【江戸城】
江戸城(えどじょう)は、
武蔵国豊嶋郡江戸
(現在の東京都千代田区千代田)
にあった日本の城です。
現在は皇居となっています。
江城(こうじょう)および
千代田城(ちよだじょう)が
別名としてありますが、
江戸時代に広く一般に
用いられたのは「江城」であったということです。
【別名】
千代田城
【城郭構造】
輪郭式平城または平山城
【天守構造】
●1606年新築天守(解体、非現存)
連立式層塔型5重5階地下1階
●1621年再築天守(解体、非現存)
独立式層塔型5重5階地下1階
●1635年再築天守(焼失、非現存)
独立式層塔型5重5階地下1階
【築城主】
太田道灌
【築城年】
長禄元年(1457年)
【主な城主】
太田氏
(1457年-1486年、1561年-1577年)
扇谷上杉氏
(1486年-1524年)
小田原北条氏
(1524年-1561年、1577年-1590年)
徳川氏
(1590年-1868年)
【遺構】
現存櫓・門、石垣・土塁・堀
【指定文化財】
国の重要文化財
(桜田門、田安門、清水門)
特別史跡
【再建造物】
富士見櫓、伏見櫓・多聞櫓
桜田巽櫓、大手門
【江戸城について】
江戸城は1457年に
麹町台地の東端に、
扇谷上杉家の家臣である
太田道灌が築いた平山城です。
1590年に徳川家康が
江戸城に入城した後は
徳川家の居城となり、
江戸幕府が開幕すると、
大規模な拡張工事が行われました。
特に慶長期のおよそ10年の間に
集中的に行われ、
またその後も2度ほど拡張工事が行われました。
その結果、総構周囲約4里と、
日本最大の面積の城郭になったのでした。
およそ260年にわたり、
幕府の政庁、15代におよぶ
徳川将軍およびその家臣団が
政務を行う場所となりました。
将軍は江戸城内に住み、
将軍の家族女性らが住む
大奥も設けられました。
将軍の補佐役の老中や
その下の若年寄などは
月番制つまり月替わり制で
それぞれ数名が担当し、
江戸城周辺の屋敷から
日々登城(出勤)しました。
江戸城に出勤する
役方と呼ばれる人々は
老中や若年寄以外にも
目付・奉行・小姓等々もいました。
また江戸城には番方と呼ばれる
警護・警備の仕事をする人々も必要で、
一日を3分割して3交代制で勤務していました。
【江戸城から東京城、皇居へ】
江戸時代末の慶応4年(1868年) 3月、
新政府の東征軍が迫る中、
幕臣の勝海舟と
東征軍参謀西郷隆盛の会談により
江戸城への総攻撃が
中止されたといわれています。
江戸城開城により
徳川家は江戸城から退出し、
代わりに東征軍大総督有栖川宮熾仁親王が入城して、
鎮守府を置きました。
京から明治天皇が江戸に行幸した折の
居所「皇居」となり、
短期間ですが東京城と改名され、
その後は皇居、宮城(きゅうじょう)
として使われています。
以後は吹上庭園が御所、
旧江戸城西ノ丸が
宮殿の敷地となっています。
その東側にある江戸城の中心部であった
天守閣・本丸・二ノ丸・三ノ丸の跡一帯は
皇居東御苑として開放されています。
南東側の皇居外苑と
北側の北の丸公園は常時開放され、
それらの外側は一般に利用できる土地になっています。
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【皇居東御苑公開期間】
<3月1日~4月14日・
9月1日~9月末日 >
午前9時~午後5時
(入園は午後4時30分まで)
<4月15日~8月末日>
午前9時~午後6時まで
(入園は午後5時30分まで)
<10月1日~10月末日>
午前9時~午後4時30分まで
(入園は午後4時まで)
<11月1日~2月末日>
午前9時~午後4時まで
(入園は午後3時30分まで)
皇居東御苑は,次に掲げる日は公開していません
<1>
月曜日・金曜日
ただし、天皇誕生日以外の
「国民の祝日等の休日」は公開します。
なお、月曜日が休日で公開する場合には、
火曜日を休園します。
<2>
12月28日から翌年1月3日まで
<3>
行事の実施,その他やむを得ない理由のため支障のある日
入園は無料です。
出入りは,大手門・平川門(平河門)・北桔橋門です。
<日本100名城スタンプ設置場所>
◆楠公休憩場
◆和田倉休憩場
◆北の丸休憩場
国の特別史跡に
指定されています。
【江戸城の歴史】
【江戸氏】
江戸(東京)の地に最初に
根拠地を置いた武家は江戸重継です。
平安時代末期から
