【岡崎義実】
岡崎 義実(おかざき よしざね)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将です。
三浦氏の庶家である岡崎氏の祖で三浦義明の弟です。
三浦義継の末子で三浦悪四郎と呼ばれていました。
神奈川県平塚市岡崎・伊勢原市岡崎にあたる
相模国大住郡岡崎を領し、岡崎氏を称しました。
【時代】
平安時代末期 – 鎌倉時代初期
【生誕】
天永3年(1112年)
【死没】
正治2年6月21日(1200年8月2日)
【別名】
四郎、平四郎、三浦悪四郎
【墓所】
神奈川県平塚市岡崎5736番地・
相模岡崎城址付近
【幕府】
鎌倉幕府
【氏族】
桓武平氏良文流、三浦氏、岡崎氏
【父】
三浦義継
【兄弟】
三浦義明、津久井義行、
蘆名為清、
義実、
大友経家室、
中村宗平室
【妻】
中村宗平の娘
【子】
真田(佐奈田)義忠、
土屋義清
【岡崎義実と源氏】
三浦氏は古くからの源氏の家人で、
岡崎義実は忠義心厚く、
平治の乱で源義朝が敗死した後に
鎌倉の源義朝の館跡の亀谷の地に
菩提を弔う祠を建立しています。
源義朝の遺児源頼朝の挙兵に参じ、
石橋山の戦いで嫡男である
真田義忠を失いましたが、
挙兵直後の源頼朝をよく助け
御家人に列しました。
晩年は窮迫しましたが
89歳の長寿を全うしました。
土肥実平の姉妹を妻にしており、
本家の三浦氏とともに
土肥氏とも関係が深いです。
また子供の土屋義清を
土肥実平の弟である土屋宗遠の
養子に出しています。
土肥実平・土屋宗遠は中村党なので、
三浦一族ではありますが、
実際は中村党との関係が
深いということになります。
【源頼朝挙兵に際して】
治承4年(1180年)8月9日、
源義朝の遺児である源頼朝が
伊豆国で挙兵を決めると
嫡男である真田与一義忠とともに
直ちに参じました。
挙兵を前に岡崎義実は源氏の御恩のために
身命を賭す武士として、
特に源頼朝の部屋に呼ばれて
合戦について相談され
「未だに口外していないが、
汝だけを頼りにしている」との言葉を受け、
感激して勇敢に戦うことを誓ったとのことでした。
実は、このように密談をしたのは
岡崎義実だけではなく、
工藤茂光・土肥実平・宇佐美助茂・天野遠景・
佐々木盛綱・加藤景廉も同じことを
源頼朝から言われています。
ただし、岡崎義実と真田義忠父子が
特に頼みにされていたのは事実で、
挙兵前にあらかじめ土肥実平と伴に
北条館へ参じるよう伝えていたのでした。
【山木氏襲撃と石橋山の戦い】
8月17日に源頼朝は挙兵して
伊豆目代の山木兼隆の館を襲撃し
これを殺害。
その後源頼朝は300余騎の軍勢を率いて
相模国の土肥郷(神奈川県湯河原町)へ進出しました。
【嫡男・真田与一義義忠の討死】
23日に石橋山(神奈川県小田原市)で
平家方の大庭景親率いる
3000余騎と相対しました。
石橋山の戦いは寡兵の源頼朝方が大敗を喫し、
岡崎義実の嫡男である
真田与一義忠が討ち死にしています。
「平家物語」や「源平盛衰記」には
先陣となった真田与一義忠の奮戦ぶりが
詳しく描かれており、
武勇の若武者である真田(佐奈田)与一義忠の名は
後世に長く残ることになるのでした。
【安房国での再会】
敗走した源頼朝は山中に逃げ込み、
土肥実平の進言で一旦兵を
解散させることになりました。
一同は安房国で再会することを約し、
泣く泣く別れたとのことです。
岡崎義実は北条時政(甲斐国へ行った説有り)や
三浦義澄らと先発して安房へ舟を出し、
後から到着した源頼朝を迎えたのでした。
その後、源頼朝は千葉常胤や
上総広常らの軍勢を加えて再挙し、
関東の武士が続々と参陣して
10月6日に鎌倉に入ったのでした。
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【九郎義経との黄瀬川の対面】
10月20日の富士川の戦いに参加し、
合戦は戦わずして平家が敗走して終わりました。
合戦後の夜に、一人の青年が
黄瀬川の陣に現れ、
港も頼朝との面会を求めましたが、
その場にいた岡崎義実は怪しんで
