【源義経】
源 義経(みなもとのよしつね、源義經)は、
平安時代末期の武将です。
鎌倉幕府の初代将軍である
源頼朝は異母兄です。
仮名は九郎、実名は義經(義経)です。
【源義経の一生】
河内源氏の源義朝の九男として生まれ、
幼名を牛若丸(うしわかまる)と呼ばれていました。
平治の乱で父が敗死したことにより
鞍馬寺に預けられます。
後に平泉へ下り、
奥州藤原氏の当主である
藤原秀衡の庇護を受けます。
異母兄の源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると
それに馳せ参じ、
一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、
最大の功労者となりました。
その後、源頼朝の許可を得ることなく
官位を受けたことや、
平氏との戦いにおける
独断専行によって怒りを買い、
自立の動きを見せたため、
やがて源頼朝と対立し朝敵とされました。
全国に捕縛の命が伝わると
難を逃れ再び藤原秀衡を頼ります。
けれども、藤原秀衡の死後、
源頼朝の追及を受けた当主で藤原泰衡に攻められ、
現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃したのでした。
【時代】
平安時代末期 – 鎌倉時代初期
【生誕】
平治元年(1159年)[注釈 2]
【死没】
文治5年閏4月30日(1189年6月15日)
享年31歳
【改名】
牛若⇒遮那王(幼名)⇒義經・義行・義顕
【別名】
九郎、判官、廷尉、豫州(仮名)
【墓所】
宮城県栗原市判官森(伝胴塚)
神奈川県藤沢市白旗神社(伝首塚)
【官位】
従五位下・左衛門少尉・検非違使少尉・伊予守
【氏族】
清和源氏為義流(河内源氏)
【父】
源義朝
【母】
常盤御前
【養父】
一条長成
【兄弟】
義平・朝長・頼朝・義門・
希義・範頼・阿野全成・
義円・義経、坊門姫・
女子廊御方?・
一条能成・女子(一条長成の娘)
【妻】
<正室>
河越重頼の娘(郷御前)
<妾>
静御前
平時忠の娘(蕨姫)
【子】
女児、男児、女(源有綱室?)
【歴史の中の源義経】
義経が確かな歴史に現れるのは、
黄瀬川で源頼朝と対面した22歳から31歳で
自害するわずか9年間です。
その前半生は史料と呼べる記録はありません。
今日伝わっている牛若丸の物語は、
(北条氏側の)歴史書である「吾妻鏡」に
短く記された記録と、
「平治物語」や「源平盛衰記」の軍記物語、
それらの集大成として
より虚構を加えた物語である「義経記」などによるものです。
【誕生~幼少期】
清和源氏の流れを汲む
河内源氏の源義朝の九男として生まれ、
牛若丸と名付けられました。
母親の常盤御前は九条院の雑仕女でした。
父は平治元年(1159年)の平治の乱で
謀反人となり敗死。
その係累の難を避けるため、
数え年2歳の牛若は
母の腕に抱かれて2人の同母兄である
今若(後の阿野全成)と乙若と
共に逃亡し大和国(奈良県)へ逃れます。
その後、常盤は都に戻り、
今若と乙若は出家して僧として
生きることになったとのことです。
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後に常盤は公家の一条長成に再嫁します。
牛若丸は11歳の時に
鞍馬寺(京都市左京区)へ預けられ、
稚児名を遮那王(しゃなおう)と名乗ったとあります。
やがて成長した遮那王は
僧になることを拒否して鞍馬寺を出奔し、
承安4年(1174年)3月3日
桃の節句(上巳)に
鏡の宿に泊まって
自らの手で元服を行い、
奥州藤原氏宗主で
鎮守府将軍の藤原秀衡を頼って平泉に下ったとあります。
藤原秀衡の舅で政治顧問であった
藤原基成は一条長成の従兄弟の子で、
その伝をたどった可能性が高いとされています。
【史書等で異なる元服場所】
「平治物語」では近江国蒲生郡鏡の宿、
「義経記」では父親の源義朝の
最期の地でもある尾張国で元服し、
源氏ゆかりの通字である「義」の字と、
初代経基王の「経」の字を以って
実名を義経としたということです。
