【北条氏政】
北条氏政(ほうじょううじまさ)は、
戦国時代の相模国の戦国大名・武将。
小田原北条氏の第4代当主です。
父は北条氏康、
母は今川氏親の娘の瑞渓院。
子に北条氏直など。
正室の黄梅院は武田信玄の娘で、
武田義信や武田勝頼とは義兄弟にあたります。
通称は新九郎で、
官位の左京大夫または相模守も同様に称しました。
号は截流斎。
父である北条氏康の後を継いで
北条氏の勢力拡大に務め最大版図を築きましたが、
豊臣秀吉が台頭すると
小田原征伐を招き、
数ヶ月の籠城の末に降伏して切腹し、
小田原北条氏による関東支配は終結しました。
【生誕】
天文7年(1538年)
【死没】
天正18年7月11日(1590年8月10日)
【改名】
松千代丸(幼名)⇒氏政
【別名】
通称:新九郎、号:截流斎(せつるさい)
【戒名】
慈雲院松巌傑公
【北条氏政の生涯】
【生い立ち】
天文7年(1538年)、
小田原北条氏第3代当主である
北条氏康の次男として生まれました。
ただし、天文8年(1539年)生まれが
正しいとする説もあります。
また、天文18年(1549年)に
公家の飛鳥井雅綱が北条氏康の子である
西堂丸と松千代丸に
蹴鞠を伝授した記録が残されており、
そのうち西堂丸はである
新九郎氏親の幼名と推定できるため、
残された松千代丸が
北条氏政の幼名であったと推定できるそうです。
【兄の死で世子となる】
兄である北条氏親が
16歳で夭折したために世子となり、
北条新九郎氏政と名乗りました。
従って、北条氏親が死去した
天文21年(1552年)以降に
元服したとみられています。
【武田信玄の娘との結婚】
天文23年(1554年)に
父が武田信玄、今川義元との間で
甲相駿三国同盟を成立させると、
武田信玄の娘である
黄梅院を正室に迎えました。
その時、黄梅院は12歳でした。
その輿入れ行列は、
一万人もの供の者が付き従い、
大変豪華であったと伝えられています。
また、武田信玄は黄梅院のために、
弘治3年(1557年)の11月には、
安産の神である「富士御室浅間神社」
に安産祈願をしており、
子煩悩であったことが覗えます。
弘治元年(1555年)に男子(新九郎、夭折)、
弘治3年(1557年)末頃に芳桂院(千葉邦胤室)、
永禄5年(1562年)に、嫡男・氏直、
永禄9年(1566年)竜寿院を産むなど
夫婦仲は良好であったとのことです。
【家督相続】
永禄2年(1559年)に
父である北条氏康が隠居して
家督を譲られ、
北条家の第4代当主となりますが、
北条氏康の存命中は北条氏康・北条氏政の
両頭体制が続きました。
【北条氏康存命中】
家督相続後、
北条氏政が最初に行なった仕事が
北条家所領役帳の作成
(代替わりの検地)とされています。
民意を重視し、検地や徳政を行うための
内政事情によって代替わりすることが
北条氏の方法でした。
【小田原城の戦い】
永禄4年(1561年)、
上杉謙信が関東・南陸奥の諸大名を
糾合した大軍で小田原城を包囲します。
北条氏は窮地に陥りましたが、
盟友・武田信玄の支援もあり、
北条氏政は父主導のもとで籠城戦で対抗し、
上杉軍を撃退したのでした。
【上杉に奪われた領土を取り戻す!】
越後国に撤退した上杉謙信が
第4次川中島の戦いで
武田信玄と戦って甚大な被害を受けると、
武田信玄と呼応して北関東方面に侵攻します。
一進一退の攻防を繰り返しつつ、
上杉方に奪われた領土を徐々に奪い返していきます。
【第2次国府台合戦】
永禄7年(1564年)の第2次国府台合戦では、
初戦では里見義弘の前に苦戦しました。
けれども、北条氏政は北条綱成(妻は北条氏康の娘)
と共に里見軍の背後を攻撃して勝利を得たのでした。
これによって上総国に勢力を拡大した上、
上総土気城主・酒井胤治らが
一時的ながら北条氏政に帰順しています。
【武蔵国の多くの支配権を確立】
同年には武蔵岩槻城主である
太田資正の長男の太田氏資を調略して
太田資正を武蔵国から追い、
武蔵国の大半の支配権を確立しました。
これに対し上杉謙信は武蔵羽生城などを
拠点として対抗しています。
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【上野国にも勢力を拡大】
永禄9年(1566年)、
上杉謙信を盟主としていた
上野国の由良成繁が北条氏政に帰順しました。
これに連動して佐野昌綱・北条高広(別の北条氏)らも
北条氏政に帰順し、上野国にも勢力を拡大します。
【佐竹義重との直接対立か?】
更に北条氏政の従兄弟で
下総国の古河公方の足利義氏の重臣である
簗田晴助も一時的に北条氏政に和したため、
上杉謙信と同盟している
常陸国の佐竹義重との
直接対立が顕在化したのでした。
そして佐竹氏に協調する里見氏、
佐竹氏の客将となった太田資正などと
臨戦状況となるのでした。
【三船山合戦】
永禄10年(1567年)、
里見義堯・義弘父子が
上総奪還を目指して侵攻します。
北条氏政はこれを撃退しようと
上総東部の低山である
三舟山(君津市)に着陣し、
水軍もこの砦と向かい合う
佐貫城を伺いました。
しかし、旧里見配下の国人が侵攻軍に内通、
三崎水軍の侵攻も遅滞した状況で、
里見義堯に敗退し、
上総国の支配権を失いました。
【この頃の今川氏について】
【駿河侵攻】
この頃、駿河国の今川氏は
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで
