【河内源氏】
河内源氏(かわちげんじ)は、
河内国(現在の大阪府の一部)に拠点を置いた
清和源氏の武士団です。
【河内源氏の祖】
清和源氏の武士団を
摂津国川辺郡多田(兵庫県川西市多田)に
最初に形成した源満仲の三男である
源頼信を祖とします。
源頼信の長兄は摂津源氏の祖の
源頼光であり
次兄は大和源氏の祖の源頼親です。
源頼信は、河内国古市郡壷井
(現在の大阪府羽曳野市壷井)
を本拠地とし、
香呂峰(こうろほう)の館を建てました。
本拠地が河内国であることから
「河内源氏」と呼ばれるようになりました。
香呂峰(こうろほう)の地はやがて
「壷井」と改められました。
羽曳野市には、
八幡太郎義家をはじめとする
河内源氏の墓や、
氏神の壷井八幡宮や
壷井権現
(祭神・源頼信、頼義、義家、義綱、義光)
があります。
【壷井八幡宮・所在地】
〒583-0844 大阪府羽曳野市壺井605-2
【交通アクセス】
<電車>
近鉄南大阪線吉野行きに乗車、
「上ノ太子駅」下車、徒歩15分程度。
<車>
◆南阪奈自動車道の「羽曳野IC」⇒東へ。
「羽曳野大橋東詰」を右折、
「壺井八幡宮」の看板で左折。
◆西名阪自動車道の「藤井寺IC]⇒左折。
「沢田」交差点を直進し、
「石川橋東詰」を右折、
「壺井八幡宮」の看板で 左折。
なお、壺井権現社(壺井神社)を創建したのは、
源義家の五男または六男の源義時です。
源義時は兄である源義忠が都に行く際に、
本拠地である河内国石川にて護る様にと云われたとか。
その子孫は石川源氏を称するようになりました。
【「河内源氏三代」】
河内源氏初代の源頼信は、
源満仲の三男です。
平忠常の乱を鎮定し坂東に勢力を扶植しました。
その子である源頼義、
更に源頼義の子の源義家(八幡太郎義家)の時に、
前九年・後三年の役で
坂東武士を傘下におさめ、
特に源義家の時に武家棟梁となりました。
源頼朝、源頼家、実朝の「鎌倉三代」
と呼ぶのと同様に
源頼信・源頼義・源義家を「河内源氏三代」
とも称するそうです。
【河内源氏の台頭】
三男の河内源氏・源頼信は、
長元元年(1028年)
房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で起きた
平忠常の乱を平定するなどの武功を示します。
更に源頼信の子である源頼義は
前九年の役と呼ばれる
康平5年(1062年)から
陸奥国奥六郡の俘囚長であった安倍氏を討ち、
源頼義の子である八幡太郎義家は、
同族の源国房、源重宗と合戦を繰り広げ、
後三年の役と呼ばれる
寛治元年(1087年)には
出羽国の俘囚長であった
清原氏の内紛を収めて声望を高めます。
そして源頼信流の河内源氏は
東国に足掛かりを持つようになったのでした。
河内源氏はこのように武名を上げ、
それまでの清和源氏庶流であった
地位から嫡流の地位を
事実上占めるに至り、
源義家、源義綱(美濃守)、
源義光(新羅三郎)兄弟の頃には
清和源氏最大の勢力となっていました。
【坂東を拠点にした理由】
河内源氏が摂津源氏のように
京都を活動舞台にせずに
板東を拠点とした理由としては、
兄の源頼光、源頼親が
藤原道長に側近として
仕えたのに対し、
源頼信は上野介や常陸介など
遠方で収入の少ない
東国受領となっていたからとのことです。
けれども、上記の様に武功を重ね、
源義家、源義綱(賀茂次郎)、
源義光(新羅三郎)兄弟の頃には
清和源氏最大の勢力となっていました。
ただ兄弟である源義家と源義綱の仲は
険悪だったということです。
この頃、源氏庶流は中央の下級官人を辞し、
地方の荘官等となることにより
勢力を築いていったのでした。
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【河内源氏の失墜】
