鎌倉殿の13人

宇佐美氏について~祖は工藤佑経の弟の宇佐美祐茂~宇佐美城と宇佐美一族の墓に行ってきました。

宇佐美の海



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宇佐美氏

宇佐美氏(うさみし、うさみうじ)は、
藤原南家の流れをくむ
工藤氏の一族である伊東氏から派生した、
伊豆国宇佐美庄を本貫とする氏族です。
宇佐見氏ともあらわします。

工藤氏の6代目であり
伊東氏の祖でもある
工藤祐隆の本領地である、
伊東庄・宇佐美庄を受け継いだ
工藤祐継の子であり、
工藤祐経の弟でもある祐茂(すけもち)が、
宇佐美庄を受け継いで、
宇佐美祐茂(宇佐美三郎)
と称するようになったところから
始まるとされています。

その後、鎌倉幕府滅亡時の宇佐美家の当主は
宇佐美貞佑となっています。

伊豆を本拠としていた宇佐美氏は
南北朝期のはじめに
越後守護に任ぜられた上杉憲顕に従って
越後に入部します。
その後も宇佐美氏の越後への入部は続きますが、
この一族がやがては
越後国琵琶島城主となった宇佐美氏で、
宇佐美定満が有名です。

なお、戦国時代初期の1493年、
伊勢盛時(北条早雲)が
堀越公方であった足利茶々丸を攻撃した際に
能登守の宇佐美貞興が堀越御所で討死しています。

伝堀越御所跡 芝生広場

【宇佐美祐茂】
宇佐美祐茂(うさみ すけもち)とは、
伊豆国宇佐美荘を拠点とし、
平安時代後期から
鎌倉時代初期にかけての武士であり、
宇佐美氏の祖。
宇佐美助茂、宇佐美三郎とも称します。

藤原南家の流れをくむ
工藤氏の6代目であり
伊東氏の祖でもある
開発領主の工藤祐隆(伊東家次)の本領地である、
伊東庄・宇佐美庄を受け継いだ工藤祐継の子です。
「曽我物語」(曾我兄弟の仇討ち)で
敵役となった工藤祐経の弟でもあります。
父から宇佐美荘を継承し、
宇佐美氏を名乗るようになりました。

治承4年(1180年)の
源頼朝の挙兵から随行し、
奥州攻めや京都入りにも参加しました。
子供とされている宇佐美平太実政とともに
数々の戦功を挙げ、
源頼朝の25功臣のひとりに数えられてます。
その子孫は「吾妻鑑」の記述に多く見られ、
「梅松論」や「太平記』」も登場するなど、
かなり有力な在地武士
であったことが知られています。




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【宇佐美城】

丘城(20m/20m))
【遺構】
土塁・郭・堀

築城年代は定かではありませすが、
平安時代末期頃に
宇佐美三郎左衛門尉祐茂によって
築かれたと云われております。
宇佐美祐茂は伊東祐継の三男で、
宇佐美に住んで宇佐美氏を称しました。

宇佐美城址

宇佐美城は
烏川の河口の北岸にある
通称「留田の城山」と呼ばれる
比高20m程の丘陵に築かれていました。

宇佐美城山公園の案内

山上は広く東西80m、
南北60m程の平地が拡がっておりますが、
大きく改変されており、公園となっており、
現在は土塁の残欠と
空堀の一部が残るのみとなっています。
山上に上がる通路の入口にある
駐車場には「宇佐美祐茂塁趾」の石碑が建っています。
なお、この駐車場は、
海水浴場やキャンプ場の駐車場にもなります。

宇佐美祐茂塁趾の石碑

【宇佐美一族の墓】

【所在地】
〒414-0001 静岡県伊東市宇佐美1290
この場所は東光寺というお寺がありました。
現在形なのか、廃寺なのかは不明ですが、
検索すると出てきます。

