明智家

明智光秀の墓と産湯の井戸~桔梗塚~もう一つの光秀生存説、生誕地伝説と土岐四郎元頼(基頼)

桔梗塚



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桔梗塚(伝明智光秀公墓)】

 白山神社に隣接する林の中に石塔と五輪塔が
ひっそりとあって桔梗塚と呼ばれています。

【所在地】
【中洞白山神社】
〒501-2258 岐阜県山県市中洞1020

★学問と出世祈願の御利益があるそうです。
【供養祭】
4月第2日曜日
2月第1日曜日

106センチの石塔と
112センチの五輪塔は地元では
明智光秀公のお墓として、
今でも年2回の供養祭が
営まれています。

歴史では明智光秀は山崎の合戦の後に、
羽柴秀吉の軍に敗れ、坂本城に帰還する途中に
討たれて亡くなったとされています。
けれども、それは明智光秀の身代りであった、
ということです。

身代りとなった影武者の名前は、
荒木山城守行信という人物でした。
明智光秀は、本能寺の変の後に身代わりとなった
影武者を務めた荒木山城守行信の
忠誠の深さに感銘を受けて
この事実を子孫に伝えようとします。
そして、荒木山城守行信の「荒」と
忠義の深さの「深」ということで
自らを「荒深小五郎」と名乗り、
西洞寺の林間に隠居を建てて、
乙寿丸と一緒に住んだと伝わります。

其の後、明智光秀は「雲水」の姿となって
諸国遍歴の旅に出たとの事です。
そしてそれから18年が過ぎ、
慶長5年(1600年)、
関ヶ原の合戦間近となります。

明智光秀は、どこからか、
その情報を入手して
徳川家康方の味方をせんと
仕度をして村を出ます。

この時、山崎での死亡説が55歳であれば73歳、
一回り上の年齢説であれば85歳となっています。
どちらにせよ、もう高齢であることは確かです。
それでも、明智光秀は仕度をして向かったのですね。
70歳を過ぎても普通に戦に出陣した
戦国武将も少なくなかったそうですし。

さて、関ヶ原の合戦前夜は大雨でした・・・。

途中の根尾村という地域に差し掛かり、
その地の河川である「藪川」(現・根尾川)で洪水に遭い、
馬と共に押し流され、溺死してしまった・・・ということです。

其の亡骸や遺品を荒木山城守行信の子孫である
吉兵衛と従者たちが持ち運び、
この地に埋葬したということです。

以来、この地は「荒深」という姓が多いそうです。




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【桔梗塚への道】
【国道256号線】
国道256号線を南から北へ走らせます。
「美山第一トンネル」を抜けた直後に
右折できる道があるので
その道を右折します。
これがわかりにくく
一度見過ごしてしまいました・・・。
トンネルを出てすぐの箇所で、
しかもカーブなのです。
注意が必要となります。

道を戻って北から南へ走行して、
今度は無事に左折できました。
道が一気に細くなります。
住宅地へ入ると<「明智光秀公の墓」⇚>
という看板があります。
自己主張していない看板なので
お気を付けください。

左へ曲がります。
すると、隧道が見えます。

<隧道>
上は国道256号線です。
車両一台がやっと通れる幅です。
高さもあまりありません。
桔梗塚への道 隧道

<中洞白山神社>
中洞白山神社

目的の神社に到着しました。
駐車スペースは2台ほどあります。
のぼりが建っていました。
<明智光秀公の墓の、のぼり>
明智光秀公の墓、のぼり

<桔梗塚への道>
杉林の中を行きます。
手前の橋は壊れてしまったようですが、
ひょいと渡れます。
道は整備されています。
桔梗塚への道

<桔梗塚への道2>
道が狭くなっていきます。
お墓の手前には階段があるようです。
桔梗塚への道2

<桔梗塚>
向かって左にある石塔と五輪塔が
光秀公の墓、ということです。
桔梗塚 到着




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【アクセス】
【バス】
岐阜バス板取線樫瀬バス停下車徒歩約16分
【車】
関広見ICから車で約16分