けれども源義家の晩年の頃、
次男の源義親が朝廷に反抗したため
源義家は苦境にたたされ、
河内源氏に陰りが見え始めます。
なお、源義家の長男である
源義宗は早世しています。
また、源義家の弟である
新羅三郎義光(常陸源氏、甲斐源氏の祖)と
源義家の四男である
荒加賀入道義国(足利氏及び新田氏の祖)が
常陸合戦を引き起こし、
両者が勅勘を受けてしまいます。
更に、追い打ちをかけるように
源義家の死後に家督を継承し
栄名を誇っていた、
源義家の三男である源義忠が暗殺されます。
この源義忠暗殺事件の主犯とされた
源義家の弟である源義綱(美濃守)が
白河院の命を受けた、
源義親の子である源為義と源光国(美濃源氏)
の討伐を受けて壊滅となります。
そしてこの事件後、
真犯人が新羅三郎義光であったことが
明らかになるなど、
河内源氏内部の分裂は明白になり、
権勢はしばらく失墜してしまいました。
なお、この背景には、
河内源氏が拠り所にしていた
摂関家の摂関政治から、
白河法皇の院政への移行があったのでした。
白河法王はかねてより、
河内源氏の興隆には警戒をしていたのでした。
【源為義と源義朝】
源為義は白河院に近侍しましたが、
源為義自身、郎党、八男である鎮西八郎為朝等の
狼藉行動で信用を失い摂関家へ接近しました。
一方で長男の源義朝は南関東に下向して
勢力を伸ばし、白河院へ仕えて
父とは別行動をとったのでした。
この際、当時の武蔵守であった
藤原信頼に接近したとされています。
源義朝は、荒加賀入道義国とも
結ぶことに成功し関東で力をつけ、
さらに白川院の影響下で
京都へ復帰したのでした。
【源義賢を北関東へ派遣】
一方、父親である源為義は
源義朝の弟である源義賢(木曽義仲の父)を
源義朝の支配の及ばない北関東へ派遣しました。
秩父氏の争いもかかわって
源義賢は源義朝の長男である
源義平(鎌倉悪源太)と対立しましたが、
大蔵合戦で源義賢が討死、
源義平側が勝利したのでした。
【中央での源義朝の躍進】
一方の中央では、
白河院の寵愛を受けた伊勢平氏一族である
平正盛が地位を固めていく一方で、
武門の中で河内源氏の勢力は
源義家の死去以降相対的に
低下していました。
とりわけ源為義は他の河内源氏が
それなりの地位を獲得する間、
問題行動などが原因で
長年官位的に落ちぶれていました。
その中において源義朝は
河内源氏の実に50年ぶりとなる
受領就任を果たすなどの躍進を遂げたのでした。
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【保元の乱・親子の対立】
源為義と源義朝の対立は
崇徳上皇と後白河天皇との間に起こった
保元の乱において決着しました。
崇徳上皇方となり敗れた父や
弟を処刑した源義朝は、
同じく院側についた源義康
(足利宗家2代目の足利義康の父)が
急逝したこともあり、
河内源氏の中で最大の有力者となりました。
【平治の乱】
しかし京都では、
信西一門・二条天皇親政派・後白河院政派・
更に平氏一門という
勢力が形成され、
その中で信西一門・二条天皇親政派・
後白河院政派の三つの勢力が
互いに張り合って対立しました。
そして信西と対立していた藤原信頼と
結んでいた源義朝は
同じく藤原信頼に与力した武士たちと共に
平清盛が熊野参詣に赴き
京都に軍事的空白が生まれた隙をついて、
三条殿を襲撃し、後白河上皇を軟禁状態にし、
平治の乱に加わったのでした。
その後信西の息子たちが捕縛され配流が決定。
信西は自害します。
【藤原信頼の誤算】
一時、藤原信頼グループは政権を掌握しましたが、
それまで中立の立場であった平清盛らが
秘密裏に後白河上皇らを
救出したことで形勢は逆転してしまいます。
