平安時代

藤原兼家~熾烈な権力闘争に勝ち、のちの藤原氏最盛期を築いた人物です。

春日大社



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藤原兼家

藤原 兼家(ふじわら の かねいえ)は、
平安時代中期の公卿。藤原北家
右大臣・藤原師輔の三男です。
官位は従一位、摂政、関白太政大臣
策略によって花山天皇を退位させて、
娘が生んだ一条天皇を即位させて
摂政となりました。
その後右大臣を辞して
摂政のみを官職として、
摂関の地位を飛躍的に高め、
また子である藤原道隆に
その地位を譲って世襲を固めました。
以後、摂関は藤原兼家の子孫が独占し、
藤原兼家は東三条大入道殿
呼ばれて尊重されたのでした。

兄である藤原兼通との激しい確執がありました。
室の1人には「蜻蛉日記」の作者である
藤原道綱母がいます。

【官位】
従一位、摂政、関白、太政大臣

【主君】
村上天皇⇒冷泉天皇⇒
円融天皇⇒花山天皇⇒→一条天皇

【氏族】
藤原北家九条流

【父】
藤原師輔

【母】
藤原盛子(藤原経邦の娘)

【養父】
藤原忠平

【兄弟】
伊尹、兼通、安子、兼家、
遠量、忠君、遠基、遠度、
登子、源高明室、高光、
愛宮、為光、尋禅、深覚、
公季、怤子、繁子、源重信室

【妻】
藤原時姫(藤原中正娘)、
藤原道綱母(藤原倫寧娘)、
保子内親王(村上天皇皇女)、
中将御息所(藤原懐忠娘?)、
権の北の方(藤原忠幹娘)、
源兼忠娘、対御方(藤原国章娘)

【子】
道隆、超子、道綱、道綱母養女、
道兼、詮子、道義、道長、綏子、兼俊

【特記事項】
一条、三条天皇の外祖父

【生涯と経歴】
【長兄からの厚遇】
童殿上の後、天暦2年(948年)に
従五位下に叙され、
翌天暦3年(949年)には
昇殿を許されています。
村上天皇の時代には左京大夫に
春宮亮を兼ねていました。

康保4年(967年)、
冷泉天皇の即位に伴い、
同母の次兄である藤原兼通に代わって
蔵人頭となり、左近衛中将を兼ねました。
翌安和元年(968年)には
藤原兼通を超えて従三位に叙され、
さらに翌安和2年(969年)には
参議を経ずに中納言となりました。
蔵人頭とは通常、四位の官とされて
辞任時に参議に昇進するものと
されていたとのことです。
けれども、藤原兼家は従三位に達し、
更に中納言就任直後まで
その職に留まったのでした。
これは、長兄である
伊尹の政権基盤確立のための
宮中掌握政策の一翼を
藤原兼家が担っていたからだと
考えられており、安和の変に
藤原兼家が関与していたとする
説の根拠とされているとのことです。

その後、娘である超子を
入内させるのを黙認して
もらえただけでなく、
天禄3年(972年)には
正三位大納言に引き立ててもらい、
更に右近衛大将・按察使を
兼ねさせてもらえた程、
藤原兼家は摂政となった伊尹から
重用されたとのことです。
その結果、次兄・藤原兼通を
官位で上回ってしまい
酷く恨まれることとなったのでした。




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【次兄との確執】
同年、重病の伊尹が辞表を提出すると、
翌日には参内した藤原兼家と藤原兼通は
後任の関白職を望むあまり
円融天皇の御前で
口論し出したとのことです。
藤原兼通から「関白は、宜しく
兄弟相及ぶべし(順番に)」との
円融天皇の生母である安子の遺言を
献じられた天皇は、孝心厚く遺言に従い、
藤原兼通の内覧を許し、
次いで関白となしたとのことです。
(「大鏡」)
藤原兼通から妬まれていた
藤原兼家は不遇の時代を過ごします。
長女である超子に、
冷泉上皇との間に生まれた
居貞親王(後の三条天皇)に
恵まれただけでなく、
次女である詮子まで
円融天皇の女御に入れようとする
藤原兼家の目論みは、
一段と藤原兼通から疎んじられて
円融天皇への讒言に遭い、退けられました。
そのうえ昇進も止められてしまいます。
「栄花物語」によりますと
藤原兼通は「できることなら
九州にでも遷してやりたいものだが、
罪が無いので出来ない」と
発言していたとのことです。
春日大社 鹿

