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松永久秀~三好長慶に忠義を誓った人物~官僚であり武将として時代の中心で活躍するも信貴山城にて死す。

信貴山城跡と朝護孫子寺



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松永久秀

松永 久秀(まつなが ひさひで)は、戦国時代の武将です。
大和国の戦国大名
官位を合わせた松永弾正(まつなが だんじょう)の名で知られています。
弟に松永長頼、嫡男に松永久通、
久秀の甥で松永家の姓を継承した永種(松永貞徳の父)がいます。
なお、松永貞徳は、江戸時代前期の俳人・歌人・歌学者でした。

松永久秀とは?】
初めは三好長慶に仕えていました。
やがて三好政権内で実力をつけ、
室町幕府との折衝などで活躍した人物です。
松永久秀は三好長慶の配下であると同時に、
交渉の一環として
室町幕府第13代将軍・足利義輝の傍で活動することも多く、
その立場は非常に複雑なものであったとされています。
また、三好長慶の長男・三好義興と共に政治活動に従事し、
同時に官位を授けられるなど
主君の嫡男と同格の扱いを受けていました。
三好長慶の死後は三好三人衆と協力と争いを繰り返し、
畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となっていきました。
後に、
織田信長が足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、
一度は降伏してその家臣となります。
けれどもその後、織田信長に反逆して敗れ、
信貴山城で切腹もしくは焼死により自害しました。

茶人としても高名であり、
茶道具と共に爆死するなどの創作も知られています。

【生い立ちなど】
永正5年(1508年)生まれとされています。
出身は、阿波国・山城国西岡(現在の西京区)、
摂津国五百住の土豪出身など諸説があります。

【三好長慶の書記として】
天文2年(1533年)か天文3年(1534年)頃より
細川氏の被官であった
三好長慶の右筆(書記)として仕えたとされています。
史料における初見は天文9年(1540年)と言われています。
天文9年(1540年)6月9日、
三好長慶が西宮神社千句講用の千句田二段を
門前寺院の円福寺、西蓮寺、東禅坊の各講衆に
寄進する内容の書状を33歳の松永久秀が
弾正忠の官名で伝達している記述があるとの事です。
同年12月27日、
堺の豪商・正直屋樽井甚左衛門尉の購入地安堵判物にも
松永久秀が副状を発給しており、
このころ奉行の職にあったとみられています。

<三好長慶の像>
三好長慶像

【三好長慶の家臣として】
史料上の初見の時期からも、三好長慶が、
それまでの三好勢のように、
畿内の争いで一時敗れても阿波に帰らず、
越水城主として摂津下郡半国の守護になり、
初めて畿内での統治を行った際に
外様の家臣として取りたてられ活動していたと見られています。
天文11年(1542年)には三好軍の指揮官として、
木沢長政の討伐後に
なおも蠢動する大和国人の残党を討伐するため、
山城南部に在陣した記録があり、
この頃には官僚だけでなく
武将としての活動も始めていたとされています。
三好長慶が細川晴元の部下であった頃から、
仕えていたと見られいますが、
本格的に台頭してくるのは三好長慶が
細川晴元を放逐して
畿内に政権を樹立する頃からでした。




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【三好政権における松永久秀に対する人事】
松永久秀の抜擢については、
三好政権における人事の特殊さを表していると見られています。
三好長慶は松永久秀や岩成友通を登用し、
彼らは三好政権で枢要な地位につくほどの重臣となりました。
けれども、他の大名家と異なる点として、
彼らが阿波時代からの三好譜代の
名跡と家格を継承した形跡がないことが挙げられます。

低い身分、外様からの重臣への抜擢自体は
他の大名家でも見られます。
例を挙げますと、上杉家は
樋口兼続に直江家の後を継がせ、
直江の城と家臣団を継承させています。
北条家は福島(櫛間)綱成に
北条の名字を与え一門に列席させています。
このように、抜擢するに応じて
相応の家格・地位・領地・家臣団を与えています。
滝川一益明智光秀を外様から抜擢した織田信長も、また然りです。