なお、源義朝の長男である源義平は
平清盛討ち取るよう主張しましたが、
藤原信頼はその必要はないと退けています。
藤原信頼にしてみれば
嫡男である藤原信親と
平清盛の娘の婚姻関係により、
平清盛も自らの協力者になると
見込んでいたのでした。
しかも平清盛は藤原信頼に名簿を提出して
恭順の意を示していたのでした。
けれども源義朝は藤原信親を警護していた
平清盛の郎等が
「一人当千」の武者であることから
危惧を抱いたということです。
それはやがて的中し、
藤原信頼の思惑は見事に外れてしまいます。
更に、二条天皇親政派にしてみれば、
信西さえ倒してしまった今は、
藤原信頼ら後白河院政派は
用済みとなっていたのでした。
また藤原信頼の専横に憤りを抱いていた者や、
二条天皇親政派が平清盛を説得するという
行動に出て、
後白河上皇は脱出し、二条天皇も
平清盛の邸である六波羅へと移動し、
平清盛は一気に官軍としての
体裁を整えるに至り、
かくして藤原信頼及び源義朝の
追討宣旨が下されたのでした。
【「日本第一の不覚人」】
二条天皇と後白河上皇の脱出を知った
後白河院政派は激しく動揺します。
また源義朝は藤原信頼を
「日本第一の不覚人」と罵倒したということです。
藤原信頼と後白河院の側近で
藤原信頼の妹の嫁いだ相手であった
藤原成親は源義朝とともに武装して出陣しました。
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【源義朝の誤算】
源義朝は三条殿の襲撃はクーデターのため
隠密裏に少人数の軍勢を
集めたに過ぎず、
合戦を想定していませんでした。
【六波羅合戦】
藤原信頼側の戦力は、
三条殿襲撃に参加した
源義朝・源重成・源光基・源季実、
信西を追捕した源光保らの混成軍でした。
源義朝配下の軍勢は、
子息の義平・朝長・頼朝、叔父・義隆、
信濃源氏の平賀義信などの一族、
鎌田政清・後藤実基・佐々木秀義などの
郎等により形成され、
源義朝の勢力基盤である関東からは、
三浦義澄・上総広常・山内首藤氏などが
参戦したに過ぎませんでした。
源義朝が組織できたのは
個人的に深い関係を有する武士であり、
私的武力に限られ兵力は
僅少だったと推測されています。
そこが国家による公的な動員だった
保元の乱との大きな違いでした。
【敗北】
藤原信頼方に加わっていた
源光保の寝返りや、
摂津源氏である源頼政が
二条天皇を擁する
平清盛に味方したこともあり、
源義朝は六波羅迄迫りますが、
六条河原であえなく敗退し、
源義朝は平氏軍と源頼政軍の攻撃を受け
戦場から脱出します。
結果は敗北でした。
藤原信頼は公卿でありながら
六条河原で処刑されてしまいました。
享年28歳の若さでした。
一方の源義朝は京を落ちて東国へ向かいます。
けれども、道中で腹心の
鎌田政清の舅になる
尾張国の長田忠致の手にかかって
殺害されたのでした。
【摂津源氏の源頼政】
なお、平治の乱では、
摂津源氏である源頼政は
源義朝に対して独自行動をとって
源義朝の子の源義平と戦い、
平家の勝利に貢献しています。
【以仁王の挙兵】
そののち、平家政権での皇位継承の不満から
反乱を企図した以仁王に源頼政が協力します。
【源氏たちの挙兵】
この乱は失敗に終わりますが、
熊野に潜んでいた源義朝の末弟である
源行家らが以仁王の令旨を全国に伝えると、
河内源氏の源義朝の子である
源頼朝、源希義、源範頼、源義円、
源義経らの兄弟や、
源義朝の弟の源義賢の子であり、
源頼朝の従兄弟にあたる源義仲(木曾次郎義仲)、
源義光の子孫の武田信義・安田義定(甲斐源氏)、
山本義経・柏木義兼(近江源氏)、
源義国の子孫の足利義清(下野源氏)、
新田氏庶流の山名義範・里見義成(上野源氏)、
源頼綱を祖とする多田行綱(多田源氏)、
