【源実朝】
源 実朝(みなもと の さねとも、實朝)は、
鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍です。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の子としては
第6子で四男、
北条政子の子としては
第4子で次男として生まれました。
兄の源頼家が追放されると12歳で
征夷大将軍に就任します。
政治は始め執権を務める北条氏などが
主に執っていましたが、
成長するにつれ関与を深めていきました。
官位の昇進も早く武士として
初めて右大臣に任ぜられましたが、
その翌年に鶴岡八幡宮で
源頼家の子である公暁に暗殺されました。
これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶となりました。
歌人としても知られ、
92首が勅撰和歌集に入集し、
小倉百人一首にも選ばれています。
家集として「金槐和歌集」があります。
小倉百人一首では鎌倉右大臣とされています。
【時代】
鎌倉時代前期
【生誕】
建久3年8月9日(1192年9月17日)
【死没】
建保7年1月27日(1219年2月13日)
【改名】
千幡(幼名)⇒実朝
【別名】
将軍家、羽林、右府、
鎌倉殿、鎌倉右大臣
【墓所】
亀谷山寿福寺、
金剛三昧院、
白旗神社
【官位】
正二位、右大臣
【幕府】
鎌倉幕府 3代征夷大将軍
【氏族】
清和源氏(河内源氏)
【父】
源頼朝
【母】
北条政子
【兄弟】
千鶴丸、
大姫、頼家、
貞暁、乙姫、実朝
【妻】
正室:坊門信子(坊門信清の娘)
【子】
実子:なし、
猶子:公暁、竹御所
【出生】
建久3年(1192年)8月9日巳の刻、
鎌倉の名越浜御所、北条時政の屋敷と
いわれるところで生まれました。
幼名は千幡といいました。
父は鎌倉幕府を開いた源頼朝、
母はその正室で北条政子です。
乳母は北条政子の妹の阿波局、
大弐局ら御所女房が介添したとのことです。
千幡は若公として
誕生から多くの儀式で祝われました。
12月5日、源頼朝は
千幡を抱いて御家人の前に現れると、
「みな意を一つにして将来を守護せよ」
と述べ面々に千幡を抱かせたとのことです。
建久10年(1199年)に
父親の源が薨去し、
兄の源頼家が将軍職を継ぎます。
【将軍就任の経緯】
建仁3年(1203年)9月、
比企能員の変により源頼家は将軍職を失い
伊豆国に追われました。
母の北条政子らは朝廷に対して
9月1日に源頼家が死去したという
虚偽の報告を行い、
千幡への家督継承の許可を求めたのでした。
これを受けた朝廷は7日に
千幡を従五位下征夷大将軍に
補任したとのことです。
【元服と源頼家の死】
10月8日、
北条時政邸において12歳で元服し、
源実朝と称しました。
儀式に参じた御家人は
大江広元、小山朝政、安達景盛、
和田義盛ら百余名で、
理髪は祖父の北条時政、
加冠は源氏門葉筆頭の平賀義信が
行ったとされています。
24日にはかつて父の務めた
右兵衛佐に任じられました。
一方、翌年に兄の源頼家は
北条氏の刺客により暗殺されたのでした。
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【正室を迎える】
元久元年(1204年)12月、
京より坊門信清の娘である
坊門信子を正室に迎えました。
正室は当初は、
足利義兼の娘が
考えられていましたが、
源実朝は許容せず、
使者を京に発し妻を求めたとのことです。
元久2年(1205年)1月5日、
