鎌倉殿の13人

工藤佑経~復讐の連鎖の果てに~曽我兄弟の仇討の相手で後見人の伊東祐親に所領と妻を奪われてしまった人

実相寺(鎌倉)



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【工藤 祐経】

工藤 祐経(くどう すけつね)は、
平安時代末期から
鎌倉時代初期のにかけての武士・御家人です。
藤原南家の流れを汲む工藤滝口祐継の嫡男です。

【時代】
平安時代末期 – 鎌倉時代初期

【生誕】
久安3年(1147年)?(享年47より逆算)

【死没】
建久4年5月28日(1193年6月28日)

【改名】
金石(幼名)⇒祐経

【別名】
工藤一臈

【墓所】
静岡県富士宮市上井出

工藤佑経の墓

【官位】
左衛門尉

【幕府】
鎌倉幕府

【主君】
平重盛⇒源頼朝

【氏族】
藤原南家、工藤氏

【父】
工藤祐継

【兄弟】
祐経、宇佐美祐茂

【妻】
伊東祐親娘(万劫御前)、他

【子】
伊東祐時、安積祐長、祐長、伊東祐光

【後見人は伊東祐親】
幼少期に父である工藤祐継が早世すると、
父の遺言により義理の叔父である
伊東祐親が後見人となります。
元服ののち、工藤祐経は
伊東祐親の娘である万劫御前を娶り、
伊東祐親に伴われて上洛し
平重盛に仕えました。
歌舞音曲に通じており、
「工藤一臈」と呼ばれていました。

【伊東祐親が伊東荘と妻を奪う】
工藤祐経が在京している間に
伊東祐親は工藤祐経が継いだ
伊東荘を押領してしまい、
妻の万劫御前をまで奪って
土肥遠平に嫁がせてしまいます。
伊東祐親は祖父かつ養父の工藤祐隆が
嫡孫の自分を差し置いて、
養子である工藤祐継に
伊東荘を相続させたことに
不満を抱いていたためでした。
押領に気付いた工藤祐経は
都で訴訟を繰り返しますが、
伊東祐親の根回しにより失敗に終わります。

河津祐泰を射殺】
所領と妻をも奪われた工藤祐経は
伊東祐親を深く怨みます。
伊東祐親の殺害を図って
安元2年(1176年)10月、
郎党に命じ、
伊豆奥野の狩り場から帰る
道中の伊東祐親父子を襲撃させます。
そして伊東祐親は討ち漏らしましたが、
伊東祐親の嫡男である
河津祐泰を射殺したのでした。




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【遺児・曽我兄弟
跡には河津祐泰の妻と
子の一萬丸(曾我祐成)と
箱王(曾我時致)の兄弟が残されました。
妻は子を連れて
曾我祐信に再嫁し、
兄弟は後に曾我兄弟として
世に知られる事になるのでした。

治承4年(1180年)8月の源頼朝挙兵後、
平家方として源頼朝と敵対した
伊東祐親は、10月の富士川の戦い後に
源頼朝方に捕らえられて自害しましたが、
鐙摺山で処刑されたとも伝わっています。
工藤祐経の弟とされる宇佐美祐茂が
源頼朝の挙兵当初から従い、
富士川の戦いの戦功で
本領を安堵されております。
工藤祐経は京から鎌倉へ下って
源頼朝に臣従し、
宇佐美祐茂を通して
伊東父子亡き後の伊東荘を
取り戻したと考えられています。
工藤祐経の子である伊東祐時は
伊東を名乗り、伊東氏を継承します。
工藤祐時の子孫は日向国へ下向して
戦国大名となった日向伊東氏であり、
飫肥藩藩主となるのでした。

【源頼朝の寵臣として】
「吾妻鏡」における
工藤祐経初見の記事は、
元暦元年(1184年)4月の
一ノ谷の戦いで捕虜となり、
鎌倉へ護送された平重衡を
慰める宴席に呼ばれ、
鼓を打って今様を歌った記録です。
工藤祐経は平重盛の家人であった時に、
いつも平重衡を見ていた事から
平重衡に同情を寄せていたということです。
同年6月に一条忠頼の謀殺に加わりますが、
顔色を変えて役目を果たせず、
戦闘にも加わってはいないとのことです。

同年8月、
源範頼率いる平家討伐軍に加わり、
山陽道を遠征し豊後国へ渡ります。

文治2年(1186年)4月、
静御前が鶴岡八幡宮で
舞を舞った際に鼓を打っています。
建久元年(1190年)に
源頼朝が上洛した際、
右近衛大将拝賀の
布衣侍7人の内に選ばれて
参院の供奉をしました。

【勅使に馬を渡す名誉な役】
建久3年(1192年)7月、
源頼朝の征夷大将軍就任の
辞令をもたらした勅使に
引き出物の馬を渡す名誉な役を担いました。
工藤祐経は武功を立てた記録はなく、
都に仕えた経験と能力によって
源頼朝に重用されたのでした。

