平安時代

紫式部~世界最古の長編小説とされる「源氏物語」を執筆した女流小説家で平安時代きっての才女。

三人官女



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紫式部

紫式部(むらさきしきぶ)は、
平安時代中期の作家・歌人、女房(女官)。
作家としては日本文学史を代表する一人です。

【紫式部の概要】
正確な誕生年は特定することはできません。
近年の研究では、天禄元年(970年)から
天元元年(978年)の間に生まれ、
寛仁3年(1019年)までは
存命した説があるとのことです。
源氏物語」の作者とされています。
藤原道長の要請で
宮中に上がった際に
宮中の様子を書いた
「紫式部日記」も残しています。

【執筆した作品】
源氏物語」と「紫式部日記」の2作品は、
後にそれぞれ「源氏物語絵巻」
「紫式部日記絵巻」として絵画化されました。
また、歌人としても優れ、
子供時代から晩年に至るまで
自らが詠んだ和歌から
選び収めた家集「紫式部集」があります。
「小倉百人一首」にも和歌が収められており、
中古三十六歌仙および
女房三十六歌仙の一人でもあります。
「古今和歌集」以下の勅撰和歌集に、
計51首が入集しています。

【父と源氏物語執筆の背景】
父の藤原為時は、
官位は正五位下と
下級貴族ではありましたが、
花山天皇に漢学を教えた
漢詩人、歌人でした。
紫式部は藤原宣孝に嫁ぎ、
一女(大弐三位)を産んでいます。
長保3年(1001年)に
結婚後3年程で夫が卒去しています。
その後「源氏物語」を書き始め、
その評判を聞いた藤原道長に召し出されて、
藤原道長の娘で、
一条天皇中宮の彰子に
仕えている間に「源氏物語」を
完成させたとのことです。

なお、「紫式部集」には、
夫である藤原宣孝の卒去に伴い
詠んだ和歌
「見し人の けぶりとなりし 夕べより
名ぞむつましき 塩釜の浦」
が収められているとことです。
和歌の意味は
「夫が火葬により煙となった夜から
塩釜をとても身近に思う」とのこと。
ちなみに「塩釜」は海藻を焼き
塩を取ることで知られる地名で、
現在の宮城県塩竈市とのこと。

【生涯】
藤原北家良門流の
越後守・藤原為時の娘で、
母は摂津守・藤原為信女とのことですが、
幼少期に母を亡くしたとされていまする。
同母の兄弟に藤原惟規がいます。
なお藤原惟規の生年も不明であり、
紫式部とどちらが年長かについては
両説が存在するとのことです。
ほか、姉がいたことも
わかっているとのことです。
三条右大臣・藤原定方、
堤中納言・藤原兼輔はともに
父方の曾祖父で、
一族には文辞を以って
聞こえた人が多いとのことです。

【幼少期から才能を発揮】
幼少の頃より
当時の女性に求められる
以上の才能で漢文を
読みこなしたなど、
才女としての逸話が多いとのことです。
54帖にわたる大作「源氏物語」、
宮仕え中の日記「紫式部日記」を
著したというのが通説で、
和歌集「紫式部集」が伝わっています。

【父と過ごす】
父である藤原為時は30代に
東宮の読書役を始めとして
東宮が花山天皇になると蔵人、
式部大丞と出世しましたが、
花山天皇が出家すると散位となりました。
(位禄はあるとのこと)
10年後、一条天皇に詩を奉じた結果、
越前国の受領となりました。
紫式部は娘時代の約2年を
父の任国で過ごしたとのことです。




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【結婚・出産・死別】
長徳4年(998年)頃、
親子ほども年の差があり、
又従兄妹でもある
山城守・藤原宣孝と結婚し、
長保元年(999年)に
一女・藤原賢子(大弐三位)を儲けました。
けれどもこの結婚生活は長く続かず、
間もなく長保3年4月15日
(1001年5月10日)に
藤原宣孝と死別しました。

寛弘2年12月29日
(1006年1月31日)、
もしくは寛弘3年の同日
(1007年1月20日)より、
一条天皇の中宮・彰子
(藤原道長の長女、のち院号宣下して上東門院)
に女房兼家庭教師役(現代に例えると)
として仕えます。
少なくとも
寛弘8年(1012年)頃まで
奉仕し続けたようです。