源頼綱の弟である源国房を祖とする
源光長(美濃源氏)らが各地で挙兵し、
俗に源平合戦と呼ばれる
治承・寿永の乱が勃発したのでした。
<源頼朝と北条政子の像>
<源義経公と武蔵坊弁慶(白幡神社)>
【治承・寿永の乱】
当初は平家が源氏を圧倒しており、
源希義が敗死しています。
けれども次第に形勢が逆転して
平家は源義仲に京都を追われました。
その後、源(木曾)義仲軍と源頼朝軍、
平家の三つ巴の争いとなりましたが、
源頼朝軍が圧倒していき、
粟津の戦いで源(木曾)義仲軍を、
壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼして
源頼朝軍が勝利したのでした。
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【河内源氏の棟梁と摂津源氏】
その後、鎌倉幕府の初代の征夷大将軍として
武家棟梁となった源頼朝が
河内源氏であったことから、
河内源氏から名実ともに
武家の棟梁が出ることになりました。
一方の摂津源氏は、源頼政と一族の主だった者が
宇治合戦で討死し、一族中で戦いの時伊豆国におり
生き残った源有綱は源義経に従っていたため、
源頼朝の命令で討たれました。
また、源義経の関係の深かった
摂津源氏嫡流の多田行綱も、
平家滅亡後に多田荘の所領を没収され
追放処分となったのでした。
源頼政の末子で長兄である源仲綱の
養子となった源広綱は源頼光以来の
摂津源氏の子孫を伝えることはできましたが、
幕府を開いた源頼朝と比べると、
もはや一御家人の境遇でしかなかったのでした。
【鎌倉時代】
平家の追討に成功した源頼朝は、
乱の中で他の
河内源氏一門(源義広・佐竹秀義(常陸源氏)、
新田義重(上野源氏)、武田信義(甲斐源氏)、
弟の源義経・源範頼)を滅亡や衰退させ、
奥州藤原氏を討ち勢力基盤を固めていきました。
武家政権の台頭を嫌い
その勢威を抑制してきた
後白河法皇が崩御すると、
1192年に征夷大将軍に任ぜられました。
【源頼朝の血筋の断絶】
ただし源頼朝の系統は、
源頼朝の子である源実朝が
その兄である源頼家の子・公暁に殺害されます。
その公暁も捕らえられて処刑されます。
更に公暁の異母弟である禅暁も
加担を問われ殺されます。
そして禅暁の同母兄である栄実が
泉親衡の乱に擁立されましたが
乱が失敗し自害しました。
但し、埼玉県川越市小ヶ谷町にある
瑶光山最明寺縁起の伝承では、
栄実(千寿丸)は泉親衡とともに
当地に落ち延びて出家し
「瑶光房道円」を名乗ったということです。
そして男系男子で
最後まで残っていた源頼朝の庶子である
貞暁が1231年に死去して断絶しました。
また男系女子では
源頼家の娘である竹御所が
1234年に死産により死去したことで、
完全に断絶となったのでした。
【源氏一門と承久の乱】
また、鎌倉幕府において源氏一門は、
血統や功績等により
源姓を称することが許される「御門葉」と、
源姓を称することが適わず、
名字を称するものに区別されました。
御門葉には信濃平賀氏(信濃源氏)、
大内氏(信濃源氏)、安田氏(甲斐源氏)、
加賀美氏(甲斐源氏)などの
新羅三郎義光の系統、
足利氏、山名氏などの
源義国の系統が名を連ねましたが、
承久の乱などにより
北条得宗家に敗れ没落しました。
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【室町時代以降】
鎌倉幕府末期の混乱期に頭角を表した、
源義国の次男である足利義康を祖とする
足利氏の棟梁・足利尊氏は、
源義国の長男である新田義重を祖とする
新田義貞等の対抗勢力を打ち破り、
武家の棟梁として1338年に
征夷大将軍に任じられ室町幕府を開きました。