鎌倉時代初期にかけての
江戸氏の居館が、
後の本丸・二ノ丸辺りの
台地上に置かれていたとされています。
ただし、江戸城のあった地域は
古代には荏原郡桜田の一部で、
豊島郡江戸とは
別の地域であったため、
江戸に根拠を置いていた
江戸氏の居館が今の江戸城に
存在することはあり得ないとして、
江戸氏の居館は当時の江戸の中心であった
平川(日本橋川の前身)の流域にあったと見る
専門家もいます。
ちなみに江戸氏の館があった
所在地を現在の水道橋付近に推定しています。
【太田道灌による築城】
15世紀の関東の騒乱で
江戸氏が没落したのち、
扇谷上杉家の上杉持朝の家臣である
太田道灌が、享徳の乱に際して
康正3年(1457年)に江戸城を築城しました。
江戸幕府の公文書である
「徳川実紀」では
これが江戸城のはじめとされています。
太田道灌当時の江戸城については、
正宗龍統の「江戸城静勝軒詩序并江亭記等写」や
万里集九の「梅花無尽蔵」によって
ある程度までは推測できるとのことです。
それによりますと、「子城」「中城」「外城」
の三重構造となっており、
周囲を切岸や水堀が巡らせて
門や橋で結んでいたとされています。
なお「子城」は本丸の漢語表現とされています。
「江戸城静勝軒詩序并江亭記等写」では、
太田道灌は本丸に静勝軒と呼ばれる
居宅を設け、背後に閣を築いたということです。
「梅花無尽蔵」は江戸城の北側に
菅原道真が祀られて
梅林があったことが記されています。
これは今の梅林坂に当たるとのことです。
社は江戸時代に城外の平河門外、
次いで麹町に移されて
平河天満宮となりました。
【江戸城の乱・太田道灌殺害】
太田道灌が上杉定正に殺害された後、
江戸城は上杉氏の所有するところとなり、
上杉朝良が隠居城として用いました。
【北条氏康の支配下】
ついで大永4年(1524年)、
扇谷上杉氏を破った小田原北条氏の
北条氏綱の支配下に入ります。
江戸城の南には品川湊があり、
更にその南には六浦(金沢)を経て
鎌倉に至る水陸交通路が
あったとされていることから、
関東内陸部から
古利根川・元荒川・隅田川
(当時は入間川の下流)を経て
品川・鎌倉(更に外洋)に
向かうための交通路の
掌握のために重要な役割を
果たしていたと考えられています。
【徳川家康入城へ】
天正18年(1590年)、
豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)の際に開城。
豊臣秀吉によって小田原北条氏旧領の
関八州を与えられた徳川家康が、
同年8月朔日(1590年8月30日)、
駿府(静岡)から江戸に入りました。
そのため旧暦の8月1日(八朔)は、
江戸時代を通じて祝われることになりました。
なお、徳川家康の家臣である
松平家忠の日記(「家忠日記」)では、
実際の入城日は7月18日
であったということです。
【荒れ果てた?小規模の江戸城】
一般に言われる話では、
そこには、太田道灌による築城から
時を経て荒れ果てた江戸城があり、
茅葺の家が100軒ばかり
大手門の北寄りにあった、とされています。
城の東には低地があり
街区の町割をしたならば10町足らず、
しかも海水がさしこむ茅原でした。
西南の台地はススキ等の野原が
どこまでも続き武蔵野につらなっていたとのこと。
城の南は日比谷の入り江で、
沖合に点々と砂州があらわれていたということです。
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【徳川家康入城時の実際の江戸城界隈】
と上記のように従来、
徳川家康入部前の江戸が
寂れていて寒村のようで
あったとされてきましたが、
実際には荒川や入間川などの
関東平野一帯の河川物流と
東京湾の湾内物流の結節点として
ある程度は栄えていたとされています。
最も、なんらかの戦略的及び
経済的な価値がなければ、
徳川氏もそこを本拠に
選ばなかったはずなのです。
また、小田原攻め中に豊臣秀吉が
江戸城に自らの御座所を設ける
構想を示したとする文書(「富岡文書」)
の存在を指摘し、
豊臣秀吉が関東・奥羽統治の拠点として
江戸城を高く評価していたと指摘をする
専門家もいます。
【江戸時代】
【天下普請前】
江戸幕府を開いた
徳川将軍家の祖である
徳川家康が入城した当初、
江戸城は道灌の築城した
小規模な城でありかつ築城から
時を経ており荒廃が進んでいたため、