<場所>
青印は、国道から右折(南⇒北へ走行)、
或いは左折⇒(北⇒南へ走行)
する箇所です。

【産湯の井戸】

そしてこの中洞白山神社には更に、
明智光秀のうぶ湯の井戸跡と伝わる井戸跡があります。
光秀の母がうぶ湯を汲んだとされる井戸、ということです。
うぶ湯の井戸跡

そうなのです!
お墓だけではなく、この中洞白山神社は、
明智光秀の生誕地としての伝承もあるのです

【所在地】
〒501-2258 岐阜県山県市中洞1020
中洞白山神社

【明智光秀の生誕地<山県市>】
山県市中洞地区にある白山神社は、
明智光秀の生誕地として伝承されています。

父親は土岐四郎基頼、
母親は武儀郡の豪族の中洞源左衛門の娘、
とされています。

【土岐基頼】
土岐四郎基頼は、土岐成瀬の四男です。
土岐成瀬は第11代土岐家の当主で、
土岐頼武・土岐頼芸の祖父に当たります。
つまり、土岐四郎基頼は、
土岐頼武・土岐頼芸は甥に当たります。

土岐元頼(とき もとより)は、
美濃守護土岐成頼の四男。
母は側室で通称は四郎です。
美濃長山城主。
基の名は土岐基頼でしたが、
のちに改名して土岐元頼としています。
其の後、明智城主であった
明智光綱の養子となったと
伝えられています。

土岐四郎基頼と兄の土岐政房で
家督争いが生じていました。
両者は対立して、
明応3年(1494年)に、
後に船田合戦と呼ばれる
家督争いが起こっています。




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【船田合戦】
船田合戦(ふなだがっせん)は、
戦国時代前期に発生した、
美濃守護土岐成頼の
後継者を巡って、
土岐元頼・斎藤利藤・石丸利光VS
土岐政房・斎藤妙純の合戦です。
近隣の近江・越前・尾張も巻き込み、
大争乱となりました。

明応4年(1495年)6月、
石丸利光らと共に土岐政房方と戦うも、
敗れたため石丸利光と共に近江へと逃れます。
同年9月、父の土岐成瀬は隠居を余儀なくされ、
家督と守護職を土岐政房に譲ります。
しかし、その後も土岐元頼は抵抗を続け、
明応5年(1496年)5月に美濃に下国、
隠居していた父である土岐成瀬の
居城・城田寺城に籠城して再起を図りましたが、
齋藤妙純の軍勢に包囲され、
石丸利光は土岐成頼らの助命を条件に切腹。
父の成瀬は城田寺城から出ましたが、
土岐元頼は許されず、
明応5年6月20日(1496年7月30日)
に自刃しました。

【実は生きていた?】
明智光秀が生まれたのは、最も早い説でも
1516年とされているので、
実は土岐元頼は城田寺城を抜け出して、
落ちのび、この中洞の地で
潜んでいた可能性がありますね。
親子二代で「実は生存」していた説があるのも
また不思議ですね。
其の後も、家督争いが絶えなかった土岐家です。
土岐四郎元頼が将来を託して、
同じ土岐氏である明智氏に光秀を託したのも
納得できます。

【そのほかの生誕地伝説】

【美濃多羅城(西高木家陣屋跡・多羅城推定地の一つ)】
明智光秀は、
石津郡多羅に生まれたとされています。
現在の大垣市上石津町多良地区です。
多羅は進士家の居城で、
母親は明智家当主「明智光綱」の妹でした。
石津郡多羅を居城としていた
進士信周の嫁いできたとされています。
明智家当主である明知光綱に子供が無かったので、
自分の次男を兄の養子として渡し、
明智光秀は養子として明智城に入ったとされています。
幼かったので、光綱の弟である
叔父の兵庫頭光安入道宗寂を後見としました。
西高木家陣屋跡

尚、多羅城の場所ははっきりとはわかっていません。
推定される場所として、
●宮の西高木家陣屋跡
●羽ケ原の城ケ平
●上多良の城屋敷
●松ノ木の城山
などが城跡が挙げられています。




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明知城・落合砦(千畳敷砦・多羅砦)】
明知城(あけちじょう)は、
美濃国明知、現在の岐阜県恵那市明智町にあった
戦国時代の日本の城(山城)です。
明知遠山氏の居城でした。
別名白鷹城(しらたかじょう)。
岐阜県指定史跡です。
土盛砦として保塁数大小23箇所あり、
重要な砦には石垣を積み上げ、
中に陣屋として
実践に備えた館が5棟があったそうです。

落合砦(千畳敷砦・多羅砦)もその砦の一つです。
なお、名称として、
落合砦・千畳敷砦・多羅砦、
そして土岐明智城といくつかあります。
明知遠山氏は土岐明智氏と
親戚になった(一緒になった)説がありますが、
その説を裏付けるかもしれませんね。
その地に光秀が産湯として使ったとされる
井戸が現在も残っています。
毎年5月3日は明智町のお祭りとして
「光秀まつり」が開催されています。
落合砦(多羅砦)産湯の井戸