正五位下に叙され、
29日には加賀介を兼ね
右近衛権中将に任じられたのでした。
【畠山重忠の乱】
元久2年(1205年)6月、
畠山重忠の乱が起こり、
北条義時、時房、和田義盛らが鎮めました。
乱後の行賞は母親の北条政子に依り計らわれ、
源実朝の幼年の間はこの例に依るとされました。
【牧氏事件】
閏7月19日、
北条時政邸に在った源実朝を暗殺しようと
牧の方の謀計が鎌倉に知れ渡ります。
源実朝は北条政子の命を受けた
御家人らに守られ、
北条義時の邸宅に逃れたのでした。
牧の方の夫である北条時政は兵を集めるが、
兵はすべて北条義時邸に参じたとのことです。
20日、北条時政は伊豆国修禅寺に追われ、
執権職は義時が継いだのでした。
【和歌を好み父の歌を見る】
9月2日、「新古今和歌集」を
京より運ばせました。
和歌集は未だ披露されてはいませんでしたが、
和歌を好む源実朝は、
父の歌が入集すると聞くと
しきりに見る事を望んだとのことです。
建永元年(1206年)2月22日、
従四位下へ昇り、10月20日には
母の命により兄である源頼家の次男である
善哉(のちの公暁)を猶子としました。
【源実朝が歌の道に入った一の考察】
幼少期に偉大な父を失った源実時にとって、
父の姿は幼い時の淡い記憶の中
だったのかもしれません。
いろんな話もできぬまま旅立っていった父。
そうした父への想いが
和歌の中で辿ることができるとしたら・・。
源実朝が歌人として才能を発揮したのも、
もしかしたら父の想いを辿りたいゆえに
歌の道を究めていったのかもしれません。
歌を詠むことを通して、
父である源頼朝に
語りかけていたのかもしれませんね。
【遅刻の詫びは詠歌を献上】
11月18日、
歌会で近仕していた
東重胤(源実朝の側近。武将で歌人)が
数月ぶりに鎌倉へ帰参することになりました。
源実朝はかねてより和歌を送って
東重胤を召していましたが、
遅参した為に蟄居させたのでした。
12月23日、東重胤は北条義時の
邸宅を訪れ蟄居の悲嘆を述べたといいます。
北条義時は
「凡そこの如き災いに遭うは、
官仕の習いなり。
但し詠歌を献らば定めて快然たらんかと」
と述べたとのことで、
東重胤を伴って源実朝の邸宅に赴き、
東重胤の詠歌を源実朝に献じて
東重胤を庇ったとされています。
源実朝は東重胤の歌を三回吟じると、
門外で待つ東重胤を召し、
歌の事を尋ね許したとのことです。
【源実朝、疱瘡にかかる】
承元元年(1207年)1月5日、
従四位上に叙せられました。
承元2年(1208年)2月、疱瘡を患いました。
源実朝は疱瘡にかかる前までは、
これまで幾度も鶴岡八幡宮に参拝していました。
けれども、疱瘡にかかって以後の
3年間は病の痕を恥じて参拝を止めたのでした。
幕府の宗教的な象徴である
鶴岡八幡宮への参拝は
将軍の公的行事の中でも
最も重要なものの1つであり、
その期間の源実朝は疱瘡による
精神的打撃から政務のほぼ全般を
行い得なかったのではないか、
と推測する見解もある程です。
同年、12月9日、正四位下に昇進します。
承元3年(1209年)4月10日、従三位に叙せられ、
5月26日には右近衛中将に任ぜられました。
7月5日、和歌三十首の評を藤原定家に請いました。
【北条一族の勝手なふるまい】
11月14日、
北条義時が郎従の中で功のある者を
侍に準ずる事を望みます。
ここで言う「侍」とは、
位階で言えば六位に相当する
諸官衙の三等官を指し、
御家人たちはこの身分に
属していましたが、
北条氏の被官は御家人の家来にすぎず、
「侍」身分とは区別される身分であったそうです。