【源倫子の女房として出仕した可能性】
なおこれに先立ち、
永延元年(987年)の
藤原道長と源倫子の結婚の際に、
倫子付きの女房として
出仕した可能性が
指摘されているとのことです。
「源氏物語」解説書の「河海抄」
「紫明抄」や歴史書「今鏡」には
紫式部の経歴として
倫子付き女房であったことが
記されているそうです。
が、それらは伝承の類であり
信憑性には乏しいとされています。

【初出仕が寛弘2年以前である根拠】
他にも「紫式部日記」から
うかがえる、新参の女房に
対するものとは思えぬ
藤原道長や源倫子からの
格別な信頼・配慮があること、
永延元年当時は
藤原為時が散位であったこと、
源倫子と紫式部はいずれも
曽祖父に藤原定方を持ち
遠縁に当たることなどが
挙げられています。
また女房名からも、
藤原為時が式部丞だった時期は
彰子への出仕の20年も前であり、
さらにその間に越前国の
国司に任じられているため、
寛弘2年に
初出仕したのであれば
父の任国「越前」や
亡夫の任国・役職の「山城」
「右衛門権佐」にちなんだ
名を名乗るのが自然で、
地位としてもそれらより劣る
「式部」を女房名に用いるのは考えがたく、
そのことからも初出仕の時期は
寛弘2年以前であるという説となります。

「詞花集」に収められた伊勢大輔の
「いにしへの奈良の都の八重桜
けふ九重ににほひぬるかな」
という和歌がありますが、
これは宮廷に献上された
八重桜を受け取り
中宮に奉る際に詠んだものとのことですが、
「伊勢大輔集」によりますと
この役目は当初紫式部の役目だったものを
紫式部が新参の伊勢大輔に
譲ったものであるとのことです。




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【紫式部の没年】
藤原実資の日記「小右記」長和2年5月25日
(1014年6月25日)条で
「実資の甥で養子である
藤原資平が実資の代理で
皇太后彰子のもとを訪れた際
「『越後守為時女」なる女房が
取り次ぎ役を務めた」旨の記述が
紫式部で残された最後のもの
とされているとのことです。
よって三条天皇の長和年間
(1012年⇒1016年)に
没したとするのが
昭和40年代までの通説であったとのことです。
が、現在では、「小右記」寛仁3年正月5日
(1019年2月18日)条で、
実資に応対した「女房」を
紫式部本人と認め、
さらに、西本願寺本「平兼盛集」巻末逸文に
「おなじ宮の藤式部、…式部の君亡くなり…」
とある詞書と和歌を、岡一男説の
「頼宗集」の逸文ではなく、
「定頼集」の逸文と推定し、
この直後に死亡したとする説などが
存在しているとのことです。

【2000円札】
日本銀行券のD号券の
二千円札の裏には
小さな肖像画と
「源氏物語絵巻」の一部が
使用されています。

【本名】
紫式部の本名は現在のところは不明です。
「御堂関白記」の寛弘4年1月29日
(1007年2月19日)の条において
掌侍になったとされる記事のある
藤原香子(かおるこ/たかこ/こうし)
とする説があるとのことです。
ただし、この説は仮定を重ねている
部分も多く推論の過程に
誤りが含まれているといった
批判もあるとのことです。
その他にも、もし紫式部が
「掌侍」という律令制に基づく
公的な地位を有していたであれば
勅撰集や系譜類に何らかの
言及があると思えるのに
そのような痕跡が
全く見えないのはおかしいとする
批判も根強くあるとのことです。
また、香子の読みを
「よしこ」とする説もあるとのことです。

2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」では
「まひろ」としています。

【その他の名前】
女房名は「藤式部」。
「式部」は父為時の官位
(式部省の官僚・式部大丞だったこと)
に由来するとする説と、
同母兄弟の惟規の官位による
とする説とがあります。

現在一般的に使われている
「紫式部」という呼称についてですが、
「紫」のような色名を冠した呼称は
この時代他に例が無かったとのことです。
谷性寺 桔梗

このような名前で呼ばれるようになった
理由については様々な
推測がされているとのことです。
一般的には「紫」の称は
「源氏物語」または特に
その作中人物である
「紫の上」に由来すると
考えられているとされています。




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【婚姻関係】
紫式部の夫としては
藤原宣孝がよく知られています。
これまで紫式部の結婚は
この一度だけであると
考えられてきました。
けれども「紫式部=藤原香子」
説との関係で、
「権記」の長徳3年(997年)8月17日条に
現れる「後家香子」なる女性が
藤原香子=紫式部とすると、
紫式部の結婚は藤原宣孝との
一回限りではなく、
それ以前に紀時文との
婚姻関係が存在したのではないか
とする説が唱えられているそうです。