【治承・寿永の乱】
治承4年(1180年)8月17日に
異母兄の源頼朝が伊豆国で挙兵します。
その幕下に入ることを望んだ源義経は、
源頼朝のもとに馳せ参じました。
源義経は富士川の戦いで勝利した
源頼朝と黄瀬川の陣(静岡県駿東郡清水町)で
涙の対面を果たしたといいます。
源頼朝は、源義経ともう一人の弟の
源範頼に遠征軍の指揮を委ねるようになり、
自身は本拠地の鎌倉に腰を据え
東国の経営に専念することになるのでした。
【貴族の日記における源義経の初見】
寿永2年(1183年)7月、
源(木曾)義仲が平氏を都落ちに追い込み入京。
けれども源義仲は後白河法皇の怒りを買ってしまいます。
源頼朝は後白河法皇の命により
閏10月5日に鎌倉を出立しますが、
平頼盛から京都の深刻な食糧不足を聞くと
自身の上洛を中止して、
源義経と中原親能を代官として都へ送ります。
「玉葉」閏10月17日条には
「頼朝の弟九郎(実名を知らず)、
大将軍となり数万の軍兵を卒し、
上洛を企つる」とありますが、
これが貴族の日記における源義経の初見です。
【後白河院の幽閉と反撃、義仲の死】
源義経と中原親能は11月に近江国に達します。
が、源義仲は後白河院を幽閉します。
京都の情勢は後白河院の下、北面・大江公朝らによって、
伊勢国に移動していた源義経及び中原親能に伝えられました。
源義経は飛脚を出して源頼朝に事態の急変を報告し、
自らは伊勢国人や和泉守・平信兼と連携して
兵力の増強を図ります。
翌年の寿永3年(1184年)、
源範頼が東国から援軍を率いて
源義経と合流し、正月20日、
源範頼軍は近江瀬田から、
源義経軍は山城田原から総攻撃を開。
源義経は宇治川の戦いで
志田義広の軍勢を破って入京し、
敗走した源(木曽)義仲は粟津の戦いで討ち取られました。
平氏は西国で勢力を回復し、
福原(兵庫県神戸市)まで迫っていました。
源義経は、源範頼とともに平氏追討を命ぜられ、
2月4日、源義経は搦手軍を率いて播磨国へ迂回し、
三草山の戦いで夜襲によって平資盛らを撃破し、
源範頼は大手軍を率いて出征しました。
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【歴史上の表舞台に登場】
2月7日、一ノ谷の戦いで源義経は
精兵70騎を率いて、
鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて
平氏本陣を奇襲し、鎌倉の大勝となりました。
しかし、多田行綱がやったという説もあり、
定かではありません。
また崖は昭和時代には汽車も通るくらいで、
馬が通れない程でではなかったということです。
けれどもこの戦いで
上洛の際、名前も知られていなかった
源義経は、源義仲追討と
一ノ谷の戦いの活躍によって
歴史上の表舞台に登場することとなったのでした。
【京に留まる】
一ノ谷の戦いの後、源範頼は鎌倉へ引き上げ、
源義経は京に留まって都の治安維持にあたりました。
また畿内近国の在地武士の
組織化など地方軍政を行い、
寺社の所領関係の裁断など
民政にも関与していたとのことです。
元暦元年(1184年)6月、
源頼朝の推挙によって源範頼ら源氏3人が
国司に任ぜられましたが、
源義経は国司には任ぜられませんでした。
源義経はその後、平氏追討のために
西国に出陣する予定でしたが、
三日平氏の乱の勃発の為に出陣が不可能になりました。
そのため西国への出陣は
源範頼があたることになりました。
8月、源範頼は大軍を率いて
山陽道を進軍して九州へ渡ります。
同時期、源義経は三日平氏の乱の
後処理に追われており、
この最中の8月6日、
後白河法皇より左衛門少尉、検非違使に任じらました。
9月、源義経は源頼朝の周旋により
河越重頼の娘(郷御前)を正室に迎えました。
【源義経、西国出陣】
一方、源範頼の遠征軍は
兵糧と兵船の調達に苦しみ、
進軍が停滞してしまいます。
この状況を知った源義経は
後白河院に西国出陣を
申し出てその許可を得た、
という説が有力です。
【屋島の戦い】
元暦2年(1185年)2月、
通常3日かかる距離を数時間で到着し、