つまり、北条義時は自分の郎従だけを
特別扱いして欲しいと望んだのいうことです。
当然、源実朝は許容せず、
「然る如きの輩、子孫の時に及び定めて以往の由緒を忘れ、
誤って幕府に参昇を企てんか。
後難を招くべきの因縁なり。
永く御免有るべからざる」と述べたとされます。
けれども後に、北条氏の家人は
御内人と呼ばれ幕府で権勢を振るう事となるのでした。
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【官位が上がっていく源実朝】
建暦元年(1211年)1月5日、
正三位に昇り、18日に美作権守を兼ねます。
9月15日、猶子に迎えていた善哉は
出家して公暁と号し、
22日には受戒の為上洛しました。
建暦2年(1212年)6月7日、
侍所に於いて宿直の御家人が
闘乱を起こし二名の死者が出ます。
7月2日、源実朝は侍所の破却と新造を望み、
不要との声を許容せず、
千葉成胤に造進を命じます。
12月10日、従二位に昇ります。
【泉親衡の乱】
建暦3年(1213年)2月16日、
鎌倉幕府御家人で信濃源氏の
泉親衡らの謀反が露顕します。
源頼家の遺児である千寿丸を将軍として
北条義時を討つという企てがあったとして、
加わった者が捕らえられました。
その中には侍所別当を務める
和田義盛の子である
和田義直と和田義重もいました。
20日、囚人である
薗田成朝の逃亡が明らかとなりました。
源実朝は薗田成朝が受領を所望していた事を聞くと
かえって「早くこれを尋ね出し恩赦有るべき」と述べました。
26日、死罪を命じられた
渋河兼守が詠んだ和歌を見ると寛大な処置をとります。
27日に謀反人の多くは配流に処したのでした。
同日、正二位に昇ります。
3月8日、和田義盛が御所に参じ対面します。
源実朝は和田義盛の功労を考え
和田義直と和田義重の罪を許したのでした。
9日、和田義盛は一族を率いて
再び御所に参じ甥である
和田胤長の許しを請いますが、
源実朝は和田胤長が張本として許容せず、
それを伝えた北条義時は
和田一族の前に面縛した胤長を晒したのでした。
そして陸奥国岩瀬郡へ配流され、
屋敷は没収されることと決まったのでした。
和田胤長の屋敷は一旦は
和田義盛が拝領することになったのですが、
北条義時の反対に遭い、
結局は北条氏の預かりとなったのでした。
面目を潰された和田義盛は
北条氏を打倒する意思を固め、
やがては和田合戦に繋がることになったとされています。
【和田合戦】
4月、和田義盛の謀反が聞こえ始めます。
5月2日朝、兵を挙げます。
北条義時はそれを聞くと幕府に参じ、
北条政子と源実朝の妻を八幡宮に逃れさせました。
酉の刻、和田義盛の兵は幕府を囲み
御所に火を放ったのでした。
ここで源実朝は火災を逃れ、
源頼朝の墓所である法華堂に入ったのでした。
戦いは3日に入っても終わらず、
源実朝の下に
「多勢の恃み有るに似たりといえども、
更に凶徒の武勇を敗り難し。
重ねて賢慮を廻らさるべきか」
との報告が届いたとされています。
驚いた源実朝は政所に在った大江広元を召すと、
願書を書かせそれに自筆で和歌を二首加え、
八幡宮に奉じたとあります。
酉の刻に和田義盛は討たれ合戦は終わりました。
5日、源実朝は御所に戻ると
侍所別当の後任に北条義時を任じ、
その他の勲功の賞も行ったのでした。
この戦いでは和田一族の他に
愛甲季隆、大庭景義(大庭景能)の子である
大庭景兼といった有力御家人も
和田一族に味方して、一族共に滅んだのでした。
【この事件の黒幕は?】
いやあ、お見事ですね!
