【宇都宮城】
宇都宮城(うつのみやじょう)は、
栃木県宇都宮市本丸町にあった日本の城。
関東七名城の一つです。
江戸時代は宇都宮藩の藩庁となりました。
別名、亀ヶ岡城(かめがおかじょう)。
【別名】
亀ヶ岡城
【城郭構造】
輪郭梯郭複合式平城
【天守構造】
なし
【築城主】
藤原秀郷または藤原宗円
【築城年】
平安時代末期
【主な改修者】
本多正純
【主な城主】
宇都宮氏、本多氏、奥平氏、戸田氏
【廃城年】
1868年
【遺構】
土塁、大いちょう、石垣
【指定文化財】
なし
【再建造物】
清明台櫓、富士見櫓、土塁・堀、土塀
【城について】
平安時代に藤原宗円が
二荒山の南に居館を構えたのが
初めとされています。
二荒山神社の祭祀を行い、
周辺を支配してきました。
戦国時代の宇都宮城は
度々戦場の舞台となり、
敵の攻撃に備えるために
深い堀と高い土塁をもつ
守りの固い城になっていきました。
近世・江戸時代に入ると、
本田正純に改修され、
輪郭と梯郭形式を合わせた
土塁造りの平城であったそうです。
またこの時に城下町もつくりかえを行い、
現在の宇都宮市の中心部の骨格はこの時に
成したものであるとの事です。
更に、本多正純の頃には
天守があったとされていますが、
清明台櫓を事実上の天守としていたとのことです。
また、徳川将軍の日光東照宮参拝の際に
将軍の宿泊施設として利用されました。
【将軍の日光社参】
宇都宮城には、
江戸幕府将軍が宿泊する御成御殿がありました。
これは将軍が日光参詣(日光社参)の際、
宿泊するための施設です。
将軍の行列はとても人数が多く、
城も城下町も大変な賑わいだったそうです。
【釣天井事件】
江戸時代、
宇都宮城主となった本多正純が
日光社参から帰る将軍を
からくり仕掛けの天井を作って
暗殺しようとした事件のことです。
ですが、これは事実ではなく、
作り話です。
本多正純が突然に宇都宮城を取り上げられ、
出羽の国(現在の秋田県)へ流されたことから
生まれた創作なのです。
其の後、講談や芝居の題材となり、
全国的に広まりました。
【宇都宮城の廃城】
明治初頭の戊辰戦争の際に
建物の大半が焼失し、
堀も次第に埋められていきました。
更に、第2次世界大戦後に
都市開発が行われたため、
遺構は現在ではほとんど残っておりません。
けれども、本丸の一部の土塁が現存し、
本丸の土塁、堀が外観復元、
建物(清明台、富士見櫓、土塀)が木造で復元され、
宇都宮城址公園として
一般に公開されています。
今後、本丸御成御殿、
本丸清水門、本丸伊賀門を復元する計画があるそうです。
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【現在確認できる遺構】
<埼玉県川口市本町の錫杖寺>
明治41年に宇都宮城の門を解体、
移設再建されたと伝わる山門が現存しています。
<栃木県宇都宮市瓦谷町萬松寺の山門>
明治時代に宇都宮城の門を
宇都宮市塙田の成高寺へ移築後に
萬松寺の山門として再移築されたと伝わります。
現存する門は草屋根を
近年瓦葺き屋根の門に改修されたものです。
<今小路門>
明治時代に城郭一帯が
民間払い下げになった際に
移築されたと伝わる門が
宇都宮市北部の民家に現存しています。
<三の丸跡の土塁上ある旭町の大いちょう>
当時の位置のままで現存しています。
【城の歴史】
【古代・中世】
築城年代は平安時代に遡ります。
藤原秀郷もしくは
藤原宗円(宇都宮氏の祖)が
築城したと伝えられています。