これは三好家の人事登用が、
従来の家格秩序に
とらわれないものであったと見られています。

【三好長慶の寵臣時代】

天文18年(1549年)、
三好長慶が細川晴元、
室町幕府13代将軍・足利義輝らを近江国へ追放して
京都を支配すると、
公家や寺社が三好家と折衝する際の仲介役として、
三好長逸と共に果たすようになりました。

松永久秀は三好長慶に従って上洛し三好家の家宰となり、
上洛後しばらくは他の有力部将と共に、
京都防衛と外敵掃討の役目を任されました。

【相国寺の戦い】
天文20年(1551年)7月14日には、
等持院に攻め込んできた
細川晴元方の三好政勝
香西元成らを弟の三好長頼と共に攻めて打ち破っています。
これは相国寺の戦いと呼ばれている戦です。

【政治家として幕政に関与】
三好長慶に従い幕政にも関与するようになり、
三好長慶が畿内を平定した天文22年(1553年)に
摂津滝山城主に任ぜられています。
なお、一説には
弘治2年(1556年)7月とも言われています。
同年9月には松永長頼と共に、
丹波国の波多野秀親の籠る数掛山城を攻めました]が、
波多野氏の援軍に訪れた三好政勝、
香西元成に背後から奇襲を受け惨敗となりました。
この戦いで味方の内藤国貞が戦死を遂げ、
内藤家に混乱が生じます。
その後は三好長頼が内藤国貞の遺子である
千勝の後見人をするという形式で
内藤家を継承し、丹波平定を進めていきました。

【北白川の戦い】
永禄元年(1558年)5月に
足利義輝、細川晴元が近江国から進軍して
京都郊外の東山を窺うと、
松永久秀は吉祥院に布陣し、
弟の松永長頼、三好一門衆の三好長逸、
伊勢貞孝、公家の高倉永相と共に
洛中に突入して威嚇行動を行い、
将軍山城と如意ヶ嶽で幕府軍と交戦し、
11月に和睦が成立すると摂津国へ戻りました。

楠木正成子孫への赦免】
永禄2年(1559年)3月、
三好長慶は鞍馬寺で花見を開催しました。
この時に、松永久秀も谷宗養、三好義興、
寺町通昭、斎藤基速、立入宗継、細川藤賢らと
共に参加していました。
また同年、部下の楠木正虎(楠木正成の子孫)が、
北朝から朝敵から赦免して欲しいと前から願っており、
松永久秀はこれを聞き入れて、
正親町天皇に赦免を許可して欲しいと交渉しています。
楠木正虎は赦免された上に河内守にも任官されています。

筒井城を陥落】
松永久秀は同年5月の河内国遠征に従軍。
戦後は三好長慶の命令を受けて残党狩りを口実に
8月6日大和国へ入り、わずか1日で
筒井順慶の本拠地である
筒井城を陥落させ追い払っています。
次に平群谷を焼き、筒井方の十市氏を破っています。

筒井城跡

【大和国統一と信貴山城】
永禄3年(1560年)には
興福寺を破って大和一国を統一する一方、
三好長慶の嫡男である三好義興と共に
将軍・足利義輝から御供衆に任じられ、
1月20日に弾正少弼に任官します。
6月から10月までの
三好長慶の再度の河内遠征では大和国に残り、
7月から11月にかけて大和北部を平定し、
三好家中の有力部将として台頭していきました。
そして同年11月に滝山城から
大和北西の信貴山城に移って居城としました。
やがて信貴山城に天守を造営しました。

<信貴山城跡>
信貫山城跡(遠景)




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【松永久秀、御供衆の大出世】
永禄4年(1561年)2月4日に従四位下に昇叙されると、
それまで称していた藤原氏から
源氏を称するようになりました。
また2月1日には足利義輝から
桐紋と塗輿の使用を許されています。
(「歴名土代」「御湯殿上日記」「伊勢貞助記」より)
この待遇は、三好長慶父子と同等であり、
既にこの頃には幕府から
主君である三好長慶と拮抗する程の勢力を有する
存在として見られていた事がうかがえます。
足利義輝が参内などをする際、
松永久秀は三好義興と共に幕臣として随行しており、
また足利義輝の元に出仕して
仕事を行う頻度も増えていきます。
この御供衆任命以降、
松永久秀と足利義輝が関与する史料が増加していきます。
三好長慶には多くの被官がいましたが、
ここまでの出世を遂げたのは
松永久秀、ただ一人でありました。