北条義時殿。
政所の別当だけではなく、
侍所の別当も地位も手に入れて、
北条氏による執権政治への体制が
一段と整いましたね。
合戦に至るまでの挑発、実に完璧でしたね。
と、いうことで和田合戦で最も
手柄を収めた北条義時さんへの賞賛でした。
・・・一応、黒幕はうやむやにはなっています。
【畠山重忠の末子・畠山重慶の謀反?】
9月19日、
日光に住む畠山重忠の末子であった
重慶が謀反を企てるとの報が届きます。
源実朝は長沼宗政に生け捕りを命じたのですが、
21日、長沼宗政は重慶の首を斬り帰参したのでした。
源実朝は
「重忠は罪無く誅をこうむった。
その末子が隠謀を企んで何の不思議が有ろうか。
命じた通りにまずその身を生け捕り参れば、
ここで沙汰を定めるのに、
命を奪ってしまった。
粗忽の儀が罪である」と述べると嘆息し
長沼宗政の出仕を止めたのでした。
それ伝え聞いた長沼宗政は眼を怒らし
「この件は叛逆の企てに疑い無し。
生け捕って参れば、
女等の申し出によって
必ず許しの沙汰が有ると考え、
首を梟した。今後このような事があれば、
忠節を軽んじて誰が困ろうか」と述べたそうです。
閏9月16日、兄である小山朝政の申請により
源実朝は宗政を許したとあります。
【源実朝の嘆きの理由は?】
将軍の命令を聞かずに勝手に
殺めた方に非があるのですが、
源実朝の嘆きは、将軍の命令さえ聞かない程、
自分はあくまでもお飾りに過ぎないのか・・
という思いだったのかもしれません。
で、長沼宗政は己の判断なのでしょうかね。
それとも別の誰かの命によって
最初から殺めるつもりだったのでしょうか?
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【万葉集で癒され「金槐和歌集」を纏める】
11月23日、
藤原定家より相伝の「万葉集」が届きます。
大江広元よりこれを受け取ると
「これに過ぎる重宝があろうか」
と述べ賞玩したとか。
同日、仲介を行った飛鳥井雅経が
かねてより訴えていた
伊勢国の地頭の非儀を止めさせます。
「金槐和歌集」はこの頃に
纏められたと考えられています。
【源実朝、雨を降らせる】
建保2年(1214年)5月7日、
延暦寺に焼かれた園城寺の再建を沙汰します。
6月3日、諸国は旱魃に愁いており、
源実朝は降雨を祈り法華経を転読し、
5日に雨が降り出しました。
13日、関東の御領の年貢を三分の二に免じます。
【「喫茶養生記」】
また同年には、栄西より「喫茶養生記」を献上されます。
「喫茶養生記」とは上下2巻からなり、
上巻では茶の種類や抹茶の製法、
身体を壮健にする茶の効用が説かれ、
下巻では飲水(現在の糖尿病)、中風、不食、瘡、
脚気の五病に対する桑の効用と用法が説かれています。
このことから、茶桑経(ちゃそうきょう)
という別称もあるとのことです。
書かれた年代は不明ですが、
一般には建保2年(1214年)に
源実朝に献上したという
「茶徳を誉むる所の書」
を完本の成立としていますが、定説はないそうです。
栄西は翌年に病で亡くなりますが、
大江親広が源実朝の使者として見舞ったとあります。
【竹御所を猶子にする】
建保4年(1216年)3月5日、
北条政子の命により、自分の姪にあたる
兄の源頼家の娘(後の竹御所)を
猶子に迎えます。
【陳和卿との出会い】
建保4年(1216年)6月8日、
東大寺大仏の再建を行った
宋人の僧である陳和卿が鎌倉に参着し
「当将軍は権化の再誕なり。
恩顔を拝せんが為に参上を企てる」と述べたとあります。
15日、御所で対面すると
陳和卿は源実朝を三度拝み泣いたといいます。