工藤佑経と加地信実のトラブル】
建久元年(1190年)7月、
大倉御所で双六の会が催され、
遅れてやって来た工藤祐経が、
座る場所がなかったので
先に伺候していた15歳の
加地信実を抱え上げて傍らに座らせ、
その跡に座ったとのことです。
加地信実は激怒して座を立つと、
石礫を持ってきて
工藤祐経の額にたたきつけ、
工藤祐経は額を割って流血となりました。
源頼朝は怒り、加地信実の父である
佐々木盛綱に逐電した
息子の身柄を引き渡して
工藤祐経に謝罪するよう求めます。
それに対して佐々木盛綱は
既に加地信実を義絶したとして謝罪を拒否。
工藤祐経は源頼朝の仲裁に対し、
加地信実に道理があったとして
佐々木親子に怨みを持たないと
述べていたとのことです。
工藤祐経の加地信実に対する振る舞いには、
源頼朝の寵臣として
奢りがあった事を伺わせているとのことです。




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【曾我兄弟の仇討ち】
建久4年(1193年)5月、
源頼朝は富士の裾野で
大規模な巻狩りを行い、
工藤祐経も参加します。
巻狩りの最終日の5月28日深夜、
遊女らと共に宿舎で休んでいた所を、
曾我祐成・時致兄弟が押し入り、
工藤祐経は兄弟の父である
河津祐泰の仇として討たれました。
工藤祐経が仲介して
御家人となっていた
備前国吉備津神社
神官の王藤内も一緒に討たれています。
騒動の後、詮議を行った源頼朝は
曾我時致の助命を考えましたが、
工藤祐経の子の
犬房丸(のちの伊東祐時・日向伊東氏の祖。)
が泣いて訴えたため、
曾我時致の身柄は引き渡され、梟首されました。

・・・全ての元凶は工藤祐隆ですな・・。
ダメじーちゃんですね。

【実相寺(じっそうじ)】
鎌倉時代の武将工藤祐経の屋敷跡といわれています。
13世紀末、工藤祐経の娘の子で、
日蓮の直弟子である日昭(にっしょう)が
その屋敷跡に法華堂を建てたのが
はじまりとなります。
弘安7年(1284年)に法華寺となり、
のちに伊豆玉沢(三島市)に移りました。

実相寺(鎌倉) 本堂

そして元和7年(1621年)に
日潤によって再建されたのが
現在の実相寺だと伝えられています。
明治の初めに火事になり、
現在の本堂はその後に再建されたものです。
本堂右手奥の墓地には
日昭上人墓が遺されています。

実相寺法華堂跡 工藤佑経邸跡

【所在地】
〒248-0013 神奈川県鎌倉市材木座4丁目3−13

【交通アクセス】
JR「鎌倉」駅東口6番バス乗り場から
九品寺循環で「五所神社」下車徒歩3分

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
坪倉 由幸(つぼくら よしゆき)さんが演じられます。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

伊東佑親~源頼朝の配流地の監視役で八重姫の父であり、北条義時・曽我兄弟・三浦義村の祖父。

河津三郎祐泰と血塚・伊東祐親の嫡男で曽我兄弟の父親であり曽我兄弟の仇討はここから始まりました。

城前寺~曽我兄弟の菩提寺、曽我兄弟のお墓と養父・曽我祐信と母・満江御前の墓があります。

満江(万劫)御前~曽我兄弟を含めて5人の子供のお母さんで狩野茂光の孫娘です。屋敷跡やお墓があります。

伊東佑清~八重姫の兄で曽我兄弟の叔父、親交のあった源頼朝を父から助けるが平家方につく。

曽我兄弟の縁の地・富士宮市~井出の代官屋敷・曽我八幡宮・曽我兄弟の供養塔・曽我の隠れ岩・音止の滝 

曽我兄弟の縁の場所(富士市)~化粧坂少将(姫宮神社)・曽我寺・曽我八幡宮・五郎の首洗い井戸

虎御前~曽我兄弟の兄・曽我十郎祐成の愛妾、山下長者屋敷(住吉要害)で生まれ育ったとされています。

大見城跡(伊豆)~鎌倉御家人の大見氏はやがて越後に行き、水原氏から杉原氏となる。

宇佐美氏について~祖は工藤佑経の弟の宇佐美祐茂~宇佐美城と宇佐美一族の墓に行ってきました。

葛見神社~神の手のような巨大なクスノキが鎮座する伊東家守護の古社で樹齢は全国第2位!

御所五郎丸~曽我兄弟の仇討事件で源頼朝の危機を救ったとされている人物です。

静御前~源義経の愛妾、儚い幸せとその後の寂寞たる足跡は今に語り継がれています。

常栄寺(鎌倉)通称は牡丹餅寺、むかし源頼朝が「千羽鶴の放生会」を展望するための桟敷がありました。

安濃城~中世末期として県内最大級の丘陵城郭、築城は長野一族の細野氏、出自は工藤祐経の三男。

岡部元信~今川家の忠臣で歴戦の武将、後に甲斐武田家に仕え、徳川家康の前に立ちはだかり高天神城で散る。

白糸ノ滝(静岡県富士宮市)~世界文化遺産、源頼朝が和歌を詠み「信長公記」にも名所と記されています

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