【藤原道長の妾説】
「紫式部日記」には、
夜半に藤原道長が
彼女の局をたずねて来る一節があります。
鎌倉時代の公家系譜の集大成である
「尊卑分脈」
(『新編纂図本朝尊卑分脉系譜雑類要集』)
になると、「上東門院女房 歌人 紫式部是也
源氏物語作者 或本雅正女云々 為時妹也云々
御堂関白道長妾」と紫式部の項に
はっきり「道長妾」との
註記が付くようになりますが、
彼女と藤原道長の関係は
現在のところは不明であるとのことです。

【生没年】
当時の受領階級の
女性一般がそうであるように、
紫式部の生没年を
明確な形で伝えた記録は存在していません。
そのため紫式部の生没年については
様々な状況を元に
推測した複数の説が
存在しており、定説が無い状態であります。

生年については両親が
婚姻関係になったのが
父の藤原為時が初めて国司となって
播磨国へ赴く直前と
考えられることから
それ以降であり、
かつ同母の姉がいることから、
そこからある程度経過した
時期であろうと推測されています。
が、同母兄弟である
藤原惟規とどちらが
年長であるのかも不明となっています。

2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」では
藤原惟規は弟と設定されています。

【墓所】
紫式部の墓と伝えられるものが
京都市北区紫野西御所田町
(堀川北大路下ル西側)に
残されており、
小野篁の墓とされるものに
隣接して建てられています。
小野篁像

この場所は淳和天皇の離宮があり、
紫式部が晩年に住んだと
言われております。
後に大徳寺の別坊となった
雲林院百毫院の南にあたりまする。
この地に紫式部の墓が
存在するという伝承は、
古くは14世紀中頃の
「源氏物語」注釈書「河海抄」(四辻善成)に、
「式部墓所在雲林院白毫院南 小野篁墓の西なり」
と明記されております。
15世紀後半の注釈書「花鳥余情」(一条兼良)、
江戸時代の書物「扶桑京華志」や
「山城名跡巡行志」「山州名跡志」
にも記されているとのことです。
1989年に
社団法人紫式部顕彰会
によって整備されており、
京都の観光名所の一つに
なっているとのことです。




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【紫式部の人物評】
同時期の有名だった
女房たちの人物評が見られます。
中でも最も有名なのが
「枕草子」作者の
清少納言に対する
下りとなります。

「清少納言こそ したり
顔にいみじうはべりける人
さばかりさかしだち
真名書き散らしてはべるほども
よく見れば
まだいと足らぬこと多かり」
「紫日記」黒川本)、

<現代語訳(意訳)>
「得意げに真名(漢字)を
書き散らしているが、
よく見ると間違いも多いし
大した事はない」

「そのあだになりぬる
人の果て いかでかは
よくはべらむ」
「紫日記」黒川本)

<現代語訳(意訳)>
「こんな人の行く末に
いいことがあるだろうか(いや、ない)」

殆ど陰口ともいえる辛辣な批評です。
これらの表記は近年に至るまで
様々な憶測や、
ある種野次馬的な興味
(紫式部が清少納言の才能に嫉妬、など)
を持って語られていました。
が、本人同士は
年齢や宮仕えの年代も
10年近く異なるため、
実際に面識は無かったものと
見られています。
近年では、
「紫式部日記」の
政治的性格を重視する視点から、
清少納言の「枕草子」が
故皇后・定子を追懐し、
紫式部の主人である
中宮・彰子の存在感を
阻んでいることに
苛立ったためとする解釈が
提出されているとのことです。
同輩であった歌人の和泉式部
(「素行は良くないが、歌は素晴らしい」など)や
赤染衛門(「家柄は良くないが、
歌は素晴らしい」など)には、
否定的な批評もありながらも
概ね好感を見せているとのことです。

【もののあわれ】
「源氏物語」は「もののあわれ(もののあはれ)
の文学とされています。
これを提唱したのは
江戸時代後期の国学者本居宣長で、
著作「紫文要領」や「源氏物語玉の小櫛」
などにおいて提唱し、
その頂点が「源氏物語」であると
規定したとのことです。
本居宣長 旧宅