当主である今川義元が討死して以降
領国の動揺を招いており、
武田と今川間の関係も悪化していました。
永禄11年(1568年)12月に
甲駿関係は手切となり、
武田信玄による
駿河今川領国への侵攻が開始され、
今川義元の嫡男であり尚且つ
北条氏政の従兄弟及び義弟でもある
今川氏真
(北条氏政の妹・早川殿の夫)は没落しました。
武田信玄は北条氏へも
今川領国の割譲をもちかけていましたが
北条氏は駿相同盟を優先して
今川氏真方に加担し、
甲相同盟も破綻したのでした。
北条氏政は出陣し、
薩埵峠まで進出して武田軍に対抗し、
一旦は武田信玄の勢力を追放して
駿河の一部を勢力圏に収めました。
【次男・氏真を今川の猶子とする】
更に掛川城に籠城していた
今川氏真を救出するため、
武田方から離反した
三河国の徳川家康と和議を結び、
北条氏政は今川氏真を保護しました。
そして自分の次男である
北条氏直を氏真の猶子として、
駿河領有の正当化を図りました。
【越相同盟】
更に、武田信玄に対抗するために、
宿敵であった上杉謙信に
弟の三郎(後の上杉景虎)を養子(人質)
として差し出し、
上野国の支配領域を割譲して同盟を結びました。
【愛する妻との別れ】
この武田信玄との関係悪化によって、
愛妻である黄梅院と
離縁するという悲劇が生じてしまいました。
ところが、近年になって
黄梅院が北条氏政と離別して
甲斐に送り返された話も
出家してそのまま死去した話も事実ではなく、
同盟破綻後も小田原城に留め置かれて
そのまま死去したとする
異論も出されています。
けれども黄梅院が、
永禄12年(1569年)6月17日に
27歳の若さで
死去した事実は確認できるため、
その場合でも愛妻の突然の死という
悲劇を目の当たりにしたことになります。
【三増峠の戦い】
永禄12年(1569年)9月、
碓氷峠から侵攻した武田信玄は
小仏峠の別働隊を併せて
小田原城を攻撃しますが、
北条氏政は父と共に籠城して
武田軍を撃退したのでした。
この後、北条氏は甲斐国へ引き上げる
武田軍の挟み撃ちを試みます。
父の替わりに本隊を率いた北条氏政は、
武田軍を追って弟の北条氏照と北条氏邦等が
布陣した津久井領三増峠(現愛川町)より
数里南方の荻野(現厚木市)まで進軍。
この事態に対し武田軍は、
進軍を早めるために小荷駄を捨ててまで
迅速に帰国を目指していました。
それに比べて追撃が遅延した
北条氏政の到着を待つことなく、
三増峠の北条氏照と北条氏邦隊は
攻撃を開始したため挟撃にならなかった他、
津久井城の内藤氏指揮下の
予備戦力の津久井衆が
武田側の加藤丹後によって
押さえられて出陣できなかったそうです。
武田軍も北条綱成が指揮する
鉄砲隊の銃撃により殿軍の浅利信種や
浦野重秀が討ち死などの損害をだしたものの、
終わってみれば武田軍に敗北し、
甲斐への帰国を許してしまう結果となりました。
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【駿河国は武田信玄によって併合】
その後も武田信玄が伊豆・駿河方面に進出すると
これに対抗しますが、
蒲原城、深沢城等の駿河諸城が陥落し、
後見役であった父が病気がちになり
戦線を後退します。
元亀元年(1570年)には、
駿河国の北条方支配地域は
興国寺城及び駿東南部一帯だけとなり、
事実上駿河国は武田信玄によって併合されたのでした。
【父・氏康の死】
【甲相同盟の復活と越相同盟の破棄】
元亀2年(1571年)10月に父が病没すると、
北条氏政は12月に武田信玄との同盟を復活し、
同時に上杉謙信との越相同盟を破棄しました。
この同盟は条件の調整不足等より、
結果的に対武田対策として
十分な成果を得られていない旨の不満がありました。
元々両氏の戦略観の隔たりがあった上、
上杉謙信も越中国の平定の方に
力を注くようになっていました。
【三方ヶ原の戦いに勝利】
元亀3年(1572年)の武田信玄の
三河・織田領国への侵攻の際には、
諸足軽衆の大藤秀信(初代政信)や
伊豆衆筆頭で怪力の持ち主とされる
清水太郎左衛門など2000余を援軍として
武田軍に参加させ、
三方ヶ原の戦いでは
織田・徳川連合軍に勝利しています。
けれども、この戦いで大藤秀信が戦死しています。
【上杉・武田との戦い】
甲相同盟復活後、
北条氏政と上杉謙信の戦いが再び始まりました。
【関宿城の攻略】
天正2年(1574年)に上杉謙信が
上野国に進出すると北条氏政も出陣し、
利根川で対陣しました。
けれども上杉謙信の関心は
既に越中国に向けられており、
決戦には至りませんでした。
閏11月には父が
「一国に等しい城」とまで称した
簗田晴助の関宿城を攻め落としました。
【下野祇園城の攻略】
翌年の天正3年(1575年)には
小山秀綱の下野祇園城を攻め落としました。
更に下総国の結城晴朝が恭順するなど
北条氏政の勢力は拡大していき、
上杉派の勢力を関東からほぼ一掃したのでした。
【房相一和】
天正5年(1577年)には上総国に侵攻し、
宿敵である里見義弘との和睦を実現しました。
なおこの戦いにおいて嫡男である
北条氏直が初陣しています。
【謙信の死後、御館の乱起こる】
天正6年(1578年)に
上杉謙信が死去すると、
その後継者をめぐって
上杉謙信の甥である上杉景勝と
北条氏政の弟で