この頃、松永久秀は三好長慶と
「相住」(同居)の関係(『厳助大僧正記』)にあり、
三好長慶の側近として特に重用されていたそうです。
同年からは六角氏への対応のため、
三好軍の主力を率いてしばしば交戦しています。

永禄4年(1561年)3月、
将軍である足利義輝が三好義興の邸宅に御成し、
歓待を受けました。
ここで松永久秀は、足利義輝に太刀を献上したり、
足利義輝の側近達を接待したりするなど、
三好家の人間として足利義輝達を接待する一方で、
具足の進上、足利義輝達への食事の配膳、
食事中の足利義輝に酒を注ぐなど、
御供衆の仕事も務めていました。
またこの将軍御成の宴席では猿楽が催されましたが、
松永久秀はその際に要脚を運ぶ仕事をしています。
これは足利義輝を歓待する三好一族と、
足利義輝の側近のみが許可された仕事であり、
三好一門ではない松永久秀は
御供衆としてこの仕事を行ったと推測されています。

【三好政権内における地位】
将軍御成における松永久秀の仕事は、
彼が御供衆として
非常に多くの仕事をこなしていたことを示しています。

御供衆への任命によって、
松永久秀は三好家家臣及び三好長慶被官として
活動するのと同時に、
足利義輝の側近のような立場としても活動していました。

松永久秀は、三好義興が足利義輝の相伴衆に任命されると
ほぼ同時に御供衆に任じられ、
同時期に従四位下の官位を授与され、
桐紋の使用を許可されています。
三好家の実権は没するまで三好長慶が握っていました。
このことから、三好家の実質的なトップは
最期まで三好長慶であり、
松永久秀は三好長慶を出し抜こうとしたり
その意に反した形跡はありませんでした。

また、松永久秀は三好長慶から
大和一国の管理を任され、
その権勢は非常に強く、
一国の大名のような立場になっていました。

【三好長慶の不幸と自身の死】
松永久秀が勢力を増加させていく一方で、
主君である三好長慶は弟の十河一存
三好実休、嫡男である三好義興の
相次ぐ死去などの不幸が重なりました。
三好一存や三好義興については、
松永久秀による暗殺説もあるそうですがが、
十河一存の死因は落馬、
三好義興は病死とされています。
また岩成友通に宛てた書状では、
三好義興が病に倒れたことに心を痛め、
改めて三好家に忠誠を誓い討死する覚悟がある、
ということを伝えているとのことです。

永禄7年(1564年)5月9日、
三好長慶の弟である安宅冬康の死去により、
三好家では松永久秀に並ぶ実力者は、
阿波で国主を補佐していた篠原長房のみとなりました。
7月4日に三好長慶が死没すると、
しばらくは三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)らと
共に三好長慶の甥・三好義継を担いで三好家を支えていました。




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【永禄の変、勃発】
永禄8年(1565年)5月19日、
息子の松永久通と三好義継、三好三人衆が軍勢を率いて上洛し、
室町御所の足利義輝を襲撃して殺害しました。
この事件は松永久秀が首謀者のように見られていましたが、
この時期の松永久秀は京への出仕は、
息子である松永久通に任せ、自身は大和国にいることが多く、
事件当日も大和国におり加わってはいません。
また覚慶と号し、この当時僧籍に入っていた
還俗前の足利義昭の書状から、
松永久秀は事件直後に
足利義昭の命は取るつもりはないと誓詞を出しており、
実際に興福寺での監禁は外出を禁止する程度で
さほど厳しいものではなかったそうです。
三好義継・松永久通・三人衆ら襲撃犯が
足利義輝の子を懐妊していた侍女や
弟の周暠を殺害したことに比較すると
足利義昭に対しては温情的な処置であり、
松永久秀は足利義輝殺害には全く関与していなかったか、
または消極的だったと見られています。
しかしながら一方で、
松永久秀は義輝殺害に強く反発した形跡が見られず、
殺害そのものは容認していたのではないかという見方もあります。
松永久秀は足利義輝の死という突発的な状況に、
足利義昭を庇護し、それを将軍に据え、
傀儡として操ろうとしていたのではないか、
とも推測されています。