もののあわれ
(もののあはれ、物の哀れ)とは、
平安時代の王朝文学を知る上で
重要な文学的・美的理念の一つとされています。
折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに
触発されて生ずる、しみじみとした情趣や、
無常観的な哀愁であるとのことです。
苦悩にみちた王朝女性の心から
生まれた生活理想であり、
美的理念であると
されているとのことです。

【雨夜の品定め】
「源氏物語‐帚木」で、
夏の雨の夜に、物忌みのため
宿直(とのい)していた
17歳の光源氏のもとへ、
頭中将、左馬頭、藤式部丞が来て、
女性の品評をし、理想像を論じ、
さらに各自の体験談を語った下りがあります。
女性を上・中・下とランク付けをして
ああじゃねーこーじゃねーといろいろ話す場面です。
メンズトークですね。
理想は中ということで、
上は殆ど存在しないとか・・。
下は下流階級の女性で、
見事に身分でランク付けされています。
性格がでてくるのは上の女性で、
家柄・容姿が上流で、尚且つ性格が良しとのこと。
中は、元は上流だが中流に、或いはその逆、
そして思わぬ家でとても大事に育てられた女性、とのこと。

そう、上流階級で美人である女性だけが
性格も語られるのです・・。
それを読んだとき、
高校生でしたが、
「平安時代も今も変わんないじゃん」でした。
そして「理想の女性」像が
これがまた実に男性にとって都合が良く、
現実的には存在しません・・。
で、彼らも納得し、現実的になり、
妥協(?)して良き妻像を挙げます。
それは
落ちついて、実直で一途。
身分や容姿は度外視。
更に何らかの才能や心づかいができる
女性がいたらいいじゃん、みたいになります。




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【平安時代と1980年代】
それって紫式部ご本人じゃないの?と思いました。
紫式部さん、つまりは作者の私が
一番の良き妻よ、とアピールね。
なかなか強かな女性であると
当時の私は感心しました。
なんだかね、
一見すると「中島みゆき」さんが
作詞作曲した歌のイメージが
紫式部さんにはあったのですが、
実は「松任谷由実」さんの
世界観にも通じるのかなと。
そして平安女性と中高生だった
1980年代と
そんなに変わらない身近さを感じました。
(あくまで個人の感想です)

さらに近年では、実にわかりやすい
「紫式部日記」の解説本等も出たりして
より作品と紫式部さんが
身近に感じられるように
なりましたね。
で、やっぱり「中島みゆき」さんの世界観と
共通するものを感じました。
(あくまで個人の感想です)

あとですね、
高橋留美子さんの「うる星やつら」も
実は「源氏物語」と共通するものを
感じているのです・・。
「諸星あたる」に群がる複数の女性たち。
こちらは主に中学時代に読んでいました。
実際に漫画の中でも「源氏物語」のパロディが
出てきますしね。
(あくまで個人の感想です)

【テストは苦手】
古文のテストに出てくる「源氏物語」には
大体苦戦を強いられました。
当時すでに漫画「あさきゆめみし」が
ありましたが、
まだまだ序盤のほうでした。
そこで私がテスト対策としてとったのが
家にあった父親が若いころ買った
与謝野晶子訳の「源氏物語」を読むことでした。
最も現代語訳といっても、
与謝野晶子訳なので、
これでも難解でした。
でも、読んで大筋を頭に叩き込んだので
お手上げ状態を避けることができました。
「紫式部日記」のわかりやすい解説本は
当時はなかったのでこちらは更に苦戦しました。