上杉謙信の養子である上杉景虎の間で
後継者争いである御館の乱が勃発しました。
北条氏政はこの時、下野国において
佐竹氏・宇都宮氏と対陣中であったため、
5月に上杉景虎援助のために
北条氏照と北条氏邦らを越後国に派遣しました。
8月下旬には北条氏政自身も
上杉景虎援助のため、
上野国の厩橋城まで出陣しましたが、
すぐに小田原へ引き返しています。
また、これと同時に同盟者で
義弟(妹・桂林院殿の夫)の武田勝頼にも
援軍を依頼しました。
【甲越同盟】
武田勝頼は景虎支援のため
北信濃に出兵しましたが、
上杉景勝は北信の上杉領や
上野沼田の割譲を条件に
武田勝頼と和睦し、
武田勝頼は上杉景虎・上杉景勝間を調停し
和睦の成立に至りましたが、
同年8月の武田勝頼撤兵中に
和睦は破綻してしまいました。
【上杉景虎の自害】
北条氏照と北条氏邦は
秋に本格的に越後入りを図りましたが、
坂戸城での頑強な抵抗にあって
冬の到来による積雪で、
無念の撤退を強いられました。
翌年の天正7年(1579年)に、
上杉景勝が乱を制する形で上杉景虎は自害し、
その後、武田勝頼の妹が上杉景勝に嫁ぎました。
【徳川家康と同盟を結ぶも】
上杉景虎の敗死により
北条氏政は甲相同盟を破棄し、
徳川家康と同盟を結び、
駿河の武田領国を挟撃しました。
天正8年(1580年)に
武田勝頼を攻めて重須の合戦が起きましたが、
勝負はつきませんでした。
上野国では武田勝頼の攻勢が続き、
上野下野国衆も武田方に転じたため、
北条方は劣勢となってしまいました。
【織田信長に臣従を申し出る】
このため、同年3月10日には
石山本願寺を降伏させて勢いづく
織田信長に臣従を申し出ています。
一方、武田勝頼は北条氏に対して
常陸佐竹氏との甲佐同盟や
安房の里見氏ら関東の諸族と
同盟関係を結んでいます。
また同時期には織田氏との和睦を試みています。
【家督を氏直に譲るが実権は掌握】
8月19日に北条氏直に
家督を譲って隠居しましたが、
これは在陣中の異例のものでした。
父である北条氏康に倣い、
北条家の政治・軍事の実権は
北条氏政が掌握しました。
【勢力拡大】
天正10年(1582年)2月、
織田信長の嫡子の織田信忠を総大将、
織田四天王の1人である
滝川一益を軍監とした軍勢が
甲州征伐に乗り出します。
【甲州征伐】
駿豆国境間の情報が途絶していたため、
当初情報の少なかった北条氏政は北条氏邦に
上野方面から情報収集させたのでした。
その後、伊勢国からの船による情報により、
織田の武田領国侵攻を確認すると、
これに呼応し駿河国の武田領に侵攻しました。
【甲斐武田氏の滅亡】
3月11日に武田勝頼は天目山の戦いで、
正室である桂林院殿と共に自刃し、
甲斐武田氏は滅亡しました。
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【織田信長を警戒し、友好関係を保つ】
織田信長は滝川一益を
上野厩橋城に派遣して関東管領とし、
上野西部と信濃国の一部を与え、
関東の統治を目論みました。
既に北条氏は北条氏直に織田家から
姫を迎えて婚姻することを条件にして、
織田の分国として
関東一括統治を願い出ていましたが、
これについて織田信長から
明確な回答はなく、
北条氏政は三島大社に
北条氏直の関東支配と
織田家との婚姻祈願の願文を捧げています。
また滝川一益の仲介により、
下野祇園城を元城主の小山秀綱に返還する等、
織田氏の関東支配に協力しています。
北条氏政はこの時点での
織田信長の勢威を恐れており、
織田氏との友好関係は保たれていたのでした。
関東の北条領は滝川一益の文書では
南方と呼ばれ、重視されていました。
【北条氏政が織田信長へ献上した品々】
「信長公記」によれば、北条氏政は、
3月26日、4月2日、4月3日と立て続けに、
端山(たんざん)という人物を使者に、
織田信長に祝儀のための
贈り物をしたと伝わります。
北条氏政は長年争った武田家を
迅速に殲滅させた織田信長の
軍事力の強大さを認識し、
織田家と友好関係を保つことを
切望していたとのことです。
北条氏政は500羽の雉を
織田信長へ奉げるために京都へ送っています。
また弟の北条氏邦が、
滝川一益の元へ出仕しています。
【関東・奥州の大名も貢物】
4月に入ると、佐竹義重、里見義頼、
他関東の諸勢力、
蘆名盛隆、小野寺景道、伊達輝宗ら、
奥州の諸大名も、
織田信長の代理である滝川一益に使者を送り、
貢物をして、織田信長政権との接近を図っています。
【織田信長の冷たい態度】
けれども北条氏政と
織田信長には温度差があったのでした。
織田信長は北条氏に好意的な対応を見せず、
それどころか、
むしろ刺激するようなことをしていたのです。
また、織田信長との縁談も
円滑には進まなかったのではないかという見解もあります。
【本能寺の変で織田信長死す】
そうした中、6月2日、
京都本能寺において織田信長が
明智光秀の謀反により死去したのでした。
【滝川一益との深いミゾ】
織田信長の死を知った北条氏政は当初、
滝川一益に引き続き協調関係を
継続する旨を通知していますが、
その実、北条氏政と滝川一益の間には
表面的には友好関係を維持しながらも
互いに不信感が増幅したのでした。
北条氏政が深谷に軍勢を差し向けると、
滝川一益もこれに呼応して軍勢を差し向けます。
数日後には明白に対立関係となり、
両者の間で合戦が勃発します。