【場所】
明智町の市街地の南の丘陵上にあります。
明智川を挟んで対岸には
至近に明知城、仲深山砦があり、
山の上に立てば、明智の盆地を一望できます。

明智遠山氏の一族である、
遠山串原五郎景経が居城したと言われています。
串原遠山氏はその本拠地である串原には、
串原城や大平城がありますが、
戦国末期の武田氏の勢力が
強く及んで来た天正期の初め頃は、
明知遠山氏の本拠地へ移って、
その防衛に当たっていたことが推測されます。

現在一帯は千畳敷公園として整備されています。

【所在地】  
〒509-7731 岐阜県恵那市明智町833−13

<場所>

於牧の方墓所】
落合砦(多羅砦)がある恵那市明智町には
明智光秀の生母と伝わる
「於牧の方墓所」があります。
於牧の方を偲び、
里人の民が建立したとされています。
将軍徳川吉宗によって制定された
「公事方御定書」の翌年、
1743年に建立された石塔には、
当時の世評をはばかって
「南無阿弥陀如来」とだけ刻まれ、
樹齢400年を超える老樹「高野槙」を
於牧の方にちなんで、
神木として今もなお崇拝しているとのことです。
毎年11月末には供養祭(甘酒祭り)が執り行われています。
於牧の方墓所

【所在地】
〒509-7700 岐阜県恵那市明智町1175-1(自治体より)

【駐車場】
●大正村の駐車場⇒徒歩15分
●明知城搦手口の駐車場⇒徒歩5~10分程度

【電車】
「明智」駅より徒歩20~25分程度

<場所>




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【明智城】
明智城(あけちじょう)は、
岐阜県可児市瀬田長山にあった日本の城。
康永元年(1342年)、美濃源氏の流れをくむ
土岐頼兼(下野守)が「明智」と改名して
この城を築き、その後約200年の間、
明智氏代々の居城として栄えてきました。
別名長山城または明智長山城と呼ばれています。
その明智城の城主の明智光綱の嫡子として誕生。
落城するまでの約30年間を過ごしたとされています。
明智長山城

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コメント

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  • コメント (2)

    • のり巻きせんべい
    • 2019年 9月 05日

    明智光秀の事を細かく調査されて関心いたしました、ご苦労様です。
    私も興味をもって誕生の地を調べました、以下にまとめます見てください。
    恵那明知町
    1.土岐の明智家は清和源氏の関係で、遠山家は藤原北家の流れを引いている、明知町の出している家系図の
     景行と光安が同一人物とは考えられない。
    2.光秀が生まれた時期、遠山家は北条早雲の配下になるため一族郎党で関東に居住していた、ここで光秀が生を受ける
     ことは無い。
    3.明知町の出している家系図で光安と景行が同一人物としているが光安は斎藤義龍に殺され、景行は上村合戦で
     死んでいる、二人が同一人物では無い。
    山形市美山説
    1.土岐四郎元頼の子となっているが元頼は明応五年の船田合戦で死んでいる、戦いの前に生まれても 本能寺の時に
     80歳を超えていることになりありえない。
    大垣市多羅説
    1.多羅の山岸氏の子を明智氏の養子にした説、明智氏には叔父の光安や光久がいて、更に光安には光満という男子が
     いる、このように血族の男子がいる所に養子を迎えることは考えられない。
    2.当時の多羅は土岐島田家の領地であり、山岸氏の領地ではなかった。
    可児市、智荘の明智城
    1.この地は明智荘と言われていて、土岐頼兼がこの地名を名乗ったと思われる。
    2.城下の居留地と思われる狭い地域に寺が集中し、城の落城の時期に寺も兵火によって焼かれたとの記録が有る。
    3.光秀の家臣にこの地の出身者が多く、特に可児姓の人物が仕えていたことは多くの資料に見られ確実に存在しています、
     可児姓はこの地方に集中しているきわめて珍しい姓であるため、光秀が可児とかかわりがあった証拠とされています。
    4.可児市の文献の中で一番古いものは昭和6年発行の尋常小学校の副読本で、近年の光秀の流行する前の物です。

     以上 簡単ですが私がまとめたものです、素人なので変なことが有るかも、指導よろしくお願いします。
     

    • 宇野薫子
    • 2019年 9月 08日

    細部にわたり詳細かつ分かりやすい文章でのおまとめ、
    ありがとうございました。
    感服いたしました。
    こちらこそ、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

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