【藤原穆子】
藤原 穆子(ふじわら の ぼくし/あつこ、
承平元年(931年)⇒長和5年7月26日
(1016年8月31日))は、
平安時代の左大臣・源雅信の正室です。
中納言藤原朝忠(藤原北家勧修寺流)の娘で、
藤原道長正室である源倫子や
源時通、源時叙、藤原道綱正室の母でした。
官位は従四位下。
父藤原朝忠から譲られた
土御門第に夫を迎えて同居し
その後、夫や未婚の子女と
一緒に一条第に移居します。
藤原道長が源倫子に求婚した折に
夫である源雅信は娘の倫子を
一条天皇の妃にしようと画策しており、
これを断ろうとしました。
けれども藤原穆子が倫子と天皇とでは
年齢的に不釣合いであるとしてこれに反対し、
藤原道長を婿に迎え入れさせました。
このため、藤原道長もこの義母には
頭が上がらなかったと
言われているとのことです。
娘の倫子が後一条・後朱雀両天皇の母となる
彰子や三条天皇皇后妍子らを出産する一方で、
婿である藤原道長は洞察通りの昇進をしていき、
ついに摂関時代の頂点に立つことになります。
藤原道綱を婿にした
娘の中の君が出産により死去すると、
悲嘆に暮れながらも
孫を引き取って養育し、
婿たちへの季節ごとの贈り物も
欠かさなかったということです。
【一条尼】
正暦4年(993年)に
夫が死ぬと出家して尼となり、
出家したため、
「一条尼(いちじょうのあま)」
と呼ばれるようになったそうです。
その後、藤原道長の昇進、
孫娘の藤原彰子の入内などが続き、
東山の観音寺に無常所を作り
法事を修しています。
【七十算の修法】
長保3年(1001年)の
藤原穆子の七十算の修法
(70歳を祝う加持祈祷)は、
藤原道長夫妻の主催によって
大規模に行われたとのことです。
娘たちからも盛大に
営んでもらったとのことです。
晩年は観音寺に
しばしば籠ったということです。
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【86歳で他界】
長和元年(1016年)、
曾孫に当たる後一条天皇が即位しますが、
間もなく病状が悪化し、
藤原道長夫妻も
看病にあたったのですが、
同年7月に86歳で病死しました。
遺言通り観音寺で葬送や法事が営まれました。
2024年NHK大河ドラマ
「光る君へ」では
石野真子(いしの まこ)さんが
演じられます。
なお、藤原 穆子の読み方が
「ふじわらのむつこ」となっています。
【藤原北家勧修寺流】
勧修寺流(かじゅうじりゅう、かんじゅじりゅう)は、
藤原北家高藤流の公家(公家貴族)の一流です。
「勧修寺」の寺名とともに、
今日では「かじゅうじ」
と読むのが一般的ですが、
中世の日記等では
「くわんしゆし」との
仮名表記も散見され、
「かんじゅじ」とも
読まれていたことが
うかがわれるとのことです。
なお、勧修寺流の中に
勧修寺家も存在しますが、
嫡流とされている家は
吉田家⇒甘露寺家の
流れであるとのことです。
【勧修寺流の祖】
勧修寺流の祖とされているのは、
高藤の子である藤原定方とのことです。
藤原定方が山科に勧修寺を
建立したことから、
この一門の名前となったためです。
藤原氏嫡流から分かれたのは
藤原良房の異母弟である
良門からであるとのことです。
勧修寺流には堂上家として、
甘露寺(旧名吉田)・清閑寺・
万里小路・中御門
(なかのみかど。羽林家の中御門家とは別家)・
勧修寺・坊城・穂波・葉室・池尻・
梅小路・岡崎・芝山・堤などの
各家があるとのことです。
【「日記の家」】
勧修寺流は、山科の勧修寺を
一門の結束の精神的な拠所とし、
傾向としては他の流派よりも比較的堅く、
また家職として朝廷の実務を
担当する家が多く、
弁官や摂関家家司を多く
輩出しているとのことです。