源実朝が不審を感じると
陳和卿は
「貴客は昔宋朝医王山の長老たり。
時に我その門弟に列す。」と述べたそうです。
源実朝はかつて夢に現れた
高僧が同じ事を述べ、
その夢を他言していなかった事から、
陳和卿の言を信じたとのことです。
【官職につくことへの源実朝の思い】
6月20日、権中納言に任ぜられ、
7月21日、左近衛中将を兼ねます。
9月18日、北条義時と大江広元は密談し、
源実朝の昇進の早さを憂慮したのでした。
20日、大江広元は北条義時の使いと称し、
御所を訪れます。
「御子孫の繁栄の為に、
御当官等を辞しただ征夷大将軍として、
しばらく御高年に及び、
大将を兼ね給うべきか」と諫めたとのことです。
すると源実朝は
「諌めの趣もっともといえども、
源氏の正統この時に縮まり、
子孫はこれを継ぐべからず。
しかればあくまで官職を帯し、家名を挙げんと欲す」
と答えたとのことです。
この源実朝の答えを現代語にすると、
「自分の代で源氏の正統は絶えることになるので
せめてできるだけ官職について、
家名をあげたいとおもう。」
これを聞いた大江広元は再び是非を申せず退出し、
それを北条義時に伝えたということです。
・・・わかっていたのですね。
わかっていますよ、
と北条義時に伝えたかったのですね。
【果たせなかった宋への旅立ち】
11月24日、
前世の居所と信じる
宋の医王山を拝す為に渡宋を思い立ち、
陳和卿に唐船の建造を命じます。
北条義時と大江広元は度々それを諌めましたが、
源実朝は許容しませんでした。
建保5年(1217年)4月17日、
完成した唐船を由比ヶ浜から
海に向って曳かせましたが、
船は浮かばずそのまま砂浜に朽ち果てました。
源実朝の願いはかなうことはありませんでした。
なお、源実朝は宋の能仁寺より
仏舎利を請来しており、
円覚寺の舎利殿に祀られています。
また渡宋を命じられた葛山景倫は
後に源実朝の為に興国寺を建立したということです。
5月20日、一首の和歌と共に
恩賞の少なさを愁いた紀康綱に
備中国の領地を与えました。
詠歌に感じた故ということです。
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【忍び寄る影】
建保5年(1217年)6月20日、
園城寺で学んでいた公暁が鎌倉に帰着し、
北条政子の命により
鶴岡八幡宮の別当に就任しました。
この年、右大将の地位を巡って
西園寺公経と大炊御門師経が争い、
西園寺公経が後鳥羽上皇の怒りを買った際に
源実朝が遠縁である
西園寺公経のために取りなしました。
けれども後鳥羽上皇は内心これを快く思わず、
源実朝と後鳥羽上皇の間に
隙が生じたまま
改善されなかったとする見解があります。
【ゆくゆくは左大将に就きたい】
建保6年(1218年)1月13日、
権大納言に任ぜられました。
2月10日、源実朝は右大将への任官を求め
使者を京に遣わしますが、
やはり必ず左大将を求めよと命を改めます。
右大将はかつて父が補任された職で、
左大将はその上位でした。
【政子、源実朝の後継について卿局に相談】
同月、北条政子が病がちな
源実朝の平癒を願って熊野を参詣します。
北条政子は更に京で後鳥羽上皇の
乳母の卿局(藤原兼子)と対面しましたが、
「愚管抄」によりますと、
この際に源実朝の後継として
後鳥羽上皇の皇子を東下させることを
北条政子が卿局に相談しました。
これは源実朝の望みであり、
将軍職を親王に譲って、
自分は後見する、という説があります。
卿局は養育していた頼仁親王を推して、
2人の間で約束が交わされたということです。