もともと宇都宮には
宇都宮大明神(二荒山神社)が鎮座し、
藤原宗円は前九年の役に際して
源頼義・源義家に伴われて
奥州遠征に赴き、
その功によって
当社座主の地位と
毛野川(鬼怒川)流域一体の
支配権を与えられました。
以来、鎌倉時代から
室町時代・安土桃山時代まで
530年もの間、
国司・守護・関東八屋形に列せられ、
宇都宮城は宇都宮氏の居城(居館)となり、
北関東支配の拠点となったのでした。
この頃の宇都宮城は中世城郭だったといわれています。
【近世・戦国時代】
戦国時代初期には、
宇都宮城で17代当主宇都宮成綱が
実権を掌握するために、
芳賀高勝を謀殺し、
宇都宮錯乱とよばれる大きな内紛が起こり
その戦場となったのでした。
戦国時代後期には小田原北条氏や
家臣である壬生氏や皆川氏の侵攻を受け、
一時はその一派によって占拠されました。
【宇都宮仕置】
小田原征伐に続く
宇都宮仕置ではその舞台となりました。
豊臣秀吉に謁見するため
奥州の大名らが宇都宮城に参城しました。
なお、この頃の宇都宮氏は
小田原北条氏の侵攻を防ぐために
多気山城に拠点を移していたのでした。
宇都宮氏は豊臣秀吉から
所領を安堵され、
居城を元の宇都宮城に戻すように命じられます。
その後羽柴姓を授かるなど、
豊臣秀吉との仲は良好でした。
けれども慶長2年(1597年)、
突如改易されてしまいました。
宇都宮氏改易後の慶長3年(1598年)、
宇都宮城には蒲生秀行が18万石で入り、
日野町や紺屋町を造成して
宇都宮城下の商業整備を進めたのでした。
【江戸時代・奥平氏】
慶長6年(1601年)12月28日には
関ヶ原の戦い後の京警備で
功を認められた奥平家昌が10万石で入り、
かつて宇都宮氏の菩提寺の一つであった
田川対岸にある興禅寺を
再興するなど城下町の機能を復興したのでした。
【本多正純が城主となる】
さらに元和5年(1619年)、
徳川家康の懐刀と言われた
本多正純が15万5千石で宇都宮に入ります。
本多正純は、
宇都宮城と城下の改修を行いました。
【城の改修と城下町の整備】
縄張りを拡張して新たな郭を設け、
本丸など城郭周囲を掘削し、
湧水を張って幾重の水濠とし、
掘削で生じた土を高く盛り上げて
土塁としました。
こうして本多正純は
宇都宮城を近世城郭としていきます。
【本丸御殿は将軍の宿泊所】
更に、城下の日光街道と
奥州街道を整備して町割を行い、
城内の寺社群(延命院、長楽寺など)を
街道沿いに再配置するなど
城下の防御能を向上させると同時に、
城内に将軍宿泊所となる本丸御殿を建設します。
【日光社参の関しての設備向上】
また宇都宮宿の宿機能・駅機能を整備するなど
日光社参に関する設備向上を促進したのでした。
この大改修工事の結果、
宇都宮城下は城下町、門前町、
宿場町の各機能を持つ都市に再編されたのでした。
宇都宮城改修に際し、
本多正純は幕府の意向に順じ、
宇都宮城に天守は設けず
2層2階の清明台櫓を天守の代わりとしました。
【宇都宮城釣天井事件】
しかし、本多正純の意に反して
宇都宮城改修にまつわる
本多正純謀反の噂が流布され、
元和8年(1622年)に
本多正純は改易されたのでした。
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【本多正純が行った宇都宮の都市基盤】
本多正純時代の3年間は、
宇都宮城下に大きな変化をもたらしました。
本多正純によって再編された都市基盤は
