【藤堂高虎】
藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、
戦国時代から江戸時代初期に
かけての武将・大名。
伊予今治藩主、後に伊勢津藩の
初代藩主となりました。
津藩藤堂家(藤堂家宗家)初代。
藤堂高虎は、黒田孝高、加藤清正と並び、
「築城三名人」の一人と称されています。
数多くの築城の縄張りを担当し、
層塔式天守を考案しました。
高石垣の技術をはじめ、
石垣上には多聞櫓を巡らす
築城の巧みさは、
その第一人者といっても
過言ではないとのことです。
また外様大名でありながら
徳川家康の側近として
幕閣にも匹敵する実力を持つ、
異能の武将であったとのことです。
【生誕】
弘治2年1月6日(1556年2月16日)
【死没】
寛永7年10月5日(1630年11月9日)
【改名】
与吉(幼名)、高虎
【別名】
与右衛門(通称)
【墓所】
東京都台東区上野恩賜公園内の寒松院
三重県津市の寒松院
三重県伊賀市の上行寺
【官位】
従四位下、左近衛権少将、
佐渡守、和泉守、贈従三位
【幕府】
江戸幕府
【主君】
浅井長政⇒阿閉貞征⇒磯野員昌⇒
津田信澄⇒豊臣秀長⇒秀保⇒秀吉
⇒秀頼⇒徳川家康⇒秀忠⇒家光
【藩】
伊予今治藩主⇒伊勢津藩主
【氏族】
藤堂氏
【父】
藤堂虎高
【母】
藤堂忠高の娘
【兄弟】
鈴木弥右衛門室、高則、高虎、
華徳院
(山岡直則室のち渡辺守室)、
高清、正高、藤堂高経室
【妻】
正室:一色義直の娘・久芳院
継室:長連久の娘・松寿院
【子】
高次、高重、蒲生忠郷正室、
藤堂忠季室、高吉、
藤堂高刑室、岡部宣勝正室、
前野小助室
小堀政一正室、生駒正俊正室
【系譜】
従来、藤堂氏の系譜は
村を代表する土豪層とされ、
藤堂高虎は土豪から大名へと
のし上がったとみられてきました。
けれども、先祖にあたる藤堂景盛が
公家の広橋兼宣に仕える
侍であったことが明らかになっています。
公家侍藤堂氏は、
古記録に登場しており、
京都にも拠点を持つ有力領主でした。
【生涯について】
【父母】
弘治2年(1556年)1月6日、
近江国犬上郡藤堂村
(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)の
土豪である藤堂虎高の次男として
生まれました。
母である「とら」は
多賀良氏の娘でしたが、
その後、藤堂忠高の
養女となっています。
【逞しい幼少時代と家督】
幼名を与吉と名乗っていました。
幼少の頃より人並み外れた体格で、
壮年の乳母の乳では足らず、
数人の女性の乳を貰ったとされています。
性格も荒く、3歳の頃には餅を5つ、6つ
食べることもざらで、
ケガをしても痛いと
言ったことがないと伝わっています。
13歳の時には、兄の高則よりも背が高く、
筋骨逞しい身体に成長したとのこと。
兄の戦死後、若くして家督を継ぎました。
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【主家転々の時代】
はじめ近江国の戦国大名である
浅井長政に仕え、
元亀元年(1570年)の姉川の戦いで
父である藤堂虎高と共に
磯野員昌隊に属して
初陣を飾り武功を挙げています。
その後宇佐山城攻めでも活躍し
浅井長政から感状と脇差を受けています。
けれども元亀3年(1572年)、
同僚の山下某を勲功を巡る
争論の末切り捨てて逃走。
この時藤堂高虎は大紋の羽織を
裏返して着用し、
追手の者が
「大紋を着た者を見なかったか」
と尋ねても誰もわからなかったということでした。
【阿閉貞征に仕えるも】
天正元年(1573年)に
小谷城の戦いで浅井氏が
織田信長によって滅ぼされると、
浅井氏の旧臣だった
山本山城主阿閉貞征に
厚遇されて仕えますが、
同僚の阿閉那多助・広部文平が
自分の指示に従わなかったため
殺害し浪人となりました。
なお、この時に渡辺了と交流しています。
【磯野員昌、織田信澄】
次いで同じく浅井氏旧臣の
小川城主磯野員昌の家臣として
80石で仕えました。
やがて織田信長の甥・織田信澄が
佐和山城に入るとこれに仕えますが
(「諸家深秘録」)、
