室町幕府

太田道灌~扇谷上杉氏の家宰で多彩で非凡な才能故に主君に疎まれ暗殺された悲劇の武将。

太田道灌 銅像(越生駅)



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【太田 道灌】

太田 道灌(おおた どうかん)は、
室町時代後期に関東地方で活躍した武将です。
武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰でした。
摂津源氏の流れを汲む太田氏で、
諱は資長(すけなが)。
太田資清(道真)の子で、
家宰職を継いで享徳の乱
長尾景春の乱で活躍しました。
江戸城を築城し、
武将としても学者としても
一流という定評がある人物です。

【生誕】
永享4年(1432年)

【死没】
文明18年7月26日(1486年8月25日)

【改名】
鶴千代(幼名)→ 資長 → 道灌(法名)

【別名】
諱:持資

【墓所】
神奈川県伊勢原市大慈寺
神奈川県伊勢原市洞昌院
官位 正五位下・備中守

【幕府】
室町幕府・武蔵守護代

【主君】
上杉持朝⇒政真⇒定正

【氏族】
太田氏

【父】
太田資清

【母】
長尾景仲の娘

【子】
資康

【養子】
資忠、資雄、資家

【上杉氏と扇谷家】
関東管領上杉氏は
山内上杉家・犬懸上杉家・宅間上杉家・
扇谷上杉家に分かれていました。
このうち山内家と犬懸家が
力を持っていましたが
上杉禅秀の乱で
犬懸家が没落した後は
山内家が関東管領職を独占し、
太田氏の主君である扇谷家は
山内家を支える
分家的な存在でした。

扇谷上杉管領屋敷跡

永享の乱
父である太田資清が扇谷上杉持朝を
補佐していた時代に、
鎌倉公方である足利持氏と
関東管領である山内上杉憲実の対立から
永享の乱へと発展し、
足利持氏は室町幕府軍に敗れて
鎌倉公方は中絶となりました。
後に幕府によって足利持氏の子である
足利成氏鎌倉公方に、
上杉憲実の長男・山内上杉憲
忠が関東管領に任じられると、
上杉憲忠の義父である
上杉持朝の要望により
太田資清が、山内家家宰・長尾景仲と共に、
関東管領である上杉憲忠を補佐しました。
長尾景仲は太田資清の義父で、
太田道灌にとっては母方の祖父にあたります。
康正元年(1455年)頃には
品川湊近くに太田家は
居館を構えていました。
同年12月、正五位下に昇叙し、
備中守となりました。

足利公方邸跡 碑

【享徳の乱】
ところが享徳3年(1454年)、
上杉憲忠が足利成氏に暗殺され、
上杉一門は報復に立ち上がって
武蔵高安寺(東京都府中市)にいた
足利成氏を攻めたのですが、
翌年の享徳4年(14555年)に
分倍河原の戦いで返り討ちに遭い、
当時の扇谷家当主である上杉顕房(持朝の子)
が討死しました。
室町幕府は足利成氏討伐を決め、
駿河守護・今川範忠率いる幕府軍が
鎌倉に攻め寄せました。
敗れた足利成氏は下総古河城に拠って
抵抗しました(古河公方)。
足利成氏は上杉氏に反感を抱く
関東諸将の支持を集めたため、
関東地方はほぼ利根川を境界線として、
古河公方陣営の東側と
関東管領陣営の西側に分断されたのでいた。

古河公方館跡付近の広場

【家督相続】
康正2年(1456年)、
父・道真(法名)から家督を譲られました。
以後、太田道灌は上杉政真(顕房の子)・
定正(顕房の弟)の扇谷家2代にわたって
補佐して、結果的に28年にも及ぶ
享徳の乱を戦う事になったのでした。

太田道灌屋敷跡

【防御拠点の早急な築城】
古河公方側と戦うために早急に
防御拠点を築かねばならず、
上杉顕房死後に扇谷家当主に
復帰した持朝の命で、
康正2年(1456年)から
長禄元年(1457年)にかけて
太田道真・道灌父子は
武蔵国入間郡に河越城(埼玉県川越市)、
埼玉郡に岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)
を築きました。
なお岩槻城は太田道灌によって
築城されたとされていましたが、
近年に太田道灌と対立した
古河公方成氏方の
忍城主である成田正等によって
築城されたとする資料が見つかるに及んで、
現在は後者の学説の方が有力となっています。