近代都市・宇都宮市の礎となったのでした。
その後、奥平氏、奥平松平氏、本多氏、
奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平氏と
譜代大名が城主としてこまめに入れ替わりました。
江戸時代後期には戸田氏が6~7万石で治め、
幕末を迎えたのでした。
【近代】
【宇都宮戦争】
宇都宮は慶応4年4月(1868年5月)、
戊辰戦争の戦地となりました。
宇都宮城の建造物は
藩校修道館などを残して
宇都宮の町並み共々焼失したのでした。
この時、宇都宮城下戸数約3000戸のうち
8割以上の約2000数百戸が焼失し、
また寺町群も48寺院が
全半焼したと伝えられています。
宇都宮城には一時大鳥圭介ら
旧幕府軍が入りましたが、
直ぐに河田佐久馬、
伊地知正治、大山弥助、
野津七次、有馬藤太ら率いる
新政府軍に奪還され、
(薩摩藩、長州藩、鳥取藩、大垣藩などの藩兵隊)
宇都宮藩奉行の戸田三左衛門に引き渡されました。
【宇都宮藩兵は新政府軍の一部隊に】
その後、大津港に抑留されていた
藩主の戸田忠友も帰還します。
これ以降、宇都宮城は
東山道軍の対会津戦争の拠点となり、
板垣退助をはじめ東山道軍の幹部等が駐屯。
宇都宮藩兵は新政府軍の一部隊として
下野国内から白河、会津と転戦していきます。
前藩主の戸田忠恕は
同年5月27日(1968年7月16日)に
宇都宮に帰城しましたが間もなく他界したのでした。
【真岡県の誕生】
旧暦(同年6月)、
宇都宮城内には下総野鎮撫府が
古河から移転してきました。
また、1871年に
真岡天領が廃され真岡県が出来ると、
鍋島道太郎が真岡知県事に選任されました。
陣屋を真岡から宇都宮城内に移しました。
同年、
城内に東京鎮台第4分営第7番大隊が駐屯することに。
この部隊はその後の1874年に
東京鎮台歩兵第2連隊第2大隊に名称を変えます。
【御本丸公園の整備と消える城郭の面影】
そして1884年にこの部隊が
下総国佐倉に移駐となると、
宇都宮城内は静かになり、
やがて明治23年(1890年)には
城郭一帯が民間に払い下げとなり、
城内には御本丸公園が整備され、
市民の憩いの場として
様々な催しが行われたということです。
一方、城門などの痕跡は払い下げによって失われ、
城郭の面影は徐々に消えていったのでした。
また濠は西館濠、
地蔵濠などの内堀が戦後まで残され、
鯉の養殖や蓮の栽培がされていたそうです。
【太平洋戦争後】
戦後、日本政府による
戦災復興都市計画の策定に伴い、
昭和21年(1946年)10月9日、
宇都宮市も戦災都市に指定され、
城跡の遺構は撤去され市街地へと生まれ変わりました。
昭和30年代(1955年⇒1964年)頃までは
現在の東武宇都宮百貨店近辺にも
大きな水濠が残存していたそうです。
しかし衛生上の事情を理由に、
1972年(昭和47年)までに
すべて埋め立てられたそうです。
【宇都宮氏】
宇都宮(うつのみや)氏は、日本の氏族。
摂関家藤原北家道兼流を称する大族です。
下毛野氏、中原氏の流れを汲むともいわれています。
【出自】
藤原氏一族の藤原北家の
藤原道兼の曾孫を称する藤原宗円が、
源頼義、義家の奥州安倍氏討伐
(前九年の役)での功により
宇都宮(現・栃木県宇都宮市二荒山神社の別称)
別当職に任じられました。
藤原宗円の孫の宇都宮朝綱から
苗字(名字)として宇都宮氏を名のり始めました。
けれども、「宇都宮市史」や
「姓氏家系大辞典」では、