加恩もなかったので
長続きせず、母衣衆の者と
喧嘩をしたなどしてやめました。
【恩人である羽柴秀長との出会い】
天正4年(1576年)に、
織田信長の重臣の羽柴秀吉の弟である
羽柴秀長(豊臣秀長)に300石で仕えます。
この時に冠名を
与右衛門に改めています。
(「公室年譜略」)
【但馬侵攻】
天正5年(1577年)10月、
羽柴秀長が3千兵を率いて
但馬に進軍し岩洲城・竹田城を
攻め落とします。
藤堂高虎は居相政貞の案内で
竹田城への奇襲に成功し、
1000石加増され足軽大将となります。
ただし、藤堂高虎が120騎を率いて
行った尾代谷・古城山一揆衆攻めでは
激しい抵抗や栃谷城の
塩冶左衛門尉の攻撃に苦戦し、
多くの犠牲を出しながら藤堂高虎が
一騎で一揆衆と栃谷の者を
打ち破る苦戦の様子が
伝えられているとのことです。
【三木合戦】
翌年三木合戦に従軍します。
天正8年(1580年)
正月鷹の尾城攻めの最中、
別所友之の家老・加古六郎右衛門と戦い、
半刻(一時間)の戦闘の末これを討ち取り、
六郎右衛門の愛馬「加古黒」を所持しました。
同月17日に三木城は落城し、
戦功により2千石の加増を受けました。
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【但馬小代一揆】
天正9年(1581年)、
主君羽柴秀長の領国で起きた
但馬小代一揆平定に取り掛かります。
藤堂高虎は七美郡小路比村の
小代大膳ら92名を討つために
大屋村の栃尾加賀祐善・
居合肥前真守政熙と
謀り合い攻撃しますが、
瓜原某が加勢した敵方の攻撃に
押され藤堂高虎は股を負傷して退却。
また蔵垣村の戦いでは
落馬の危機に逢うも
祐善の子・栃尾源左衛門善次の助けで
帰営するなど苦戦が見られています。
【婚姻】
同年、 一色修理太夫義直の娘を
妻に迎えます。
【鉄砲大将】
但馬国の土豪を討った功績により
羽柴秀長から3千石の所領を加増され、
鉄砲大将となりました。
羽柴秀長のもとでは中国攻め、
賤ヶ岳の戦いなどに従軍。
賤ヶ岳の戦いで
佐久間盛政を銃撃して敗走させ、
戦勝の端緒を開く
抜群の戦功を挙げたため、
1300石を加増されました。
小牧・長久手の戦いでは
峯城・松ヶ島城攻めで武功を挙げています。
【紀州征伐】
天正13年(1585年)の
紀州征伐に従軍し、10月に
湯川直晴を降伏させ、山本主膳を斬りました。
戦後は紀伊国粉河に1万石の領地を
与えられています。
猿岡山城、和歌山城の築城に
当たって普請奉行に任命されました。
これが藤堂高虎の最初の築城となります。
同年の四国攻めにも功績が有り、
秀吉から5400石をさらに加増され、
1万石の大名となりました。
方広寺大仏殿(京の大仏)建設の際には、
材木を熊野から調達するよう
秀吉から命じられています。
【聚楽第の作事奉行】
天正14年(1586年)、
関白となった秀吉は、
秀吉に謁見するため
上洛することになった
徳川家康の屋敷を
聚楽第の邸内に作るよう秀長に指示、
秀長は作事奉行として
藤堂高虎を指名しました。
藤堂高虎は渡された設計図に
警備上の難点があるとして、
独断で設計を変更し、
費用は自分の持ち出しとしました。
のちに徳川家康に引見され、
設計図と違う点を尋ねられると、
「天下の武将である家康様に
御不慮があれば、主人である秀長の
不行き届き、関白秀吉様の面目に
関わると存じ、私の一存で
変更いたしました。
御不興であれば、
ご容赦なくお手討ちください」
と返したとのことです。
徳川家康は藤堂高虎の心遣いに
感謝したということです。
【九州征伐】
天正15年(1587年)の
九州征伐では根白坂の戦いで
島津軍に攻められた宮部継潤を
救援する活躍を見せて2万石に加増されます。
この戦功により、秀吉の推挙を受けて
正五位下・佐渡守に叙任します。
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【赤木城の築城】
天正17年(1589年)、
北山一揆の鎮圧の拠点として
赤木城(現三重県熊野市紀和町)を築城しました。
また藤堂高虎によって、