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【江戸築城】
更に古河公方側の有力武将である
房総の千葉氏を抑えるため、
両勢力の境界である当時の
利根川下流域に城を築く
必要がありました。
太田道灌は、
江戸氏の領地であった
武蔵国豊嶋郡に江戸城を築城しました。

江戸城 平川濠 北桔橋門

【江戸築城の霊異談】
江戸時代の地誌「新編武蔵風土記稿」によりますと
「道灌日記」という記録からの引用として、
太田道灌が霊夢の告げによって
江戸の地に城を築いたとあるとのことです。
また、「関八州古戦録」では
品川沖を航行していた太田道灌の舟に
九城(このしろ)という魚が踊り入り、
これを吉兆と喜び江戸に城を築くことを
思い立ったという話になっているそうです。
これらの霊異談は弱体化していた
江戸氏を婉曲に退去させるための口実、
という説があるとぼことです。

【江戸城に居館を遷す】
江戸城が完成して品川から居館を遷したのは、
長禄元年4月8日(1457年5月1日)
であったと言い伝えられています。

【神社仏閣の勧請・造営】
江戸城の守護として日枝神社をはじめ、
築土神社や平河天満宮など
今に残る多くの神社を江戸城周辺に
勧請、造営しました。
後に徳川将軍家が拡張した
江戸城を転用した皇居には
現在も「道灌濠」の名が残っています。
江戸城城主となった太田道灌は、
ここで兵士の鍛錬に勤しみ、
城内に弓場を設けて士卒に
日々稽古をさせて、
怠ける者からは罰金を取り
それを兵たちへの茶代に充てたということです。

日枝神社 星ヶ丘城跡

【太田道灌の兵法】
諸書を求めて兵学を学び、
殊に「易経」に通じて当時の軍配者(軍師)の
必須の教養であった易学を修め、
また武経七書にも通じていました。
「太田家譜」によりますと
室町幕府管領・細川勝元に兵書を
贈ったとされています。
太田道灌の兵法は「足軽軍法」と
呼ばれていました。
これは、それまでの騎馬武者による
一騎討ちを排して、
当時、登場し始めていた
足軽を活用した新時代の
集団戦術と論じられていますが、
実のところ「太田家記」に名称だけが
書かれているだけで
その実態は不明とのことです。

【歌道にも精通】
飛鳥井雅親・万里集九などと
交流して歌道にも精通して、
様々な和歌が残されています。
有名な「山吹の里」の伝説は
ここから生まれました。
文明元年(1469年)から
文明6年(1474年)頃に
歌人の心敬を品川の館に招いて
連歌会を催し、
これは「品川千句」と呼ばれています。
ちなみに歌人でもあった父・道真も
「河越千句」を行っています。
また、文明6年には心敬を判者に
江戸城で歌合を行い、
「武州江戸二十四番歌合」が残っています。




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【古河公方・堀越公方
長禄2年(1458年)、
8代室町将軍の足利義政の異母兄である
足利政知が関東に下向し、
堀越公方となりましたが、
古河公方との戦いは膠着していました。
「太田家記」によりますと、
寛正6年(1465年)に
太田道灌は上洛して
将軍足利義政に関東静謐の策を
言上したとあります。
この上洛については
他の史料に所見がなく
疑問とされていましたが、
近年の研究では寛正3年(1462年)に
上杉持朝が堀越公方政知と対立して、
政知の側近・渋川義鏡の讒言によって
扇谷上杉家に対し謀叛の疑いをかけられ、
三浦時高、大森氏頼・実頼父子、
千葉実胤ら扇谷家の重臣が
隠遁する程深刻な事態に陥ったため、
両者の対立の収拾に
数年かかっていた事が
明らかとなっています。
太田道灌が上杉持朝に代わって
幕府に対して弁明あるいは
関係修復するために上洛した可能性も
指摘されています。

伝堀越御所跡 芝生広場

【上杉家の人事】
文正元年(1466年)、
関東管領・上杉房顕(憲忠の弟)が死去しました。
すでに上杉方は武蔵五十子
(いかっこ、現・埼玉県本庄市)に城を造り、
古河公方側と対峙していました。
この五十子陣体制のもと、
18年にわたり両軍は
対峙することになるのでした。
山内家は越後上杉家から
養子に入った上杉顕定が継いでいます。