【藤原兼通の死去】
貞元2年(977年)、
重態に陥って伏している
藤原兼通の邸では、
藤原兼家の車がやって来た、
との家人からの一報を受けて、
迎え入れる準備を
整えていたとのことです。
ところが藤原兼家の車は
門前を通り過ぎて
禁裏へ行ってしまいました。
仲の悪い兄弟であっても
見舞いに来たかと思っていた
藤原兼通は激怒して起き上がり、
病身をおして参内して最後の除目を行い、
関白を藤原頼忠に譲り、
藤原兼家の右大将・按察使の職を奪い、
治部卿に格下げしたのでした。
ほどなく、藤原兼通は薨御。
余計な怒りを買った藤原兼家は
長歌を献上して失意の程を
円融天皇に伝えましたが、
天皇からは「稲舟の」と、
しばらく待つように、
との意の返歌を受けたということです。

【復権】
後任の関白の藤原頼忠から、
天元元年(979年)に
右大臣に進められた藤原兼家は、
廟堂に復権となりました。
また、翌年には父の遺志を継いで
天台座主良源と共に
延暦寺横川に恵心院を建立しました。




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【失望して引き籠る】
かねて望んでいた詮子の入内もかない、
懐仁親王(後の一条天皇)に恵まれます。
詮子を中宮に立てることを望む
藤原兼家でしたが、天元5年(982年)、
藤原頼忠の娘・遵子を中宮となした
円融天皇に失望して、
以後、詮子、懐仁親王共々
東三條殿の邸宅に引き籠ってしまいました。
さらに、憂慮した円融天皇による
東三條への使いに対し、
ろくに返答もしない
有様だったとのことです。
春日大社

【藤原兼家、喜ぶ】
永観2年(984年)7月、
相撲節会を懐仁親王に見せたいと望む
円融天皇からの、参内の求めに、
藤原兼家は病と称して応じませんでした。
しかしなおも、天皇から使者を送られたため、
藤原兼家はやむなく参内しました。
そこで天皇から「朕は在位して16年になり、
位を東宮(師貞親王・冷泉天皇の皇子で、
後の花山天皇)に譲りたいと思っていた。
その後は懐仁を東宮にするつもりだ。
朕の心を知らずに
不平を持っているようだが、残念だ」
と諭された藤原兼家は、
とても喜んだとのことです。

【懐仁親王が東宮】
そして約束通り、同年8月に
円融天皇は師貞親王に位を譲り(花山天皇)、
懐仁親王が東宮に立てられました。
藤原兼家は関白を望みますが、
藤原頼忠が依然として在任中であり、
しかも朝政は天皇の外伯父の
権中納言藤原義懐が執っていました。

寛和の変
花山天皇は好色な上に
情緒的な性格であったそうです。
寵愛していた女御である
藤原忯子が急死すると絶望して、
世を棄てることさえ
言い出していたとのことです。
もしも、花山天皇が退位すれば
懐仁親王が即位となります。
そこで藤原兼家の三男である
藤原道兼から出家をしきりと
勧められた天皇もその気に
させてしまったとのことです。
寛和2年(986年)6月22日夜、
藤原兼家に仕える源頼光ら武士に
警護された天皇は、藤原道兼と共に
禁裏を抜け出してしまいます。
天皇の姿が消えて大騒ぎになっていた
内裏を顧みず、2人の逃亡先である
山科の元慶寺で、まず天皇が剃髪出家。
ところが藤原道兼は
「出家する前の姿を最後に父に見せたい」
と言い出して、去ってしまいました。
天皇はそこでようやく欺かれたと気づきましたが
もう手遅れであったのでした。
翌朝、中納言義懐と権左中弁惟成が
元慶寺に駆けつけますが、
そこにいたのは小法師の姿になってしまった
花山天皇だったとのことでした。