興聖寺と足利庭園~朽木氏岩神館跡~室町幕府12代将軍義晴、13代将軍・足利義輝の安全地帯

【三好三人衆との対立】
同年8月2日に弟である松永長頼が丹波国で敗死して
三好家は丹波国を喪失いました。
やがて松永久秀は畿内の主導権をめぐりって、
三人衆と対立するようになり、
11月16日に三好義継を担いだ三人衆が松永久秀と断交します。
両者は三好家中を二分して争い、
これが内乱の幕開けとなっていくのでした。

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【孤立する松永久秀】
永禄9年(1566年)には、
三好康長や安宅信康ら一門衆も三人衆側に加担し、
三人衆が新たに担いだ
14代将軍である足利義栄からも討伐令を出されるなど、
松永久秀は三好家中で孤立してしまいました。

【筒井順慶に敗れる】
2月に畠山高政・安見宗房と同盟を結び、
根来衆とも連携して三好義継の居城高屋城を攻撃するなど
何とか勢力の挽回を図ろうとしましたが、
三人衆は和泉国堺を襲撃します。
2月17日、松永久秀は畠山軍とともに、
三人衆と同盟者の大和国人である筒井順慶と
堺近郊の上芝で戦いましたが、
両者の挟撃を受け松永・畠山軍は敗退しました。
松永久秀は一旦多聞山城に退却して5月に再度出陣します。
かつての領国摂津で味方を募り、
堺で畠山軍と合流しました。
高屋城では三好義継の被官である金山氏が、
松永久秀へ内応を図りましたが、
高屋衆に阻止され失敗し、
高屋城から出撃した三人衆に堺も包囲されたため、
松永久秀は5月30日に堺から逃亡。
畠山高政は三人衆と和睦し、
摂津・山城の松永方の諸城は
篠原長房・池田勝正などの援軍を加えた三人衆に
次々に落とされ、留守中の多聞山城は
松永久通が守っていましたが、
筒井順慶が大和を荒らし回るなど
劣勢に立たされてしまいました。

<多聞山城跡>
多聞城跡

【久秀、信貴山に帰還】
ところが、永禄10年(1567年)2月16日に
再び金山氏の手引きで三人衆のもとから
三好義継が松永久秀を頼って出奔してきたため、
これを契機に勢力を盛り返し、
4月7日に堺から信貴山城に復帰しました。
4月18日に三人衆が大和へ出陣しました。
松永久秀は長い対陣の末に、
10月10日に三人衆の陣である東大寺の奇襲に成功し、
畿内の主導権を得ました。
これを東大寺大仏殿の戦いと称します。

詳細はこちら⇓⇓⇓
東大寺大仏殿の戦いについて~松永久秀&三好義継VS三好三人衆&筒井順慶&池田勝正~

【対立はあくまでも三好三人衆】
三好義継は2月28日付で
南山城国人の椿井氏に宛てた書状で、
三好三人衆の悪逆無道を鳴らし、
また松永久秀の三好家に対する忠誠心を賞し、
これを見離せず鞍替えしたと述べたそうです。
実際これ以降の松永久秀の行動は三好義継とほぼ共にあり、
三人衆や阿波三好家(三好長治)とは激しく対立しましたが、
やはり三好家当主には忠実だったと言えます。




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【打開策は織田信長の上洛】
しかし、この時点で松永久秀に味方したのは
畠山高政や根来衆、箸尾高春ら一部の勢力だけで、
四国に強い地盤を持つ
阿波三好家である篠原長房が率いる
大軍勢を味方につけた三人衆とは
大きな勢力の開きがありました、
三人衆との戦いは終始劣勢であったのです。
永禄11年(1568年)になっても三人衆は、
軍を大和に駐屯させたまま、
松永久秀の監視体制を継続。
6月29日に信貴山城が
三人衆に落とされてしまいました。

そこで、多聞山城に籠城していた松永久秀が
打開策として考えていたのが織田信長の上洛でした。
永禄9年(1566年)の段階で既に、
織田信長と交信していて、
織田信長も大和国人衆に
松永久秀への助力を伝えていました。

