【北条氏照】
北条 氏照(ほうじょう うじてる)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将です。
【生誕】
天文11年(1542年)
【死没】
天正18年7月11日(1590年8月10日)
【別名】
通称:源三、由井源三
【受領名】
陸奥守
【主君】
北条氏康⇒氏政⇒氏直
【氏族】
大石氏⇒小田原北条氏
【父】
北条氏康
【母】
母:瑞渓院
【養父】
大石定久もしくは大石綱周
【兄弟】
氏親、氏政、七曲殿、氏照、尾崎殿、
氏規、長林院殿、蔵春院殿、
氏邦、上杉景虎、浄光院殿、桂林院殿
【義兄弟】
靏松院(実父北条幻庵、吉良氏朝室)、
法性院(実父遠山綱景、太田康資室)
【妻】
正室:比左(大石定久の娘)
【子】
霊照院殿(山中頼元室)
【養子】
源蔵
幼名は鶴千代。
小田原合戦後に
北条氏照と同じ仮名
源三(源蔵)を襲名したとされています。
さらにその後に采女を
称したとのことですが
具体的な動向は不明となっています。
早雲寺所蔵「平姓北条氏系図」には
後筆で「後相州鎌倉明月院住職以心伝心公、
寛永12年乙亥5月199日」と
補記されているとのことです。
その典拠は未確認とのことですが、
事実だとしますと
明月院住職となり
52歳で死去したことになるそうです。
千葉直重(北条氏政の子)
【北条氏照の生涯】
【幼少期】
天文11年(1542年)に、
北条氏康と瑞渓院との間に
北条氏康の三男として生まれました。
「石川忠総留書」には
(天正18年の時点で)年齢が50ばかりとあります
菩提寺である武蔵八王子宗閑寺の寺記に
(「小田原編年録」所収「北条氏系図」)
、享年を49と伝えているとのことです。
はっきり享年を記し、
かつ菩提寺の所伝であるから
信頼性は高いとされています。
そこから逆算すると
天文11年(1542年)生まれ、
ということになる模様です。
弘治元年(1555年)11月、
下総葛西城で行われた
古河公方・足利義氏の元服式に、
兄弟で唯一、父である北条氏康と
一緒に参加しています。
【大石家への養子入り】
弘治2年(1556年)5月、
大石家の領国である
相模国座間郷に所在した
神社の再興にあたって
大檀那を務めており、
この頃、大石家の領国支配に関与し
始めたとみられています。
また、同年に元服したとされており、
仮名の源三と氏照を
名乗ることになったのでした。
ちなみに再興した神社は
「多摩市史」通史編1によりますと
鈴鹿明神社とのことになります。
(現所在地:
〒252-0029 神奈川県座間市入谷西2丁目46−1)
弘治2年(1556年)5月2日の
再興棟札に「大旦那北条藤菊丸」
とあるとのことです。
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【体裁は婿入りだが実質の・・・】
永禄2年(1559年)11月、
大石家の本城・由井城に入り、
自ら由井領の領国支配を開始しました。
この年大石定久の娘である比左を娶り、
養子縁組をして大石源三氏照と名乗り、
家督を譲られました。
【大石綱周説】
弘治元年(1555年)頃まで、
大石氏の当主は大石綱周
という人物であったことが分かっており、
大石綱周は大石定久の息子で
比佐の父親、つまり北条氏照の
養父であったとする説が
最近は有力視されているとのことです。
弘治元年頃に大石綱周が隠居もしくは
死去に伴って新しい当主を立てる
必要がでていましたが、
大石氏の一族の家臣の中には
未だに上杉氏などと連動して
北条氏に叛旗を
翻そうとする勢力がいたため、
北条氏康は大石氏を確実に掌握して
西武蔵を安定化させるために、
自分の息子を養子として
送り込んだとみられています。
大石家に養子入りした後もしばらくの間、
具体的な領国支配は、北条氏康が管理し、
家老としてつけられた
狩野泰光(後の法円宗円)と
庄式部少輔が当たっています。
【油井源三名】
自領であった現・相模原市方面の
各村への文書では「油井源三」を
名乗っていました。
【滝山城・栗橋城への入城】
永禄4年(1561年)2月、
北条氏照は滝山城に入城したとされています。
けれども、永禄4年6月まで続いた
上杉謙信の関東侵攻で
滝山城が使われていないことから、
少なくても永禄4年7月以降の
