【烏山城】
烏山城(からすやまじょう)は、
下野国那須郡(現:栃木県那須烏山市)
にあった日本の城(山城)です。
山の形が牛の寝ている姿に
似ていることから、
別名臥牛城(がぎゅうじょう)
とも呼ばれています。
このたび国の史跡に
指定されました。
【別名】
臥牛城
【城郭構造】
山城
【築城主】
那須資重
【築城年】
応永25年(1418年)
【主な改修者】
堀親昌
【廃城年】
明治2年(1869年)
【遺構】
石垣、土塁
【指定文化財】
<国の史跡>
<市指定有形文化財(建造物)>
◆烏山城裏門
◆烏山城大手門主柱基石
【歴史・沿革】
沢村(那須)五郎資重(下那須氏初代)が
兄の那須資之(上那須氏)と不仲となり、
本拠の城を追われ稲積城に移り、
応永25年(1418年)、
現在の地に城を築き
新たな拠点としたのが始まりとされています。
以後、下那須氏の本拠となり、
永正11年(1514年)の
下那須家滅亡まで下那須家の居城、
永正13年(1516年)の
那須氏統一後は
那須氏の居城として使われていました。
戦国時代には、常陸国の佐竹氏により
たびたび攻撃対象とされました。
永禄6年(1563年)の大海の戦い、
永禄9年(1566年)の治部内山の戦い、
永禄10年(1567年)の大崖山の戦い、
霧ヶ沢の戦いなど、
何度か城下まで
攻め込まれましたが、いずれも退けています。
天正18年(1590年)の那須資晴の代に、
豊臣秀吉による小田原征伐で
北条氏側に立った那須氏は
一旦改易されてしまいました。
後に同じく小田原征伐後に
100万石を没収され改易された
織田信雄が入城し(配流・蟄居処分とも)、
2カ月間城主を務めました。
その後は文禄4年(1591年)に
成田氏長が2万石で封じられますが、
1596年に死去し、
跡を弟の成田長忠(泰親)が継ぎました。
成田家の下で江戸時代の開始を迎え、
当城が烏山藩の政庁となりましたが、
元和2年(1617年)に
成田長忠が死んだのち、
数年ほどの間に後継を巡る
御家騒動が2度起こり、
数代続いた成田家は改易となりました。
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次に松下重綱が入りますが4年後に転封。
堀親良が入り、45年後の
次代堀親昌の時に転封。
代わって寛文12年(1672年)に
幕閣の重鎮であった板倉重矩が入封し、
城下町の改良を始めますが翌年に死去。
次代の板倉重種が
事業を継続しましたが、
9年後の延宝9年(1681年)に
転封しました。
代わって下野国那須藩から
入ったのが那須資弥です。
実に90年ぶりに
那須氏が城主に復帰したのでした。
最も出自はかつての那須氏の末裔ではなく、
徳川4代将軍徳川家綱の生母である
宝樹院の弟、すなわち将軍の
叔父にあたることから取り立てられ、
名族の那須家に養子に入れられたのでした。
6年後の貞享4年(1687年)、
養子の那須資徳の時、
お家騒動(「烏山騒動」)で改易されました。
あとに永井直敬が入りましたが
15年後に転封し、稲垣重富が入り、
再び15年後の次代の稲垣昭賢の時に転封、
と藩主家の交代が繰り返されました。
享保10年(1725年)、
大久保常春の入封後、
もう転封は起こらず、
大久保氏が代々城主を務めました。
明治2年(1869年)、
版籍奉還と共に廃城となりました。
明治5年(1872年)には、
積雪によって三ノ丸御殿が倒壊、
明治6年(1873年)には、
失火によって、古本丸、二ノ丸、
中城、北城の建物が焼失となりました。
【地理地形】
烏山城は、町の中心より
北西に位置する八高山(206m)と
と呼ばれている喜連川丘陵の
一支脈である独立丘陵頂部を
中心として築かれた、連郭式の山城です。
城域は、東西約370m、
南北約510m、面積約46haに
及ぶ広大なものでした。
立地は、東側は大きく蛇行を繰り返し
南流する那珂川、西側は江川、
南側は那珂川と江川、
荒川の3河川が合流する氾濫原、
北側は大小の谷が複雑にいりくむ
丘陵地帯と那珂川の蛇行によって
形成された狭地となっています。
周囲の地形も巧みに利用した
要害の地を選んで
築城したものと考えられています。
【縄張り】
五城三郭とよばれる主要部分からなり、
本丸、古本丸、中城、北城、西城
常盤曲輪、若狭曲輪、大野曲輪と
呼ばれる曲輪群が存在しています。
五城三郭本丸、古本丸と
市街地との比高は
約100mあるとのことです。
曲輪群の周囲には防御施設として
竪堀、横堀、堀切、土塁などが設けられ、