その3代将軍となった足利義満は
清和源氏出身者として
初めて源氏長者となり、
その後の将軍が源氏長者となる道を開きました。
源氏長者とは源氏一族全体の
氏長者の事を指します。
原則として源氏のなかで
もっとも官位が高い者が源氏長者となります。
源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、
氏爵の推挙などの諸権利を持ちます。
その後、足利尊氏の子孫は
鎌倉公方、古河公方、小弓公方、
堀越公方、堺公方、阿波公方などに
分かれました。
また、足利氏庶流で「御一家」とされた
吉良氏・渋川氏・石橋氏、
「三管領」の斯波氏・細川氏、
「四職」の一色氏の他、
<斯波氏の居城・高水寺城>
山名氏(新田氏庶流)、
土岐氏(美濃源氏)が中央で台頭し、
地方では九州探題や駿河・遠江守護を歴任した
今川氏(吉良氏庶流)、
奥州探題の大崎氏(斯波氏庶流)、
羽州探題の最上氏(斯波氏庶流)が台頭しました。
伝源経基館跡、源経基とは経基流清和源氏の初代で孫の代から摂津・大和・河内源氏へと分かれていきます。
由比若宮(元八幡)、河内源氏の源頼義が前九年の役の勝利で勧請したお社です。
藤原頼通~藤原氏の栄華の象徴である平等院鳳凰堂を造営、摂関政治から院政と武士が台頭する時代へ。
大御堂寺野間大坊~真言宗豊山派の寺院で野間美浜で最期を遂げた源義朝の墓があります。
源義朝の墓(鎌倉)、忠臣の鎌田政家(政清・政長)と共に眠るもう一つのお墓。
源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。
源頼家~悲劇の2代目~北条VS比企、時々朝廷、そして東国武士の権力闘争が渦巻く時期。
源実朝~3代将軍にて天才歌人~繊細で思慮深く秘めた志あり、やがて雪の中に散っていく。
大姫~源頼朝と北条政子の長女~生涯をかけて愛を貫いた儚くも一本気な姫、静御前と心を通わせる
三幡(乙姫)~源頼朝と北条政子の次女、父親と同じ年に14歳にて早世した姫
源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく
阿野全成~源頼朝の異母弟で源義経の同母兄~妻の実家側について甥の源頼家とやがて対立する。
義円~源義朝の八男で源義経と阿野全成とは同母兄弟で源頼朝の異母弟、墨俣川の戦いで散る。
源義経~戦略家且つ戦術家であった若き天才~その悲運な生き様はやがて伝説となった。
木曾義仲(源義仲)河内源氏の一族で源頼朝とは従兄弟、美男子で信義と情を備えていたが武骨で公家文化には疎かった
源(木曽)義高~大姫の婚約者~幼くも純粋な愛を育むが源頼朝により命を散らす
源行家~平治の乱から熊野に隠れて20年、交渉力はあるが戦下手で、武将よりも別の才能があった人物。
足利義兼~足利宗家2代目で足利尊氏のご先祖様さま、源頼朝の門葉で妻は北条時子で足利公方邸を構えました。
平賀義信~源氏御門葉及び御家人筆頭として権勢を誇る。平賀氏は2つの系統があります。
伏見広綱~源頼朝の有能な右筆、のハズが頼朝の兄嫁への恋文の使いと亀の前を匿って遠江に流罪となりました。
足利公方邸跡(鎌倉)、鎌倉時代初期に足利義兼が構えた屋敷は足利尊氏も住みやがて激動の室町時代を迎えます。
古河公方館跡~古河公方とは?関東における戦国時代の幕開けの存在
伝堀越御所跡~堀越公方が居住していた場所と伝わる。伊勢盛時に攻められる。
竹之下合戦古戦場~足利尊氏が新田義貞に大勝した地~時代は南北朝へ入っていきます。
今川義元~祝・生誕500年~足利一門の名門・海道一の弓取りと称された東海の覇者!
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