【扇谷上杉管領屋敷跡】
扇谷上杉管領家の鎌倉屋敷跡です。
室町幕府を開いた
足利尊氏の母方の叔父にあたる
上杉重顕を祖とする家です。
南北朝期の貞治年間に
上杉重顕の養孫にあたる
上杉顕定が関東に下向し、
鎌倉公方(関東公方)に仕えて
鎌倉扇谷に居住したことから
扇谷家が起こりました。
【亀谷から扇谷へ】
扇谷上杉管領家の鎌倉屋敷跡には
現在石碑が建っており、
場所は英勝寺前のJR横須賀線踏切近くです。
海蔵寺から英勝寺付近は、
鎌倉七口の「亀ヶ谷坂」や
壽福寺の山号「亀谷山」の通り、
元々は「亀谷」でした。
室町時代に上杉定正がこの地に住み、
「扇谷殿」と呼ばれるようになったことから、
「亀ヶ谷」という名がすたれ
「扇ヶ谷」という名が
一般的になったと云われております。
【所在地】
〒248-0011 神奈川県鎌倉市扇ガ谷2丁目4−3
【交通アクセス】
英勝寺前の横須賀線の踏切近くにあります。
護国寺の敷地内です。
鎌倉駅から徒歩8~10分程度です。
車の場合は、拠点となる場所を定めて
その拠点近くのコインパーキングに駐車して
付近一帯を散策されるのがいいかと存じます。
【扇谷上杉家】
扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)は、
室町時代に関東地方に
割拠した上杉氏の諸家のひとつです。
上杉朝定の養子である上杉顕定を祖とします。
南北朝期の貞治年間に
上杉重顕の養孫(上杉朝定の養子)にあたる
上杉顕定が関東に下向し、
上杉重顕の弟である上杉憲房の諸子から
出た諸上杉家と同じく
鎌倉公方(関東公方)に仕えて
鎌倉の扇谷(現在の鎌倉市扇ガ谷)に
居住したことから扇谷家の家名が起こりました。
戦国時代には河越城に本拠を移し、
武蔵国を拠点とする大名となり、
南関東に勢力を広げていきました。
【扇谷上杉氏の歴史】
扇谷上杉氏は室町幕府を開いた
足利尊氏の母方の叔父にあたる
上杉重顕を遠祖とする家です。
【上杉氏の祖である上杉重房】
なお、上杉氏の祖は
上杉 重房(うえすぎ しげふさ)です。
建長4年(1252年)、
鎌倉幕府5代執権である北条時頼により
鎌倉幕府5代将軍の藤原頼嗣が
京へ送還され、
新たに後嵯峨天皇の皇子である
宗尊親王が下向し6代将軍に就任します。
その際に藤原重房はその介添えとして
共に鎌倉へ供奉し、
丹波国何鹿郡上杉庄を賜り、
以後上杉氏を称したとのことです。
文永3年(1266年)、
宗尊親王は謀反の疑いにより
帰洛させられますが、
上杉重房はそのまま鎌倉にとどまり、
公家から軍事貴族となって幕府に仕えたのでした。
やがて有力御家人である足利泰氏に仕えます。
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【通例を変えた足利氏の婚姻】
足利氏は代々北条氏から
正室を迎えるのが通例でしたが、
「尊卑分脈」によりますと、
上卯木重房の娘(もしくは妹)が
足利頼氏の家女房となり、
その間に生まれた足利家時は
足利氏の当主となります。
以後、上杉氏は姻戚関係を通じて
足利家中で権勢を
得るようになっていきました。
この婚姻は、足利氏がもともと公家で
朝廷とのつながりがあった
上杉氏を重要視した結果といわれています。
また、上杉重房の孫娘である清子は、
足利家時の子である足利貞氏に
嫁いで後の室町幕府初代将軍となる
足利尊氏やその弟の足利直義を産んでいます。
鎌倉明月院に木造の
上杉重房坐像(国の重要文化財)が
所蔵されています。
【扇谷上杉氏の勢力】
扇谷家は他の上杉諸家と同じく
関東管領を継承する家格を持っていました。
けれども事実上の宗家である
山内上杉家が
関東管領をほとんど独占したため、
室町時代の前半には
さほど大きな勢力を
持った家ではありませんでした。
応永23年(1416年)の
上杉禅秀の乱では
鎌倉公方である足利持氏方、
鎌倉公方が滅亡した
永享の乱では
関東管領山内上杉憲実方にと、
勝利した側について活動しています。
この時の当主であった上杉持朝は
永享の乱後に修理大夫に任ぜられ、
続く結城合戦後には
相模守護に任ぜられています。
これは永享の乱後、
上杉憲実の隠退の意思が固く、
後継者に指名された山内上杉清方の
経験不足を憂慮した室町幕府が
上杉持朝にその補佐を
期待したためとみられています。