【織田信長の時代】

【足利義昭の幕臣として】
永禄11年(1568年)9月、
足利義昭を擁立した織田信長は上洛に成功します。
織田信長の上洛に協力した松永久秀は、
当初は織田信長の同盟者の立場にありました。
10月2日には織田信長に対して人質と
名物といわれる茶器「九十九髪茄子」を差し出しています。
松永久秀は幕府の有力な構成員となり、
大和一国の支配を認められました。
三人衆は織田信長に抵抗して9月に畿内から駆逐され、
足利義栄も上洛出来ず急死したため、
足利義昭が15代将軍となり、
畿内は織田信長に平定されました。
この後も三好義継、松永父子は
相伴衆や御供衆に任じられた
足利義昭の「幕臣」として、
京での活動が記録に残っています。

<織田信長像>
崇福寺・織田信長肖像画

【大和の平定】
大和の有力国人はほとんどが筒井順慶に属していましたが、
織田信長が10月に家臣の佐久間信盛細川藤孝和田惟政
2万の軍勢を松永久秀の援軍として大和に送ると、
この軍勢と協力して次第に大和の平定を進めていきます。
一段落した12月24日には岐阜へ赴き、
さらに「不動国行の刀」以下の諸名物を献上しています。
永禄12年(1569年)も大和平定を継続し、
対する筒井順慶は没落を余儀無くされていきます。
またこの年の本圀寺の変時には岐阜に滞在しており、
事件の際には織田信長と共に上洛し駆けつけています。

【本圀寺の変】
本圀寺の変(ほんこくじのへん)は、
永禄12年1月5日(1569年1月31日)に
三好三人衆らが京都本圀寺に仮御所を置いていた
室町幕府15代将軍足利義昭を襲撃し、
戦闘となったことです。
六条合戦とも呼ばれています。

【信長包囲網形成と共に足利義昭側へ】
元亀元年(1570年)、
織田信長の朝倉義景討伐に
三好義継や池田勝正らと共に参加し、
金ヶ崎の戦いと呼ばれる戦の際には、
織田信長が妹婿・浅井長政の謀反で
撤退を余儀なくされると、
近江国朽木谷領主である
朽木元綱を説得して味方にし、
織田信長の窮地を救っています。
また、同年11月から12月にかけて、
織田信長と三人衆の和睦交渉に当たり、
松永久秀の娘を信長の養女とした上で
人質に差し出して和睦をまとめています。
以後も織田信長の家臣として
石山本願寺攻めに参加しましたが、
次第に信長包囲網が形成されてゆくにつれて
足利義昭に通じていったと推測されています。

織田信長の撤退戦である金ケ崎退き口・古墳もあり平安時代から繰り返す金ケ崎古戦場跡

【織田信長への不穏な動き】
元亀2年(1571年)の時点で
甲斐国の武田信玄から書状が送られており、
この時点で織田信長に対する不穏な動きが見られます。
また三好義継と共に和田惟政や筒井順慶と
しばしば争いを起こしていますが、
8月4日の辰市城の戦いで筒井方に大敗し、
竹内秀勝らの有力な家臣を失っています。




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【ついに織田信長と敵対す】
元亀3年(1572年)、
ついに松永久秀は織田信長に対する敵意を明らかにし、
三好義継、三好三人衆らと組んで織田信長に敵対しました。
けれども翌年の元亀4年(1573年、天正に改元)4月、
包囲網の有力な一角である武田信玄が
西上作戦中に病死し、武田氏は撤兵。
7月には、槇島城の戦いで
足利義昭が織田信長に敗れ追放されます。
更に11月には、三好義継も
織田信長の部将・佐久間信盛に攻められ敗死)。
12月末に余勢を駆った織田軍に多聞山城を包囲され、
多聞山城を織田信長に差し出し降伏しました。
三人衆も信長に敗れ壊滅し包囲網は瓦解しました。
翌年の天正2年(1574年)1月には
岐阜に来て織田信長に謁見し、
筒井順慶も織田信長に服属しています。
以後、松永久秀は
対石山本願寺戦(石山合戦)の指揮官である
佐久間信盛の与力とされましたが、
目立った動きはなかったとされています。

槇島城・足利義昭が籠城し、室町幕府の実質的な終焉の地~忘却の城跡~巨船出現す!!