【武士としての初の右大臣】
3月16日、源実朝は
左近衛大将と左馬寮御監を兼ねることになりました。
10月9日、内大臣を兼ね、
12月2日、九条良輔の薨去により
右大臣へ転じました。
これは武士としては初めての右大臣でした。
21日、昇任を祝う翌年の
鶴岡八幡宮拝賀のため、
装束や車などが後鳥羽上皇より贈られました。
26日、随兵の沙汰を行いました。
【公暁に暗殺される】
建保7年(1219年)1月27日、
雪が二尺ほど積もる日に
八幡宮拝賀を迎えました。
夜になり神拝を終え退出の最中、
「親の敵はかく討つぞ」
と叫ぶ公暁に襲われ源実朝は落命しました。
享年は28歳、満年齢で26歳でした。
公暁は次に源仲章を切り殺しましたが、
「愚管抄」によりますと、
これは北条義時と誤ったものだということです。
【北条義時は実朝暗殺を事前に把握?】
「吾妻鏡」では、北条義時は御所を発し
八幡宮の楼門に至ると急に体調の不良を訴え、
太刀持ちを源仲章に譲ったとのことです。
一方「愚管抄」では、
北条義時は源実朝の命により、
太刀を捧げて中門に留まっており、
儀式の行われた本宮には
同行しなかったとあります。
源実朝の首は持ち去られ、
公暁は食事の間も
手放さなかったということです。
同日、公暁は討手に殺されました。
【大江広元の涙】
更に「吾妻鏡」では、
予見が有ったのか、出発の際に
大江広元は涙を流し
「成人後は未だ泣く事を知らず。
しかるに今近くに在ると落涙禁じがたし。
これ只事に非ず。
御束帯の下に腹巻を着け給うべし」と述べましたが、
源仲章は
「大臣大将に昇る人に未だその例は有らず」
と答え止めたとのことです。
また整髪を行う者に記念と称して
髪を一本与えています。
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【辞世の句】
庭の梅を見て詠んだと伝わる
辞世の和歌は、
「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」
で「禁忌の和歌」と評されています。
<現代語>(意訳)
この先主人である私に何かあったとしても
軒端に咲いている梅よ、
どうか春を忘れずに咲いてください」
【落命の場所と瞬間】
落命の場は八幡宮の石段とも
石橋ともいわれています。
また大銀杏に公暁が隠れていたとも
伝わっていますが、
大銀杏については「吾妻鑑」に記載がなく、
後世の創作とする説もあるとのことです。
「承久記」では、
一の太刀は笏に合わせましたが、
次の太刀で切られ、
最期は「広元やある」と述べ落命したというです。
【源実朝暗殺の黒幕は誰?】
公暁による暗殺については、
源実朝を除こうとした「黒幕」によって
源実朝が父である源頼家の敵であると
吹き込まれた為だとする説があります
その黒幕の正体については
<1>
北条義時
<2>
三浦義村
<3>
北条・三浦ら鎌倉御家人の共謀
<4>
後鳥羽上皇
など諸説ありますが
いずれも真相は究明されてはいません。
またそれらの背後関係よりも、
<5>
公暁単独
公暁個人が野心家で源実朝の跡目としての
将軍就任を狙ったところに
この事件の最も大きな要因を求める
見解もあるとのことです。
【源実朝の暗殺の黒幕は誰なのか】
源実朝の死によって最も
得した人物の犯行でしょうね。
大人しくて体が弱くて歌のことしか
興味がなく「神輿に乗るお飾り」として
丁度良い人物だと
思われていた源実朝が、
実は聡明で先々の事を思慮し、
幕政の行く末を考えて行動しようとしていたから
邪魔するな!と思って消したのではないでしょうか?