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【一条天皇の即位で天皇の外戚】
策略は成功し、懐仁親王が一条天皇として
即位しました。
藤原兼家は天皇の外戚となり
摂政・氏長者となりました。
天皇の外祖父が摂政に就任するのは、
人臣最初の摂政となった
藤原良房(清和天皇外祖父)以来でした。
ところが、当時右大臣であった
藤原兼家の上官には
前関白の太政大臣藤原頼忠と
左大臣の源雅信がいました。

【邪魔者の存在】
特に源雅信は円融天皇の時代から
一上の職務を務め、法皇となった
円融の信頼を背景に太政官に大きな
影響力を与えていたのでした。
さらに藤原頼忠も源雅信も
皇位継承可能な有力皇族との
外戚関係がなかったために、
謀叛などの罪を着せて
排斥することも出来なかったのです。

【自流の地位を高めるための策略】
そこで藤原兼家はこの年にr
従一位・准三宮の待遇を受けると共に
右大臣を辞して、
初めて前職大臣身分
(大臣と兼官しない)の摂政となりました。
右大臣を辞した藤原兼家は
藤原頼忠及び源雅信の下僚の地位を脱却し、
准三宮として他の全ての人臣よりも
上位の地位を保障されたのでした。
また、一条天皇を本来は
一氏族である藤原氏
氏神に過ぎない春日社へ行幸させたり、
藤原道隆や藤原道長
自分の子弟を公卿に抜擢し、
弁官を全て自派に差し替える
といった強引な人事を行ったり、
自邸東三条殿の一部を
内裏の清涼殿に模して
建て替えたりして、
自流の地位を他の公家とは
隔絶したものに高めたのでした。




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【一条朝における政治的安定に貢献】
その一方で有能な人材の登用、
官僚機構再生のため新制の発布、
梅宮祭・吉田祭・北野祭を公祭と定めて
主催の神社を国家祭祀の対象として加え
後の二十二社制度の基礎を作るといった、
一条朝における政治的安定にも貢献したのです。

【晩年と最期】
永祚元年(989年)、
円融法皇の反対を押し切って
長男である藤原道隆を内大臣に任命して、
律令制史上初めての
「大臣4人制」を実現させ、
更にこの年に藤原頼忠が薨去すると、
その後任の太政大臣に就任しました。
翌永祚2年(990年)の
一条天皇の元服に際しては
加冠役を務めています。
これを機に関白に任じられますが、
僅か3日で病気を理由に嫡男である
藤原道隆に関白を譲って出家します。
如実と号して別邸の二条京極殿を
「法興院」という寺院に改めて
居住しましたが、
その2ヶ月後に他界しました。
享年は62歳でした。

後に藤原兼家の家系は大いに栄え、
五男となる藤原道長の時に
全盛を迎えるのです。

【支えた人物など】
藤原兼家は左中弁・藤原在国、
右中弁・平惟仲を信任し、
「まろの左右の目である」と
称したとのことです。
また、高名な武士の源頼光が
藤原兼家に仕え、
名馬30頭を献上をしています。
打伏神子(うちふしのみこ)を甚だ信じ、
動静全て彼女の言葉に従ったとも
言われているとのことです。