【信貴山城の戦い】

信貴山城の戦い(しぎさんじょうのたたかい)は、
天正5年(1577年)10月5日から10月10日にかけて、
織田信長に対して謀反を起こした
松永久秀の居城である信貴山城で行われた攻城戦です。
別名「松永久秀討伐戦」とも称されています。

【本願寺攻めから離脱】
天正5年(1577年)に
上杉謙信毛利輝元、石山本願寺などの
反織田信長勢力と呼応して、
本願寺攻めから勝手に離脱します。
織田信長の命令に背き、
信貴山城に立て籠もり、
再び対決姿勢を明確に表しました。

織田信長は松井友閑を派遣し、
理由を問い質そうとしたが、
松永久秀は織田信長の説得を拒絶したとあります。

【織田信長、憤慨し挙兵】
憤慨した織田信長は同年9月後半ごろより
筒井順慶、明智光秀、細川藤孝を出陣させ、
法隆寺へ布陣、信貴山城の先軍としました。

【片岡城、落城】
同年10月1日には、
織田軍は信貴山城の支城となっていた
片岡城を約5千兵で攻城します。
これに対して松永軍は海老名勝正(友清)、
森秀光(正友)らが率いる
約1千兵で防御したとあります。
この時の戦いの状況を
「片岡城今日セメキリ、エヒナ河人始テ七十ハカリ無残討死了」
(「多聞院日記」)と記載されており、
筒井隊にもかなりに戦死者が出た模様ですが、
松永軍の武将である
海老名、森を含む150余が討死、片岡城も落城しました。

【織田信長、更に兵を送る】
同年9月23日、
手取川の戦いで勝利した上杉謙信でしたが、
七尾城から進軍が止まった、との報告が
同年10月3日に柴田勝家から、
直接織田信長がいる安土城に入りました。

そこで織田信長は、
総大将に嫡男の織田信忠、佐久間信盛、
羽柴秀吉丹羽長秀など
加賀に出陣していた部隊を
信貴山城攻城の援軍として送り込みます。
この時の織田信長軍の総数は4万兵とも推測されています。
翌10月4日、朝護孫子寺の毘沙門堂が焼け落ちました。

【信貴山城の戦い、開始】
戦いは翌10月5日から開始されました。
4万の軍が一斉に攻城を開始しましたが、
信貴山城は簡単には落城しなかったとのことです。

【援軍要請の落とし穴】
10月5日の戦いでは勝利した松永軍でしたが、
織田軍との兵力差は圧倒的でした。
そこで、もう一つの密約の相手である顕如に
至急援軍を要請することにし、
その使者に森好久という人物を選びます。
森好久は10月7日に信貴山城を出立、
翌10月8日石山本願寺から
加賀鉄砲衆200名を引き連れて帰城し、
三の丸付近に配置させました。
森好久の報告によると、
両三日中に毛利軍から更なる援軍が到着し、
そのようになれば石山本願寺からも
更なる援軍を差し向ける事が出来ると
顕如が申していたといい、
松永久秀は喜んだと伝わっているそうです。




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【使者は筒井順慶の元譜代】
けれども、この鉄砲衆200名こそが
信貴山城落城のきっかけとなったのでした。
森好久は筒井順慶の元譜代で、
筒井順慶の居城である筒井城が落城すると
牢人となっていましたが、
その後に松永久秀に仕官し、
その才覚から落城直前には信頼を得ていたと見られています。
しかし、森好久は信貴山城を出立すると、
そのまま筒井順慶の部将である松倉重信の陣所に駆け込み、
信貴山城の内情を知らせたのでした。
筒井順慶は森好久に金子三十両を与え、
虎の子の鉄砲衆200名を預け、
伏兵とするように命じたとされています。
(「和州諸将軍伝」より)