多数の農民が田平子峠で斬首されました。
当地では「行たら戻らぬ赤木の城へ、
身捨てどころは田平子じゃ」と、
処罰の厳しさが歌となって残っています。
【7万石の大名・伊予国板島】
天正19年(1591年)に
豊臣秀長が死去すると、
甥で養子の羽柴秀保(豊臣秀保)に仕え、
秀保の代理として
翌年の文禄の役に出征しています。
文禄4年(1595年)に
秀保が早世したため、
出家して高野山に上るも、
その将才を惜しんだ秀吉が
生駒親正に説得させて召還したため
還俗し、5万石を加増されて
伊予国板島(現在の宇和島市)
7万石の大名となりました。
【慶長の役で武功を挙げる】
慶長2年(1597年)からの
慶長の役にも水軍を率いて参加し、
漆川梁海戦では朝鮮水軍の武将・
元均率いる水軍を殲滅するという
武功を挙げ、南原城の戦いと
鳴梁海戦にも参加し、
帰国後に大洲城1万石を加増されて
8万石となります。
この時期に板島丸串城の
大規模な改修を行い、
完成後に宇和島城に改称しています。
朝鮮の官僚・姜沆を捕虜にして
日本へ移送したのも
この時期であるとのことです。
【関ヶ原の戦いへ】
【徳川家康への接近】
慶長3年(1598年)8月の
秀吉の死去直前から、
徳川家康に接近します。
藤堂高虎は元々徳川家康と
親交を有しており
豊臣氏の家臣団が
武断派・文治派に分裂すると、
藤堂高虎は徳川家康側に与しました。
【関ヶ原での戦闘】
慶長5年(1600年)、
徳川家康による会津征伐に従軍し、
その後の河渡川の戦いに参戦します。
9月15日の関ヶ原本戦では早朝、
大谷吉継を相手に戦闘を行いました。
その後、山中へ転戦して
石田三成と戦ったとされています。
また、留守中の伊予国における
毛利輝元の策動による一揆を
鎮圧しています。
(毛利輝元の四国出兵)
更に近江時代の人脈を大切にし
脇坂安治や小川祐忠、朽木元綱、
赤座直保らに対して、
東軍への内応工作を行っています。
戦の終結後、脇坂安治は
東軍との仲介に感謝して
藤堂高虎へ貞秀の太刀を送っています。
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【20万石の大名へ】
戦後、これらの軍功により
徳川家康からはそれまでの
宇和島城8万石の安堵の他、
新たに今治城12万石が加増され、
合計20万石となりました。
これにより、藤堂高虎は
新たな居城を今治城に定めて改築を行い、
宇和島城には藤堂高虎の従弟である
藤堂良勝が城代として置かれました。
【層塔型天守を創建】
天正年間の天守は
望楼型天守が主流でしたが、
構造上無理があることから、
不安定で風や地震に弱く、
必ず屋根裏の階ができるため
使い勝手が悪かったのでした。
そこで今治城では新たに
層塔型天守を創建しました。
これは矩形の天守台を造成し、
その上に規格化された部材を
用いて全体を組み上げたもので、
構造的な欠陥が解消されるばかりか、
各階別に作事が可能なことから
工期も短縮できました。
以後、藤堂高虎が
この様式を江戸城をはじめとする
城郭普請に採用したことで、
藤堂高虎の新型天守は
近世における天守建築の主流となったのでした。
【家康の忠臣として】
【津藩主】
その後、藤堂高虎は徳川家の重臣として仕え、
江戸城改築などにも功を挙げたため、
慶長13年(1608年)に
伊賀上野藩主・筒井定次の改易と
伊勢津藩主・富田信高の
伊予宇和島藩への転封で
今治城周辺の越智郡2万石を飛び地とし、
伊賀国内10万石、並びに
伊勢安濃郡・一志郡内10万石で
計22万石に加増移封され、
津藩主となりました。
今治城は藤堂高虎の養子であった
藤堂高吉を城代として治めさせました。
この伊賀国における筒井氏から
藤堂氏への交代は、
徳川家康の対豊臣策の一環として
理解するのが妥当で、
豊臣恩顧大名でありながら、
徳川家康の側近ともいえる
藤堂高虎に伊賀を与えたことは、
大坂方を刺激することなく、
しかも確実に徳川方勢力を
上方方面に食い込ませる
徳川家康の戦略に
よるものであったと推測されるとのことです。
【大阪冬の陣】
慶長19年(1614年)からの
大坂冬の陣では徳川方として参加します。