それまでの本丸・二ノ丸に加え、
西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築、
また道三堀や平川を
江戸前島中央部(外濠川)へ移設しました。
それに伴う残土により、
現在の西の丸下の半分以上の
埋め立てを行い、
同時に街造りも行っています。
ただし、当初は豊臣政権の大名としての
徳川家本拠としての改築であり、
関ヶ原の戦いによる
徳川家康の政権掌握以前と
以後ではその意味合いは
異なっていたと考えられています。
【慶長期天下普請】
慶長8年(1603年)徳川家康が
江戸開府して以降は
天下普請による江戸城の拡張に着手します。
神田山を崩して
日比谷入江を完全に埋め立て、
また外濠川の工事を行っています。
慶長11年(1606年)、
また諸大名から石材を運送させ、増築。
その工事分担は、以下の通りです。
<外郭石壁普請>
細川忠興、前田利常、池田輝政、
加藤清正、福島正則、浅野幸長、
黒田長政、田中吉政、鍋島勝茂、
堀尾吉晴、山内忠義、毛利秀就、
有馬豊氏、生駒一正、寺沢広高、
蜂須賀至鎮、藤堂高虎、京極高知、
中村一忠、加藤嘉明
<天守台の築造>
黒田長政
<本丸の普請>
吉川広正、毛利秀就
<城廻の普請>
遠藤慶隆
翌年の慶長12年(1607年)には
関東、奥羽、信越の諸大名に命じて
天守台および石塁などを修築し、
このときは藤堂高虎はまた設計を行い、
関東諸大名は5手に分れて、
80万石で石を寄せ、
20万石で天守の石垣を築き、
奥羽、信越の伊達政宗、上杉景勝、
蒲生秀行、佐竹義宣、堀秀治、
溝口秀勝、村上義明などは
堀普請を行いました。
この年に慶長度天守が完成しました。
慶長16年(1611年)、
西ノ丸石垣工事を東国大名に課役し、
将軍徳川秀忠はしばしばこれを巡視しました。
慶長19年(1614年)、
石壁の修築を行い、
夏から冬にかけて工事を進めました。
10月2日(11月3日)には、
徳川家康は大坂の陣の陣触れを出し
江戸留守居役を除く諸大名は、
この地からの参加を余儀なくされ
諸大名は著しく疲弊しました。
このため翌年の大坂夏の陣終結後、
徳川家康は3年間天下普請を
止めるように指示をしました。
<元和期天下普請>
元和4年(1618年)に
紅葉山東照宮を造営し、
また神田川の開削を行いました。
元和6年(1620年)、
東国大名に内桜田門から
清水門までの石垣と
各枡形の修築を行わせました。
元和8年(1622年)には
本丸拡張工事を行ない、
それに併せて天守台・御殿を修築し
同年には元和度天守が完成しました。
また寛永元年(1624年)、
隠居所として西ノ丸殿舎の改造が行なわれました。
<寛永期天下普請>
寛永5年(1628年)から
翌年にかけて本丸・西丸工事と
西ノ丸下・外濠・旧平河の石垣工事、
また各所の城門工事が行われました。
寛永12年(1635年)、
二ノ丸拡張工事が行われました。
寛永13年(1636年)には
石垣担当6組62大名、
濠担当7組58大名の
合計120家による飯田橋から四谷、
赤坂を経て溜池までを掘り抜き、
石垣・城門を築く
外郭の修築工事が行なわれました。
寛永14年(1637年)には
天守台・御殿を修築し、
翌年には寛永度天守が完成する。
最後に万治3年(1660年)より
神田川御茶ノ水の拡幅工事が行われ、
一連の天下普請は終了しました。
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【伊豆石】
徳川江戸城の築城においては、
町づくりを含め、
伊豆の石材(伊豆石)は
欠かせないものでした。
壮大な石垣用の石材は、
ほとんどすべてを相模西部から
伊豆半島沿岸の火山地帯で調達し、
海上を船舶輸送して
築いたものです。
【江戸城の規模】
本丸・二ノ丸・三ノ丸に加え、
西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸の
周囲16kmにおよぶ区画を本城とし、
現在の千代田区と港区・新宿区の境に
一部が残る外堀と、
駿河台を掘削して造った
神田川とを総構えとする
大城郭に発展しました。
その地積は本丸は10万5000余町歩、
西ノ丸は8万1000町歩、
吹上御苑は10万3000余町歩、
内濠の周囲は40町、
外濠の周囲は73町となり、
城上に20基の櫓、5重の天守を設けました。