応仁の乱
翌年応仁元年(1467年)に
京で応仁の乱が勃発しました。
同年、父・道真が長年仕えた
扇谷持朝が死去、跡を孫で16歳の
上杉政真が継いでいます。

【古河公方の進撃】
文明3年(1471年)、
古河公方側が攻勢に出て
武蔵国を突破して箱根山を越え、
長駆して堀越公方・政知のいる
伊豆国へ進撃しようと図りました。
上杉方は古河公方軍を撃退して
古河城へ逆襲して陥落させましたが、
足利成氏は千葉孝胤を頼って落ち延びました。
一旦は上杉方が優勢となりましたが、
足利成氏方は反撃に出て
文明4年(1472年)に
古河城を奪回し、
文明5年(1473年)には
五十子の陣を強襲、
扇谷政真が討死しました。
政真には子がおらず、太田道灌ら重臣が
協議して政真の叔父にあたる
上杉定正を扇谷家当主に迎えました。

【出家】
この頃に出家して、
単に沙彌、沙彌道灌、または道灌と称しました。
備中入道道灌と尊称されたとのことです。
「道灌」を名乗り始めた
正確な時期は不明ですが、
「道灌」名義の初出は
文明6年6月の歌合記事とのことです。

【長尾景春の恨み】
文明5年(1473年)、
山内家家宰・長尾景信が死去しました。
跡を子・長尾景春が継ぎましたがが、
山内顕定は家宰職を長尾景春ではなく
長尾景信の弟・長尾忠景に
与えてしまい、これを
長尾景春は深く恨んだとのことです。

【今川家の内紛勃発】
文明8年(1476年)2月、
駿河国守護の今川義忠が
遠江国で討ち死にし、
家督をめぐって遺児の龍王丸と
従兄の小鹿範満が争い内紛状態となりました。
小鹿範満は堀越公方の執事・
犬懸上杉政憲の娘を母としており、
太田道灌は小鹿範満を家督とするべく、
犬懸政憲とともに兵を率いて
駿河に入っています。

【伊勢盛時の登場】
この今川氏の家督争いは、
龍王丸の叔父の伊勢盛時(北条早雲)が
仲介に入って、小鹿範満を
龍王丸が成人するまでの
家督代行とすることで
和談を成立させ、
駐留していた太田道灌と
犬懸政憲も撤兵しました。
「別本今川記」では、
この際に太田道灌と伊勢盛時が会談して、
伊勢盛時の提示する調停案を
太田道灌が了承したとあります。
従来、太田道灌と伊勢盛時は
同じ永享4年(1432年)生まれとされ、
太田道灌と伊勢盛時というタイプの異なる
名将が会談したエピソードとして有名ですが、
近年の研究によって伊勢盛時は
幕府の政所執事を代々務めた
伊勢氏の系譜に連なり、
年齢も24歳若い康正2年生まれ説が
有力となっています。

伊勢盛時(北条早雲)公の像

【長尾景春の乱】
太田道灌が駿河に出張していた同年6月、
長尾景春は鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)に
拠って古河公方と結び挙兵しました。
長尾景春は従兄弟である
太田道灌に謀反に加わるよう誘いました。
太田道灌はこれを断り、
主君・扇谷定正と父・道真もいる
五十子の陣に赴き関東管領・山内顕定へ、
長尾景春を懐柔するために
長尾忠景を一旦退けるよう進言しましたが、
山内顕定は受け入れませんでした。
次善の策として長尾景春を
武蔵国守護代につけることを
提案しましたが、却下されました。
それでは、直ちに長尾景春を
討つよう進言しましたが、
山内顕定はこれも受け入れませんでした。
翌年の文明9年(1477年)正月、
長尾景春は五十子の陣を急襲し、
山内顕定、扇谷定正は大敗を喫して敗走。
長尾景春に味方する国人が続出して
上杉氏は危機に陥りました。
さらに、石神井城(東京都練馬区)の
豊島泰経が長尾景春に呼応したため、
江戸城と河越城の連絡が
絶たれる事態となったのでした。




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【相模国の城、攻略】
同年3月、太田道灌は兵を動かして
長尾景春方の溝呂木城(神奈川県厚木市)と
小磯城(神奈川県大磯町)を速攻で攻略しました。

【石神井城落城】
江戸城の至近に拠る豊島氏
早期に討たねばならず4月、
太田道灌は兵を発して
豊島泰経・泰明兄弟を
江古田・沼袋原の戦いで撃破し、
そのまま石神井城を落して
豊島氏は没落しました。

石神井城 内郭跡付近の三宝寺池

【古河公方の出陣】
5月、太田道灌は用土原の戦いで
長尾景春を破り、
長尾景春の本拠である鉢形城を囲みましたが、
古河公方成氏が出陣したため
撤退して、早期に
長尾景春を討つ好機を逃しました。