後世の実務の参考となるよう、
先例を書き留めておく
必要があることから、
詳細な日記を残すことも求められ、
勧修寺流は「日記の家」
と称されるようになり、
各家当主による日記も
豊富に残されているとのことです。
【甘露寺家】
藤原定方の孫、藤原為輔(朝頼の子)が、
甘露寺家の祖とされています。
しかしながら、甘露寺系と勧修寺系が
分かれるのはさらに9代後の
資経の時であるとのこと。
なお為輔の子からは上杉家も出ています。
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【勧修寺流中興の祖】
藤原為輔の玄孫・為房は
白河法皇の院近臣、
関白藤原師実・師通の家司となり、
勧修寺流中興の祖とされています。
為房の曾孫である経房が
「吉田」の家名を名乗ります。
経房は源頼朝と関係が密接であり
初代関東申次となって
朝廷と鎌倉幕府の関係調整に
あたったとのことです。
【万里小路系】
経房の孫にあたる資経の子・為経が
甘露寺系、同じく経俊が勧修寺系、
同じく資通が万里小路系として
分かれていきます。
さらに経俊の子経継からは中御門家が、
曾孫の経顕からは勧修寺家が出ます。
【藤原為時と紫式部と大弐三位】
堤中納言と称された
藤原兼輔の孫である
藤原為時の越前守就任時の
学才の高さを顕す逸話は
今昔物語集などにも伝わっています。
藤原為時の娘の紫式部は
源氏物語の作者として、
紫式部とその夫で同じく
勧修寺流の藤原宣孝との間に
生まれた娘に歌人の大弐三位がいます。
【藤原惟規の子孫】
紫式部の兄弟の藤原惟規の子孫である
藤原邦綱は藤原兼輔以来の公卿に列しました。
源雅信~皇室の血筋で源倫子の父、藤原兼家にとっては邪魔な存在、宇多源氏の始祖で子孫は近江源氏・出雲源氏へと繋がっていく。
源倫子~6人の子供に恵まれ、夫である藤原道長の外戚政権を 実質的に完成させた女性です。
藤原彰子~真面目で努力家で控えめな少女は成長して国母となり政治力を発揮し「賢后」となりました。
藤原道長~初めは目立たずも後に政権を掌握、「一家立三后」をなし「この世をば わが世とぞ思ふ」と詠む。
紫式部~世界最古の長編小説とされる「源氏物語」を執筆した女流小説家で平安時代きっての才女。
藤原宣孝~性格も女性関係も華やかで20歳以上も年上であった紫式部の夫。
藤原為時~漢詩の才能に長け、人格形成で紫式部に影響を与えたとされており、子らに先立たれる。
藤原惟規~紫式部の兄弟で和歌の才能があったが、越後にて父より先に亡くなる。
藤原兼家~熾烈な権力闘争に勝ち、のちの藤原氏最盛期を築いた人物です。
藤原頼忠~従兄弟の兼通とは親しく兼家とはライバル、天皇の外戚になれず失意のうちに世を去る。
藤原公任~藤原北家小野宮流で政治的・芸術手的にも名門の出で「お坊ちゃま」、藤原道長とは同い年で四納言。
藤原実資~藤原北家嫡流の小野宮流の家領を継ぎ「賢人右府」と呼ばれ、貴重な資料である「小右記」を残す。
藤原道隆~藤原道長の長兄、容姿端正、明朗で豪快、気配り上手な優れた跡継ぎでしたが病で急逝します。
藤原道兼~父は藤原兼家、兄は藤原道隆、弟は藤原道長、待望の関白に就くも数日でこの世を去る。
藤原詮子~藤原道長の姉、国母となりやがて日本最初の女院となって、権力を握り政治に介入する。
藤原時姫~藤原兼家の妻で藤原道隆・道兼・道長・超子・詮子の生母、一条・三条両天皇の祖母です。
源明子(源高明の娘)~藤原道長の妾妻で源俊賢の異母妹、明子の家系はやがて五摂家に繋がっていくのです。
高階貴子~身分は高くないが和歌と漢詩に秀でた才媛で藤原道隆の嫡妻、百人一首54番の情熱的な和歌が有名。
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