藤原宗円を藤原道兼の子孫とするのは
後世の仮冒で、
宇都宮氏は中原氏の出、
あるいは古代の毛野氏の後裔とされているなど、
出自には諸説あります。
【宇都宮氏嫡流(下野)】
宇都宮氏は下野国が本拠地であったため、
各地の庶流に対してしばしば
下野宇都宮氏といわれることがあるそうです。
下野国一之宮名神大社であった
宇都宮二荒山神社座主
および日光山別当職等を務め、
紀清両党を率い22代・500年に亘って下野国、
さらには日本国土の治安維持を司った名家です。
国司や守護も歴任し、
現在では戦国大名とも評されています。
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【鎌倉時代】
源頼朝をして「関東一の弓取り」と言わしめた
宇都宮朝綱は第3代宇都宮氏当主となります。
また第5代宇都宮頼綱(藤原頼綱)は、
武人で奥州藤原氏討伐にも功績がありましたが、
鎌倉幕府から謀反の嫌疑をかけられたのを機に
法然に帰依して出家し、
実信房蓮生と号して京に隠棲して
宇都宮歌壇を確立しました。
【小倉百人一首の起源】
京都嵯峨野の小倉山麓の庵に住まい、
その襖色紙には親交があった
藤原定家によって選じられた首歌が書かれ、
これが小倉百人一首の起源として
伝統文化に受け継がれています。
【三井寺再建】
浄土宗を信仰した宇都宮頼綱は、
京常盤、桐生、宇都宮に念仏堂を建立し、
現在もそれぞれ入逢山西方寺、
梅田山西方寺、
芳宮山清巌寺に受け継がれています。
宇都宮頼綱は幕府から許された後の
1215年には園城寺(現在の三井寺)再建に尽力し、
その功によって伊予国守護に任じられたのでした。
(1220頃~1235年頃)
【元寇、討伐軍の総大将】
鎌倉時代中期、第8代宇都宮貞綱は
元寇の際、鎌倉幕府による
討伐軍の総大将として九州に赴き、
これに勝利すると鎌倉幕府引付衆に任じられました。
宇都宮貞綱は亡母の13回忌に、
全国的にも珍しい
巨大鉄製塔婆を奉納したとのことです。
こちらは宇都宮市清巌寺蔵で
国の重要文化財となっています。
【南北朝時代】
鎌倉時代末期に河内国で
楠木正成らが挙兵すると、
第9代宇都宮公綱は討伐軍に参加します。
楠木正成から宇都宮公綱を「坂東一の弓取り」、
紀清両党を
「戦場で命を捨てることは、塵や芥よりも軽いもの」
と宇都宮氏の武勇を高く評したとのことです。
鎌倉幕府滅亡後に、
後醍醐天皇の建武の新政がはじまると
雑訴決断所を務めました。
足利尊氏が鎌倉で新政から離反した後も
宇都宮公綱は南朝方として動いていましたが、
子である10代宇都宮氏綱は足利氏に属しました。
【薩埵山体制】
足利家の内紛から発展した
観応の擾乱では足利尊氏方に就いた
宇都宮氏綱が武功を上げ、
足利尊氏の意向で
上野・越後国守護職を務め、
北関東及び関東全体での
支配的地位を磐石なものとしたのでした。
【宇都宮氏綱の追放】
ところが、足利尊氏が死ぬと、
鎌倉公方であった足利基氏(足利尊氏の子)は
自分の腹心でありながら
観応の擾乱では足利尊氏と敵対した
前上野・越後守護職上杉憲顕を
強引に関東管領に復帰させた上に、
上杉憲顕が上野・越後守護職を
宇都宮氏綱から強引に返還させようとして
宇都宮氏綱がこれを拒むと、
足利基氏は関東管領への反抗を理由に
宇都宮氏綱を追討したのでした。
【小山氏の乱】
その後、下野守護職の小山義政に
宇都宮氏綱の子である
11代宇都宮基綱が殺害されてしまいます。
すると鎌倉公方は宇都宮氏を支援したのでした。