鉢形城跡 二の曲輪~三の曲輪

【古河公方、和議の打診】
太田道灌は上野国へ侵攻して
塩売原で長尾景春と対陣しましたが
決着はつきませんでした。
太田道灌の東奔西走の活躍により
長尾景春は早々に封じ込められた格好になり、
翌年の文明10年(1478年)正月、
古河公方成氏は和議を打診してきました。

【長尾景春、相模から一掃】
同年4月に武蔵の小机城
(神奈川県横浜市港北区)
を包囲しました。
「太田家記」によりますと、
城の守りが堅固な上に、
攻め手が小勢なため包囲は
数十日に及んだとのことですが、
太田道灌は「小机は先ず手習いのはじめにて、
いろはにほへとちりぢりになる」
という戯れ歌をつくって兵に歌わせ
士気を鼓舞してこれを攻め落としたとのことです。
続いて長尾景春方の諸城を落として
相模から一掃しました。

小机城址

【古河公方側の千葉氏攻略】
12月に和議に反対する古河公方の
有力武将であった千葉孝胤を
境根原合戦で破り、
翌年には千葉孝胤と
千葉氏当主の座を争っていた
千葉自胤を擁して、甥の太田資忠を
房総半島に出兵させ、
反対派を一掃しました。
けれども、千葉氏の拠点の一つであった
臼井城攻略中に太田資忠は戦死、
臼井城を落として千葉孝胤を
放逐しましたが、太田軍が撤退すると
すぐに千葉孝胤が巻き返して
千葉自胤側勢力を下総から
一掃してしまいました。

臼井城

【下総進出と撤退】
千葉孝胤と長尾景春の
連携を絶つという
目標は達したのですが、
もう一つの目標である
千葉自胤の下総復帰は
達成できませんでした。
その後、太田道灌は
文明16年(1484年)に
馬橋城(千葉県松戸市)を築城しており、
千葉孝胤を牽制するとともに
下総に進出する拠点を確保したのですが、
太田道灌の死によって
扇谷上杉勢力は馬橋から
撤退することになるのでした。

【享徳の乱の終結】
なおも抵抗を続けていた長尾景春も
文明12年(1480年)6月、
最後の拠点である日野城(埼玉県秩父市)を
太田道灌に攻め落とされ没落しました。
そして文明14年(1482年)、
古河公方成氏と両上杉家との間で
「都鄙合体(とひがったい)」
と呼ばれる和議が成立します。
こうして30年近くに及んだ
享徳の乱は終結したのでした。




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【独力で上杉家を救う】
道灌は30数回の合戦を戦い抜き、
ほとんど独力で上杉家の危機を救いました。
「太田道灌状」で
「山内家が武・上の両国を支配できるのは、
私の功である」と自ら述べています。

【暗殺】
太田道灌の活躍によって
主家扇谷家の勢力は
大きく増していきました。
それとともに、
太田道灌の威望も
絶大なものになっていました。

太田道灌

【主君の妬み・・・】
上杉定正は家臣である太田道灌が
優れた統率力と戦略で敵を圧倒し、
その功を誇って主君を
軽んじる風もみられたとし、
太田道灌の意見を用いないなど
反感を持っていました。

(妬みと恐れ・・でしょうね)

【讒言や疑惑】
「永享記」は太田道灌が人心の離れた
山内家に対して謀反を企てたと記しています。
また、扇谷家中が江戸・河越両城の
補修を怪しみ扇谷定正に
讒言したともあります。
太田道灌はこれらの中傷に対して
一切弁明はしませんでした。

【不測の事態に備えて】
が、「太田道灌状」で
道真・道灌父子の功績が
正当に評価されないことに不満を抱き、
主家の冷遇に対する不満を吐露しています。
また、万が一に備えて嫡男の資康を
和議の人質を名目として
古河公方成氏に預けています。

【太田道灌、暗殺される】
文明18年7月26日
(1486年8月25日)、
扇谷定正の糟屋館
(神奈川県伊勢原市)
に招かれました。
「太田資武状」によりますと、
太田道灌は入浴後に
風呂場の小口から出たところを
曽我兵庫に襲われ、
暗殺されたとのことです。
死に際に「当方滅亡」
と言い残したということです。
これは自分がいなくなれば
扇谷上杉家に未来はないという
予言とのことです。
享年は55歳でした。