取り次ごうとはしなかったとのことです。
騒ぎを聞きつけた源頼朝が面会すると、
その青年は弟の九郎義経だったのでした。
兄弟の対面に岡崎義実をはじめとする
諸将は涙したとのことです。
これは有名な黄瀬川の対面です。
【岡崎義実と上総広常の諍い】
治承5年(1181年)6月、
三浦義澄の館へ源頼朝が渡り酒宴が催されました。
その席で、岡崎義実は
源頼朝着用の水干を所望したとのことです。
源頼朝は快く許し、
岡崎義実は喜んでその場で着用しました。
すると上総広常がこれを妬み
「このような美服は、
この広常こそが拝領すべきものだろうに、
義実のような老い耄れが
賞せられるなどとんでもないことだ」
と言い放ったとのことです。
この暴言に岡崎義実は激怒し、
つかみ合いの喧嘩に
なりかかったとのことです。
源頼朝は言葉もなく
黙ってしまったのことですが、
同じ三浦一族である佐原義連が
岡崎義実に
「このような場で喧嘩とは
老狂のいたすところか」と叱りつけ、
上総広常には
「あなたの言うことは道理に合わない、
所存あれば後日に承ろう」
と仲裁に入り、ことは収まったのでした。
【上総広常の暗殺】
源頼朝政権の中で
飛びぬけて多くの兵力を有する
上総広常には驕慢な振る舞いが多く、
京を制して武家政権を樹立するよりも
関東割拠を主張するなど
危険な存在であったため、
この3年後の寿永2年(1184年)、
源頼朝の命令で梶原景時に暗殺されています。
【長尾定景の赦免】
岡崎義実の元には、
石橋山の戦いで嫡男の
真田(佐奈田)義忠を討ち取った
長尾定景が預けられていました。
長尾定景は長尾家2代目当主です。
慈悲深い岡崎義実は
息子の仇を討って首を刎ねることなく
囚人として捕らえるに留めおり、
長尾定景は日々法華経を
読経していたのでした。
ある日、岡崎義実は源頼朝に
「読誦を聞くうちに怨念は晴れました。
もしも彼を斬れば、
冥土の義忠が難を蒙りましょうから」
と言って長尾定景の赦免を願い出て、
治承5年(1181年)7月に
源頼朝はこれを許したのでした。
なお、長尾定景は
大庭景義・大庭景親らの従兄弟にあたります。
また源実朝を殺害した公暁討伐の命を受け、
公暁を殺めています。
そして長尾定景の遠い子孫が上杉謙信です。
【鎌倉の御家人として】
源頼朝の挙兵にいちはやく参じて
忠節を尽した岡崎義実は御家人に列して、
諸行事に参列しています。
既に70歳を超える老齢なためか、
その後の平家追討の戦いには
名が見えず従軍はしていないと見られています。
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【岡崎義実と波多野義景との訴訟】
文治4年(1188年)8月、
岡崎義実は相模国波多野本庄北方(神奈川県秦野市)
の所領を巡って波多野義景と訴訟になりました。
結果、岡崎義実は敗訴し、
罰として鶴岡八幡宮と勝長寿院での
100日間の宿直を命じられました。
結局、この罪は翌9月に岡崎義実の郎党が
箱根山で山賊の字王藤次を
捕らえたことで許されています。
文治5年(1189年)の
奥州藤原氏討伐に先次郎惟平とともに従軍しています。
【晩年】
建久4年(1193年)8月24日に
岡崎義実は大庭景義とともに
老衰であるためとして出家入道しました。
建久10年(1199年)正月に
源頼朝が死去し、
同年10月に三浦義村と和田義盛が主導した
梶原景時の変の景時弾劾連判状に
岡崎義実入道は名を連ねています。
正治2年(1200年)3月14日、
岡崎義実入道は杖をついて
尼御台所(北条政子)の御所を訪ねたそうです。
岡崎義実は80歳を超えて老衰し、
病に苦しみ、余命いくばくもないのにも
かかわらず貧乏して頼むところもなく、
所領は亡き真田義忠のために
仏寺へ寄進したいと志していますが、
残る所領も僅かで
子孫のことが案じられると泣いて
窮状を訴えたとのことです。
北条政子はこれを憐れみ、
石橋山の合戦の大功は
老後であっても
賞せられるべきであると
将軍の源頼家に一所を与えるよう
取りなしています。
その3ヶ月後の6月21日に