【一貫性のない鎌倉公方への抵抗】
庶流から宇都宮氏に入った13代宇都宮持綱が
上総国守護職に任じられると、
一転して鎌倉公方の警戒を受けて討伐を受けました。
こうした鎌倉公方の方針に不満を抱いた宇都宮氏は
室町幕府直属の京都扶持衆に加わって
鎌倉公方に対して抵抗を続けながら
勢力挽回を図っていくのでした。
【室町時代中期】
【家督を巡る二つの派閥の抗争】
宇都宮持綱没後の宇都宮氏は、
一門武茂氏を中心とする親室町幕府派と、
同じく一門塩谷氏や
重臣芳賀氏・益子氏を中心とする
親鎌倉府派の二つの派閥による
家督を巡る抗争が続いたのでした。
その後、塩谷氏出身の宇都宮家綱が
鎌倉府から公認により、
宇都宮氏の当主として認められました。
けれども、永享3年(1431年)に
室町幕府と鎌倉府の和睦交渉が行われた際の
条件の1つに宇都宮氏の家督問題が取り上げられ、
最終的に家督は幕府からの意向により
宇都宮持綱の遺児である宇都宮等綱が
14代当主として継ぐことになったのでした。
けれども、相変わらず宇都宮氏は
宇都宮等綱派と
宇都宮家綱派で2つに分裂しており、
この不安定な状態は、
結城合戦で宇都宮家綱が討死するまで続いたのでした。
【享徳の乱、勃発】
享徳3年(1454年)に
享徳の乱が勃発すると
宇都宮等綱は幕府から
足利成氏追討の命を受けた
駿河守護の今川範忠の軍勢に呼応し
宇都宮勢を挙兵、鎌倉を攻め落としました。
しかしながら、小山氏を頼り、
古河に逃れた足利成氏は報復として
小山持政、那須資持らによる宇都宮討伐を行い、
宇都宮城を包囲したのでした。
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【宇都宮等綱、追放される】
そうした中、重臣芳賀氏や
宇都宮等綱の嫡男である宇都宮明綱が
古河府側に寝返ったため、
宇都宮等綱は宇都宮明綱に家督を譲って
出家せざるを得ない状況になり、
宇都宮城から追放されたのでした。
【小山氏に侵攻されないために】
この頃の小山氏の勢威は
関東管領上杉氏に匹敵するほどでした。
15代宇都宮明綱と
16代宇都宮正綱は
小山氏当主であった小山持政の
甥の関係であったため、
宇都宮領南部や宇都宮領都賀郡を譲渡し、
後見を受けることで侵攻されることを
免れていたのでした。
【戦国期宇都宮家中の原型を作る】
そのご宇都宮正綱は塩谷氏、武茂氏といった
主要な一門を臣従化させ、
戦国期宇都宮家中の原型を作っていきます。
【戦国時代】
【宇都宮成綱の登場】
戦国時代初期には、
第17代当主で、
「奇蹟の武人」、
「宇都宮氏の中興の祖」と呼ばれ、
宇都宮氏の全盛期を築き上げた
名将である宇都宮成綱が現れたのでした。
【宇都宮成綱、家督を継ぐ】
宇都宮正綱が陣没したために
幼くして家督を相続します。
家督相続後、
その結果に不満を抱いて叛乱を起こした
武茂氏を重臣である
芳賀高益・芳賀景高の力を借りて鎮圧。
古河公方足利成氏の支援を得て再臣従させました。
【小山領を攻め込む】
小山持政が没して混乱している小山氏に対し、
幼いながらも宇都宮成綱は
その好機を逃さずに、
すぐさま小山領を攻め込ん
で勢力版図を拡大します。
【外交手腕にも長ける】
一方、優れた外交手腕を発揮し、
古河公方足利成氏の二男で
次期関東管領とされている
上杉顕実の娘を自らの妻として娶り、
更に娘の瑞雲院を
次期古河公方足利高基に嫁がせるなど
古河公方家や
関東管領上杉家との
緊密な関係を築いていきます。