手前にある坂道で猫ちゃんが出迎えてくれました。
宇佐美一族の墓 出迎えにゃんこ

ごろん♪
宇佐美一族の墓 でむかえ猫 ごろん

【東光寺】
一説によりますと、
東光寺の創建は室町時代の長享3年(1489年)、
伊豆守護職となった
宇佐美祐孝が建立したとのことです。
のちに伊勢盛時に攻められ、
堀越御所で戦死した子の能登守の宇佐美貞興の
菩提を弔ったとのことです。
また、東光寺には宇佐美氏の祖である
宇佐美祐茂夫妻の墓があったとのことです。

現在ある宇佐美一族の墓は、
津波で散逸した宇佐美一族の墓石を
回収して祀ったとされています。
伊豆は、江戸時代だけでも
4回程度、津波に襲われており、
関東大震災の時でも、
宇佐美は約7mの津波被害となりました。
なお、熱海は12mです。

伊豆を観光していた時に、
大きな地震を感じたら、駅るだけ高い処へ
すぐに避難した方が良いでしょう。
過去にも何度も津波があり、その被害の様子を
墓石は教えてくれます。

宇佐美一族の墓

【宇佐美定満】

宇佐美 定満(うさみさだみつ)は、
戦国時代の人物です。
越後国(現在の新潟県)において
琵琶島城(新潟県柏崎市)に
勢力を持っていたとされる武将です。
軍記物語では上杉謙信の軍師という
扱いを受けていますが、
確実な史料からはその事実は
確認されてはいないとのことです。

軍記物等で上杉謙信の軍師として
登場する宇佐美定行のモデルとされています。
伊豆国宇佐美荘を発祥とし
(現在の静岡県伊東市宇佐美)、
越後守護上杉家の重臣を務めた宇佐美氏の出身です。




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宇佐美定満は長尾為景
守護上杉家一門上条定憲との抗争
(越後享禄・天文の乱)
において上杉定憲側の武将として登場します。
当初、長尾為景側であった宇佐美定満は離反した後、
天文4年(1535年)5月、
上田衆・妻有衆・藪神衆・大熊氏らと共に
上杉定憲側に集結したのでした。
宇佐美及び柿崎勢は
天文5年(1536年)4月10日の
三分一原の戦いで長尾為景勢に敗北しましたが、
この戦いの後に長尾為景は隠居しています。

天文17年(1548年)に
長尾景虎(上杉謙信)が家督を継ぐと
宇佐美定満はこれに従います。
そして長尾景虎と対立した
上田長尾家の当主である
長尾政景に備えて要害に入ります。

春日山城址

一時長尾景虎より離反しますが、後に復帰します。
その後、長尾景虎と長尾政景の抗争が
終結すると宇佐美定満の名は
確実な史料上から消えます。
宇佐美家は没落したと見られていますが、
宇佐美家そのものが断絶したわけでは無く、
永禄10年(1567年)8月、
武田信玄の信州侵攻への
防備強化に携わった者の中に
「宇佐美平八郎」の名が見えているとのことです。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

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河津三郎祐泰と血塚・伊東祐親の嫡男で曽我兄弟の父親であり曽我兄弟の仇討はここから始まりました。

城前寺~曽我兄弟の菩提寺、曽我兄弟のお墓と養父・曽我祐信と母・満江御前の墓があります。

伊東佑清~八重姫の兄で曽我兄弟の叔父、親交のあった源頼朝を父から助けるが平家方につく。

大見城跡(伊豆)~鎌倉御家人の大見氏はやがて越後に行き、水原氏から杉原氏となる。

工藤(狩野)茂光~伊豆半島最大の勢力を築いた狩野氏~末裔に絵師集団「狩野派」がいます。

つつじ(辻殿)~源頼家の正室で「吾妻鏡」では公暁の生母、父は足助重長、祖父は源氏の勇者と名高い源為朝です。

満江(万劫)御前~曽我兄弟を含めて5人の子供のお母さんで狩野茂光の孫娘です。屋敷跡やお墓があります。

相良城跡~相良氏館⇒相良古城⇒相良御殿⇒相良陣屋⇒老中・田沼意次の近世相良城。

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