以後、200年以上にわたり
江戸城は江戸幕府の中枢として機能しました。
【火災・天災と江戸城】
明暦3年(1657年)、
明暦の大火により
天守を含めた城構の多くを焼失しました。
町の復興を優先し、
また経済的な理由から
天守は再建されませんでした。
安政2年(1855年)、
安政大地震により石垣、櫓、門など
多大な被害を受けました。
【近現代】
【明治時代】
明治元年(1868年)4月4日、
江戸城は明治新政府軍に明け渡され、
10月13日に
東京城(とうけいじょう)に改名されたました。
明治2年(1869年)、
東京奠都。皇城と称されました。
明治6年(1873年)、
皇居として使用していた
西ノ丸御殿が焼失。
正院は焼失文書の一部復旧を命じました。
明治21年(1888年)、
明治宮殿の完成によって
宮城(きゅうじょう)と称されました。
対象12年(1923年)9月1日
関東大震災で残っていた建造物は
大きな被害を受け、
和田倉門(櫓門)は
復旧されませんでした。
他の被害を受けた門は、
上の櫓部分を解体して
改修されました。
昭和20年(1945年)
空襲で大手門が焼失。
昭和23年(1948年)
皇居と改称されました。
昭和42年(1967年)
空襲で焼失した大手門が木造で復元されました。
2006年(平成18年)4月6日、
日本100名城(21番)に選定されました。
【縄張】
本丸と西ノ丸が独立している、
一城別郭の形式です。
武蔵野台地の東端にある
地形を活用しており、
特に山の手側は
谷戸を基に濠を穿ったので
曲面の多い構造をしています。
逆に下町は埋立地なので、
直線的に区画された水路や
街並みを見ることができます。
石垣を多く見ることができますが、
これらは天下普請の時に
はるばる伊豆半島から
切り出され船で送られたものです。
この石船を運ぶ際、
暴風雨によって数百隻の船が
沈んだとされています。
それまでは他の関東の城と同じく
土塁のみの城でした。
関東で石垣を多用した
近世城郭は江戸城と小田原城しかありません。
それでも外郭や西ノ丸、
吹上などは土塁が
用いられていますが、
特に吹上の土塁は雄大です。
【内郭】
【本丸】
本丸御殿を擁する江戸城、
並びに徳川家、江戸幕府の中心です。
関東入国後に3つあった曲輪の間にあった
空堀を埋めて拡張しました。
その後、本丸御殿の拡張のために、
元和の改修時に北に
2段あった出丸の1つを、
明暦の大火後に残るもう1つの出丸と
二ノ丸の間にあった東照宮を廃して
規模を更に拡張しています。
寛永期に残存していた出丸は
的場曲輪として、
弓・鉄砲の調練が行なわれていました。
(「江戸図屏風」)
二ノ丸との間にある白鳥濠は嘗ては
両者を大きく隔てていましたが、
拡張に伴いその面積を大きく縮小させています。
【二ノ丸】
入国時は屋敷地で本丸の帯曲輪の様な存在でした。
慶長期に中之門が置かれ、
また寛永期には拡張されて
二ノ丸御殿が造られました。
内部は石垣で複数の区画がされており、
下乗門から本丸へ向かうには中之門を、
二ノ丸御殿へ向かうには銅門を、
西ノ丸方面には寺沢門を通る
必要がありました。
大正時代に二ノ丸と
三ノ丸の間にあった堀が
埋め立てられています。
【三ノ丸】
入国時は外郭とされ、
日比谷入江と接していました。
平川を濠に見立てて、
堤防を兼ねた土塁には
舟入用にいくつか
木戸が設けられていました。
以後は屋敷地とされてましたが、
二ノ丸拡張の煽りを受けて
敷地が大幅に減少した結果、
内郭に組み込まれ小さな御殿と
勘定所以外は空地となり
登城大名の家臣の控え場になります。
また、この時に大手門が
二ノ丸から三ノ丸に移転しています。
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【西ノ丸】
「聞書集」、「霊岩夜話」、
「参考落穂集」などによりますと、
天正年間に徳川家康が入城した頃は、
この地は丘原であり、田圃があり、
春になれば桃、桜、
ツツジなどが咲き、
遊覧の地であったということです。
文禄元年(1592年)から
翌年にかけて、西ノ丸は創建されました。
創建された当時は、
新城、新丸、御隠居城、
御隠居曲輪などといっていました。
西ノ丸大手門の内側は
西ノ丸内では特に的場曲輪と呼ばれています。
西には山里丸があり、
徳川家光が小堀政一へ命じて