【暗殺の動機】
太田道灌暗殺の遂行にあたっては、
力が強くなりすぎた太田道灌が
下克上で自身にとって
代わりかねないと恐れた
扇谷定正が自発的にしたとも、
扇谷家の力を弱めるための
山内顕定の画策に定正が
乗ってしまったとも言われています。
「上杉定正消息」の中で定正は、
太田道灌が家政を独占したために
家中に不満が起こっており、
また太田道灌が山内顕定に
謀反を企てたために
討ち果たしたと述べているとのことです。

【太田道灌の暗殺後、長享の乱
太田道灌暗殺により、
太田道灌の子・資康は勿論、
扇谷上杉家に付いていた国人や
地侍の多くが山内家側に走りました。
そのため扇谷定正はたちまち
苦境に陥ることになり、
翌年の長享元年(1487年)、
山内顕定と扇谷定正は決裂し、
両上杉家は長享の乱と呼ばれる
歴年にわたる抗争を
繰り広げることになるのです。




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【逸話】
【幼少期の逸話】
太田道灌は幼少時から
英才ぶりが世に知られ、
それを物語る逸話がいくつか存在しています。

<障子と屏風>
「太田家記」では、父・資清が
俊英にすぎる鶴千代を心配して
「知恵が過ぎれば大偽に走り、
知恵が足らねば災いを招く。
例えれば障子は直立してこそ
役に立ち、曲がっておれば
役に立たない」と訓戒すると、
鶴千代は屏風を持ち出し
「屏風は直立しては倒れてしまい、
曲っていてこそ役に立ちます」
と言い返したとのことです。

<不驕者又不久>
「寛政重修諸家譜」では、
ある日父・資清は筆をとって
「驕者不久」(驕れるものは久しからず)
と書きました。
すると鶴千代は
これに二字書き加え
「不驕者又不久」
(驕らざるものも久しからず)としました。

100年以上後の江戸時代に
書かれたものなので、
そのまますべて事実とは限りませんが、
太田道灌の才気と
物おじしない毅然とした性格を示す
逸話として知られています。

【山吹伝説】
ある日、鷹狩に出かけた太田道灌は
にわか雨に遭い、
蓑を借りようと農家に立ち寄りました。
出てきた娘は花が咲いた
一枝の山吹を差し出すのみであり、
彼女の意図を理解できなかった
太田道灌は、蓑を借りようとしたのに
花を出されたことに立腹しながら帰宅。
後でこの話を家臣にしたところ、
それは兼明親王の歌
「七重八重花は咲けども
山吹の実の一つだになきぞ悲しき」
(『後拾遺和歌集』所載)に掛けて、
山間(やまあい)の茅葺き(かやぶき)の家であり
貧しく蓑(実の)ひとつ
持ち合わせがないことを
奥ゆかしく答えたのだと教わったのでした。
太田道灌は古歌を知らなかった事を恥じて、
それ以後は歌道に励み、
歌人としても名高くなったということです。

山吹の里・碑(面影橋)

以上が太田道灌の山吹伝説のあらすじですが、
「山吹の里」とされる地は複数存在します。
東京都内では豊島区高田の神田川に架かる
面影橋近くに山吹の里の碑が建ち、
1kmほど東へ行った新宿区内には
山吹町の地名があるほか、
荒川区三河島地域などが
伝説地に比定されています。

<山吹坂>
山吹坂(大聖院)

<紅皿の墓>
紅皿の墓碑 大聖院

他に、神奈川県横浜市金沢区六浦や、
埼玉県越生町にも「山吹の里」
と称する場所が存在しています。
が、山吹伝説は江戸時代に
掛川藩主となった太田氏が
編纂した家譜である「太田家記」には見えず、
その初出は江戸時代中期に
湯浅常山が編纂した「常山紀談」で、
信憑性には疑問が残るとのことです。
また、落語には
この故事をもとにした
「道灌」という演目があるとのことです。

【夢見ヶ崎(ゆめみがさき)】
神奈川県川崎市幸区にある
丘陵地帯・「夢見ヶ崎」の地名は、
太田道灌の見た夢に
由来しているということです。
多摩川と鶴見川に挟まれた
小高い丘で近くを鎌倉街道が走る
この場所は、城を構えるには絶好の環境です。
太田道灌は築城を目論み、
試しに野営してみました。
けれども夜半に
「一羽の白い鷲が兜を掴んで
南西の地へ去ってしまった」
という夢を見て不吉だと感じ、
築城を断念したとされています。
そのため兜を南西の地へ埋め、
新たに築城する場所を探したとのことです。
ちなみに現在は川崎市立夢見ヶ崎動物公園の
東端にある9号古墳跡地に
太田道灌碑と八幡宮が、
神奈川県横浜市鶴見区駒岡3丁目には
兜塚の碑が建てられています。