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【大坂夏の陣・八尾の戦い】
翌年の大坂夏の陣でも徳川方として参戦し、
自ら河内方面の先鋒を志願して、
八尾において豊臣方の
長宗我部盛親隊と戦います。
この戦いでは長宗我部軍の猛攻にあって、
一族の藤堂良勝や藤堂高刑をはじめ、
600人余りの死傷者を出しています。
戦後、その功績により伊賀国内と
伊勢鈴鹿郡・安芸郡・三重郡・
一志郡内で5万石を加増され計27万石になり、
同年閏6月には従四位下に昇任。
けれども、この戦いで独断専行を行った
家臣の渡辺了と衝突し、決別となっています。
【南禅寺三門の再建と常光寺の血天井】
藤堂高虎はこの戦いの戦没者供養のため、
南禅寺三門を再建しました。
創建当時の三門は文安4年(1295年)に
焼失していました。
また釈迦三尊像及び
十六羅漢像を造営・安置しています。
梅原猛氏によりますと、
この釈迦如来像は岩座に坐し、
宝冠をかぶった異形の像であるとのこと。
これは藤堂高虎若しくは主君である
徳川家康の威厳を
象徴しているのではないかとの
見解をしています。
ちなみに釈迦如来像は
蓮華座に坐し飾りをつけないのが
通例であるとのことです。
また、常光寺の居間の縁側で
八尾の戦いの首実検を行ったため、
縁側の板は後に廊下の天井に張り替えられ、
血天井として現存しています。
【徳川家康の死去】
徳川家康死去の際には
枕元に侍ることを許され、
家康没後は第2代将軍徳川秀忠に仕えました。
【晩年の働き】
元和3年(1617年)、
新たに伊勢度会郡田丸城5万石が
加増され、弟正高が下総国で拝領していた
3千石を津藩領に編入し、
これで津藩の石高は計32万3千石となりました。
なお、田丸5万石は元和5年(1619年)に
和歌山城に徳川頼宣が移封されてくると
紀州藩領となり、藤堂家には替地として
大和国と山城国に5万石が与えられました。
【和子入内に向けて】
元和6年(1620年)に
徳川秀忠の五女・和子が入内する際には
自ら志願して露払い役を務めました。
宮中の和子入内反対派公家の前で
「和子姫が入内できなかった場合は
責任をとり御所で切腹する」と言い放ち、
強引な手段で押し切ったということです。
およつ御寮人事件は、元和5年(1619年)に
江戸幕府が後水尾天皇の側近である
公家6名を処罰した事件です。
最も重い責任を問われた
権大納言・万里小路充房入道の名を採って
万里小路事件(までのこうじじけん)とも称します。
【およつ御寮人事件】
元和4年(1618年)、
娘・和子の入内を進めていた
江戸幕府2代将軍の徳川秀忠と
御台所である江は、
典侍・四辻与津子(お与津御寮人)が
親王(賀茂宮)を生んだことを知り激怒、
更に与津子が懐妊したと知った
徳川秀忠は元和5年(1619年)9月18日、
与津子の振る舞いを宮中における
不行跡であるとして
和子入内を推進していた
武家伝奏・広橋兼勝とともにこれを追及。
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権大納言・万里小路充房入道は
監督責任を問われて丹波篠山藩に配流、
与津子の実兄である
四辻季継・高倉嗣良を豊後に配流、
更に天皇側近の中御門宣衡・堀河康胤・
土御門久脩を出仕停止にしました。
これに憤慨した後水尾天皇は
退位しようとしますが、
江戸幕府の使者である
藤堂高虎が天皇を恫喝、
与津子の追放・出家と
和子の入内を強要しました。
元和6年(1620年)6月18日に
和子の入内が実現すると、
これに満足した徳川秀忠は、
今度は処罰した6名の赦免・復職を命じる
大赦を天皇に強要しました。
禁中並公家諸法度11条には、
関白や武家伝奏の指示に
従わない公家を流罪に出来る
規定が設けられていましたが、
徳川秀忠は武家伝奏と結んで
この規定を行使したのでした。
また、これをきっかけに
江戸幕府による朝廷に対する
様々な干渉が行われるようになりました。
なお、与津子が産んだ賀茂宮は
元和8年(1622年)に死去、
元和5年6月に生まれた文智女王は
