【明智藪】
明智藪(あけちやぶ)とは、
山崎の戦いで敗れた明智光秀が絶命したとされる場所のことです。
【所在地】
〒601-1455 京都府京都市伏見区小栗栖小阪町 寺領 本教寺
【明智光秀の最期】
明智光秀は、
1万人もの兵士を収容するには、
規模が小さすぎるということで、
逃げ込んでいた勝龍寺城を密かに脱出して
居城である坂本城を目指しました。
その落ち延びる途中、
小栗栖の藪
(京都市伏見区、現在の「明智藪」)で
土民の落ち武者狩りに遭い、
そこで竹槍に刺されて絶命したとも、
何とか逃れたものの力尽きて
家臣の介錯により自刃したとも伝えられています。
<勝竜寺城>
また、明智藪の一段高い処には
日蓮宗のお寺である「本経寺」があります。
【本経寺】
本経寺(ほんきょうじ)は、
京都府京都市伏見区にある、日蓮本宗の寺院です。
山号は久遠山。
近年、明智光秀が殺害された
竹薮の土留擁壁が整備されました。
また、境内には明智光秀供養碑があります。
【創建年】
永正3年(1506年)
【所在地】
京都市伏見区小栗栖小阪町5
【交通アクセス】
地下鉄醍醐駅より徒歩15分
京阪バス 小栗栖停留所より徒歩5分
※お寺の駐車場あります。
<場所>
青印は駐車場辺りです。
【光秀の最期にまつわる異説】
最も、別の説では、
決して農民や野盗などの落ち武者狩りなどではなく、
密かに先回りして潜んでいた
兵士らに襲われたのでないか?とも
唱えられています。
小栗栖の藪が、地形的に複雑であり、
現地を知った者でないと迷う事、
また悪天候で、足場が悪く、
にわかな兵力での襲撃が困難であること、などからです。
また、影武者説もあり、
実は、明智光秀本人は
そのまま落ちのびていったなどとあります。
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【小栗栖城】
明智光秀の終焉の地とされている
小栗栖の藪の近くにあります。
この地は土豪である
飯田氏の居城がありました。
また地元での武装集団の頭であったともいわれています。
築城は鎌倉時代末期の
飯田源五郎家秀と伝わります。
飯田氏はもともとは
相模国の飯田郷を領した
飯田家義の子孫との事です。
1333年、足利尊氏の上洛し、
小栗栖に砦を築き、
そのまま土着したものと考えられています。
戦国時代末期は
織田信長についていたともされています。
明智光秀を襲ったのは、
この飯田一族ではないかとも
唱えられているとの事です。
この小栗栖城があったとされている
城跡伝承地には、
現在「小栗栖八幡宮」があります。
【所在地】
〒601-1461 京都府京都市伏見区小栗栖宮山
※道は狭く、駐車場はありません。
<場所>
【本当に飯田一族が討ったのか?】
けれども、もし本当にこの
小栗栖城の飯田一族が討ったのであれば、
もっと、その名が後世まで
知れ渡っても良かった気がします。
しかしながら、そうではありません。
また、明智光秀を討ったとなれば、
それなりの報償が手に入るはずですが、
その云い伝えは、現在のところは未確認のままです。
【小栗栖八幡宮】
きちんと手入れがされております。
地元では大切に守られてきた感があります。
この小栗栖八幡宮の歴史は古く、
平安時代までさかのぼります。
【創建】
貞観4年(864年)
武内宿禰の末裔である紀古道が
男山の石清水八幡宮より勧請しました。
【ご祭神】
応神天皇・仲哀天皇・神功皇后
【神主】
初代神主は紀氏一族であり、
それ以降も別当は代々紀一族であったようです。
ですが、1333年に、
足利尊氏と共にこの地にやってきた
飯田一族が城砦を構え、
いつしか神主となった模様です。
境内の看板にはその旨の案内がありました。
【本能寺で晒される】
明智光秀の首は翌日には羽柴軍に届き、
京都の本能寺の焼け跡に、
次いで粟田口で晒されたとのことです。
【山崎合戦の後】
翌日に勝龍寺城に入り
体勢を整えた羽柴秀吉は
堀秀政を近江への交通路遮断と
明智光秀捜索に派遣し、
堀隊は14日に明智光秀の後詰のために
急遽出兵した明智秀満の軍を
打出の浜で迎え撃ち撃破しました。
【明智秀満の自刃】
300余の兵を討ち取られ敗走した明智秀満は
坂本城で相手方に家宝を贈呈した後、
明智光秀の妻子を殺害し、
溝尾茂朝、明智光忠と共に自刃したとのことです。
けれども、異説も存在しています。
【明智氏の滅亡・・・】
中川・高山両隊は丹波亀山城に向かい、
明智光秀の息子である
明智光慶を自刃させ城を占拠します。
ここに明智氏は僧籍にいた者などを除いて
滅んだとされています。
なお、異説も存在します。
京に入った羽柴軍はさらに16日に長浜城の
妻木範賢、佐和山城の荒木行重、
山本山城の阿閉貞征・貞大父子、
山崎片家らの逃亡または
降伏によって近江を平定しました。
17日には斎藤利三が潜伏先の堅田で
生け捕りにされ、
六条河原で斬首あるいは
磔刑に処されたとのことでした。
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【秀吉、天下人への道】
羽柴秀吉は、この山崎の合戦に勝利した結果、
清洲会議を経て織田信長の後継者としての地位を固め、
天下人への道を歩み始めたのでした。
【若狭武田氏の滅亡】
清洲会議後の7月19日には、
最後に残った明智光秀方の将である
武田元明が丹羽長秀に攻められ自刃、
京極高次は妹または姉の竜子(松の丸殿)を
羽柴秀吉に差し出して降伏したのでした。
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