その他にも上那須氏当主那須資親や
小田氏当主小田成治から娘を妻として娶り、
結城氏当主の結城政朝に
自分の娘を嫁がせるなど
味方を増やしていき、
北関東での支配的地位を
磐石なものとしたのでした。
【戦国期宇都宮家中を形成】
家臣団も再編し、
有力一門の塩谷氏や武茂氏に兄弟を継がせるなど、
宇都宮氏当主を頂点とする
戦国期宇都宮家中を形成していきます。
宇都宮氏に臣従した者には
名前に「綱」の一字を与え、
家臣たちとの結束力を高めようとしたのでした。
【古河公方家の争いと宇都宮家】
永正年間に古河公方家の争いが勃発すると、
宇都宮成綱を頼り、
宇都宮へ逃れてきた娘婿である
足利高基を庇護し、
足利高基の古河公方擁立を企てます。
足利高基派には上那須氏、小田氏、結城氏といった
宇都宮成綱との関係が深い勢力が多かったのでした。
しかし、筆頭重臣である芳賀高勝が
足利政氏の支持を表明し宇都宮成綱と対立します。
【あえて隠居】
芳賀高勝は宇都宮成綱を失脚させ、
宇都宮成綱の嫡子である
宇都宮忠綱を当主に擁立しようとしたため、
宇都宮成綱は敢えてその策に嵌まり、
宇都宮忠綱に家督を譲り、隠居の身となりました。
宇都宮成綱は宇都宮忠綱に後見人として、
宇都宮成綱の弟である塩谷孝綱を付け、
宇都宮忠綱が芳賀高勝の
傀儡になることを防ぎました。
【宇都宮錯乱】
宇都宮成綱は1512年に、
芳賀高勝を殺害すると宇都宮錯乱が勃発。
これを2年かけて鎮圧したのでした。
【竹林の戦い】
その後は1514年に、
古河公方足利政氏派の
佐竹義舜と岩城氏と下那須氏が
2万騎以上の連合軍を率いて
下野国へ攻め込んで来ました。
そして宇都宮の北東である竹林で両軍は衝突。
結城政朝、足利高基らの援軍も駆けつけています。
この合戦は足利政氏派と足利高基派による
事実上の決戦であり、
当時の北関東最大規模の合戦となったのでした。
合戦は宇都宮勢の勝利となりました。
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【足利高基、古河公方就任】
この合戦の勝利によって、
足利高基の古河公方就任は名実ともになり、
宇都宮成綱ら足利高基派による
足利高基の古河公方擁立は成し遂げられました。
【縄釣の戦い】
その2年後の1516年に、
再び佐竹義舜と岩城氏の連合軍が下野国へ侵攻。
宇都宮成綱は病気で動けなかったため、
宇都宮忠綱が宇都宮成綱の名代で出陣し、
連合軍に対して圧勝したのでした。
この合戦の勝利の背景には、
宇都宮成綱の策により、竹林の戦い後、
那須氏を足利高基派へ
引き入れることに成功したからであると言われています。
【宇都宮氏の全盛期】
宇都宮成綱の代で
宇都宮氏の勢力は安定化し、
全盛期を迎えます。
【宇都宮氏の衰退】
宇都宮成綱の死後、
嫡男である18代宇都宮忠綱は
強硬な家臣団の支配強化などを行ったために
家臣の叛乱を招くことになりました。
その結果、大永の内訌が勃発してしまい、
宇都宮氏当主の権威は大きく失墜し、
弱体化することとなっていみます。
そして、19代宇都宮興綱、
20代宇都宮俊綱の頃は
宇都宮氏当主は
家臣団の傀儡となり果てていったのでした。
【下克上で城を乗っ取られる】
武茂氏や松野氏といった一門も
佐竹氏に降伏して離反しています。
21代宇都宮広綱の時代には、
父である宇都宮尚綱が
喜連川五月女坂の戦いで那須氏に討ち取られると、
宿老壬生綱房・壬生綱雄父子に
宇都宮城を乗っ取られ、