園池茶室を造らせて新山里と呼称しました。
その西に山里馬場があり、
後門が坂下門です。
かつては通行が許され、
この門を通り紅葉山下をへて半蔵門に至っています。
【紅葉山】
本丸と西丸の間にある高地で、
江戸城内で最も高い場所です。
かつては日枝神社が祭られており、
開幕前には庶民が間を抜けて
参拝することができましたが、
後の拡張で城域に取り込まれたために
移転しています。
その後は東照宮や各将軍の霊廟が造営され、
また麓には具足蔵・鉄砲蔵・屏風蔵がありました。
また西の丸側の麓には、
秘閣図書や紅葉山文庫、
神官で国学者の鈴鹿連胤が
献上した蔵書を収めた御書物蔵があり、
1873年の火災で
蔵が焼失した際には
太政官正院が文書の復旧を命じています。
【北ノ丸】
現在は「北の丸公園」となっています。
公園西側の堀にある石垣のわずかな隙間に、
国の天然記念物に指定されている
「ヒカリゴケ」が自生しています。
もともと太田道灌らが江戸城を築城した際に、
関東の守護神でもあった
築土神社(旧:田安明神)の旧地であり、
のち、徳川家康が入府した際に、
関東代官であった
内藤清成らの屋敷となったため、
代官町と呼ばれた場所です。
その後、徳川忠長や徳川綱重らの屋敷を経て、
明暦の大火以後は火除け地になっていましたが、
8代将軍である徳川吉宗が
就任してからは徳川氏の
御三卿であった田安徳川家が
享保16年(1731年)に、
清水徳川家が宝暦9年(1759年)に
上屋敷を構えるようになりました。
敷地内には御蔵地や植溜御用地、
馬場などもありました。
【交通アクセス】
(電車)
竹橋駅から徒歩5分、
九段下駅から徒歩5分。
<駐車場>
(普通車は3時間まで400円、
以後1時間毎100円。夜間閉鎖)
第一駐車場 – 普通車145台
第二駐車場 – 普通車107台
第三駐車場 – 普通車260台
(車)
首都高速道路・出入口
首都高速都心環状線
北の丸出口
代官町出入口
【吹上】
地理上の位置は武蔵野台地の東端、
海岸沿いの土地です。
現在は皇居の一部であり、
道灌堀を挟み、
旧江戸城西の丸地区の西側に隣接しています。
江戸城築城後には
番衆・代官衆や
清洲藩の松平忠吉の屋敷地があり、
その後は徳川御三家の
大名屋敷が建築されていました。
明暦3年(1657年)1月の
明暦の大火で全焼し、
当時財政難であった幕府は
ほぼ壊滅状態であった江戸復旧に際し
都市の再建を優先させました。
このあたりは江戸城への類焼を
防ぐための火除け地として
日本庭園が整備される運びとなりました。
【西ノ丸下】
入国時はほぼ日比谷入江であった場所です。
海と繋がっていた頃は
荷揚げ場や人寄場、
天海の屋敷の他に
本多忠勝や里見氏の屋敷がありましたが、
継続して埋め立てが行われ
海から切り離されて以降は
主に幕閣に連なる
譜代大名の屋敷地となりました。
初期には奥の道三堀と接する一帯には
和田倉という蔵地が置かれ、
蔵がなくなって以降も
和田倉門の名が後世に残りました。
また西側には厩、東側には馬場があり、
隣接する門は馬場先門と呼ばれていましたが、
この門は寛文8年(1668年)まで
不明門でした。
【外郭】
【大手前・大名小路】
開幕前は侍衆・町人が
混在している居住地でしたが、
開幕後は大名屋敷地となりました。
大名屋敷の他には大手前には
一ツ橋家の屋敷や舂屋(つきや、精米所)・
小普請屋敷・北町奉行所が、
大名小路には評定所や
南町奉行所がありました。
【総構】
かつての江戸城の堀のうちの
外側のものの総称です。
かつては水路で江戸城を取り囲み、
また内濠や東京湾(江戸湾)
ともつながっていました。
現在は、外濠にほぼ沿う形で
外堀通りが通っています。
「外濠」の語を広い意味で用いる場合、
その経路はおおむね、
現在の東京都千代田区から
神田地域を除いたもの(旧麹町区)
の外周である、とのことです。
またこれに加えて、
飯田橋以東の神田川下流部までを
外濠に含める場合もあるとのことです。
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【建築物】
【天守】
太田道灌築城以降の象徴的建物は、
静勝軒という寄棟造の多重の
御殿建築(3重とも)で、
江戸時代に佐倉城へ銅櫓として移築されましたが、
明治維新後に解体されています。
佐倉城の銅櫓は二重櫓で
2重目屋根が方形造で
錣屋根のようになっていました。