そしてどうせ消すなら一石二鳥、ではないけれど、
同じ血筋の者に消され、その実行犯も消す、
故に自分たちは手を汚さず、
漁夫の利を得る、という算段だったのではないでしょうか。
どのみち源氏将軍の血筋を断つことが
一番の目的であるわけです。
このあと同じく源氏の血筋をひく
阿野全成の子も謀反を起こしたとされて
誅殺されています。
【源実朝の首は何処?】
28日、妻は落餝し、
大江親広、大江時広、中原季時、
安達景盛、二階堂行村、加藤景廉などの
御家人百余名が
出家したとあります。
「吾妻鏡」では亡骸は
勝長寿院に葬られましたが
首は見つからず、
代わりに記念に与えた髪を入棺したとあります。
一方「愚管抄』では
首は岡山の雪の中から見つかったとあります。
源実朝には子が無かったため、
彼の死によって源氏将軍および
河内源氏棟梁の血筋は断絶となりました。
【墓所・祭祀】
【寿福寺】
源実朝の胴体の墓は、
寿福寺境内の奥に掘られた
やぐらの内に五輪塔が設けられております。
寿福寺は源義朝邸宅跡に建てられた寺院であり、
源実朝の胴体の墓の隣には、
母親である北条政子の墓があり、
母子水入らずで眠っています。
<所在地>
神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目17−7 寿福寺
<交通アクセス>
JR鎌倉駅西口から徒歩10分程度
【源実朝公御首塚】
首は公暁の追っ手の武常晴が
神奈川県秦野市大聖山金剛寺
の五輪塔に葬ったといわれ、
御首塚(みしるしづか)
と呼ばれています。
武常晴は三浦氏が公暁を討ち取るために
差し向けた家臣の中の一人でした。
公暁との戦いの中、
源実朝の御首を手に入れました。
その後、何らかの理由により
首を主人である
三浦氏のところへは持ち帰らずに、
波多野氏を頼り、
3代将軍源実朝の御首(みしるし)を
当寺は小寺だった金剛寺に持参して
埋葬したことに始まるといわれています。
なお波多野氏は源義朝公の忠臣だったそうです。
源実朝公の御首を三浦氏に持ち帰らなかった理由として、
波多野氏が源実朝公の首供養を行う為に
執権北条家に秘匿したまま鎌倉より首を
波多野に持ち帰り供養塔を建てたと
伝わっているとのことです。
また別の説としては、
源実朝公の御首の処理に困った三浦氏が、
家臣の武常晴に託して、
波多野氏まで届けさせたともあります。
(なんかひどいな・・。だからやっぱり、ね)
その後、建長2年(1250年)、
波多野忠綱が源実朝の厚い帰依を受けていた僧、
退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を招いて
源実朝の33回忌のため再興しました。
その際、木造であった御首塚の五輪塔を
石造に代えたと云われています。
なお、首塚を飾っていたと伝えられる
五輪木塔は、現在は鎌倉国宝館に収蔵されています。
また金剛寺の本堂には源実朝の木像が安置され、
本尊の阿弥陀如来は源実朝公の念持仏とされています。
<所在地>
神奈川県秦野市東田原1018-2(首塚)
神奈川県秦野市東田原1116(お寺)
<交通アクセス>
神奈川中央交通バス「秦野駅」バス停乗車、
「中庭」バス停下車、徒歩3分
秦23「くず葉台、東田原下宿経由藤棚」行き
秦26「くず葉台経由神奈川病院循環秦野駅」行き
秦27「くず葉台経由神奈川病院循環秦野駅」行き
※最新情報は神奈川中央交通バスのHPにて
ご確認ください。
公式サイトです⇓⇓
神奈川中央交通バス
<駐車場>
(源実朝公御首塚)
田原ふるさと公園
【高野山】
高野山には北条政子の発願により、
源実朝の菩提を弔うために
創建された金剛三昧院があります。
公式サイトです⇓⇓⇓
金剛三昧院
<所在地>
〒648-0211 和歌山県伊都郡高野町高野山425
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【白幡神社(鶴岡八幡宮)】
鶴岡八幡宮境内の白旗神社に
源頼朝と共に祀られ、
明治になり白旗神社境内に改めて
柳営社が建てられ祀られました。