寛永8年(1631年)に
鷹司教平(権大納言・左大将)に
嫁ぎますが離縁、出家して大和に隠棲しました。
寛永4年(1627年)には
自分の敷地内に上野東照宮を建立しています。
【内政にも積極的に取り組む】
一方で内政にも取り組みます。
上野城と津城の城下町建設と
地方の農地開発、寺社復興に取り組み、
藩政を確立させています。
また、幕府の命令で
陸奥会津藩と讃岐高松藩、
肥後熊本藩の後見を務め、
家臣を派遣して藩政を執り行っています。
【最期と墓所】
寛永7年(1630年)10月5日に
江戸の藤堂藩邸にて死去しました。
享年は74歳でした。
戒名は「寒松院殿前伊州林道賢高山権大僧都」。
天海僧正は「寒風に立ち向かう松の木」
の意味をもって、寒松院と命名しました。
後を長男の高次が継ぎました。
養子の高吉は高次の家臣として仕え、
後に伊賀名張に転封、
分家である名張藤堂家を興しました。
墓は東京都台東区
上野恩賜公園内の寒松院。
また、三重県津市の高山神社に
祀られています。
屋敷は東京都千代田区
神田和泉町他にありました。
なお町名の和泉町は
藤堂高虎の官位和泉守に
ちなんでいるとのことです。
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【人物評・逸話】
【幼少期】
<立派な体格>
「高山公実録」所収の「玉置覚書」に
「幼少の頃より人並外れた体格で、
壮年の乳母の乳では物足りず、
数人の女性の乳を貰った」
と記されています。
また「性格は荒く、三歳の時に餅を
5つ6つ平らげることはざらもなく、
怪我をしても痛いとは言わなかった。」
ともあり、更に13歳の頃には
兄・高則の身長を遥かに
超えていたとのことです。
<賊の討伐>
「公室年譜略」永禄11年(1568年)の項
「小谷の郷に賊がおり、在家に取り籠った。
父虎高・兄高則はこれを聞いて
捕らえに行こうとしたところ、
公(高虎)も共に行きたいという。
まだ幼少であったため、
虎高は許さずに帰らせた。
公は家に帰り、
父の指替の刀を取ってすぐに
かの家に至った。ひそかに裏口に隠れて
賊が出てくるのを狙っていたところ、
虎高・高則が表より
戸を押し破って入り、
賊は裏口より逃げ出た。
公は速やかに切り伏せ、
その首を包んで帰った。
父は大いに悦んだ」とあるとのことです。
これを聞いた人々は舌を巻き、
大いに感嘆したといわれています。
【身体的特徴】
身長は6尺2寸(約190cm)を誇る
大男だったと言われています。
藤堂高虎の遺骸は
「体中疵だらけで、玉疵・鑓疵もあり、
右の薬指・小指はちぎりて爪もないし、
左の中指も一寸ほど短くなっていて、
右足の親指の爪もなかったとされる」
とあるとのことです。
(「平尾留書」)
・・・生涯において戦に身を置き、
前線で戦ってきた証ですね。
元和9年(1623年)頃から
眼病を患っており、
寛永7年(1630年)には
失明してしまっています。
【家紋「藤堂蔦」】
当初は「酢漿草」を用い、
「白餅」・「黒餅」は
旗指物に用いていました。
のちに「蔦」を定紋とし、
裏紋または替紋として
「酢漿草」を使用しています。
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【政治家】
藤堂高虎の政治思想は、
豊臣秀長の周辺に結集した
当代きっての文化人の影響を
受けているといわれています。
その筆頭が千利休であり、
豊臣秀長の重臣達は、
利休や利休の高弟達と交流し、
茶湯をはじめとする
室町時代以来の
伝統文化を担う素養を磨き、
それをもとに政治的な才覚を
研ぎ澄ましたとされています。
【城郭建築の名人】
三大築城名人の1人と
言われるほどの城郭建築の名人として
知られています。
慶長の役では順天倭城築城の
指揮をとりました。
この城は明・朝鮮軍による
陸海からの攻撃を受けましたが、
全く敵を寄せ付けず撃退に成功し、
城の堅固さが実戦で証明されました。
また層塔式天守築造を創始し、
幕府の天下普請で
伊賀上野城や丹波亀山城などを
築城しました。
【豊臣秀長の存在】
けれども藤堂高虎は、
はじめから築城の