徳川家康の改築以降、本丸の天守は
慶長度(1607年)・
元和度(1623年)・
寛永度(1638年)と3度築かれています。
どの天守も鯱や破風の飾り板を
金の延板で飾っていたとのことです。
明暦3年(1657年)の
明暦の大火によって
寛永度天守が焼失した後、
直ちに再建が計画され、
現在も残る御影石の天守台が
加賀藩主の前田綱紀によって築かれました
(高さは6間に縮小されました)。
計画図も作成されましたが、
幕閣の重鎮であった保科正之の
「天守は織田信長が岐阜城に
築いたのが始まりであって、
城の守りには必要ではない」
という意見により、
江戸市街の復興を優先する
方針となって中止されました。
のちに新井白石らによって再建が計画され、
図面や模型の作成も行われましたが、
これも実現しませんでした。
以後は、本丸の富士見櫓を
実質の天守としていました。
これ以降、諸藩では再建も含め
天守の建造を控えるようになり、
事実上の天守であっても
「御三階櫓」と称するなど
遠慮の姿勢を示すようになりました。
【御殿】
御殿は本丸・二ノ丸・西ノ丸・三ノ丸御殿があります。
この内、三ノ丸御殿は
元文年間に廃絶されました。
本丸御殿は将軍居住・政務・儀礼の場として
江戸城の中心的な役割を持ち、
二ノ丸御殿は将軍別邸や
隠居した将軍の側室が
晩年に過ごす場所として、
西ノ丸御殿は隠居した将軍や
世継の御殿として用いられていました。
【本丸御殿】
本丸御殿は表・中奥・大奥が
南から北にこの順で存在しています。
表は将軍謁見や諸役人の執務場、
中奥は将軍の生活空間ですが、
政務もここで行っていました。
大奥は将軍の夫人や
女中が生活する空間でした。
大奥は表や中奥とは
銅塀で遮られ、
一本(後に二本)の廊下でのみ
行き来ができました。
【再建と火災を繰り返す】
将軍の御殿としての
最初の本丸御殿は慶長11年(1606年)に完成、
その後元和8年(1622年)、
寛永14年(1637年)(同16年焼失)、
同17年(明暦の大火で焼失)、万治2年(1659年)
(1844年(天保15年)焼失)、弘化2年(1845年)
(1859年(安政6年)焼失)、
万延元年(1860年)
(1863年(文久3年)焼失)と
再建・焼失を繰り返しました。
文久の焼失以降は本丸御殿は再建されずに、
機能を西ノ丸御殿に移しました。
・・・いやぁ、電気は本当にありがたいですね。
火災だらけですもんね・・。
【表・中奥】
主要な御殿として西側に
大広間・白書院・黒書院・御座之間・
御休息が雁行しながら
南から北に配置されました。
表東側には表向の諸職の詰所や控室、
中奥東側には側衆配下の詰所・
控室や台所などがあります。
大老・老中・若年寄の執務・議事場は
当初は御座之間にありましたが、
堀田正俊刺殺事件により
表と中奥の間に御用部屋が設けられました。
彼らと将軍の仲介者である
側用人又は御側御用取次は
中奥の中央に詰所がありました。
表は儀礼空間であり
御殿の改変は少ないですが、
中奥は各将軍の好みに応じて
頻繁に改造されました。
表と中奥は大奥と異なり
構造的には断絶していませんが、
時計之間と黒書院奥の御錠口でのみ
出入ができました。
しかし表の役人は中奥には
御座之間への将軍お目見え以外は
立ち入ることは出来ず、
奥向の役人とは時計之間で
会話を交わしていました。
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【大広間】
本丸御殿中で最高の格式と
最大の規模を有する御殿。
東西方向50m、
約500畳に及ぶ広大な建物です。
寛永17年の大広間には
大屋根がありましたが、
焼失後の再建では
中央に中庭が設けられ、屋根を低くしました。
大広間は将軍宣下、
武家諸法度発布、
年始等の最も重要な公式行事に用いられ、
主な部屋は上段・中段・下段・二之間・
三之間・四之間があり、
西北から反時計回りで配置されました。
南東の南には中門が、
東には御駕籠台があり
大広間の権威を象徴していました。
また南面の向かい側には
表能舞台があり、
大きな祝い事がある際の能の催しでは、
その内の一日を町入能として
町人が南庭で能を見ることを許したとのことです。
【白書院】
大広間に次ぐ格式を有する御殿。
大広間と松之廊下で繋がり、
上段・下段・帝鑑之間・
連歌之間を主な部屋として