八幡宮では源実朝の誕生日である
8月9日に実朝祭が行われています。
【金剛寺(中野区)】
中野区上高田にある金剛寺は
波多野中務大輔忠経が源実朝の為に
建長2年(1250年)相州波多野に創建、
江戸下野入道心佛が
江戸小日向郷金杉村へ移転、
文明年中(1469年⇒1486年)に
太田道灌が再興、
丸ノ内線開線に伴い現地に移転しました。
なお寺には源実朝位牌・太田道灌位牌木像が
安置してありましたが空襲により
焼失してしまいました。
<所在地>
東京都中野区上高田4丁目9−8
<交通アクセス>
地下鉄東西線落合駅より徒歩7分。
西武新宿線新井薬師前駅より徒歩10分
西武新宿線・都営地下鉄大江戸線中井駅より徒歩10分
2022年NHK大河ドラマ勇
「鎌倉殿の13人」では
柿澤勇人(かきざわはやと)さんが演じられます。
河内源氏の栄枯盛衰~形成から興隆、衰退、初の武家政権となった鎌倉幕府と次の室町時代。
源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。
北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。
平賀義信~源氏御門葉及び御家人筆頭として権勢を誇る。平賀氏は2つの系統があります。
平賀朝雅~源氏門葉の一族で妻は北条時政と牧の方の娘、故に権力争いの渦中に巻き込まれていきます。
勝長寿院跡、源頼朝が建立した源氏の菩提寺で大御堂といいます。当時の鎌倉の三大寺社の一つでした。
後鳥羽院(後鳥羽上皇)、承久の乱を起こし文武両道多芸多能で怨霊伝説もあるスゴイ人物。
藤原兼子~後鳥羽天皇の乳母で院政で権勢をふるい朝幕関係に手腕を発揮するも承久の乱後に権力を失う。
北条義時~鎌倉幕府2代執権~冷酷無情・現実を客観視して行動できる理想家なのか?
北条時房~初代連署で六波羅探題南方、北条義時の弟で甥の北条泰時とは最高の相棒であり好敵手でした。
阿野全成~源頼朝の異母弟で源義経の同母兄~妻の実家側について甥の源頼家とやがて対立する。
阿波局(北条時政の娘)~梶原一族滅亡の火付け役?夫は源頼朝の弟で源実朝の乳母だが姉同様に我が子を失う
大姫~源頼朝と北条政子の長女~生涯をかけて愛を貫いた儚くも一本気な姫、静御前と心を通わせる
源頼家~悲劇の2代目~北条VS比企、時々朝廷、そして東国武士の権力闘争が渦巻く時期。
つつじ(辻殿)~源頼家の正室で「吾妻鏡」では公暁の生母、父は足助重長、祖父は源氏の勇者と名高い源為朝です。
公暁~源頼家の息子で源頼朝の孫、叔父であり義理の父親でもある源実朝暗殺の実行犯となった。
三浦光村~三浦義村の四男で公暁の門弟、将軍派で反北条であり宝治合戦で三浦宗家が滅亡。
三浦胤義~三浦義村の弟で妻は源頼家の側室、承久の乱では京方として三浦一族と激闘の末、自害します。
三幡(乙姫)~源頼朝と北条政子の次女、父親と同じ年に14歳にて早世した姫
竹御所・源媄子(源鞠子)~源頼朝の孫で幕府の権威の象徴だったが赤子と共に散る
檜原城~鎌倉武士の花形の末裔で武蔵七党・西党の一族の平山氏が築城、豊臣方には徹底抗戦しました。
加賀美遠光~甲斐源氏で武田信義の叔父又は弟、小笠原氏・奥州南部氏の祖でもあります。
大弐局 ~加賀美遠光の娘で兄弟には小笠原氏・南部氏がおり、源頼家・源実朝の養育係を務めた女性です。
源仲章~後鳥羽院の廷臣であり鎌倉幕府の在京御家人という二重スパイ的立場で実朝と共に散ります。
源頼茂~摂津源氏で在京御家人で鎌倉と朝廷を仲介する立場、後鳥羽院に追討され自害。
運慶~日本彫刻史上最も有名な人物でその作風は力強く躍動的で写実的です。
慈円~歴史書「愚管抄」の著者で九条兼実は同母兄、天台座主を務め小倉百人一首にも選出されています。
浅利与一義成(浅利義遠)~甲斐源氏の一族で弓の名手であり武田信義・加賀美遠光とは兄弟です。
八田知家~小田氏の始祖であり十三人の合議制の一人で源氏4代に仕えた人物です。
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