城跡

館林城~戦国時代は北条氏が支配、江戸時代は守りの城沼に浮く「将軍の城」となりました。

舘林城 土橋門(黒門)



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館林城

館林城(たてばやしじょう)は
上野国邑楽郡館林
(現在の群馬県館林市城町3)にある
戦国時代から江戸時代の日本の城です。
館林市指定史跡です。
館林城跡 説明

【別名】
尾曳城

【城郭構造】
梯郭連郭複合式平城

【天守構造】
なし(三階櫓で代用、非現存)

【築城主】
伝・赤井照光

【築城年】
15世紀

【主な改修者】
榊原康政

【主な城主】
赤井氏、長尾景長(上杉氏)、
榊原氏、松平氏、徳川氏ほか

【廃城年】
1874年

【遺構】
曲輪、土塁、復元門

【指定文化財】
市指定史跡

【城の歴史及び概要】
【室町時代】
築城については、
江戸時代になって書かれた史料などのなかに、
赤井照光によって築かれたとするものがあり、
「狐の尾曳伝説」として知られていますが、
現在確認されている館林城について
書かれた最古の古文書は、
文明3年(1471年)に上杉軍が
赤井文六、文三の居城である
「立林(館林)城」を攻略したという
記録であるとのことです。

ちなみに「狐の尾曳伝説」とは、
赤井照光が子ぎつねを助けたところ
お稲荷様の化身である白きつねが現れ、
尾を曳いて城の配置を
案内してくれたという内容です。
館林城跡 

【赤井氏】
赤井氏は中世の
上野国邑楽郡佐貫荘
(現・群馬県館林市周辺)
に拠った武士でした。
出自は清和源氏(河内源氏)説
(館林市善長寺伝来の「源姓赤井氏系図」)、
藤原北家藤原小黒麻呂の後裔説(「両毛外史」)、
藤原北家秀郷流佐貫氏一族説
など諸説あるとのことです。

【佐貫荘】
佐貫荘は、藤原秀郷流の
佐貫氏が拠った土地で、
室町時代以降は
佐貫氏庶流の舞木氏が
支配していました。
赤井氏の初出は永享10年(1438年)
の永享の乱で、
舞木持広の寄騎として
赤井若狭守がみえているとのことです。
赤井氏は舞木氏の被官でした。
15世紀の中ごろに
佐貫荘関係の文書で
舞木氏の姿が見えなくなり、
代わって赤井氏が
頻出してくることから、
この頃に下克上が起こって
赤井氏が佐貫荘を
掌握したとみられています。




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【佐貫合戦】
文明3年(1471年)には
館林城が上杉氏により
落城しました。
佐貫合戦と称されています。
館林落城後も赤井氏は
館林城を拠点に活動したとのことです。
小泉城の冨岡氏と協調したということです。
やがて小田原北条氏
勢力が迫ってくると、
冨岡氏とともに
これに従ったとのことです。

【赤井氏滅亡】
永禄3年(1560年)、
長尾景虎上杉憲政を奉じて
上野国へ侵攻してきました。
赤井氏は伊勢崎の那波氏や
小泉の冨岡氏と同じく
小田原北条氏に通じて
長尾景虎には従いませんでした。
そのため、永禄5年(1562年)、
館林城主・赤井文六は
上杉謙信(長尾景虎)に攻撃され
落城の憂き目にあったのでした。
赤井文六は忍へ逃亡するも
以後は消息不明となり、
赤井氏は滅亡したのでした。

【戦国時代】
その後、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、
相模の北条氏による三つ巴の攻防のなかで
上杉氏(城主は長尾氏)、
主に北条氏が
館林城を支配するようになりましたが、
天正18年(1590年)の
徳川家康の関東入封に伴って、
徳川四天王の一人である
榊原康政が10万石で城主となりました。
榊原康政生誕之地碑

【江戸時代】
江戸時代に入ると、館林は
利根川を押さえる東北方面への要所として、
また、徳川綱吉が五代将軍になってからは
将軍を輩出した地として重視され、
最後の城主となる秋元氏まで
江戸幕府の重鎮を務めた
七家の居城として栄えました。
舘林城
かつては総構があり、
本丸には三層の天守と二重櫓が一基、
御厩曲輪(再築後の南曲輪)にも
二基の二重櫓があり
威容を誇っていたとのことですが、
天和3年(1683年)に
徳川徳松が急死すると
廃藩となり廃城となりました。




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宝永4年(1707年)、
六代将軍徳川家宣の弟である
松平清武が入封すると館林城は
規模を縮小して再築され、
本丸に天守代用の二重櫓が、
南曲輪と三ノ丸にも
二重櫓が一基ずつ上げられました。
1718年には再建費のための
増税に苦しんだ農民により
館林騒動が起こりました。
館林城跡