2024年NHK大河ドラマ
「光る君へ」では
吉高由里子(よしたかゆりこ)さんが
演じられます。

藤原道長~初めは目立たずも後に政権を掌握、「一家立三后」をなし「この世をば わが世とぞ思ふ」と詠む。

大弐三位(紫式部娘・藤原賢子)~母からは和歌や文才を、父からは明朗で自由快活な気性を受け継ぎ、行動力溢れ長寿を全うしました。

さわ~紫式部(まひろ)の友人、史実では平維将の娘である従姉妹の筑紫の君の可能性あり。

藤原彰子~真面目で努力家で控えめな少女は成長して国母となり政治力を発揮し「賢后」となりました。

一条天皇~「叡哲欽明」と評された賢王は笛の名手で皇后との「純愛」を育み、やがて平安王朝文化が開花。

絵師~平安時代に登場した「大和絵」、源氏物語は後に絵巻となりそれはコミカライズの原点とも言われています。

藤原頼通~藤原氏の栄華の象徴である平等院鳳凰堂を造営、摂関政治から院政と武士が台頭する時代へ。

藤原教通~同母兄の頼通への卑屈なまでの従順と確執、やがて藤原摂関家の衰退を招いていきます。

源倫子~6人の子供に恵まれ、夫である藤原道長の外戚政権を 実質的に完成させた女性です。

藤原惟規~紫式部の兄弟で和歌の才能があったが、越後にて父より先に亡くなる。

藤原為時~漢詩の才能に長け、人格形成で紫式部に影響を与えたとされており、子らに先立たれる。

ちやは(藤原為信の娘)~紫式部の生母、藤原為時との間に一男二女を授かりますが若くして亡くなります。

藤原宣孝~性格も女性関係も華やかで20歳以上も年上であった紫式部の夫。

藤原穆子~源倫子の母親で藤原道長の才能を見抜き結婚を勧めた女性で紫式部とは遠縁です。

和泉式部~和歌の才能にあふれた恋多き自由奔放な女性、娘への哀傷歌が有名です。

赤染衛門~理知的で優美な諷詠の女流歌人、おしどり夫婦であり良き妻良き母、「栄花物語」正編の作者とも。

伊勢大輔~「小倉百人一首」にもある「いにしへの」の歌が有名な平安時代の女流歌人です。

源雅信~皇室の血筋で源倫子の父、藤原兼家にとっては邪魔な存在、宇多源氏の始祖で子孫は近江源氏・出雲源氏へと繋がっていく。

藤原兼家~熾烈な権力闘争に勝ち、のちの藤原氏最盛期を築いた人物です。

藤原道隆~藤原道長の長兄、容姿端正、明朗で豪快、気配り上手な優れた跡継ぎでしたが病で急逝します。

藤原道兼~父は藤原兼家、兄は藤原道隆、弟は藤原道長、待望の関白に就くも数日でこの世を去る。

藤原詮子~藤原道長の姉、国母となりやがて日本最初の女院となって、権力を握り政治に介入する。

藤原道綱~藤原道長の異母兄で母は「蜻蛉日記」の作者、おっとりとした性格で才に恵まれず。

藤原寧子(藤原道綱母)~藤原兼家の妻の一人で、女流日記の先駆けと評されている「蜻蛉日記」の作者です。

藤原時姫~藤原兼家の妻で藤原道隆・道兼・道長・超子・詮子の生母、一条・三条両天皇の祖母です。

高階貴子~身分は高くないが和歌と漢詩に秀でた才媛で藤原道隆の嫡妻、百人一首54番の情熱的な和歌が有名。

藤原定子~朗らかで才気に満ち華やかで美しい女性、父道隆の死で状況は一変し若くして散る。

藤原伊周~藤原道隆の嫡男、急速に出世するも叔父・道長との政争に敗れ失意のうち世を去る。

藤原隆家~藤原道隆の四男、「刀伊の入寇」で武勇を挙げ政敵・道長も一目置いた気骨ある人物です。

藤原頼忠~従兄弟の兼通とは親しく兼家とはライバル、天皇の外戚になれず失意のうちに世を去る。

藤原公任~藤原北家小野宮流で政治的・芸術手的にも名門の出で「お坊ちゃま」、藤原道長とは同い年で四納言。

藤原実資~藤原北家嫡流の小野宮流の家領を継ぎ「賢人右府」と呼ばれ、貴重な資料である「小右記」を残す。

藤原斉信~藤原道長の従兄弟で当初は道隆に仕えるも後に道長の腹心へ、清少納言との交流があり「枕草子」に登場します。

藤原行成~世尊寺流の祖、実務に高い能力を発揮し人徳高く当代の能書家として後世「権蹟」と称されました。

源俊賢~一条朝の四納言の一人、父の源高明が政変で失脚するもバランス感覚に優れ権大納言まで昇進します。

源明子(源高明の娘)~藤原道長の妾妻で源俊賢の異母妹、明子の家系はやがて五摂家に繋がっていくのです。

清少納言~末娘で父親からとても可愛がられて育ち、定子に仕え世界最古の随筆である「枕草子」を執筆します。

安倍晴明の生誕地の一つを訪ねて~平安時代に実在した陰陽師で現在でいう天文博士です。

円融天皇~政治に関与し兼家と疎隔・対立するも、藤原詮子との間に後の一条天皇が誕生します。

花山天皇~藤原氏の策略で19歳で出家、独創的な発想の持ち主で好色、観音巡礼が後に「西国三十三所巡礼」として継承。

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