岡崎義実は89歳で
由比ヶ浜の自宅にて死去しました。
【證菩提寺】
横浜市栄区上郷町にある
證菩提寺(しょうぼだいじ)は、
源頼朝が岡崎義実の子である
真田(佐奈田)義忠を弔うために建設し、
建久8年(1197年)に
完成したといわれている古刹です。
「證菩提」は岡崎義実の法名だということです。
【その後の岡崎氏】
正治2年(1200年)6月21日に
岡崎義実が他界すると真田義忠の嫡男である
孫の岡崎実忠が後を継いだとされています。
建保元年(1213年)5月23日、
和田合戦が起こります。
一族の和田義盛が挙兵すると、
岡崎(真田)実忠は叔父の土屋義清や
中村党とともに一族を引き連れて
和田方に加勢しました。
この戦いで土屋義清は
敵の本陣を突こうとして討ち死にし、
岡崎(真田)実忠も一族とともに討ち死にしました。
ここに岡崎氏は壊滅したとされています。
なお伊豆真田氏は岡崎氏の末裔を称しています。
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実は真田義忠にはもう一人子供が居ました。
名前は岡崎(真田)盛実といいます。
この岡崎(真田)盛実は
真田城に入ったとされています。
和田合戦で討死した中で、
岡崎(真田)実忠の名は出てきますが、
岡崎(真田)盛実の名前はでてきません。
その後、相模岡崎城は室町時代に
文献に登場します。
それまでの間、誰が相模岡崎城の当主
であったのかはよくわかっていません。
三浦一族のどなたかが入ったのでしょうか。
それとも、岡崎にほど近い
相模国大住郡糟屋荘
(現神奈川県伊勢原市一帯)を本拠とした豪族である
糟屋氏(糟谷氏)(かすやし)(かすたにし)、
或いはその後に所領とした
扇谷上杉氏なのでしょうか。
【岡崎義実公御廟所】
岡崎城本丸跡に建つ無量寺の西方にあります。
無量寺入口を出て左に回りこむと
掲示板(380m)があるそうです。
お墓にダイレクトに行くには、
丘上になっている住宅地を上り、
住宅地をでた
草原、グラウンド及び雑木林まで上ります。
開発されていない野道を行くと、
ひとむらの雑木林があり、
その中に五輪塔や宝篋印塔などを
組み合わせて3基の墓があります。
岡崎義実とその嫡子である真田与一の乳母、
吾嬬の墓といわれている墓石です。
岡崎義実は真田与一に仕えた忠実な乳母である
吾嬬(あずま)を手厚く葬り、
自身もまた同じところに葬られたと
言い伝えられています。
平成12年8月には岡崎義実の
没後八百年を記念して、
木製の供養塔が建てられました。
【所在地】
〒259-1212 神奈川県平塚市岡崎5873−8
【駐車場】
専用の駐車場はありませんが、
車1台分の停車スペースならばあります。
道は狭いので、少し段差になっている空間に
登る感じで停車する、といった具合です。
【相模岡崎城】
築城は岡崎義実と伝わります。
現在城址は住宅地や畑などになっていますが、
居館跡と伝えられる無量寺の境内に
解説板と石碑があります。
主郭とされている無量寺は、
岡崎義実の時代ではなく、
もっと後の時代の主郭とも云われています。
無量寺の西側に南に伸びる尾根には、
空堀で断ち切られた曲輪跡を
確認することができるとのことです。
土塁、縄張・空堀などの遺構が確認できます。
南に伸びる尾根に沿った曲輪跡も
はっきりと確認できるとのことです。
寺の裏側の曲輪は畑となっています。
さらに堀を超えて尾根を藪こぎをすると
平らな曲輪跡があるとのことです。
丘になっており、
平塚市街が見渡せます。
住宅開発されており、
当時の遺構などは削られてはいますが、
それでもある程度の規模は残っており、
城址としてきちんとした保存をすれば、
中世から戦国期のお城として
もっと見ごたえがでると思います。
相模岡崎城が文献に出るのは、
1455年頃で、相模三浦氏の当主で
三崎城(相模・新井城)主である
三浦時高(三浦介)が相模岡崎城を奪います。
嫡子がいなかった三浦時高は
扇谷上杉持朝の次男である
上杉高救の子を養子に迎えて、
1462年に家督を継がせました。