下克上されてしまったのでした。
【小田原北条氏との対峙と多気山城】
この窮地を重臣芳賀高定が救い、
1557年には
北条氏康や佐竹義昭らの協力を得て
宇都宮城の奪還に成功しています。
その後は、上杉謙信や佐竹義重らとともに、
古河府足利氏の弱体化に伴って
関東に台頭した北条氏と対峙しました。
宇都宮広綱は佐竹義昭の娘・南呂院を娶り、
佐竹氏との関係を強化しています。
22代宇都宮国綱は防衛に向かない
宇都宮城を家臣へ任せ、
過激化する小田原北条氏や壬生氏、
那須氏、皆川氏の攻撃に耐えられるよう、
多気山城を北関東最大規模の山城へと改修し、
そこを新たな本拠地としたのでした。
<多気城(多気山城)>
【豊臣政権期以降】
天正18年(1590年)、
豊臣秀吉の小田原城攻撃で
小田原征伐で小田原北条氏が失墜し、
宇都宮氏は下野国18万石の所領を維持しました。
宇都宮国綱は1592年の朝鮮出兵にも参陣し、
帰還後は豊臣姓を賜り従五位下に任じられました。
けれども1597年、
突然改易され備前国配流となり、
1608年に江戸浅草の石浜で
失意のうちに病死したのでした。
これによって、
22代・500年に亘って繁栄した
関東の名門である宇都宮氏は
歴史の表舞台から去ることとなったのでした。
【突然の改易の理由として】
突然の改易の理由は、
太閤検地の為に派遣された
浅野長政に石高不正を訴えられたことや、
浅野長政の次男である長重と
宇都宮家の養子話のこじれがあった等と
言われているとのことです。
【大阪の陣以降も家名の再興ならず】
さらに関ヶ原の戦いで
徳川家康率いる東軍に組するのを
宇都宮国綱が拒んだため、
大坂の陣による豊臣政権崩壊後も
家名の再興は認められなかったのでした。
【水戸藩士として】
宇都宮国綱の子である宇都宮義綱は、
水戸藩・徳川頼房に仕え、
さらにその子の宇都宮隆綱は
家老に取り立てられたとのことです。
以降、子孫は水戸藩士として
江戸時代を過ごし、明治維新を迎えたのでした。
【宇都宮氏の傍系】
傍系として、
常陸国守護小田氏や、
三河国の出身で
江戸時代には徳川家譜代大名として
小田原を治めた大久保氏が祖と仰ぐ
武茂氏がいるとのことです。
古河公方館跡~古河公方とは?関東における戦国時代の幕開けの存在
唐沢山城~藤原秀郷の築城と伝わる「関東一の山城」と称される関東七名城。
壬生城~壬生氏が築城し、江戸時代に鳥居氏が城主となり先祖の鳥居元忠公を祀りました。
飛山城~宇都宮氏の家臣である芳賀氏の居城で築城は鎌倉時代、国指定の史跡です。
下野・横田城~宇都宮一族の横田氏の居城、のちに上三川城に移りました。
上三川城~多功城と共に宇都宮城の南方の防衛の支城で現在は城址公園です。
多功城~宇都宮氏の一門である多功氏の居城で宇都宮城の南方防衛でした。
中里城(宇都宮市)~氏家公頼の二男である中里高信が鎌倉時代に築城し主家は宇都宮氏でした。
徳次郎城(宇都宮市)~宇都宮氏家臣の新田徳次郎昌言が日光山僧兵対策で築城。
祖母井城(芳賀城)~代々宇都宮氏の家臣であった祖母井吉胤が築城、往時は大城郭だったとのこと。
早乙女坂古戦場~那須氏と宇都宮氏が争い那須氏が勝利した古戦場跡です。
大蔵ヶ崎城(喜連川城)~平安時代の末期に塩谷氏が築城し400年統治後は足利氏の後裔である喜連川氏の居城。
真岡城~宇都宮氏の家臣であった芳賀氏の居城、江戸時代には陣屋がありました。
下野・川崎城~藤姓塩谷氏の塩谷朝業が鎌倉時代初期に本拠地として築城、塩谷(しおのや)氏とは?