北条氏は、上野国の半分を
掌中に収めていましたが、
織田信長の進撃によって
それを織田信長の代行者である
滝川一益に譲らざるを得ない状況になっており、
上野国を取り返そうという意図は
強かったものと考えられています。
【神流川の戦い】
北条氏政は北条氏直と北条氏邦に
上野奪取を命じます。
5万6千と称する大軍を
上野国に侵攻させ滝川軍と対峙しました。
北条軍は滝川軍の3倍の兵力であり、
緒戦こそ先鋒が打撃を受けたものの、
数日後の決戦には大勝し
滝川一益を敗走させました。
【天正壬午の乱】
この後、北条軍は敗走する滝川一益を追って、
碓氷峠から信濃国に進出し、
真田昌幸・木曾義昌・諏訪頼忠などを取り込み、
徳川家康傘下として旧武田兵を集めて決起した
依田信蕃等を討って小諸城に駐屯し、
信濃東部から中部にかけて占領下に置いたのでした。
一方、滝川一益の敗走により、
信濃国や上野国と同じく空白地帯と化した
甲斐国に侵攻した徳川家康は、
依田信蕃を通して真田昌幸を調略し、
徳川方の小笠原貞慶への肩入れなどにより
北条軍と対立したのでした。
この一連の騒乱によって織田家は
甲斐・信濃・上野を一挙に失うことになり、
滝川一益は失脚したのでした。
【若神子の戦い】
その後、甲斐若神子において
北条氏直と徳川家康は対陣しましたが。
【徳川家康との和睦】
信濃国では真田昌幸が離反し、
甲斐国においても北条氏忠(氏政の弟)、
北条氏勝(氏政の甥)が、
黒駒において徳川方の鳥居元忠らに敗北し、
甲斐国の北条領は郡内地方の領有に留まる等、
情勢は不利となったのでした。
このため北条氏直と
徳川家康の娘である督姫を
結婚させることで和睦したのでした。
領土問題は甲斐・信濃を徳川領、
上野国を北条領とすることで合意しましたが、
信濃国の佐久・小県両郡と
甲斐郡内地方の放棄は不利な講和条件でした。
【厄介な存在である真田昌幸】
しかも徳川家康についた真田昌幸が、
後に上野国の沼田城を北条に
明け渡す事を拒んで上杉氏に寝返り、
上田・沼田城にて
徳川・北条と抗戦することとなり、
これらの懸案が後の沼田問題さらに
名胡桃事件の伏線となっていったのです。
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【上杉景勝の動き】
同年、上野を巡り北条氏政と争っていた
上杉景勝が、柴田勝家へ対抗するべく
羽柴秀吉と同盟を締結します。
当時の有力戦国大名の内、
最も早く羽柴秀吉に靡いたのが上杉景勝でした。
この同盟の際、羽柴秀吉は上杉景勝に、
「景勝が氏政に対し『存分』があった場合、
自分も北条と絶交する」
という誓いを立てていたそうです。
【北条は先代からの敵】
北条と上杉は、先代の上杉謙信の代から
一時期は同盟を結びながらも
敵対関係であることが多く、
尚且つ上杉景勝は北条から
養子として送られてきた上杉景虎と
御館の乱で争っています。
さらに、上杉景勝はかつて上杉謙信が
就任したこともある関東管領を
強く意識しており、
北条家には相応の敵意を燃やしており、
討伐の意思は強かったのでした。
【反北条連合】
さらに、上杉景勝は同じく
反北条の先鋒である
佐竹義重や北関東の国人達とも結託しており、
彼らもまた羽柴秀吉に接近して、
徳川ー北条連合に対抗することとなったのでした。
【秀吉の本心は「反北条」】
上杉、佐竹という、
北条と極めて険悪な関係の勢力と
早くから手を結んでいた羽柴(豊臣)秀吉は、
この時点で「反北条」の姿勢であったと
考えられています。
これがのちの小田原征伐・北条滅亡の遠因
ともなったとする考えがあります。
【関東の身分秩序の頂点になる】
天正11年(1583年)に
古河公方・足利義氏が死去すると、
北条氏政は官途補任により権力を掌握し、
これにより関東の身分秩序の頂点に立ちました。
また武蔵国の江戸地域、
岩付領の支配を掌握し、
利根川水系と常陸川水系の支配を確保、
これによって流通・交通体系を支配したため、
関東の反北条連合は、
従属か徹底抗戦の
二者択一を迫られるまでに至りました。
【武蔵国を掌握しても住まいは小田原】
この時期に同地域の支配を
確固たるものにするために
江戸城を隠居城として
政務を執る構想があったとも言われています。
けれども実際には北条氏政は、
以後も小田原に居住しており、
具体化にはなりませんでした。
【下野国の半分と常陸南部も勢力に】
天正13年(1585年)、
佐竹義重・宇都宮国綱らが
那須資晴・壬生義雄らを攻めると、
北条氏政は那須氏らと手を結んで
本格的に下野侵攻を開始します。
そして下野国の南半分を支配下に置きました。
また常陸南部の江戸崎城の土岐氏
及び牛久城の岡見氏を支援し、
常陸南部にも勢力を及ぼしました。
【領国が最大となる】
こうして、北条氏の領国は
相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野から
常陸・下野・駿河の一部に及ぶ240万石
(北条氏の所領跡地に入った
家康の慶長3年検地・大名知行高に基づく推測)
に達し、小田原北条氏の第4代当主である
氏政の代で最大版図を築き上げたのです。
【小田原征伐から最期へ】
けれども明智光秀を討ち、
織田信長の天下統一事業を継承した
豊臣秀吉との対立が待っていたのでした。
天正16年(1585年)、
豊臣秀吉から北条氏政・北条氏直親子の