この人物が三浦道寸こと三浦義同です。
やがて、相模三浦氏で争いが生じ分裂します。
三浦義同は養父の三浦時高と、
三浦時高の実子である三浦高教を自刃に追い込み
自らが岡崎城主となりました。
やがて伊勢盛時が攻めてきます。
相模岡崎城は歴史的には伊勢盛時と
長年にわたって争った
三浦義同(道寸)の城として
よく知られています。
1495年頃、
韮山城主であった伊勢盛時(北条早雲)が、
大森藤頼の小田原城を奪取します。
それから約17年間に渡り
小田原北条家から岡崎城を守り抜きましたが、
1512年、
ついに岡崎城は伊勢盛時により陥落しました。
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小田原城を奪取した伊勢盛時が
相模に侵攻し、
最初に攻略した城が相模岡崎城とされています。
其の頃には相模岡崎城は「要害」とされていた、
とのことですが、
こうして眺めたり歩いてみますと、
それなりの規模のあった防衛体制を彷彿させる
佇まいであり、技巧的な曲輪跡も見られるので
「要害」とは言い切れないとも感じました。
実際、岡崎の丘陵は最高地点が標高36mです。
その南側の麓の道路が標高10mあり、
比高は26mとなります。
平野に突き出た小高い丘陵の
ほぼ先端部にあり、
北側とは比高20mほどであり、
付近の地形を見る限りでは、
とても要害とは思えない、との結論に至りました。
【遺構】
曲輪、堀切、空堀、虎口、土塁
【所在地】
〒259-1135 神奈川県伊勢原市岡崎5410
(無量寺)
【交通アクセス】
<電車>
小田急小田原線「伊勢原」駅から徒歩20分程度
<車>
東名高速道路・厚木ICから15分程度
小田原厚木道路・平塚ICから5分程度
2022年NHK大河ドラマ
「鎌倉殿の13人」では
たかお 鷹(たかお たか)さんが
演じられます。
源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。
石橋山の戦い~源頼朝旗揚げの地!300VS敵3000!大敗するも真鶴から安房へ逃れて再挙を図る。
中村宗平~中村党の祖で源頼朝を支えてきた武士団で、鎌倉党とは大庭御厨を巡る対立がありました。
佐奈田霊社~石橋山の戦いで壮絶な死を遂げた真田(佐奈田)与一を祀っています。
真田城~神奈川県平塚市にある真田の郷、真田與一義忠(佐奈田義忠)について。
三浦義明と衣笠城合戦~長老は自らの命を盾に三浦一族の未来を守りました。
三浦義澄~源頼朝を支えた宿老の一人で13人の合議制のメンバーで相模守護。三浦一族の栄枯盛衰。
芦名城~戦国大名・蘆名氏の発祥の地であり、三浦一族の本拠地である衣笠城の支城でした。
土肥実平とその妻~武士団「中村党」の中心であり頼朝から厚い信頼を受けた宿老~小早川家の祖。
大乗院~土屋氏屋敷跡、土屋宗遠を祖とする土屋氏は北条氏・足利氏・武田氏・北条氏政・徳川家に仕えました。
神明大神宮 (しんめいだいしんぐう)~懐嶋城址~大庭景義の館址
上総広常~房総平氏の惣領家で源義朝の郎党~平家政権の打倒よりも関東の自立を目指し殺される
源義経~戦略家且つ戦術家であった若き天才~その悲運な生き様はやがて伝説となった。
梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。
和田義盛と和田合戦~三浦一族~鎌倉幕府創始の功臣だが北条義時に嵌められる
三浦義村~鎌倉幕府の創設期から執権政治の確立まで仕え権謀術数に優れた策略家
長尾城跡(大船)・鎌倉氏系長尾氏発祥の地、南北朝から戦国時代おいて長尾氏は上杉氏の家宰職でした。
新井城址・相模三浦氏とは?伊勢盛時から3年間持ちこたえた断崖の要害
伊勢盛時(北条早雲・伊勢宗瑞)の登場~小田原北条初代~名門一族の出自で関東に覇を唱えに行く!
扇谷上杉管領屋敷跡~扇谷上杉氏の遠祖は足利尊氏の叔父、鎌倉公方を補佐する関東管領家として鎌倉に居住しました。
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