入城でないとおかしいと指摘されており、
さらに永禄4年当時はまだ
滝山城そのものが存在していなかったと
する説も出されるようになって、
現在は滝山城まだなかった説が
有力視されています。
また、天正2年(1574年)初頭、
足利義氏が古河城、
北条氏照が栗橋城に
在城していることが
確認できることから、
滝山城ではなく、
栗橋城に入城した可能性が
高いとされています。
【滝山城入場の時期】
永禄5年(1562年)3月、
前年に北条氏に滅亡させられ、
由井領に北接して展開していた
国衆である三田氏の領国であった
勝沼領を与えられて由井領に併合しました。
それにともなって永禄6年から
永禄10年までの間に、
新たな本拠として滝山城を構築し、
移ったと考えられています。
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【北条氏照の外交相手】
「涌井文書」によりますと、
永禄4年(1562年)の
下野国の佐野氏との外交を皮切りに、
永禄12年(1569年)には、
北条氏邦と共に
上杉氏との越相同盟の実現などを画策、
伊達氏とも濃密な
外交関係を築くなどしたとあります。
伊達政宗、蘆名氏との外交も
担当していました。
北条氏照の外交相手は、
下野国の国人、古河公方足利氏の勢力圏、
そして奥州の大名達が中心でした。
【関東・南関東の取次】
永禄10年(1567年)からは
北関東・南関東の取次を
務めるようになり、
北条家の外交・軍事において
重要な役割を担い始めました。
【武田信玄、侵攻】
永禄12年(1569年)、
武田信玄の軍勢が小仏峠・碓氷峠を越え
武蔵国・相模国に侵攻してきました。
北条氏照は中山家範・横地吉信らに
迎撃を命じましたが、
高尾山麗の廿里
(現、八王子市廿里町、廿里古戦場)にて敗退。
その後余勢を駆って
押し寄せた武田勢に攻め立てられ、
滝山城は三の丸まで陥落し、
北条氏照は二の丸で
指揮をとったということです。
北条氏照本人が同年10月24日に、
越後の上杉輝虎の家臣である
山吉豊守および河田重親に
宛てた書状(上杉家文書)には、
滝山城の城下町である
宿三口で戦いが
行われたと書かれておりますが、
実際に三の丸まで
攻め込まれたかは不明であるとのことです。
【三増峠の戦い】
その後、武田の軍勢が小田原城を囲みました。
撤退する武田勢を北条氏照・氏邦の軍勢が
迎え撃ったのですが、
小田原から追撃してきた
本隊の動きが遅く
挟撃体制は実現しませんでした。
この間に武田別働隊が
北条氏照・氏邦の陣より
さらに高所から襲撃し戦局は一転、
北条氏照・氏邦は敗北となりました。
戦国最大規模の山岳戦として
知られる三増峠の戦いとなります。
この年の12月までに
大石から北条姓に戻しています。
大石家との関係は穏やかだったそうです。
大石家の人間を家臣にするなどして
大石一族を長用したとのことです。
【北条復姓後】
天正2年(1574年)1月以降、
下総国関宿城の攻撃を本格化させ、
佐竹義重の斡旋を受けて、
簗田持助は同年閏11月16日には
抵抗を諦め、19日には開城しました。
これ以降、古河公方・足利義氏の後見を務め、
利根川水域を支配しました。
【下野国への侵攻】
天正3年(1575年)6月、
北条氏政は北条氏照らを下野国に侵攻させ、
北条氏照は榎本城を攻めて落城させています。
北条軍は更に小山秀綱の本城を攻め、
12月には小山城を落城させたのでした。
【小田原城の総奉行として】
この年頃から北条支城のみならず、
小田原城の総奉行として
働くようになり、
同年から天正4年(1576年)までの間に
陸奥守を称するようになります。
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【陸奥守】
鎌倉幕府において、陸奥守は
嫡流の得宗家やそれに次ぐ有力一門が
名乗っていたことから
陸奥守を名乗ったことは
北条家における政治的地位を
官職名からも表現しようと
するものであったと
みなされているとのことです。
天正4年2月に北条氏政は北条氏照に命じて
小山城の普請強化を行い5月には完了させ、
下野小山領支配を担うなど、
役割を拡大させています。
【御館の乱】
天正6年(1578年)、
上杉氏の家督争い御館の乱が起こると、
実弟の上杉景虎の援軍要請に応じた