讃岐国の瀬戸内海沿いにある平氏の拠点屋島を奇襲し、
山や民家を焼き払い、
大軍に見せかける作戦で平氏を敗走させました。
【壇ノ浦にて平家滅亡】
源範頼も九州へ渡ることに成功し、
最後の拠点である
長門国彦島に拠る平氏の背後を遮断。
源義経は水軍を編成して彦島に向かい、
3月24日(西暦4月)の
壇ノ浦の戦いで勝利して、
ついに平家を滅ぼしました。
【平家討伐の立役者となる】
宿願を果たした源義経は
後白河法皇から戦勝を讃える勅使を受け、
一ノ谷、屋島以上の大功を成した立役者として、
平氏から取り戻した鏡璽を奉じて
4月24日に京都に凱旋します。
【源頼朝との対立】
平家を滅ぼした後、
源義経は兄の源頼朝と対立し、
自立を志向しましたが果たせず
朝敵として追われることになるのでした。
元暦2年(1185年)4月15日、
源頼朝は内挙を得ずに
朝廷から任官を受けた
関東の武士らに対し、
任官を罵り、京での勤仕を命じ、
東国への帰還を禁じます。
また4月21日、
平家追討で侍所所司として
源義経の補佐を務めた梶原景時から、
「義経はしきりに追討の功を
自身一人の物としている」
と記した書状が源頼朝に届きました。
【頼朝と義経の温度差】
一方、源義経は、先の源頼朝の命令を重視せず、
壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して、
5月7日に京を立ち、
鎌倉に凱旋しようとしていました。
けれども源義経に不信を抱く
源頼朝は鎌倉入りを許さず、
平宗盛父子のみを鎌倉に入れたのでした。
但し「平家物語」によりますと、
一度は鎌倉に入って
源頼朝と対面したことになっています。
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【腰越状】
このとき、鎌倉郊外の山内荘腰越
(現神奈川県鎌倉市)の満福寺に
源義経は留め置かれました。
5月24日、
源頼朝に対し自分が叛意のないことを示し、
源頼朝の側近である
大江広元に託した書状が腰越状です。
【源義経は何故源頼朝の怒りを買ったのか?】
源義経が源頼朝の怒りを買った原因としては、
「吾妻鏡」では許可なく官位を受けたことのほか、
平氏追討にあたって軍監として
源頼朝に使わされていた
梶原景時の意見を聞かず、
独断専行で事を進めたこと、
壇ノ浦の合戦後に源義経が
源範頼の管轄である
九州へ越権行為をして仕事を奪い、
配下の東国武士達に対しても
わずかな過ちでも見逃さず
これを咎め立てするばかりか、
源頼朝を通さず勝手に成敗し、
武士達の恨みを買うなど、
自専の振る舞いが
目立ったことによるとのことです。
【東国御家人たちの不満が噴出】
主に西国武士を率いて
平家を滅亡させた
源義経の多大な戦功は、
恩賞を求めて源頼朝に従っている
東国武士達の戦功の
機会を奪う結果ともなりました。
それは鎌倉政権の基盤となる
東国御家人達の不満を
噴出させたことになったのです。
【最大の怒りは許可なく官位を受けたこと】
特に許可無く官位を受けたことが最も重大で、
まだ官位を与えることが
出来る地位にない源頼朝の存在を
根本から揺るがすものだったとのことでした。
【安徳天皇・二位尼の自害と神剣の紛失】
また源義経の性急な壇ノ浦での攻撃で、
安徳天皇や二位尼を自害に追い込み、
朝廷との取引材料と成り得た
三種の神器の一つである神剣を紛失したことは
源頼朝の戦後構想を
打ち砕いてしまったのでした。
【源頼朝より人気者になってしまう】
そして源義経の兵略と声望が
後白河法皇の信用を高め、
武士達の人心を集めることは、
武家政権の確立を目指す源頼朝にとって
脅威となるものでした。
【後白河院の動きに警戒】
源義経は壇ノ浦からの凱旋後は、
かつて平家が院政の軍事的支柱として
独占してきた院御厩司に補任され、
平家の捕虜である平時忠の娘(蕨姫)を娶りました。
それまでの平家の伝統的地位を、
源義経が継承しようとした、
あるいは後白河院が継承させようとした動きは、
源頼朝としては、
容認出来るものではなかったのでした。
【源義経、源頼朝を恨む】