本丸周辺には石垣を築くなど
堅固な城砦を形成していました。
また、万治2年(1658年)時の
城主であった堀親昌により
城の東山麓に新たな居館(三の丸)が築かれ、
以後、城主の居住地はそちらに
移ったとのことです。
【遺構】
現在は、県立自然公園として、
石垣・土塁など、各遺構が
良好な形で現存しています。
また、搦手門である神長門が
移築され現存しています。
八雲神社北側から
毘沙門山・城山に至る遊歩道が
整備されているとのことで、
城跡を見学しながら
周辺を散策することが
できるとのことです。
所要時間は健脚な方で
約1時間程度、とのことです。
【交通アクセス】
JR東日本・烏山線「烏山」駅から約15分
(車5分))※城跡の麓まで
東北自動車道「矢板」ICから約50分
【登場作品】
「蛇姫様」(川口松太郎著1946年)-
これを原作とする映画「蛇姫様」
およびテレビ時代劇「新蛇姫様」の舞台となりました。
なお登場人物「蛇姫」は、
大久保忠胤の四女「於志賀の方」が
モデルであるとのことです。
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【蛇姫伝説】
姫とは、烏山藩主大久保氏の二代目、
大久保忠胤の四女であった
於志賀姫という人物です。
伝わるところによりますと、
その昔、烏山藩の家老が
焼き物を売って
お金儲けをしていることに
藩主が気づきますが、
藩主は病に伏し、
それを止めることが
出来ませんでした。
そうしたなか、
このことを知った
娘の於志賀姫が
嫁ぎ先の家から帰ってきましたが、
姫が邪魔な家老は
毒入りの食事を与えて
暗殺しようと企てます。
けれども姫に仕えていた
「おすが」という侍女がそれを助け、
それからというもの、
姫は何度も「おすが」によって
助けられたのでした。
ですが、これを邪魔に思った
「おすが」が命を奪われてしまいます。
すると不思議なことに、
その後は姫の身に危機が迫った時は
いつも黒い蛇が現れ
助けてくれるようになったのです。
それからというもの、この於志賀姫は
蛇姫様と呼ばれるように
なったということです。
<於志賀姫(蛇姫様)のお墓>
小説の蛇姫様では、
烏山藩初代藩主大久保常春の娘、
琴姫がモデルとなっており、
これを原作とした時代劇は、
家を乗っ取ろうとする
国家老一派をやっつける
痛快な作品になっているとのことです。
また、この話は
まんが日本昔ばなしの
姫と白蛇という話の題材にも
なっているとのことです。
まんが日本昔ばなしの方では、
登場するのは黒蛇ではなく白蛇で、
姫もまた命を奪われてしまったという
違った内容になっているとのことです。
【所在地】
〒321-0631 栃木県那須烏山市城山
那須神田城~那須氏最初期の居城であり、那須与一宗隆の生誕の地とされています。
太平寺(那須烏山市)~創建約1200年の天台宗の古刹で蛇姫様こと於志賀姫の墓があります。
龍門の滝~大蛇伝説に相応しい壮観な滝で、列車と大滝が一緒に撮影できる貴重なスポットです。
織田信雄~織田信長の次男、散々な目に遭うも長生きしその血筋は明治維新まで受け継がれました。
唐沢山城~藤原秀郷の築城と伝わる「関東一の山城」と称される関東七名城。
藤原秀郷公墳墓と藤原秀郷~関東武士の憧れであり平将門の乱を平定した人物です。
小山城~小山氏の始祖である小山政光が平安時代に築城、下野国最大の武士団を率いていました。
壬生城~壬生氏が築城し、江戸時代に鳥居氏が城主となり先祖の鳥居元忠公を祀りました。
多功城~宇都宮氏の一門である多功氏の居城で宇都宮城の南方防衛でした。
上三川城~多功城と共に宇都宮城の南方の防衛の支城で現在は城址公園です。
真岡城~宇都宮氏の家臣であった芳賀氏の居城、江戸時代には陣屋がありました。
益子古城と益子城~宇都宮氏の家臣である 益子氏の居城でした。
茂木城(桔梗城)~宇都宮一族の茂木氏の居城で現在は綺麗に整備されています。
小栗城~坂東平氏の流れをくむ常陸小栗氏が築城、室町期の関東地方の激動の渦にのまれていきました。
白旗城(本城山)~「白旗」の地名は源頼義の前九年の役の戦揃えが由来、築城者の大関氏について。
黒羽城~大関高増が戦国期に築城し、黒羽藩として明治まで存続、松尾芭蕉も城下に滞在しました。
大田原城~武蔵七党・丹党の一族である大田原氏が築城、326年間外様城主大名として存続。
早乙女坂古戦場~那須氏と宇都宮氏が争い那須氏が勝利した古戦場跡です。
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