知識があった訳でも、
築城の腕が優れていた訳でも
なかったとのことです。
そうした藤堂高虎に
転機を与えたのが、
豊臣秀長であるとのことです。
「安土城」、「和歌山城」、
「大和郡山城」など、
様々な城の築城にかかわる
経験を積んでいきました。
また、藤堂高虎の故郷には
「甲良大工」(こうらだいく)という集団があり、
その甲良大工から
築城技術を学ぶことで、
技術を身に付けていったとされています。
さらに、藤堂高虎は連戦を重ねる武士。
どんな城が攻めやすいか、あるいは攻めにくいか、
どんな技術があれば役立つか
実戦からも着想を得ていったとのことです。
築城名人といわれる背景には、
主君が豊臣秀長であったこと、
そして藤堂高虎自身の努力の
賜物であったのでした。
【複数の藩の執政を務める】
本領の津藩のほかに幕府の命で、
息女の輿入れ先である
会津藩蒲生家と高松藩生駒家、
さらには加藤清正死後の
熊本藩の執政を務めて
家臣団の対立を調停し、
都合160万石余りを統治しました。
これらの大名家は、
藤堂高虎の存在で
かろうじて家名を保ったと言え、
彼の死後はことごとく
改易されているとのことです。
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【高虎と餅】
講談、浪曲「藤堂高虎、出世の白餅」では、
阿閉氏の元を出奔し
浪人生活を送っていた
若き日の藤堂高虎(当時は与右衛門)が
空腹のあまり、三河吉田宿(現・豊橋市)の
吉田屋という餅屋で三河餅を無銭飲食し、
そのことを店主の吉田屋彦兵衛に
正直に白状して謝罪しました。
けれども彦兵衛に
「故郷に帰って親孝行するように」
と諭され路銀まで与えられます。
吉田屋の細君もたまたま
近江の出であったということです。
後日、大名として出世した藤堂高虎が
参勤交代の折に立ち寄り、
餅代を返したという
人情話が伝えられています。
ちなみに藤堂高虎の旗指物は「三つ餅」。
白餅は、「城持ち」に
ひっかけられているともいわれています。
なお参勤交代の際の主人
は三代目中西与右衛門というもので、
彼の先祖は織田信長に
清州屋として仕え、
本能寺の変の後吉田宿で
酒問屋を始めたということです。
なおこの逸話は「中川蔵人日記」
天保10年(1839年)5月24日
七つ半の時に記された話です。
中川が中西与右衛門のもとを
訪ねた際に「吉例の餅」を出され、
高山様(高虎)が
召し上がられてから以降、
入宿の際には主人が麻裃にて
餅を搗くのが習慣である、
という話を聞いた、と
書き記しているとのことです。
【対人関係】
【広い交友関係】
高虎は加藤嘉明や加藤清正ら
急進的武断派とは
折り合いが悪かったとされていますが、
交友関係は広い人物でした。
豊臣秀長時代には
横濱一庵や小堀遠州と親しくし、
親戚関係に発展しています。
また中井正清ら大工衆とも親しく、
大坂の陣では中井と共に
攻城図を作成しています。
脇坂安治ら近江土豪衆とも親しく、
関ヶ原の戦いや大坂の陣後に
登用したり御家安堵などの
援助を見せています。
以心崇伝とは正室・久芳院を
通した親戚関係にあり、
彼の寺院修築に力を
貸すことがしばしばあったとのことです。
【「渡り奉公人」の代表格】
藤堂高虎は一生に七回も
主君を変えたことから、
「渡り奉公人」の代表格と
いってよい武将であるとされています。
武士は一生を一人の主君に
尽くすべきであるとする
江戸時代の封建的道徳の影響で、
これまであまり評価されませんでした。
「渡り奉公人」とは、
自らの才覚に自信があり、
大身をめざす自尊心が高く、
主君との関係は双務的で
対等に近いものであったとのことです。
藤堂高虎のような「渡り奉公人」は、
この時代の京都や大坂といった
大都市には大量に
滞留していたのであり、
高虎が特に変わっているとは
いえないのとのことです。
【晩年の交流関係】
晩年は御三家や徳川忠長、
老中の土井利勝や酒井忠世、
伊達政宗や前田利常、立花宗茂、
丹羽長重、堀直寄、毛利秀元らと
交流が深かったとのことです。
【家臣への対応】
他家に仕官しようと
暇乞いをする者があった時は、