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【謀反鎮圧】
あるとき、太田道灌の家臣が
謀反を起こして館に立てこもりました。
太田道灌は兵士を差し向け、
突入時に後方から
「あの者は殺すな」と叫びました。
すると謀反した家臣はもしかして
自分だけ助かるのではないかと思い、
剣先が鈍くなり、全て討たれてしまいました。

【三貫清水】
さいたま市北区奈良町には、
太田道灌が「とてもうまい」と言って
三貫文(50万円)の褒美を授けた
「三貫清水」があります。

【将軍の猿】
将軍足利義政は一匹の猿を飼っていました。
この猿は御所に参内する
大名たちに飛びかかって引っ掻き、
大名たちは難渋していましたが、
将軍の猿のために
苦情も言えなかったのでした。
太田道灌が上洛して御所に参り、
猿はいつものように
飛びかかろうとしましたが、
太田道灌がにらみつけると
怯えて縮こまってしまいました。
大名たちは道灌の威に驚いたということです。
太田道灌は上洛するとこの猿のことを知り、
猿師に賂を渡して猿をしたたかに
打ちすえておいたのでした。
そのため、猿は太田道灌に
睨みつけられると怯えてしまったのです。
大名たちはこれを知り、
太田道灌の知恵にさらに驚きました。
なお同様の逸話が
大友宗麟立花道雪にもあります。

【臨終の際の歌】
太田道灌は刺客に槍で刺されました。
太田道灌が歌を好むことを
知っている刺客は上の句を詠みます。

かかる時さこそ命の惜しからめ

太田道灌は致命傷に少しもひるまず
下の句を続けました。

かねてなき身と思い知らずば

「小田原北条記」巻一にも記述されております。
意味は
「このような時、どんなに命が惜しいだろう。
前もって元から存在しない自分と
悟っていなかったならば」とのことです。
これは新渡戸稲造「武士道」
(1899年)において、
勇気ある真に偉大な人物が
死に臨んで有する
「余裕」の一例として
紹介されているとのことです。

【墓所】
神奈川県伊勢原市に首塚
(下糟屋の法雨山大慈寺)、
太田道灌 首塚(大慈寺)

<首塚入り口>
太田道灌 首塚(大慈寺)入口

<大慈寺 駐車場>
太田道灌 大慈寺 駐車場

胴塚(上粕屋の幡龍山公所寺洞昌院)があります。

太田道灌 墓所 洞昌院

埼玉県越生町の龍穏寺に
分骨したと伝わる太田道灌墓があります。

神奈川県鎌倉市の、
北鎌倉から源氏山に抜ける
ハイキングコースに、
太田道灌の首塚と言われる
朽ちた供養塔が存在しています。

太田道灌屋敷跡

【銅像】
東京都荒川区の日暮里駅前には
騎馬姿の太田道灌の銅像
「回天一枝」があります。

東京国際フォーラムのガラス棟に
太田道灌の銅像があります。

埼玉県川越市川越市役所庁舎
(川越城大手門跡)、

太田道灌像

さいたま市岩槻区の
岩槻区役所庁舎前にも
太田道灌の立像があります。

また、2007年には
岩槻太田氏の菩提寺で、
さいたま市岩槻区にある芳林寺にも
騎馬像が建てられています。




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埼玉県越生町には
龍穏寺ほか3カ所
太田道灌銅像があります。
越生町は太田道灌を
地域おこしに活用しており、
越生駅西口に設置した
観光案内所を
「道灌おもてなしプラザ」と
命名しています。

太田道灌 銅像(越生駅)

神奈川県伊勢原市役所前にも
太田道灌の銅像が建てられています。

【地名】
東京都荒川区日暮里地区には
道灌山という地名や
小学校名が存在しています。

太田道灌の時代、
あるいは太田道灌の死後から
しばらくして太田氏の勢力の及んだ
さいたま市岩槻区には
太田という地名も存在しています。

千葉県柏市には太田道灌の名を持つ
小字(こあざ)地名が9か所存在しています。
境根原合戦の際に太田道灌が
軍を進めたことが
由来であるとされています。

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