結局、源義経は鎌倉へ入ることを許されませんでした。
6月9日に源頼朝が源義経に対し
平宗盛父子と平重衡を伴わせ
帰洛を命じると、
源義経は頼朝を深く恨み、
「関東に於いて怨みを成す輩は、
義経に属くべき」と言い放ったといいます。
これを聞いた源頼朝は、
源義経の所領をことごとく没収。
源義経は近江国で宗盛父子を斬首し、
平重衡を平重衡自身が焼き討ちにした
東大寺へ送ったのでした。
このような最中、小除目があり、
源氏六名の叙位任官の一人として、
伊予守を兼任します。
京に戻った源義経に、源頼朝は、
京の六条堀川の屋敷にいる
源義経の様子を探るべく
梶原景時の嫡男である梶原景季を遣わし、
かつて源義仲に従った
叔父である源行家追討を要請しました。
けれども源義経は憔悴した体であらわれ、
自分の自身の病と源行家が
同じ源氏であることを理由に断りました。
【土佐坊昌俊に襲われる】
源義経の病が仮病であり、
すでに源行家と同心していると
判断した源頼朝は源義経討伐を決めて、
家人・土佐坊昌俊を京へ送りました。
土佐坊ら六十余騎が京の源義経邸を襲います。
自ら門戸を打って出て応戦する源義経に
源行家が加わり、合戦は襲撃側の敗北に終わりました。
源義経は、捕らえた土佐坊昌俊から
この襲撃が源頼朝の命であることを聞き出すと、
これを梟首し源行家と共に京で
源頼朝打倒の旗を挙げました。
なお、土佐坊を源頼朝が派遣した
刺客だとするのは源義経による
朝廷への一方的な主張のみで、
実際に源頼朝が土佐坊を派遣した証拠の史料が
ないそうです。
従って創作された可能性もあるそうです。
【源義経の追討の院宣が出される】
後白河法皇より
源頼朝追討の院宣を得ましたが、
源頼朝が父である源義朝供養の法要を営み、
家臣を集めたこともあり
賛同する勢力は少なかったのでした。
京都周辺の武士達も
源義経らに与せず、
逆に敵対する者も出てきたとのことです。
さらにこのあと、
後白河法皇が今度は
源義経追討の院宣を出したことから
一層窮地に陥ったのでした。
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【諸国に下された源義経・行家の追補院宣】
源頼朝が軍を率いて源義経追討に向かうと、
源義経は西国で体制を
立て直すため九州行きを図りました。
しかし、途中暴風のために難破し、
これにより源義経の九州落ちは不可能となりました。
11月25日、源義経と源行家を
捕らえよとの院宣が諸国に下されました。
【文治の勅許】
12月、さらに源頼朝は、
源頼朝追討の宣旨作成者・親義経派の公家を
解官させ、源義経らの追捕のためとして、
「守護・地頭の設置」を認めさせたのでした。
【追い詰められる源義経】
源義経は郎党や愛妾の白拍子である
静御前を連れて吉野に身を隠しましたが、
ここでも追討を受けて
静御前が捕らえられました。
逃れた源義経は反鎌倉の貴族・寺社勢力に
匿われ京都周辺に潜伏します。
翌年の文治2年(1186年)5月、
和泉国で叔父である源行家が
鎌倉方に討ち取られ、
同年6月には、源有綱も大和国で討ち取られました。
また各地に潜伏していた
源義経の郎党達(佐藤忠信、伊勢義盛等)も
次々と発見され殺害されました。
さらに源義経に娘を嫁がせていた
河越重頼も、源頼朝の命令で
所領没収の後に殺害されました。
そうした中、諱を
義経から義行に改名させられ、
さらに義顕と改名させられました。
何れも源頼朝の意向により、
朝廷側からの沙汰であり、
当の源義経本人が
このことを認知していたか否かは不明です。
更に院や貴族が源義経を逃がしていることを疑う
源頼朝は、同年11月に
「京都側が義経に味方するならば大軍を送る」
と恫喝したとのことです。
こうして京都に居られなくなった源義経は、
藤原秀衡を頼って奥州へ赴きます。
伊勢・美濃を経て奥州へ向かい、
正妻と子らを伴って平泉に身を寄せたのでした。
一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていたということです。
【藤原秀衡の死】