聚楽第行幸への列席を求められましたが、
北条氏政はこれを拒否したのです。
京では北条討伐の風聞が立ち、
「京勢催動」として
北条氏も臨戦体制を取るに至りましたが、
徳川家康の起請文(≒絶縁状)により
以下のような説得を受けました。
◆家康が北条親子の事を讒言せず、
北条氏の領国を一切望まない
◆今月中に兄弟衆を派遣する
◆豊臣家への出仕を拒否する場合、
(愛娘)督姫を離別させる
この起請文を受け取った北条氏政は、
8月に北条氏政の弟である北条氏規が
名代として上洛したことで、
北条-豊臣間の関係は一時的ではありますが、
安定となりました。
武州文書によると、この頃、
北条氏政は実質的にも隠居宣言をしています。
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【北条氏政が主戦派ではない説】
なお、北条氏政は豊臣秀吉への
全面従属には反対でしたので、
親徳川家康の
北条氏直をたてたとされていますが、
後に北条氏政自身が上洛することを
家臣・国衆に通知しており、
北条氏政が主戦派であったという
見解については疑問があるともされています。
【沼田問題と上洛の時期】
天正17年(1589年)2月、
評定衆である板部岡江雪斎が上洛し、
沼田問題の解決を豊臣秀吉に要請しました。
豊臣秀吉は沼田領の3分の2を
北条側に還付する沼田裁定をおこない、
6月には12月に北条氏政が上洛する旨の
一札を受け取り、沼田領は
7月に北条方に引き渡されました。
けれども上洛について、
北条氏政は新たに天正18年(1590年)の春か
夏頃の上洛を申し入れましたが、
それについては豊臣秀吉は拒否しました。
よって再び関係が悪化し始めたのでした。
【名胡桃城事件】
こうした状況の中の10月、
北条氏邦の家臣である猪俣邦憲による
名胡桃城奪取事件が起きたのです。
豊臣秀吉は徳川家康、上杉景勝らを上洛させ、
諸大名に対して天正18年(1590年)春の
北条氏追討の出陣用意を促しました。
また、豊臣秀吉は津田盛月・富田一白を
上使として北条氏に派遣し、
名胡桃事件の首謀者を処罰して
即刻上洛するよう要求しています。
【北条側の陳述】
これに対して北条氏直は、
北条氏政抑留か国替えの惑説があるため
上洛できないことと、
徳川家康が臣従した際に
朝日姫と婚姻し、
大政所を人質とした上で
上洛する厚遇を受けたことに対して、
名胡桃事件における
北条氏に対する態度との差を挙げ、
抑留・国替がなく心安く
上洛を遂げられるよう要請しました。
また名胡桃城奪取事件について、
北条氏政や北条氏直の命令があったわけではなく、
真田方の名胡桃城主が
北条方に寝返ったことによるもので、
既に名胡桃城は真田方に返還したと弁明しています。
【名胡桃城事件の真相】
これが真に猪俣邦憲の独断ならば、
北条氏直・北条氏政の監督不行き届きが
招いた結果であり、
穏健派の北条氏規と中間派の北条氏直、
主戦派の北条氏政・北条氏照・北条氏邦
の対立が表面化したと言えます。
けれども現存している各種書状において、
沼田城受領後の北条氏政は、
自らの上洛時期が
当初の12月から翌春か夏にずれたものの、
上洛に積極的であり、
北条氏政・北条氏直が
再三にわたり名胡桃城を
北条が奪取したわけでないと
述べていることを考慮すると、
名胡桃城奪取と言われる
真の状況は今をもっても
不明といわざるを得ないということになります。
【上洛に関しての氏政の思惑とは?】
上洛の頓挫については、
もし北条氏政が上洛して臣従した場合、
豊臣秀吉は当然のこと、
徳川家康や先代からの宿敵である
上杉景勝よりも風下に置かれることとなり、
それに北条氏政が
屈辱感を感じていたのではないか
という見解があるそうです。
「駿河土産」によれば、
北条側は、同盟を結んでいる徳川より
自分達の方が格は上だと
認識している節があったそうです。
また、北条氏への敵対意識が強い、
上杉景勝や佐竹義重、
北関東の諸豪族が
早くから豊臣秀吉と接近していたため、
豊臣秀吉の方も
北条に対して非協調的、
冷淡であったと指摘されています。
【独り言・・・】
よく言えばストレートなんですね。
でもその分、「自分が一番上」という意識があって
豊臣秀吉のリサーチ不足、
外交下手なんですね・・。
でも、少なくとも「武田」よりは
かなり信頼できそうな気はします。
北条氏も豊臣秀吉を良く思っていなかった・・。
豊臣秀吉はそうしたことに関しては、
敏感だし、容赦ないですからね・・。
もし近くに、「秀吉」型の人がいたら、
表面はあたりさわりのないよう、
刺激しないようにして
あまり深く付き合いたくはないな・・。
でも、そうした部分も鋭く見抜くんだろうな・・。
コワイ・・。
ま、最初から豊臣秀吉は北条を
「潰す」つもりだったのでしょう。
ただ、大義名分がないと周囲に示しがつかないから
それを得る機会をまっていただけ、
もしくはエサをばらまいて引っ掛かるのを待っていた・・。
そうでしょうね。
天下統一を成す人物はやっぱりこわいです。
【小田原征伐】
未だに上洛を引き延ばす
北条氏政の姿勢に業を煮やした豊臣秀吉は、
北条氏政の上洛・出仕の拒否を
豊臣家への従属拒否であるとみなし、
12月23日、諸大名に正式に
追討の陣触れを発したのでした。
これに先立って駿豆国境間が
手切れに及んだことを知った北条氏政・北条氏直は、
17日には北条領国内の家臣・他国衆に対して