兄である北条氏政の名代として、
北条氏邦と共に越後に出陣しました。
北条勢は三国峠を越えて
坂戸城を指呼の間に望む
樺沢城を奪取し、坂戸城攻略に着手しました。
しかし上杉景勝方は坂戸城をよく守り、
また冬が近づいてきたこともあり、
北条勢は樺沢城に北条氏邦・北条高広らを置き、
北条景広を遊軍として残置して
関東に撤退しました。
上杉景勝方は冬季間も攻勢を止めず、
上杉景虎は同冬中の翌年の3月、
三国峠の雪解けを迎える前に
自害したのでした。
北条氏照は年の離れた弟である
上杉景虎を幼いときは
大層かわいがっていたので、
かなり落胆したとのことです。
【織田、豊臣との接触】
天正7年(1579年)、
甲相同盟が手切れとなると、
北条氏は織田信長、徳川家康との
同盟交渉を開始し、
9月11日には北条氏照の使者が
織田信長の本拠である
安土城に到着しています。
天正8年(1580年)には
織田氏に従属の表明と
北条氏政の言上を伝えるために
本家の宿老笠原康明と北条氏照宿老の
間宮綱信を派遣し、
3月10日に織田信長に謁見しています。
【西原合戦】
この年の5月15日に
北条氏照は甲斐西原に侵攻しています。
武田氏にとっては天文7年(1538年)以来
42年ぶりのこととなりました。
【神流川の戦い】
天正10年(1582年)6月の
本能寺の変で織田信長が死去すると、
織田領の混乱を見て
甥の北条氏直らと共に
織田領の上野に侵攻し、
織田信長の家臣滝川一益を破って
北条領を拡大しました。
【天正壬午の乱】
織田信長死後を継いだ
豊臣政権からは離れ、
甲斐国や信濃国に侵攻しました。
その後、天正12年(1584年)から
天正15年(1587年)の間には
本拠を滝山城から八王子城に移しています。
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【小田原合戦】
六巻本「北条記」によりますと、
天正18年(1590年)、
豊臣秀吉の小田原合戦の際には、
北条氏照自身は小田原城に籠城し、
居城である八王子城には
横地監物、中山勘解由、狩野一庵、
近藤出羽守らを置いて守らせていました。
八王子城は、前田利家の
降服を勧める使者を殺害して
籠城を続けたのですが、
先に投降した小田原北条氏の旧臣らが
率いる1万5千余の兵によって攻略されたのでした。
【北条氏政と共に切腹】
六巻本「北条記」によりますると、
小田原開城後、
北条氏照は7月9日に
兄である北条氏政と共に城を出て
医師・田村安清の宿所に移り、
同月11日の晩に自害を命じられ、
北条氏政とともに切腹しました。
弟の北条氏規が介錯した後、
自害しようとして騒動になり、
その隙に北条氏照の小姓・山角牛太郞が
北条氏照の首を持って逃げ落ちましたが、
取返され、山角は主君思いだとして
徳川家康に召し出されたということです。
「寛政重修諸家譜」の
江戸幕府奥医師・田村安栖家の系譜では、
侍医で京都紫野大徳寺の住職日新和尚の兄で、
笠原弥六郎(笠原越前守養子)の
実父にあたる田村長傳(安栖)の宅で
切腹したとされています。
「北条五代記」によりますと、
法名は「青雲院殿透岳関公大居士」。
辞世は、
「吹くと吹く 風な恨みそ 花の春
もみじの残る 秋あればこそ」
「天地(あまつち)の 清き中より
生まれきて もとのすみかに 帰るべらなり」
【墓所】
小田原駅東口近くに、
北条氏政・氏照の墓所があります。
また没後、八王子に家臣であった
中山家範の子孫である中山信治が
供養塔を建造し、
八王子市元八王子3丁目に今も現存しています。
【宗関寺】
延喜年間(901年⇒923年)、
妙行によって開山されました。
当初は「牛頭山神護寺」という名称でした。
永禄7年(1564年)、
八王子城の城主だった北条氏照が
舜悦を招聘して再興しました。
天正18年(1590年)、
豊臣秀吉の小田原攻めの戦火で焼失、
北条氏照も切腹となりました。
舜悦は北条氏照の菩提を弔うため
文禄元年(1592年)に再々興しました。
その際に、北条氏照の戒名と
禅室から「朝遊山宗関寺」に改称しました。
元々は、現在地よりも400m山奥にある
「北条氏照墓」のそばに位置していましたが、
明治25年(1892年)に
現在地に移転しました。
<所在地>
〒193-0826 東京都八王子市元八王子町3丁目2562