藤原秀衡は関東以西を制覇した
源頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、
源義経を将軍に立てて
鎌倉に対抗しようとしたとのことです。
けれども文治3年(1187年)10月29日に病没しました。
源頼朝は藤原秀衡の死を受けて
後を継いだ藤原泰衡に、
源義経を捕縛するように
朝廷を通じて強く圧力をかけたとのことです。
【源頼朝の計略】
この要請には源頼朝の計略があったとのことです。
源義経追討を自身が受け、
奥州に攻め込めば藤原泰衡と
源義経は秀衡の遺言通り、
一体となって共闘する怖れがあると考えました。
藤原泰衡に源義経を追討させることで
2人の間に楔を打ち、
険悪な関係を発生させ、
奥州の弱体化を図ろうとしたのでした。
源頼朝は様々な理由で
年内の軍事行動はしないことを表明し、
源頼朝自身が源義経を追討できないとしました。
【源義経の反撃】
一方、源義経は文治4年(1188年)2月に
出羽国に出没し、鎌倉方と合戦をしています。
また文治5年(1189年)1月には
源義経が京都に戻る意志を
書いた手紙を持った比叡山の僧が捕まるなど、
再起を図っています。
【衣川の戦い】
この時期、源義経と藤原泰衡の間に
どのような駆け引き、
葛藤があったのかは
わかりません。
けれども結果的に藤原泰衡は
再三の鎌倉の圧力に屈して、
「義経の指図を仰げ」
という父の遺言を破り、
閏4月30日、500騎の兵をもって
10数騎の源義経主従を衣川館にて襲いました。
源義経の郎党たちは防戦しましたが、
ことごとく討たれました。
館を平泉の兵に囲まれた源義経は、
一切戦うことをせず持仏堂に籠り、
まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、
自害して果てたということです。
享年は31歳でした。
【源義経の死後】
源義経の首は美酒に浸され
黒漆塗りの櫃に収められ、
43日間かけて鎌倉に送られたとのことです。
文治5年(1189年)6月13日、
首実検が和田義盛と梶原景時らによって、
腰越の浦で行われました。
藤原泰衡は奥州合戦で、
源頼朝に攻められ滅亡しました。
【墓所など】
伝承ではその後、
首は藤沢に葬られ祭神として
白旗神社に祀られたとされており
位牌が荘厳寺にあります。
胴体は宮城県栗原市栗駒沼倉の判官森に
埋葬されたと伝えられています。
また、最期の地である衣川の雲際寺には、
自害直後の源義経一家の遺体が
運び込まれたとされ、
源義経夫妻の位牌が安置されていましたが、
平成20年(2008年)8月6日、
火災により焼失しました。
【源頼朝の心情と源義経の名誉】
なお、源頼朝は
源義経や奥州藤原氏の
怨念を鎮めるために
鎌倉に永福寺を建立しましたが、
現在は廃寺になっています。
この寺を巡っては
「吾妻鏡」宝治2年(1248年)2月5日条に、
左親衛(北条時頼)が
「頼朝は自らの宿意で義経・泰衡を討ったもので
彼らは朝敵ではない」
として永福寺の修繕を急かす
霊夢を見たことが記されており、
少なくとも「吾妻鏡」が
編纂された頃には
源義経の名誉が回復されていたことを
示しているとのことです。
2022年NHK大河ドラマ
「鎌倉殿の13人」では
菅田将暉(すだまさき)さんが演じられます。
河内源氏の栄枯盛衰~形成から興隆、衰退、初の武家政権となった鎌倉幕府と次の室町時代。
源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。
後白河院(後白河院天皇)(後白河法皇)「治天の君」の地位を保持した「日本一の大天狗」の異名をとる人物。
郷御前(里)~父は河越重頼で祖母は比企尼、源義経に寄り添い最期を共にした正妻です。
平知康~後白河法皇からの信任篤き人物でしたが木曾義仲、源義経、源頼家と源氏との相性はイマイチでした。
藤原秀衡~奥州藤原三代当主にて最も平泉を繁栄させ、源義経を二度庇護した人物です。
藤原 泰衡~奥州藤原氏最後の当主、源義経や身内の命を犠牲にしても彼が守りたかったものとは何か?