小田原への1月15日参陣を命じて
迎撃の態勢を整えるに至ったのでした。
そして天正18年3月から、
各方面から侵攻してくる豊臣軍を迎え撃ったのです。
当初は碓井峠を越えてきた
真田昌幸・依田信蕃に対して勝利し、
駿豆国境方面でも布陣する
豊臣方諸将に威力偵察するなど
戦意は旺盛でした。
けれども豊臣秀吉の沼津着陣後には、
緒戦で山中城が落城します。
そのご、4月から約3ヶ月に渡って
小田原城に籠城したのでした。
その間に、領国内の下田城、松井田城、
玉縄城、岩槻城、鉢形城、八王子城、
津久井城等の諸城が次々と落城。
22万を数える豊臣軍の前には、
流石の小田原北条方も敵わず、
◆武蔵・相模・伊豆のみを領地とする。
◆北条氏直に上洛をさせる。
という条件で、北条氏は降伏したのでした。
【小田原評定の本当の意味~名誉回復~】
俗にこの際、一月以上に渡り、
北条家家臣団の抗戦派と降伏派によって
繰り広げられた議論が
小田原評定の語源になったと言われています。
けれども本来は、北条家臣団が定期的
(概ねの期間において毎月)に行っていた
評定を呼ぶものです。
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【許さない!豊臣秀吉の思惑】
けれども豊臣秀吉は、和睦の条件を破り、
北条氏政らに切腹を命じ、
北条氏直らを高野山に追放すると決めたのでした。
7月5日、北条氏直が自分の命と引き換えに
全ての将兵の助命を乞い、降伏しました。
また、北条氏直の舅である徳川家康も
北条氏政の助命を乞いましたが、
北条氏の討伐を招いた責任者として、
豊臣秀吉は北条氏政・北条氏照及び
宿老の松田憲秀・大道寺政繁に切腹を命じました。
井伊直政の情報では一時は
助命されるという見通しもありましたが、
7月11日に北条氏政と北条氏照は切腹しました。
【北条氏政、切腹】
侍医で京都紫野大徳寺の住職
日新和尚の兄で
笠原弥六郎(笠原越前守養子)の
実父にあたる田村長傳(安栖)の宅で
切腹したとされています。
享年は53歳でした。
静岡県富士市の源立寺に首塚があります。
墓所は神奈川県小田原市内と
箱根町に存在しています。
辞世は、
「雨雲の おほえる月も 胸の霧も はらいにけりな 秋の夕風」
「我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空よりきたり 空に帰れば」。
ここに戦国大名としての小田原北条氏は
滅びました。
【その後の小田原北条氏】
ただし、徳川家康の親族(婿)であった
北条氏直は助命され、
生活費としての扶持が与えられていました。
更に翌年の天正19年(1591年)8月には
豊臣秀吉により1万石が与えられ、
大名としての名跡復活の
動きもあったとされていますが、
同年11月に死亡したため、
小田原北条氏の系統は北条氏規が継承し、
北条氏直の領地1万石の一部も継承しました。
そして江戸時代に入って、
北条氏規の子である北条氏盛が
河内狭山藩主となり、
明治維新まで存続しました。
その他、徳川家康の支配下の後、
小田原北条氏の縁故となる家が
いくつか取り立てられたということです。
【北条氏政の人となり】
【北条記の悪評】
「北条記」では
「四世の氏政は愚か者で、
老臣の松田入道の悪いたくらみにまどわされ、
国政を乱したけれども、
まだ父・氏康君の武徳のおかげがあって、
どうやら無事であった」と評されています。
同資料で、北条5代の当主の中で
「君」も付けられていない当主は、
北条氏政だけです。
これら後世の史料の評価や、
「二度汁」のエピソードなどは、
北条家が滅亡した当時の
実質的な支配者が北条氏政であったことから、
「家を滅ぼした当主」という、
結果論からの悪評であるとされています。
【悪評に対する反論】
豊臣秀吉への臣従を拒絶し、
その結果滅ぼされたという結果から、
「情勢に疎い」
「井の中の蛙」
「己を過信した」という烙印を後世で押されました。
けれども、
「情勢に疎い井の中の蛙」という評価に対しては、
織田信長が武田を滅ぼし
関東まで勢力を拡大してきた時の、
北条氏政らの織田信長への対応を考慮すれば、
的外れな批評であると今では反論されています。
【北条氏政の性格】
【家族思い】
個人的には家族思いの人物であったらしく、
有能な弟達と常に良好な関係を維持していました。
【愛妻家】
また愛妻家としても知られています。
正妻の黄梅院とは
武田の駿河侵攻を機に
離婚させられましたが、
北条氏政本人は最後まで離婚を渋っており、
北条氏康の死の直後に
武田と和睦した際には真っ先に
妻の遺骨を貰い受け
手厚く葬っています。
ただし、離婚の話そのものが
1970年代に史料の誤読から
作られた話で他の同時代史料からは
確認できず、
実際には黄梅院は最後まで
北条氏政と一緒に暮らしていたとする説も
出されています。
【父以上の勢力拡大】
北条氏滅亡時の実権者とはいえ、
父である北条氏康の時代以上に
勢力を拡大しました。
【良好な兄弟と良き家臣】
良好な関係の兄弟と協力し合い、
良き家臣に支えられて、
合戦でも武功を挙げている点など、
決して無能な武将というわけではないのです。
【豊臣秀吉と徹底抗戦した理由】
【従来の説】
豊臣秀吉に徹底抗戦したことについては、
これまでは北条氏政が無能であり、
時流や豊臣秀吉との圧倒的な