約300畳の広さを持っていました。
表における将軍の応接所として
公式行事に用いられ、
御暇・家督・隠居・婚姻の許可への
御礼時に諸大名はここで将軍と面会。
他に年始の内、越前松平家・
加賀前田家とはここで対面をし、
また勅使・院使を迎える際には
下段を宴席の間としました。
【黒書院】
白書院と竹之廊下で繋がり、
主な部屋として上段・下段・
西湖之間・囲炉裏之間があり
約190畳の広さを持っていました。
他の御殿が檜造に対し、
総赤松造です。
将軍の日常生活における
応接所として用いられていました。
【御座之間・御休息】
これらは将軍の居住空間として
前者は上段・下段・二之間・
三之間・大溜で構成される
中奥の応接所で政務を執る場、
後者は上段・下段のみで
寝室や居間として用いられていました。
中奥は表向の役人は
原則として出入りは禁止されていましたが、
将軍と御目見する時のみ
御座之間に入ることができました。
当初、将軍は御座之間にいましたが
寝室として御休息、
更にプライベートな空間として
御小座敷等が造られました。
御休息は将軍の代替わり毎に
建て替えが行われました。
能を好んだ徳川綱吉は
御休息の右に能舞台があり、
また当時頻発した地震対策として
「地震之間」なる避難場所が
中庭の二ヶ所に設置されたとのことです。
逆に徳川吉宗は華美な御休息を壊し、
一時期は廊下の一部を区画して
そこで寝起きをしたとのことです。
【櫓】
三重櫓6棟、二重櫓10棟、
平櫓4棟、多門櫓26棟
江戸城は幾度にも渡る火災によって焼失し、
現存する伏見櫓・富士見櫓・
巽櫓なども大正期の
関東大震災の際に損壊した後、
解体して復元されたものであるため、
櫓の構造などを考察するにあたっては、
明治初頭に撮影された写真や絵図、
指図、文献などが用いられています。
幕末まで現存していた
二之丸の蓮池巽三重櫓、
蓮池二重櫓の二棟は
明治初年に接続する
箪笥多聞櫓の火災が延焼し焼失しました。
江戸城の櫓は櫓門も含め、
白漆喰塗籠壁(寛永度天守除く)に、
幕紋の足利二つ引を現す
2本の長押形を施し、
破風・妻壁には銅板を
青海波模様に張っていました。
初重に出張を設けて
石落としとしているものが多いとのこと。
これらの特徴の一部は、
幕府が関与した二条城や
小田原城などの城郭にも施されました。
【門】
外郭25棟、内郭11棟、城内87棟
虎口は、一の門である高麗門と
二の門の櫓門で構成されます。
大坂城や名古屋城の様な枡形の三方を
櫓門・多聞櫓で囲んだ型式は
江戸城には少なく、
完全なのが下乗門、
不完全なものが北桔橋門に
あるだけです。
【大手門】
三ノ丸大手門は、
三ノ丸中央部の枡形虎口に櫓門と
高麗門で構成され、大手前を繋いでいました。
三ノ丸が屋敷地であった頃は
下乗門が大手門であり、
現在の大手橋は大橋と呼ばれていました。
江戸時代、
勅使の参向、将軍の出入り、
諸侯の登城など、この門から行うのが正式でした。
また、ここの警備は厳重をきわめ、
10万石以上の譜代諸侯が
その守衛に勤仕し、
番侍10人(うち番頭1人、物頭1人)が
つねに肩衣を着て、平士は羽織袴でひかえ、
鉄砲20挺、弓10張、長柄20筋、
持筒2挺、持弓2組をそなえ警戒にあたっていました。
【門の一覧】
<本丸>
中雀門(書院門、玄関前門)、
上埋門、下埋門、中之門、
新門、汐見坂門、上梅林門、
北桔橋門、西桔橋門、柚木門
<二ノ丸>
下乗門、銅門、下梅林門、
二ノ丸喰違門、蓮池門、寺沢門
<三ノ丸>
大手門、桔梗門、平河門、
不浄門(帯郭門)、三ノ丸喰違門
<西ノ丸>
坂下門、西丸大手門、西丸中仕切門、
西丸書院前門(西丸玄関前門、二重橋)、
西丸裏門、大田門、山里門、吹上門、紅葉山下門
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<内曲輪>
竹橋門、和田倉門、馬場先門、日比谷門、
桜田門、半蔵門、田安門、清水門、雉子橋門、
一ツ橋門、神田橋門、常盤橋門、
呉服橋門、鍛冶橋門、数寄屋橋門
<外曲輪>
山下門、芝口見附、幸橋門、虎ノ門、
赤坂門、喰違見附、四谷門、市ヶ谷門、
牛込門、小石川門、筋違橋門、浅草橋門、浜大手門
【番所】
江戸城には警備要員の詰所として
多くの番所がありましたが、
現在残るのは下の三棟のみです。
大番所は中之門の奥に、
百人番所と同心番所は
下乗門の奥と外にあり、
それぞれの門を守っていました。