翌日に茶会を催し、
その座で太刀を与え、
もし仕官先が思わしくなかった時には、
再仕官してもよいことを
告げていたとのことです。
実際に立ち戻った家臣には、
もとの知行高を保証したとされています。
(「古今記聞」)
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【博打に対する考え】
藤堂高虎が伏見に滞在中、
遊びで家を破産させた
5人の家臣が出たとの報告を受けます。
5人のうち3人が博打、
2人は遊女通いで金を使い果たし、
自分の差料・領地・屋敷を
質に入れている始末であったとのこと。
これに対し藤堂高虎は、
遊女につぎ込んだ者は追放処分とし、
博打の者は減知の上百日間の
閉門として家中に残しました。
この処分について聞いた
家臣に対して「女好きは物の役に立たないが、
博打好きな奴は相手に
勝とうとする気概がある」と言い、
家臣達は藤堂高虎の
思慮深さに感心したということです。
【伊賀忍者との関わり】
藤堂高虎は慶長19年(1614年)、
伊賀郷士10名を「忍び衆」として登用し、
上野城下に屋敷を与えました。
また「下人」を間諜活動に
使っていたとされています。
藤堂高虎の死後、
正保2年(1645年)に
「忍び衆」は聞こえが悪いため
「伊賀者」に改称され20名となりますが、
享保2年(17177年)には
16名に減らされ加番奉行の
役宅に入れられたとのことです。
実際に藤堂高虎が命じた役目は
参勤交代の警固・御殿や
城内の監視・武士や
町人、百姓の観察
であったとされています。
幕末には異国船探索も
命じられていたとのことです。
伊賀では670ヶ所に屋敷跡が
確認されており、
藩内では「無足人(足すことの無い士)」
として扱われていたとのことです。
これは苗字帯刀は許されますが
俸禄のない郷士制度であり
普段は半農半士として
農業に従事していました。
寛保元年(1741年)の記録では
1900名余り、
天明3年(1783年)には
1200名余り確認されています。
【加藤嘉明との対立】
慶長2年7月の唐島海戦の論功行賞の席上、
一番乗りをめぐって対立をしました。
その時は藤堂高虎の戦功が
認められたのですが、
それ以来、いざこざが
絶えなかったとのことです。
【「拝志騒動」】
藤堂高虎の領地が今治藩、
加藤嘉明のそれが伊予松山藩と
隣接していたことも
事情にあるとされています。
決定的なのが慶長9年(1604年)、
藤堂高虎の養子・高吉の家臣が
同僚ともめた挙句斬殺して
加藤嘉明の領内・拝志城下へ
逃げ込んだ事件となります。
藤堂高虎と加藤嘉明の家臣は
身柄引渡しを巡って対立し、
一触即発の状態となりましたが、
高吉が責任を取り野村郷にて
蟄居したことで武力衝突が免れました。
この事件は後に「拝志騒動」と
呼ばれています。
【会津には加藤嘉明を推挙】
後年、陸奥会津藩主の蒲生氏が
嗣子無く改易されたとき、
徳川秀忠は藤堂高虎に
東北要衝の地である会津を
守護させようとしました。
けれども藤堂高虎は
「私は老齢で遠方の守りなど
とてもできませぬ」と辞退。
徳川秀忠は
「では和泉(高虎)は誰がよいと思うか」
と尋ねると、加藤嘉明を推挙したとのこと。
藤堂高虎と加藤嘉明は
朝鮮出兵の巨済島海戦での
論功行賞を巡って対立し、
領国も隣り合わせで
家臣らの間でも騒動が絶えません。
徳川秀忠がこれについて案じましたが、
藤堂高虎は「嘉明とは、私事・公事は別である。
会津は要衝なので、剛勇で技量の優れた
嘉明らが適任だ」と答えているとのことです。
【仲直り】
寛永4年2月、赴任中の加藤嘉明は
江戸の藤堂屋敷を訪ね、藤堂高虎に
今までの無礼を詫びたということです。
これ以後、二人は昵懇の仲に
なったとされています。
(「高山公言行録」)
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【徳川家康との逸話】
藤堂高虎は、豊臣秀長の意を受けて
徳川家康と直接手紙をやりとりしました。
これらのなかには、徳川家康が
藤堂高虎個人に宛てた陣中見舞いもあり、
後年の両者の親密な関係の基礎が、
