上杉顕定が
扇谷勢へ攻撃を開始すると、
扇谷上杉定正は
古河公方成氏・政氏らの支援を得て反撃し、
相模実蒔原・武蔵須賀谷原・武蔵高見原の
合戦で優勢に立ったのでした。
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【和議の締結】
けれども、明応3年(1494年)に
扇谷上杉定正が陣中で急死した後、
家督を継承した上杉朝良が
駿河国の今川氏親や
伊勢宗瑞(北条早雲)らの支援を得る一方で、
今度は山内上杉顕定が
第2代古河公方となった
足利政氏らの支援を得て再度対陣し、
永正元年(1504年)、
武蔵立河原で扇谷勢が大勝したにも関わらず、
永正2年に山内勢が
扇谷上杉朝良の本拠河越城を攻撃すると、
扇谷上杉朝良は山内上杉顕定に
和睦を申し出て乱が終結したのでした。
【公方-管領体制の再構築】
この抗争の中で、
山内上杉顕定は
古河公方との結びつきを強化しました。
「堀越公方の滅亡」
「上杉朝良と外部勢力(伊勢宗瑞等)の結びつき」
などの事件が続けて発生して、
旧来の秩序が不安定化してしまいます。
すると、山内上杉顕定は
関東管領として足利政氏のもとに出仕し、
さらに足利政氏の弟を養子に迎えて
後継者(顕実)としたのでした。
こうして関東管領を
古河公方「御一家」と成したのです。
このように、
「公方-管領体制」の再構築と
秩序回復を進めたのでした。
【公方家内紛】
【永正の乱】
永正3年(1506年)、
足利政氏の嫡子である足利高基は、
足利政氏との不和が原因で、
義父の宇都宮成綱を頼って
下野宇都宮に移座し、
永正の乱と称される、
公方家を動揺させる内紛が始まりました。
【不和の原因の推測】
不和の原因は良く分かってはいませんが、
例えば、足利高基が山内上杉顕定に対して、
異心なきことを誓った
起請文を出していることから、
足利政氏を支えていた山内上杉顕定と
足利高基との間に問題があったと
推測されているそうです。
また、足利政氏が山内上杉氏との
連携を重視する一方、
足利高基は対立する
小田原北条氏を重視したことを
取り上げる見解もあるとのことです。
また他の見解では、
足利高基の正室は宇都宮氏から
瑞雲院(宇都宮成綱の娘)を迎えていますが、
このように正室を周辺の
伝統的豪族に求めた例はないことから、
足利高基と宇都宮氏との特別な関係も
背景として考えられているそうです。
【公方家と関東管領家の内紛の拡大化】
永正6年(1509年)、
山内上杉顕定らの調停により、
足利高基は政氏と和解して
古河に帰座しました。
翌年の永正7年に山内上杉顕定が
越後で戦死した直後、
足利高基は再び古河城を離れて、
公方家重臣である
簗田高助の関宿城へ移座しました。
同時に山内上杉家でも
家督争いが始まると、
足利政氏は山内上杉顕実を支援し、
足利高基は山内上杉憲房を支援したため、
公方家と関東管領家にまたがる
内紛に拡大しました。
【足利高基・山内憲房体制へ】
永正9年(1512年)、
山内上杉憲房が
山内上杉顕実本拠の武蔵鉢形城を攻略した後、
山内上杉顕実は足利政氏を頼って古河城に逃走。
その直後に足利政氏も小山成長を頼って
小山祇園城に移座したのでした。
代わりに足利高基が古河城に入り、
第3代古河公方の地位を確立した結果、
「公方-管領体制」は、
足利政氏・山内上杉顕定(顕実)体制から、
足利高基・山内憲房体制に置き換わったのでした。
のちに山内上杉憲房もまた、
足利高基の子を養子に迎えて、
関東管領の後継者(憲寛)としました。
【足利政氏の敗北確定】
永正13年(1516年)、
足利高基方の中心人物である
宇都宮成綱が縄釣りの戦いで
足利政氏を支持する
佐竹義舜・岩城由隆に勝利したことや、
足利政氏を支持する那須氏が
宇都宮氏と同盟を結び、
足利高基方に寝返ったことや、
小山氏内部において、
足利高基を支持する
小山政長らが主導権を握ることになり、
足利政氏の敗北は決定的となりました。
足利政氏は扇谷上杉朝良を頼って
岩付城へ移座し、
同15年(1518年)の扇谷上杉朝良死去後は、
甘棠院(埼玉県久喜市)にて隠棲したとのことです。
【公方権力の分裂】
【足利義明について】
足利高基の弟である足利義明は、
雪下殿(鶴岡八幡宮若宮別当)の地位にありました。
空然と称していまたが、
還俗して義明と改名しました。
初代足利成氏の時代にも、
弟の足利定尊が雪下殿として、
寺社による地方支配体制、
いわゆる「公方-社家体制」を支えて、
公方権力の一翼を担っており、
足利義明も同様の立場でありました。
【足利義明が小弓公方となる】
永正の乱当初、
弟である足利義明は
兄の足利高基に協力していましたが、
足利高基が古河公方の地位を確立すると、
独立して行動し始めたのでした。