藤原国衡~藤原秀衡の長庶子で藤原泰衡の異母兄、蝦夷の血を引く彼は武勇に優れており家中の期待も高かった。
白幡神社(藤沢)・源義経首洗塚・伝義経首洗い井戸・弁慶塚、旧藤沢宿の源義経にまつわる史跡
武蔵坊弁慶~紀伊国出身の荒法師だったが源義経の郎党となり、多くの創作や伝説を生んだ人物。
川和城跡~源義経の郎党であり、武蔵武士である熊井太郎忠基の名が刻まれた碑があります。
亀井城(川崎 月讀神社)~伝亀井六郎(源義経四天王)の居城、戦国時代には領主は小島佐渡守、古墳もあり。
阿野全成~源頼朝の異母弟で源義経の同母兄~妻の実家側について甥の源頼家とやがて対立する。
源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく
源行家~平治の乱から熊野に隠れて20年、交渉力はあるが戦下手で、武将よりも別の才能があった人物。
義円~源義朝の八男で源義経と阿野全成とは同母兄弟で源頼朝の異母弟、墨俣川の戦いで散る。
小田野城(小田野山城)(甲斐国)~甲斐源氏である安田義定が築城したと伝わる山梨県内最古の部類の山城。
木曾義仲(源義仲)河内源氏の一族で源頼朝とは従兄弟、美男子で信義と情を備えていたが武骨で公家文化には疎かった
静御前~源義経の愛妾、儚い幸せとその後の寂寞たる足跡は今に語り継がれています。
八田知家~小田氏の始祖であり十三人の合議制の一人で源氏4代に仕えた人物です。
檜原城~鎌倉武士の花形の末裔で武蔵七党・西党の一族の平山氏が築城、豊臣方には徹底抗戦しました。
平清盛~平家の黄金期を築いた棟梁~先見性と革新的思考で時代を切り開き後世に託す。
平宗盛~最後の平家の棟梁~偉大なる父の跡はいばらの道だらけ、イクメンで家族思いのパパでもありました。
平知盛~入道相国最愛の息子、一門の最後を見届け散り行く様は歌舞伎になりました。
梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。
梶原景季~梶原景時の嫡男で治承・寿永の乱や宇治川の先陣争い、箙に梅花の枝など軍記で華やかな逸話がある人物。
佐原義連と相模・佐原城、一ノ谷の合戦「鵯越の逆落とし」一番乗りの武勇で有名、会津・蘆名氏の祖です。
結城朝光~誇り高く抜け目ない政治力と巧みな弁舌で鎌倉幕府に重きを成していきます。
北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。
中原親能~朝廷と幕府の交渉役のエキスパート~実務官吏でありながら戦にも従軍する
大江広元~四男の毛利季光は毛利氏の祖となりやがて戦国大名の毛利氏へと続きます。
和田義盛と和田合戦~三浦一族~鎌倉幕府創始の功臣だが北条義時に嵌められる
岡崎義実~代々源氏の家人で特に忠義心厚い人物。三浦一族だが中村党とも深い関係で真田与一の父親です。
大姫~源頼朝と北条政子の長女~生涯をかけて愛を貫いた儚くも一本気な姫、静御前と心を通わせる
比企尼~源頼朝の乳母~ずっと支え続けた偉大なゴッドマザーで鎌倉幕府創立の陰の功労者。
比企朝宗~比企一族で源頼朝と朝廷に仕えており才色兼備である姫の前の父親です。
糟屋有季~糟屋(糟谷)氏の所領は伊勢原市一帯で横山党とも繋がりがあります。糟屋氏一族の城所城跡があります。
皆鶴姫の碑~源義経に恋した悲恋の姫の墓、源義経が逃亡中に馬を繋いだ駒繋石・暦応の碑
那須神田城~那須氏最初期の居城であり、那須与一宗隆の生誕の地とされています。
大弐三位(紫式部娘・藤原賢子)~母からは和歌や文才を、父からは明朗で自由快活な気性を受け継ぎ、行動力溢れ長寿を全うしました。
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