この時代に築かれていたことが
伺えるとのことです。
【高虎を一番槍に】
元和2年(1616年)4月1日、
病状が悪化した徳川家康は堀直寄を呼びます。
「国家に万一のことがあれば
高虎を先鋒とし、彦根の井伊を二陣とせよ。
汝はその中間に備えて横槍をせよ」
と遺言したとのことです。
「忠勤録」には国に何かあるときは
藤堂高虎を一番槍に、
二番槍は井伊直孝にと命じたとあります。
そのためなのか、
藤堂家と井伊家は幕末まで
転封がありませんでした。
【国替え希望】
藤堂高虎は自分が死んだら
嫡子の高次に伊勢から
国替えをしてほしいと
徳川家康に申し出たとのことです。
徳川家康が理由を訊ねると
「伊勢は徳川家の要衝でしかも
上国でございます。
このような重要な地を
不肖の高次がお預かりするのは
分に過ぎます」と答えたそうです。
けれども徳川家康は
「そのような高虎の子孫ならこそ、
かかる要衝の地を守らねばならぬ。
そちの子孫以外に
伊勢の地を預けられる者などおらぬ」
と述べたということです。
【家康が感動した高虎の発言】
徳川秀忠がある日開いた夜話会で、
藤堂高虎は泰平のときの主の
第一の用務は家臣らの器量を見抜き、
適材適所につけて十分に
働かせることと述べたそうです。
次に人を疑わないことが大切で、
上下の者が互いに疑うようになれば
心が離れてしまい、
たとえ天下人であろうと下の者が
心服しないようになれば、
肝心のときに事を謀ることもできず、
もし悪人の讒言を
聞き入れるようなことになると、
勇者・智者の善人を失うと語ったとか。
徳川家康はのちにこの
藤堂高虎の言葉を聞いて
大いに感動したということです。
【家康、枕頭に高虎を招く】
元和2年(1616年)、
他界する10日前に徳川家康は
藤堂高虎を枕頭に招きます。
そして「世話になったが、来世では
そなたと会えぬのがつらい」
と涙したということです。
その家康の言葉に高虎は
「来世でも大御所様に仕えるつもりです。
私は日蓮宗ですが、大御所様の宗旨である
天台宗に改宗しますので、
来世でもお仕えすることができます」
と答えたとのことです。
(「西嶋八兵衛留書」)
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【徳川秀忠との逸話】
徳川秀忠が二条城を改修する際に
藤堂高虎に城の設計図の提出を
求めました。
これを受けて藤堂高虎は
2枚の設計図を献上しました。
徳川秀忠はなぜ2枚の設計図を提出したのか、
と藤堂高虎に尋ねます。
高虎は
「案が一つしか無ければ、
秀忠様がそれに賛成した場合
私に従ったことになる。
しかし二つ出しておけば、
どちらかへの決定は
秀忠様が行ったことになる」と申したとか。
藤堂高虎はあくまで二条城は
将軍が自身で選び抜いた案によって
改築した物だとするために、
2枚の設計図を献上したとのこと。
これは将軍である徳川秀忠を
尊重するための行いであったとのことです。
【徳川秀忠も藤堂高虎を信頼】
徳川秀忠も藤堂高虎を信頼し
御三家を交えての歓談などで
しばしば藤堂高虎を招いています。
藤堂高虎が亡くなる4ヶ月前の
登城では、土井利勝を使いにやらせ、
徳川秀忠自身が三の丸まで出迎え、
眼病を患っている藤堂高虎が
渡りやすいように
三の丸廊下の屈曲
すべてを調査し、
廊下の曲がりを正す命令を
出しています。
出しています。
別れの際には
「(廊下を)この通り良くしたので、
明日もぜひ登城せよ」
との言葉をかけて
見送ったとのことです。
藤堂高虎はこの厚意に感動し、
涙を流したとのことです。
【家光との逸話】
三代将軍徳川家光からの信頼も
絶大であったとのことです。
元和4年7月から
寛永7年2月23日まで継続して
藤堂高虎と酒宴・食事や
茶会・能楽・猿楽を楽しんでいました。
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2023年NHK大河ドラマ
「どうする家康」では
網川 凛(あみかわ りん)さんが
演じられます。
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