玉生城~塩谷朝業の曾孫の玉生忠景(忠昌)が鎌倉時代に築城、慶長2年まで玉生氏の城でした。
大宮城(塩谷町)~千葉常胤の子孫である大宮胤景が築城、その後は城主が変遷したと考えられています。
真岡鐡道「SLもおか」に乗ってきました!C12形蒸気機関車です。動画ありです
益子古城と益子城~宇都宮氏の家臣である 益子氏の居城でした。
茂木城(桔梗城)~宇都宮一族の茂木氏の居城で現在は綺麗に整備されています。
笠間城~鎌倉時代に笠間氏が築城し18代治めた後、江戸時代は笠間藩庁が置かれました。
小栗城~坂東平氏の流れをくむ常陸小栗氏が築城、室町期の関東地方の激動の渦にのまれていきました。
坂戸城(常陸国)~宇都宮氏家臣の小宅氏の居城、この城を巡り宇都宮氏と小田氏で激戦が繰り広げられました。
海老ヶ島城~室町時代に結城成朝が築城、子が海老原氏と名乗り、やがて結城氏と小田氏で城の争奪戦となり勝者は佐竹氏。
山王堂の戦い~上杉謙信VS小田氏治の野戦で激戦、上杉勢の「神速」で小田勢は敗退し小田城が陥落。
小机城跡~長尾景春の乱と豊島氏の滅亡、小田原北条氏の時代へ~戦国時代の神奈川県を見つめてきた城
小山田城址・築城は小山田氏の祖である小山田有重、小山田神社に小山田氏の足跡あり。
小田原城跡~小田原北条五代~近世城郭と中世城郭の両方の遺構が残る城。
相模沼田城~波多野氏の一族の沼田氏が築城し、後に大森氏の所領となる。
生土城跡~大森氏が築城した支城~鎌倉公方・足利持氏が滞在したと伝わる中世の城。
河崎氏館について~渋谷氏の祖でありやがて近江源氏の佐々木氏を援助し間宮氏に続く
関宿城跡~利根川と江戸川に囲まれた関東の水運の拠点~北条が上杉を制した場所。
国府台城~下総国の大激戦の地~国府台合戦、里見氏VS小田原北条氏
高幡城跡~新選組・土方歳三の菩提寺である高幡不動~分倍河原の戦いにて上杉憲秋の終焉の地
栃木城~築城は皆川広照~小勢力ながら譜代大名として生き残りに成功した人物
小山城~小山氏の始祖である小山政光が平安時代に築城、下野国最大の武士団を率いていました。
皆川城~皆川氏の本拠地として鎌倉時代頃から戦国時代末期まで存在した城
羽柴秀吉(豊臣秀吉・木下藤吉郎)~下層民から天下人~の生涯を手短に!
徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!
亀姫(徳川家康の長女)、母は築山殿で夫の奥平信昌との間には4男1女を授かりました。
北条氏康~小田原北条3代目~相模の獅子 ・関東八州にその名を轟かした猛将は戦国随一の民政家。
浅野長政~豊臣秀吉の姻戚で五奉行筆頭、政治面で手腕を発揮、関ヶ原では徳川家康を支持します。
西方城~宇都宮一族の西方氏~皆川氏との激戦が繰り広げられた城
塩原城(塩原要害)~築城は平安時代末期で約420年間続いた城郭でした。
藤原道兼~父は藤原兼家、兄は藤原道隆、弟は藤原道長、待望の関白に就くも数日でこの世を去る。
黒羽城~大関高増が戦国期に築城し、黒羽藩として明治まで存続、松尾芭蕉も城下に滞在しました。
大谷摩崖仏~日本のシルクロード~国の特別史跡及び重要文化財、宇都宮家や亀姫が援助してきた古刹・大谷寺
根古谷台遺跡~縄文時代前期の集落遺跡~うつのみや遺跡の広場として
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