永正14年(1517年)、
上総の真理谷武田氏が、
足利高基側の下総・原氏から小弓城を奪取。
足利義明は下河辺庄高柳(久喜市高柳)から
小弓城に移座し、
自らを足利政氏の後継であるとして、
嫡流を足利高基と争います。
そしてこれを小弓公方と称します。
この結果、公方権力は分裂し、
その一翼を担った
「公方-社家体制」も崩壊しました。
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【小弓公方を支持する勢力】
小弓公方は、
扇谷上杉朝良および安房国の里見氏、
常陸国の小田氏・多賀谷氏らにも
支持された大勢力でした。
北条氏綱も、
真理谷武田氏との関係により、
小弓公方を支持したのでした。
【古河公方VS小弓公方、繰り返す激戦】
永正16年(1519年)、
足利高基は小弓側の拠点である
椎津城(市原市)を攻撃しましたが、
足利義明は里見氏の軍勢で反撃しました。
その後も、
古河側の高城氏拠点根木内城と
小弓側の名都借城(流山市)など
各地で激戦が繰り広げられ、
古河側重要拠点の関宿城も
小弓勢の脅威にさらされたのでした。
【小弓公方の滅亡】
天文2年(1533年)および天文3年と、
小弓公方支持基盤となっていた
安房の里見氏および上総の真理谷武田氏において、
連続して家督争いが始まりました。
このとき、
足利義明は里見義豊・ 真里谷信応を支持し、
北条氏綱は里見義堯・真里谷信隆を支持しました。
この家督争いの結果、
特に真理谷武田氏は大きく衰退しました。
同じころ小田原北条氏の武蔵侵攻を受けて、
扇谷上杉氏の勢力も後退したため、
小弓公方をとりまく状況が
大きく変化し始めたのでした。
【国府台合戦】
享禄4年(1531年)、
古河公方が足利高基から嫡男の足利晴氏に、
同時に関東管領も足利高基次男の上杉憲寛から、
嫡流の上杉憲政に代わりました。
足利晴氏が第4代古河公方となった後の
天文7年(1538年)、
足利晴氏の上意を得た小田原北条勢が下
総国府台に進出した小弓勢を打ち破りました
この結果、足利義明が敗死して
小弓公方は滅亡し、
古河・小弓分裂状態が解消されました。
【小田原北条氏との相補・相克】
【小田原北条氏の台頭】
第4代公方足利晴氏は
北条氏綱の力を借りて国府台合戦に勝利しました。
そのため、これを契機に
古河公方体制内における
小田原北条氏の影響力が増大したのでした。
天文8年(1539年)、
北条氏綱の娘が足利晴氏のもとに入嫁します。
後の芳春院であり、
次の古河公方になる足利義氏の母です。
この婚姻は足利高基が
小田原北条氏と約束していましたが、
足利晴氏は放置していました。
けれども、国府台合戦以後、
古河城直近にまで勢力を広げた
北条氏綱の度重なる要請を
無視することはできませんでした。
以後、北条氏綱は自らを
古河公方足利氏「御一家」・関東管領であるとし、
小田原後北条氏に警戒心を抱く
周辺の伝統的豪族に対して、
関東支配の正統性を
主張できるようになったのでした。
【河越合戦】
扇谷上杉氏は、
度重なる小田原北条勢の攻勢に耐えきれず、
大永4年(1524年)、
江戸城と岩付城を続けて失い、
天文6年(1537年)には
本拠の河越城も失陥していました。
けれども、天文10年(1541年)、
北条氏綱が没すると、
山内上杉氏・扇谷上杉氏は反撃を開始します。
扇谷上杉朝定と山内上杉憲政は、
駿河の今川義元と計って
小田原北条勢を挟撃し、
天文14年(1545年)には
河越城を包囲しました。
足利晴氏は、小田原北条家を継いだ
北条氏康の要請により
当初は静観していましたが、
結局は山内上杉憲政の求めに応じて、
自ら兵を率いて河越城攻撃に参加しました。
しかしながら、
天文15年(1546年)、
両上杉・古河公方の連合軍は
小田原北条勢に敗れ、
扇谷上杉朝定は敗死、
山内上杉憲政は上野平井城に敗走、
足利晴氏も古河城に敗走したのでした。
その後、山内上杉憲政は越後国に逃れ、
上野国も小田原北条氏の
勢力範囲内になったのでした。
【北条氏康の甥・足利義氏が古河公方に】
劣勢になった足利晴氏は
小田原北条氏の介入を排除できなくなり、
次の古河公方になるはずだった
足利藤氏を廃嫡し、
天文21年(1522年)には自らも退いて、
北条氏康の甥にして婿である
足利義氏を第5代古河公方としました。
足利義氏は
小田原北条氏の庇護のもとで
公方権力を行使し、
小田原北条氏が関東諸豪族に
介入することになるのでした。
足利義氏は家督継承直後の
天文22年(1553年)、
小田原北条氏重臣である
遠山氏支配下の下総国葛西城におり、
天文24年(1554年)11月の元服も
この地にて行われました。
以後、永禄元年(1558年)の
鶴岡八幡宮に参詣するまで
「葛西殿」と称されていました。