【最期の戦い】
その後、
「夕六ツ過ヨリ信貴城猛火天二耀テ見了」
(「『多聞院日記」)とあるので、
翌10月9日の午後6時前後より
すでに戦闘は開始されていたと見られています。
けれども、再び総がかりの攻城は、
翌10月10日明朝からで、
織田信忠の許可を得て
筒井順慶は前線に立ち攻撃しました。
これに対し松永軍は弓と鉄砲で抵抗しました。
門からも討ってでて、
筒井隊は一度は押し返されたとのことです。

そんな中、天守に近い三の丸付近から
火の手が上がったとのことです。
森好久が率いる鉄砲衆200名が反乱を起こしたので、
これにより軍としての統率力は
無くなったとみられています。

【最期】
松永久秀・久通父子は自害しました。
松永久秀は68歳、松永久通は35歳でした。
また安土城の天守のモデルとも言われている
信貴山城の四層の天守櫓は、
この時に炎上したと見られています。

奇しくも、
10年前に東大寺大仏殿が焼き払われた日と
同月同日でした。

「兼見卿記」によりますと、
松永親子は切腹し、また放火したとあります。
「多聞院日記」では、
遺体が焼けたあとで首4つが
安土城に送られているとのことです。

【埋葬したのは筒井順慶】
「大和志科」によると
胴部分は達磨寺に葬られ、
丁重に埋葬したのは
長年の宿敵であった筒井順慶と記載されています。

<松永久秀の墓>
松永久秀の墓

なお、2020年大河ドラマ「麒麟がくる」では、
吉田鋼太郎(よしだこうたろう)さんが
演じられる事が決定しております。

【筒井順慶】
この戦いは筒井順慶の
目覚ましい活躍があったとされています。
地元であり、松永氏とは仇敵とも言える間柄でした。
筒井順慶は着陣以後、
何度か家臣達と戦評定を行っていたとされています。
これは織田信長より守護を拝命し、
武人として先陣の名誉を承った以上、
無為の日々を送っていては不忠で臆したことになり、
なんとしても城を攻め落とす必要があったのではないかと
推測されています。

筒井順慶・松永久秀のライバルで、与力であり友人でもあった明智光秀に味方しなかった人物

【達磨寺】

達磨寺(だるまじ)は、
奈良県北葛城郡王寺町にある臨済宗南禅寺派の寺院です。

達磨寺

【歴史】
この寺の創建については、
推古天皇21年(613年)の冬、
聖徳太子が片岡山で飢えていた異人に
衣食を施したという
片岡山飢人伝説にからめて語られています。
その後は、衰退と中興が繰り返され、
江戸時代には幕府から30石が与えられています。




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【片岡山飢人伝説】
片岡山飢人伝説とは、
聖徳太子こと厩戸皇子が片岡山を通りかかったところ、
飢えて瀕死の異人に出会いました。
聖徳太子はその異人に当座の寒さと飢えをしのぐため、
食物と自分の衣服とを与えました。
翌日、使いをやって異人の様子を見に行かせたところ、
すでに息絶えていたので、丁重に葬りました。
それからしばらくして墓の様子を見に行かせると、
死体は消えており、衣服だけがきちんとたたまれて、
棺の上に置かれていたとのことです。
これを知った里人は、
あの異人は達磨大師の生まれ変わりに相違ないと言い、
聖徳太子が自ら刻んだ達磨像を祀ったのが
達磨寺の始まりであるとされています。

【境内】
達磨寺の境内には
達磨寺1号墳・2号墳・3号墳と称される
3基の古墳(6世紀頃の築造)が存在しています。
このうちの3号墳の上に本堂が建てられています。
この古墳は平安時代には、
聖徳太子ゆかりの達磨大師の塚であると
信じられていたとされています。
寺院としての形態が整うのは
鎌倉時代以後と見られています。
なお、1号墳は、聖徳太子の愛犬である
雪丸の墓とされています。
境内には雪丸の像もあります。

<雪丸の像>
雪丸の像

【交通アクセス】
【電車】
JR大和路線 王寺駅

【徒歩】
王寺駅南口から約15分

【バス】
王寺駅南口から「明神一丁目」または
「白鳳台二丁目」行き『張井』バス停下車すぐ

【車】
西名阪自動車道「香芝IC」から
国道168号線を北に約10分

参拝者用の無料駐車場有

公式サイトです⇓⇓⇓
達磨寺

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