【近現代】
城の建物の大半は
明治7年(1874年)に焼失しましたが、
現在でも本丸、三の丸、稲荷郭、
城下町などの土塁の一部が残されており、
三の丸には土橋門が復元されています。

【歴代城主】
舘林城 歴代城主
<榊原氏>
三代続きましたが、
寛永20年(1643年)に
陸奥白河に転封したため、
その後館林領は一時天領となりました。
榊原康政 
榊原康勝 
榊原忠次 

<大給松平家>
正保元年(1644年)、
遠江浜松から老中松平乗寿が
6万石で館林城に入り、
その跡を乗久が継いで
寛文元年(1661年)に
下総佐倉に転封しました。
松平乗寿
松平乗久

<館林徳川家>
4代将軍徳川家綱の弟綱吉が
10万石の加増を受け25万石で入封しました。
延宝8年(1680年)に綱吉が
家綱の養子になって5代将軍になりますと、
その子徳松が家督を継ぎましたが、
天和3年(1683年)に徳松が急死し、
廃藩となって再び天領となりました。
この時、城は壊されています。
徳川綱吉
徳川徳松

<越智松平家>
宝永4年(1707年)、
松平清武が2万4千石で入封し、
宝永7年(1710年)には1万石加増、
正徳2年(1712年)には
2万石加増されて5万4千石となりました。
その後、清武の跡を養子武雅が継ぎました。
松平清武
松平武雅




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<太田氏>
松平武雅の跡を養子武元が継ぎましたが、
武元が家督を相続した日に
陸奥棚倉へ転封になり、
同地から太田資晴が5万石で入封しました。
若年寄の太田資晴は享保19年(1734年)に
大坂城代となり、そのため館林領は
再度天領となり、城番を置きました。
元文5年(1740年)、
太田資晴の子資俊が5万石で入封しましたが、
延享3年(1746年)に遠江掛川に転封となりました。
太田資晴
太田資俊

<越智松平家>
太田資俊の後は陸奥棚倉より
松平武元が5万4千石で入封しました。
松平武元は明和6年(1769年)に
7千石の加増を受けて6万1千石となりました。
武元の後は、武寛、斉厚と続いて、
斉厚は天保7年(1836年)に
石見浜田へ転封となりました。
松平武元
松平武寛
松平斉厚

<井上氏>
井上正春が6万石で陸奥棚倉より入封し、
弘化2年(1845年)には遠江浜松へ転封。
井上正春

<秋元氏>
井上正春の後は、
出羽山形から秋元志朝が
6万石で入封しました。
秋元志朝は、文久2年(1862年)に
雄略天皇陵の修復に着手します。
元治元年(1864年)に
養子の礼朝が襲封します。
礼朝は戊辰戦争時、新政府軍に加担、
関東・東北方面の戦争に
部隊を派遣しました。
館林藩は明治3年(1870年)に
廃藩して館林県となりました。
秋元志朝
秋元礼朝

【構造】
城沼を城の東側の外堀とし、
この沼に突き出す形の低台地に、
館林城跡 城沼
(つつじが岡公園)
本丸(子ども科学館南側)、
二の丸(現在は市役所)、
三の丸(現在は文化会館)、
八幡郭(くるわ)、南郭を置き、
これらを取り囲むように
稲荷郭、外郭、惣郭を構え、
さらにその西方に城下町を配置し、
それらを土塁と堀によって囲んでいました。
舘林城本丸土塁および八幡宮

<土橋門>
土橋門は、昭和58年(1983年)、
城下町・館林のシンボルとして
城壁とともに復元されました。
この門は、城の中心部に通じる
三の丸に設けられ、
千貫門(せんがんもん)に対し、
通用門として使われたとのことです。
「土橋門」という名前の由来は、
門前の内堀に架けられた
「土橋」からきたと言われています。
また、防御用に黒色の鉄板が
打ち付けられており、
地元では「黒門」とも呼んでいるとのことです。
舘林城 土橋門(黒門)

<千貫門跡>
千貫門は三の丸の北面中央にあった、
城内にある重要な門の1つでした。
その形態は渡櫓門で、
土橋門が通用口であるのに対して
武士の正門とされていました。
館林城 千貫門跡

<大手門跡>
大手門は、現在の三角公園(大手町)の
東北隅にあって、東側の侍屋敷、
西側の城下町を隔てていました。
ここから東へ約400mにわたり
通称「大名小路」と呼ばれる大路が伸び、
広小路、千貫門へと続いていました。
現在では、土塁や濠などは姿を消し、
大手門跡碑が残されているのみとなっています。




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【交通アクセス】
東武鉄道伊勢崎線「館林」駅下車、徒歩約15分
東北自動車道「館林IC」から約10分

【所在地】
〒374-0018 群馬県館林市城町4−32

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藤岡城~平将門が弟に築かせ、藤姓足利氏の始祖・足利成行が再興したとのことです。

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