鎌倉殿の13人

蛭ヶ小島~源頼朝が20年間過ごし北条政子と夫婦となった配流地~

源頼朝と北条政子の像



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蛭ヶ小島

蛭ヶ小島(ひるがこじま)は、
静岡県伊豆の国市にある
源頼朝の流刑地と伝わる史跡です。
蛭ケ島とも称されています。

【歴史】
平治の乱で敗れた源頼朝は、
父親である源義朝が知多半島で入浴中に暗殺され、
源頼朝も死罪が確実視されていました。
そんな世情の中、源頼朝は、
平清盛の継母である
池禅尼の命乞いで奇跡的に助命され、
永暦元年(1160年)に伊豆に配流され、
のちに挙兵するまでの約20年近くを
この地で過ごしたとされています。

【助命嘆願について】
なお、源頼朝の助命の背景には、
源頼朝の実母である由良御前(ゆらごぜん)が
熱田大宮司(熱田神宮の宮司)の娘で、
当時朝廷に力を有した熱田神宮の嘆願が
あったのではないかと推測されているそうです。

更に、助命嘆願には後白河院、上西門院の意向が
働いていたとの説もあるそうです。
そもそも平治の乱の本質は、院近臣同士の争いであり
源義朝は藤原信頼に従属する者の一人に過ぎず、
その子供達の処分が軽度であったのも当然とする
見解もあるとされています。

3月11日に伊豆国へと流されました。
流刑地が伊豆国となった理由の一つに、
摂津源氏の源仲綱が伊豆守だったとの説があるそうです。

<蛭ケ島 説明看板>
蛭ケ島 説明看板

【「蛭島」について】
源頼朝は永暦元年(1160年)(14歳)から、
治承4年(1180年)8月に旗挙げする34歳までの
20年間を伊豆で過ごしました。
その間に北条政子と結婚しています。

配流先は、「吾妻鏡」には「蛭島」と記されていますが、
歴史的には伊豆に流されたことが明確なだけで、
現在の蛭ヶ島公園はあくまでも江戸時代の比定とのことです。
伊豆をくまなく巡視した
地元の学者・秋山富南(あきやまふなん/1723年~1803年)が
伊豆国全土の地理、地形、里程、村落、川、
さらに天災地変などを詳細に記録した
「『豆州志稿」の編纂で導き出した結論とのことです。
寛政2年(1790年)建立の蛭島碑記も立っています。
「豆州志稿」は完成まで12年の年月を費やし
寛政12年(1800年)の刊行です。

【遺構はある?】
残念ながら、現代の発掘調査では
平安時代末期の遺構は出土していません。
それでも、北条氏の要害だった韮山城(にらやまじょう)、
狩野川の東岸にあった北条氏の居館(円成寺跡/北条政子の居館)、
北条時政が、源頼朝・北条政子の新居として与えた地(現在の成福寺)
にも近いことから、このあたりだったことは可能性が高いといえます。
なお、蛭ヶ島公園内の茅葺き(かやぶき)建築は
江戸時代の農家「上野家住宅」を移築したものです。




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【史跡】
史跡は旧韮山町が「蛭ヶ島公園」として整備し、
公園内には「蛭島碑記」の石碑のほか、

蛭島碑

富士山に向かって立つ
源頼朝31歳と政子21歳の像があります。
蛭ヶ島公園内に建つ茅葺きの建物は、
江戸時代中期の農家の建物
「上野家住宅」を移築したもので、
静岡県の有形文化財に指定されており、
内部には民具や農具などを展示して、
歴史民俗資料館となっています。

【地理地形】
洪水等で変遷した狩野川の中洲の説や、
湿田のなかに島状にある微高地であると考えられています。
また、中洲の中でも小さい島であったことより、
蛭ヶ小島と呼ばれるようになったとも推測されているです。

「蛭ヶ島公園」として整備されている場所は、
江戸時代に学者の秋山富南が
「頼朝が配流となった蛭ヶ島はこの付近にあった」
と推定し、これを記念する碑が
田野の中に1790年に建てられています。
この石碑は韮山代官の江川家の家臣が
建立したものとされています。
これが「蛭島碑記」で
伊豆の国市指定有形文化財となっています。

【もう一つの蛭島碑記】
なお、この石碑とは別に、
史跡の北側約600mの民家の敷地内にも
ほぼ同様の碑文の「蛭島碑記」の石碑があるそうです。
地元の区誌によると民家にある石碑は
婿入りの引出物として
韮山代官の江川家から贈られたとのことです。
この周辺は地域住民から「兵衛」の地名で呼ばれており、
源頼朝配流時の官職名が「右兵衛権佐」だったことから、
こちらが配流の地であるという可能性も
指摘されているそうです。
ただ、なぜほぼ同様の碑文の石碑が2つあるのかなど
謎も残されています。

【所在地】
〒410-2123 静岡県伊豆の国市四日町12

【駐車場】
無料 10台

【自販機】
有り

【トイレ】
あり

【交通アクセス】
◆伊豆箱根鉄道韮山駅から徒歩10分

◆東名高速道路沼津ICから約15.9km

<場所>
青印は駐車場出入り口付近です。

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