【遺構】
<現存遺構>
1956年(昭和31年)3月26日
外堀跡が「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定。
1960年(昭和35年)5月20日、
「江戸城跡」として国の特別史跡に指定されました。
現在、桜田門、田安門、清水門
(以上は、国の重要文化財に指定されている)
が遺構として現存しています。
関東大震災で倒壊後、
最初は内部はコンクリート造り、
後に木造で復元された富士見櫓、
伏見櫓・多聞櫓、桜田巽櫓や、
同心番所、百人番所、大番所なども、
宮内庁管理のため
重要文化財などには指定されてはいませんが
現存しています。
【他の遺構】
川越の喜多院と氷川神社には、
3代将軍家光誕生の間とされる
江戸城の江戸期移築建物が残っています。
移築建物と川越城御殿の
二つの御殿が見られます。
【復元】
昭和39年(1964年)
北ノ丸の清水門・田安門の上部が
復元されました。
東京大空襲によって焼失した大手門が、
昭和42年(1967年)に復元されました。
昭和43年(1968年)
二ノ丸跡を小堀遠州の
回遊式庭園に復元し、
諏訪の茶屋を吹上御苑より移築しました。
江戸城障壁画下絵
(狩野晴川院筆、東京国立博物館蔵)は、
弘化度本丸御殿再建の際に
描かれた障壁画の下絵集であり、
御殿平面図と併せることで
幕末期の御殿の内装を知ることを
可能にしました。
これにより松の廊下の再現も可能となりました。
【所在地】
〒100-8111 東京都千代田区千代田1−1
(千代田は全体が皇居の敷地内の為、
一般参賀などを除き部外者の自由な立ち入りは出来ない)
【交通アクセス】
(皇居東御苑)
(JR東日本・新幹線・東京メトロ丸ノ内線)「東京」駅
(東京地下鉄・都営地下鉄)「大手町」駅から
それぞれ徒歩5分程度。
【その他】
静岡県東伊豆町では、
江戸城に使う石を切り出し
港まで運ぶ様子を再現した
「御石曳き」が行われています。
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2017年(平成29年)2月8日、
松江市の松江歴史館で
「極秘諸国城図」が見つかりました。
その中には徳川家康が築城した
慶長期の江戸城を描いた
最古級の平面図
「江戸始図(はじめず)」もありました。
この絵図により、慶長期の江戸城天守は
姫路城のような連立式で
本丸には幾重にも
枡形が設けられていたことが判明しました。
現地所要時間:2時間~
(平将門首塚含む)
徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!
徳川秀忠~江戸幕府2代将軍、幕藩体制の基礎を固め政権運営方針を次代に引き継ぐ。
お江(崇源院)~2代将軍・徳川秀忠の正室は浅井三姉妹の三女、波乱万丈な人生を送りその血筋は現代の皇室に繋がっています。
和気清麻呂~皇統の断絶の危機を救い、平安京建都事業や財政職務に尽力した人物。
太田道灌~扇谷上杉氏の家宰で多彩で非凡な才能故に主君に疎まれ暗殺された悲劇の武将。
増上寺~創建は室町時代で徳川将軍家の菩提寺、本堂と東京タワーが1枚に収まります。
伝通院~徳川将軍家の菩提寺次席、徳川家康の生母の於大の方、孫の千姫の墓があります。
築土神社と世継稲荷~平将門信仰の象徴的神社と徳川秀忠が称賛した神社です。
将門塚~平将門公の首を祀る塚で大都会の超一等地に鎮座し、現在も静かに見守っています。
江戸太郎重長と武蔵江戸氏について~武蔵国の武家で秩父氏一族であり所領のあった場所が東京の地名に今も残っています。
星ヶ丘城~扇谷上杉氏が築城したとされている伝説及び幻の城、日枝神社の鎮座場所です。
北条氏康~小田原北条3代目~相模の獅子 ・関東八州にその名を轟かした猛将は戦国随一の民政家。
喜多見城及び喜多見陣屋跡~23区に存在した唯一の藩、須賀神社や慶元寺のある辺りがお城の主な推定地です。
扇谷上杉管領屋敷跡~扇谷上杉氏の遠祖は足利尊氏の叔父。鎌倉公方を補佐する関東管領家として鎌倉に居住。
藤堂高虎~渡り奉公人の代表格で主君とは対等に近し、築城三名人と称され藩政も長けていました。
泉岳寺~徳川家康が創建の曹洞宗の寺院で赤穂義士の墓所がある忠臣蔵の聖地です。
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