国力の差を把握できていないことが原因とする、
北条氏政の暗愚な資質に原因を求める評価が主流でした。
【徹底抗戦は東国武家の伝統】
一方で、東国の武家は
源頼朝以来中央政権から
自立するような志向が強く、
そうした、「東国武家社会の伝統性」を、
徹底抗戦の根拠とする見解もあります。
【秀吉は北条氏を最初から滅亡させる考え】
また、最初から豊臣秀吉は北条氏を
殲滅させるつもりである、
という見解もあります。
【有名大名であるが故の徹底抗戦】
徳川・長宗我部・島津と、
有力大名達は概ね豊臣秀吉と
武力対決しています。
一方、早めに恭順した
上杉景勝と毛利輝元は、
それ以前、織田政権と激しく
争い、結果追い詰められており、
それ故中央政権の強力さを知っていたため
恭順したと考えられています。
「当主の資質の優劣」や
「地方特有の伝統性」などが原因ではなく、
「有力大名に普遍的にあるもの」
こそが基盤にあるとして、
これらの見解に対しての反論もあります。
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【本拠地で徹底抗戦した北条氏は滅びて当然】
更に、島津氏や長宗我部氏は
本拠地が攻撃される前に降伏しています。
それに対して小田原北条氏は、
本拠地まで攻撃される
最終段階で抗戦したために、
小田原北条氏が滅亡となったのは当然、
とのことです。
後水尾天皇の勅撰と伝えられる
「集外三十六歌仙」の32番に
一首を採られています。
守れ猶君にひかれてすみよしの まつのちとせもよろづよのはる
— 32.寄松祝 北条氏政
【逸話】
北条氏政の逸話は、
一般に知られているものの多くは
否定的な印象を与えるもので、
後世の創作が殆どであるそうです。
【汁かけ飯の話は創作です】
食事の際に北条氏政が汁を一度、飯にかけたが、
汁が少なかったので
もう一度汁をかけ足しました。
これを見た父の北条氏康が
「毎日食事をしておきながら、
飯にかける汁の量も量れんとは。
北条家もわしの代で終わりか」
と嘆息したという逸話です。
⇒(汁かけ飯の量も量れぬ者に、
領国や家臣を推し量ることなど出来る訳がない、
の意)。
北条氏政が北条家の滅亡を
回避できなかったことが、
この逸話を有名なものにして、
北条氏政の評価を低いものにしている話です。
実はこの逸話は後世の創作であり、
同様の内容は
毛利氏の元就と輝元の間の
話としても伝えられています[26]。
【麦の話】
農民が麦刈りをする様子を北条氏政が見て、
「あの取れたての麦で昼飯にしよう」
と言ったという話です。
勿論刈った麦が
そのまますぐ食べられる訳でなく、
干し、脱穀し、精白するなどして、
ようやく調理できるようになります。
その話を伝え聞いた武田信玄は
その無知ぶりを大いに笑ったということですが、
実証はなされてはいません。
この話は武田氏を主人公にした創作の
「甲陽軍鑑」からでたものなので、
武田アゲの氏政サゲを
意図的に行ったものかもしれません・・。
【独り言2】
武田氏や豊臣秀吉の評判を上げるためには、
その逆の任務を引き受ける下げの人物が
必要なので、何かといじりやすい
北条氏政に白羽の矢が立ってしまったのでしょう。
勝者が常に正しくて、
敗者は言われ放題、
サゲ放題となってしまいますからね。
でも、真実は必ずしもそうとは限らない。
戦いに明け暮れ、
領土を最大にした功労者は北条氏政。
家族思いで、兄弟のいさかいもなく、
善政をしき、江戸時代に入っても
税制など参考にされた小田原北条氏の治政は
とても素晴らしいものです。
【時代と相性が良くなかった】
その時代に求められる人材というものがあります。
北条氏政は、生まれて活躍した時代と、
本人の性質や資質が合わなかったような気がします。
だからここぞという時で運がなかった・・。
織田信長や豊臣秀吉は
その時代に呼ばれた人材であると考えています。
けれどもその役目は、一時なもの。
だから、織田信長は突然にその生涯を終えて、
豊臣秀吉は後継者が続かなかった・・。
そして時代が
「待っていましたよ」と言わんばかりに選んだのは家康。
何か、「時代」という大きいけれど気まぐれな存在に
手の平で踊らされている気がしますね・・。
【兄弟姉妹】
北条新九郎
北条氏照(大石定久の婿養子)
北条氏邦(藤田康邦の婿養子)
北条氏規
北条氏忠(佐野宗綱の養子)
北条三郎(上杉謙信の養子)
北条氏光
桂林院殿(武田勝頼正室)
浄光院殿(足利義氏室)
七曲殿(北条氏繁室)
長林院殿(太田氏資室)
蔵春院殿(今川氏真室)
尾崎殿(千葉親胤室)
種徳寺殿(小笠原康広室)
菊姫(里見義頼継室)
【妻妾】
正室:黄梅院(武田信玄の娘)。後に離縁。
継室:鳳翔院殿(出自不明)
【子女】
北条新九郎
北条氏直
太田源五郎(太田氏資の婿養子)
北条氏房(太田氏資の婿養子)
北条直重(千葉邦胤の婿養子)
北条直定
北条源蔵
北条勝千代
芳桂院(千葉邦胤室)
竜寿院(里見義頼継室)
庭田重貞室
鈴木繁光室
【猶子】
上杉氏憲
【養女】
菊姫(氏政の妹・里見義頼正室)
皆川広照室(実父は中御門宣綱)
小山秀綱室(実父は成田氏長)
上杉氏憲室(実父は北条氏繁)
2023年NHK大河ドラマ
「どうする家康」では
駿河 太郎(するが たろう)さんが
演じられます。
伊勢盛時(北条早雲・伊勢宗瑞)の登場~小田原北条初代~名門一族の出自で関東に覇を唱えに行く!