<交通アクセス>
路線バス宗関寺停留所より徒歩1分程度。
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【人物】
(六巻本)「北条記」は、
「氏政の舎弟の中にても
武勇勝れて殊に大名なり。」
と評しているとのことです。
三浦浄心「北条五代記」は、
「世にひいでたる。文武の達人たり」
と評しているとのことです。
【備考】
名前は「氏輝」と表記されることも
あるそうです(「義烈百人一首」など)。
宗家の虎の印判に呼応し、
「如意成就」と刻まれた
龍の印章を使用していたそうです。
(後に印文未詳の印章も用いています)。
例年ですと元八王子北条氏照まつりが
開催されますが、
2022年は3年ぶりに開催され、
その会場は八王子城でした。
八王子市滝山町にある少林寺は、
北条氏照ゆかりの寺として伝わっています。
<少林寺・所在地>
〒192-0011 東京都八王子市滝山町2丁目665
<交通アクセス>
JR・京王八王子駅より
西東京バスにて
谷野経由戸吹行
「純心女子学園前」 下車徒歩10分、
または左入経由戸吹行「滝山二丁目」 下車徒歩5分
※「滝山二丁目」 行きは運行本数が少ないとのことです。
八王子城~日本100名城で日本遺産となった関東屈指の山城、城主は北条氏照でした。
滝山城~続日本100名城、国の史跡で中世城郭の最高傑作の一つであり遺構がよく残されています。
高月城~滝山三城の一つ、築城は武蔵国の守護代・大石顕重で後に大石氏は北条氏の家臣となります。
武蔵・戸吹城(根小屋城)~滝山三城の一つで滝山城の支城群の一つ、崩落が進み関東一危険の城とも。
網代城~戸倉城と高月城を結ぶ 烽火台として築城された支城の可能性があります。
武蔵・戸倉城~築城は小宮氏で後に八王子城の支城として大石定久の隠居地の一つと伝わります。
檜原城~鎌倉武士の花形の末裔で武蔵七党・西党の一族の平山氏が築城、豊臣方には徹底抗戦しました。
幸神屋敷~平山左衛門尉綱景の屋敷とも土豪の幸神氏の屋敷跡とも伝わります。
阿伎留野城~武州南一揆の三宮氏(三内氏)が築城との推定、南一揆の統率者は平山氏、小宮氏、梶原氏など。
北条氏康~小田原北条3代目~相模の獅子 ・関東八州にその名を轟かした猛将は戦国随一の民政家。
北条氏政~小田原北条4代目~最大の領土を築くも、生きた時代と合わなかった慎重派で愛妻家で家族思い。
善栄寺(小田原市)~北条氏康夫人・木曾義仲・巴御前・二宮尊徳のお墓があります。
小田原城跡~小田原北条五代~近世城郭と中世城郭の両方の遺構が残る城。
武蔵・引田城~甲斐武田氏家臣で北条氏の庇護を受けた志村景元の居城でした。
沢山城(三輪城)~北条氏照の書簡があることから小田原北条氏の支城の可能性あり。
浄福寺城~築城は大石氏で由井城の説あり、後に八王子城の出城として運命を共にしました。
二宮城~木曽義仲の末裔である大石信重によって築城との記録あり、現在の二宮神社、武蔵守護代の大石氏とは?
鉢形城~数万の敵に1か月も籠城した頑強な要害で日本100名城で国の史跡です。
毛呂山城跡(毛呂氏館跡)と毛呂一族の墓~源頼朝に仕えた在地領主で、戦国時代まで存続しました。
武田信玄~風林火山の軍旗のもとに、戦に明け暮れ駆け抜けていった53年の人生でした。
武田勝頼~甲斐源氏・戦国大名としての甲斐武田氏最後の当主、素質と環境が合わず悲劇が訪れます。
真田昌幸~武田信玄を敬愛し「表裏比興の者」は死しても徳川家に恐怖を与えました。
古河公方館跡~古河公方とは?関東における戦国時代の幕開けの存在
本佐倉城~続日本100名城・国指定史跡で千葉氏の最後の拠点、下総の名族から戦国大名となった千葉氏の歴史とは?
関宿城跡~利根川と江戸川に囲まれた関東の水運の拠点~北条が上杉を制した場所。
金子家忠~大剛勇の強者として活躍した武蔵七党・村山党の金子一族で入間に墓と屋敷跡があります。
中山家範館~武蔵七党の丹党、中山家範は八王子城で戦死、子の中山信吉は水戸藩附家老に出世。
由木城跡(柚木城跡)~大石氏館跡・大石定久公の像とお墓~永林寺にて
小山城~小山氏の始祖である小山政光が平安時代に築城、下野国最大の武士団を率いていました。
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