2024年NHK大河ドラマ
光る君へ」では
段田安則(だんた やすのり)さんが
演じられます。

円融天皇~政治に関与し兼家と疎隔・対立するも、藤原詮子との間に後の一条天皇が誕生します。

花山天皇~藤原氏の策略で19歳で出家、独創的な発想の持ち主で好色、観音巡礼が後に「西国三十三所巡礼」として継承。

一条天皇~「叡哲欽明」と評された賢王は笛の名手で皇后との「純愛」を育み、やがて平安王朝文化が開花。

藤原時姫~藤原兼家の妻で藤原道隆・道兼・道長・超子・詮子の生母、一条・三条両天皇の祖母です。

藤原道隆~藤原道長の長兄、容姿端正、明朗で豪快、気配り上手な優れた跡継ぎでしたが病で急逝します。

藤原道兼~父は藤原兼家、兄は藤原道隆、弟は藤原道長、待望の関白に就くも数日でこの世を去る。

藤原道長~初めは目立たずも後に政権を掌握、「一家立三后」をなし「この世をば わが世とぞ思ふ」と詠む。

藤原詮子~藤原道長の姉、国母となりやがて日本最初の女院となって、権力を握り政治に介入する。

藤原寧子(藤原道綱母)~藤原兼家の妻の一人で、女流日記の先駆けと評されている「蜻蛉日記」の作者です。

藤原道綱~藤原道長の異母兄で母は「蜻蛉日記」の作者、おっとりとした性格で才に恵まれず。

藤原伊周~藤原道隆の嫡男、急速に出世するも叔父・道長との政争に敗れ失意のうち世を去る。

藤原隆家~藤原道隆の四男、「刀伊の入寇」で武勇を挙げ政敵・道長も一目置いた気骨ある人物です。

藤原定子~朗らかで才気に満ち華やかで美しい女性、父道隆の死で状況は一変し若くして散る。

藤原彰子~真面目で努力家で控えめな少女は成長して国母となり政治力を発揮し「賢后」となりました。

藤原頼通~藤原氏の栄華の象徴である平等院鳳凰堂を造営、摂関政治から院政と武士が台頭する時代へ。

藤原教通~同母兄の頼通への卑屈なまでの従順と確執、やがて藤原摂関家の衰退を招いていきます。

藤原義懐~花山天皇の外叔父として権勢を振るうが寛和の変後に出家し引退する。

藤原忯子(弘徽殿の女御)~花山天皇の寵愛を受けた女御、懐妊するも夭逝し寛和の変の引き金となる。

源俊賢~一条朝の四納言の一人、父の源高明が政変で失脚するもバランス感覚に優れ権大納言まで昇進します。

源明子(源高明の娘)~藤原道長の妾妻で源俊賢の異母妹、明子の家系はやがて五摂家に繋がっていくのです。

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藤原行成~世尊寺流の祖、実務に高い能力を発揮し人徳高く当代の能書家として後世「権蹟」と称されました。

春日大社~藤原氏の氏神を祀る全国の春日神社の総本社で世界遺産に登録されています。

源倫子~6人の子供に恵まれ、夫である藤原道長の外戚政権を 実質的に完成させた女性です。

源雅信~皇室の血筋で源倫子の父、藤原兼家にとっては邪魔な存在、宇多源氏の始祖で子孫は近江源氏・出雲源氏へと繋がっていく。

藤原穆子~源倫子の母親で藤原道長の才能を見抜き結婚を勧めた女性で紫式部とは遠縁です。

紫式部~世界最古の長編小説とされる「源氏物語」を執筆した女流小説家で平安時代きっての才女。

清少納言~末娘で父親からとても可愛がられて育ち、定子に仕え世界最古の随筆である「枕草子」を執筆します。

赤染衛門~理知的で優美な諷詠の女流歌人、おしどり夫婦であり良き妻良き母、「栄花物語」正編の作者とも。

藤原為時~漢詩の才能に長け、人格形成で紫式部に影響を与えたとされており、子らに先立たれる。

藤原宣孝~性格も女性関係も華やかで20歳以上も年上であった紫式部の夫。

ちやは(藤原為信の娘)~紫式部の生母、藤原為時との間に一男二女を授かりますが若くして亡くなります。

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