北条氏綱~小田原北条2代目~北条氏を名乗り、小田原北条氏の礎を築き、先進的な領国経営をした当主。
北条氏康~小田原北条3代目~相模の獅子 ・関東八州にその名を轟かした猛将は戦国随一の民政家。
北条氏照~北条氏政の同母弟、文武両道で外交手腕に長けており、兄を補佐し盛衰を共にしました。
善栄寺(小田原市)~北条氏康夫人・木曾義仲・巴御前・二宮尊徳のお墓があります。
北条幻庵(北条長綱)~小田原北条五代の全ての当主に仕えた多芸多才のオールラウンダー。
韮山城跡(伊豆)~小田原北条氏の伊豆支配の中心地、戦国時代の幕開けと終わりを示す城
糸(早川殿)~政略結婚で今川氏真の正室になりましたが、最期まで添い遂げました。
北条氏直~小田原北条家最後の当主~30年の短き人生は戦国後期、激動の関東と共に。
小田原城跡~小田原北条五代~近世城郭と中世城郭の両方の遺構が残る城。
八王子城~日本100名城で日本遺産となった関東屈指の山城、城主は北条氏照でした。
滝山城~続日本100名城、国の史跡で中世城郭の最高傑作の一つであり遺構がよく残されています。
檜原城~鎌倉武士の花形の末裔で武蔵七党・西党の一族の平山氏が築城、豊臣方には徹底抗戦しました。
二宮城~木曽義仲の末裔である大石信重によって築城との記録あり、現在の二宮神社、武蔵守護代の大石氏とは?
小机城跡~長尾景春の乱と豊島氏の滅亡、小田原北条氏の時代へ~戦国時代の神奈川県を見つめてきた城
河村城跡~平安時代から鎌倉時代、南北朝、戦国の世に在り続けた山城と河村氏。
鉢形城~数万の敵に1か月も籠城した頑強な要害で日本100名城で国の史跡です。
真田昌幸~武田信玄を敬愛し「表裏比興の者」は死しても徳川家に恐怖を与えました。
唐沢山城~藤原秀郷の築城と伝わる「関東一の山城」と称される関東七名城。
毛呂山城跡(毛呂氏館跡)と毛呂一族の墓~源頼朝に仕えた在地領主で、戦国時代まで存続しました。
稲毛重成と枡形城~秩父一族で畠山重忠とは従兄弟、相模川の橋を架橋したと伝わる人物です。
興国寺城~国指定史跡~(伝)伊勢盛時の旗揚げの城であり今川・小田原北条・武田・豊臣・徳川と領地争奪戦の城。
深沢城跡~今川氏が築城し、北条氏と武田信玄の攻防最前線となった要害
駿河大宮城跡~築城は国衆で神社大宮司の富士氏、武田信玄・今川氏真の駿河甲斐の国境の重要な城。
小山田城址・築城は小山田氏の祖である小山田有重、小山田神社に小山田氏の足跡あり。
武田信玄~風林火山の軍旗のもとに、戦に明け暮れ駆け抜けていった53年の人生でした。
武田勝頼~甲斐源氏・戦国大名としての甲斐武田氏最後の当主、素質と環境が合わず悲劇が訪れます。
穴山信君(穴山梅雪)~武田氏の家臣で御一門衆、信玄から厚い信頼がありましたが、勝頼の代になると裏切ります。
武蔵・引田城~甲斐武田氏家臣で北条氏の庇護を受けた志村景元の居城でした。
上杉謙信について~越後の龍・49年の生涯~駆け足で超手短に!
山王堂の戦い~上杉謙信VS小田氏治の野戦で激戦、上杉勢の「神速」で小田勢は敗退し小田城が陥落。
羽柴秀吉(豊臣秀吉・木下藤吉郎)~下層民から天下人~の生涯を手短に!
徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!
大乗院~土屋氏屋敷跡、土屋宗遠を祖とする土屋氏は北条氏・足利氏・武田氏・北条氏政・徳川家に仕えました。
本佐倉城~続日本100名城・国指定史跡で千葉氏の最後の拠点、下総の名族から戦国大名となった千葉氏の歴史とは?
臼井城~築城は平安時代で千葉氏の一族の臼井氏、上杉謙信が攻め落とせなかったお城です。
古河公方館跡~古河公方とは?関東における戦国時代の幕開けの存在
関宿城跡~利根川と江戸川に囲まれた関東の水運の拠点~北条が上杉を制した場所。
国府台城~下総国の大激戦の地~国府台合戦、里見氏VS小田原北条氏
三舟山(三船山)古戦場~北条氏政VS里見義弘の激闘の結果、里見氏の勝利で勢力挽回の契機
勝浦城~築城は真里谷氏、後に正木氏の城で、最後の城主はお万と三浦為春の父の正木頼忠。
白浜城 (安房国)~安房里見氏の始まりの城、里見義実が拠点としました。
新田金山城跡~日本百名城~関東地方にある石垣の山城、築城主は岩松家純
神梅城跡~阿久沢氏の居城~山間にあった城と集落、上杉謙信、小田原北条氏と渡り歩く
女渕城址~城主は真田昌幸の策略で謀殺された沼田景義~上杉VS北条攻防の地も現在は女渕城跡公園。
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