【足利成氏の時代】
文安4年(1447年)には
足利成氏が下向して
鎌倉公方が再興されましたが、
宝徳2年(1450年)には
鎌倉公方の足利成氏と
山内上杉憲忠が対立します。
足利成氏はこの時に
山内家家宰である長尾景仲と
扇谷家家宰である太田道真を非難しています。
【長尾景春の反乱】
文明9年(1477年)には
山内家家臣である長尾景春が
主君である上杉顕定に反乱を起こします。
山内上杉顕定を上野に追い、
文明10年(1478年)には
長尾景春に味方した
古河公方足利成氏と
上杉顕定の間に和睦が成立しました。
【太田道灌の暗殺】
長尾景春の乱は扇谷家の領国である
武蔵において展開されていますが、
扇谷家家宰の太田道灌は
乱の平定を主導していました。
そして扇谷家でも山内家と同様に
当主と家宰との対立関係が発生します。
文明18年(1486年)に
太田道灌は主君である
上杉定正により暗殺されています。
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【太田道灌の屋敷跡】
尚、太田道灌の屋敷は、
扇谷上杉管領屋敷跡碑の前を流れる
扇川の反対側(源氏山の麓)にあり、
現在の鎌倉・英勝寺がある場所となります。
【長享の乱】
その後は関東の領有をめぐり
山内家との対立が顕在化します。
堀越公方の足利政知を擁した山内家に対し
扇谷家は古河公方である足利成氏に接近して、
両家は対立しました。
【伊勢盛時の登場】
明応2年(1493年)には
扇谷上杉定正の命で
伊勢盛時(後の北条早雲)が
堀越公方を攻撃しましたが、
伊勢盛時(北条早雲)は
伊豆において自立し、
子孫は小田原北条氏となります。
同盟関係にあった古河公方の足利成氏は
分裂により衰亡していたほか、
山内方の相模の領地は
伊勢盛時(北条早雲)に
次第に切り取られて
支配権を失い、
次の扇谷家当主の上杉朝良は
伊勢盛時(北条早雲)と
伊勢盛時の甥で
主君である駿河守護の
今川氏親の軍事支援で
立河原の戦いは勝利しましたが、
自らは積極的な対応策を打たず
河越城を包囲されて
扇谷側の降伏の形で
長享の乱は収束したのでした。
【三浦道寸の滅亡】
しかし、山内家・扇谷家・古河公方
それぞれの家が内紛状態に入り
永正の乱が発生してしまいます。
この騒動に付け入られる形で
相模を小田原北条氏に浸食され、
永正13年(1516年)には
相模における扇谷家の重鎮であった
三浦道寸の滅亡を招いてしまったのでした。
【武田信虎と武田晴信の登場】
やがて小田原北条氏は武蔵への侵攻を開始。
大永4年(1524年)に扇谷当主の
上杉朝興は江戸城から川越へ逃れます。
甲斐の武田信虎(信直)は
両上杉氏と同盟して小田原北条氏と対決しました。
上杉朝興は天文2年(1533年)に
武田信虎嫡男である武田晴信(後の信玄)に
娘を嫁がせて婚姻を結んでいましたが、
武田信虎は上杉朝興死去の翌年となる
天文7年(1538年)に
小田原北条氏と和睦して離反しています。
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【扇谷上杉家の滅亡】
上杉朝興の子である上杉朝定は
山内家と和解して小田原北条氏との戦いに
臨みましたが、
天文15年(1546年)、
河越夜戦で戦死し、扇谷上杉家は滅亡したのでした。
但し、上杉朝定の戦死については
異説があるとの事です。
【扇谷家の名跡】
扇谷家の名跡は一族の上杉憲勝が継ぎました。、
永禄4年(15611年)、
山内家の家督と関東管領職を継承した
越後の長尾景虎(上杉謙信)によって
武蔵松山城主に据えられましたが、
永禄6年(1563年)に
小田原北条氏に降伏しました。
その後の動向はわかってはいません。
【長尾景虎は鎌倉氏の子孫】
長尾景虎(上杉謙信)の先祖は
鎌倉氏一族である長尾氏です。
その長尾氏の居城は、
鎌倉市と横浜市の境にある
大船駅近くの丘陵地帯にあります。
(住所は現在は横浜市)
【扇谷上杉家の血統】
なお、山内家の名跡を継ぐ
米沢藩主上杉綱憲の実父である
吉良義央は扇谷家の前身である
二橋上杉家の血統を引いており、
それ以降の上杉家にも
扇谷家(二橋家)の血統は残っているとのことです。
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