【関宿城の明け渡し】
天文23年(1554年)、
足利晴氏と足利藤氏は古河城に籠城し、
小田原北条勢に抵抗しましたが、ダメでした。
足利晴氏は相模の秦野に幽閉されたのでした。
弘治3年(1557年)、
足利晴氏は古河城に戻り、
再度抵抗を企てましたが、
小田原北条氏に近い
公方重臣の野田氏によって栗橋城に幽閉され、
永禄3年(1560年)に没しました。
永禄元年(1558年)、
鎌倉にいた足利義氏は
古河に近い関宿城に移座しました。
これには小田原北条氏に従わない
公方重臣の簗田氏を、
弱体化させる目的もあったと推測されています。
関宿は簗田氏の基盤でしたが、
古河公方である足利義氏の命令には
簗田晴助も従わざるを得ず、
関宿城を明け渡したのでした。
【北条氏政と上杉謙信の公方擁立争い】
永禄3年(1560年)、
北条氏康が隠居して、
北条氏政が家督を継いだ直後、
長尾景虎(後の上杉謙信)が
関東侵攻を始めました。
長尾景虎は第13代将軍である
足利義輝から御内書を得た上で、
越後に逃れた上杉憲政を奉じ、
三国峠から上野に進出したのでした。
永禄4年(1561年)、
足利義氏の関宿城を包囲し、
古河城には長尾景虎が
正統な古河公方として擁立した
足利藤氏が入りました。
このとき、
上杉憲政および長尾景虎を支援する
近衛前久も古河城に入りました。
一方、
足利義氏は小田原北条側に参陣するように、
関東諸士に対して
多数の軍勢催促状を発給しましたが、
結局、古河城に近い関宿城から退去したのでした。
【上杉謙信、関東管領を引き継ぐ】
同年、長尾景虎はさらに
小田原北条氏本拠の小田原城を攻撃したものの、
落城には至らずに撤退しました。
その直後、長井景虎は上杉憲政から
山内上杉家の名跡を譲り受けて、
関東管領も引き継いだのでした。
上杉政虎、後に輝虎と改名した長尾景虎と、
北条氏政はそれぞれ異なる古河公方を奉戴し、
自らの関東管領の正統性を争うことになりました。
その後も両者は互いに攻防を繰り返し、
永禄5年(1562年)には、北条氏照の攻勢を受けて、
足利藤氏・上杉憲政らが古河城から退去しました。
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【古河公方の消滅】
永禄12年(1569年)、
武田信玄の動向を警戒した
上杉輝虎と北条氏政との間に
越相同盟が成立しました。
その結果、足利義氏は古河城に入り、
古河公方の地位を確立します。
けれども、古河公方および関東管領の
正統性争いが妥協によって終結したことは、
両者ともに関東管領への関心が低下したこと、
「公方-管領体制」が機能を失ったことを示すのでした。
【足利義氏、死す】
越相同盟以後、
小田原北条氏の関東支配が確定的になると、
古河公方を擁立する必要性も低下しました。
古河公方の家臣の知行割も
栗橋城に入った北条氏照によって実施され、
更に簗田氏・一色氏などの重臣家では
これまで古河公方を支えた嫡流
(簗田晴助・一色直朝)
に代わって北条氏に忠実な庶流が
要職を占めるようになったのでした。
そして、天正11年(1583年)、
足利義氏が男子を残さず没した後にも、
何ら対策が取られないまま、
古河公方は自然に消滅したのでした。
【古河足利家は存続】
なお、そののちも古河城には
足利義氏の娘(氏姫)を擁した
古河公方宿老・家臣団がおり、
古河足利家自体は引き続き存続していました。
関東地方の国人衆への官途補任の権限は
小田原後北条氏に移されましたが、
一方で足利氏に認められた
特権であった五山の公帖発給権
(古河公方の場合は鎌倉五山)を
小田原北条氏が継承することは出来ず、
「新しい公方が決まるまで」
という名目で宿老衆が
仮の公帖を発給し続けたのでした。
【末裔(喜連川氏)】
【豊臣秀吉の考え】
天正18年(1590年)に
小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、
古河城に残された足利義氏の娘(氏姫)と、
小弓公方の子孫である
足利国朝との婚姻を成立させて、
下野国喜連川に所領を与えました。
豊臣秀吉の目的は、
名家の血筋が絶えることを
惜しんだとする見解が一般的ですが、
関東公方家の権威には
未だ影響力が残っており、
新たに関東を支配する
徳川家康への牽制効果を期待したとの考えもあります。
【喜連川氏から足利氏へ】
古河公方の末裔は、
江戸時代には喜連川氏と称し、
大名格として明治まで続きました。
なお喜連川家は
徳川家の家来筋ではないという
江戸時代に特異な武家でした。
明治維新後は足利姓に復し、
家名は現代まで存続しているとのことです。
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