織田家

荒木村重と残された女性や家臣たちの悲惨な最期~有岡城の戦い~

有岡城跡



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有岡城

岡城(在岡城)(ありおかじょう)は、
兵庫県伊丹市にある日本の城跡。
元は伊丹氏が築城し、
伊丹城(いたみじょう)と言われていました。
国の史跡に指定されています。

【所在地】
兵庫県伊丹市伊丹1丁目12
<本丸跡>  
兵庫県伊丹市伊丹2丁目
(JR「伊丹」駅西側。有岡公園内)
<岸の砦跡(北曲輪の跡)> 
兵庫県伊丹市宮ノ前3-6-1
(猪名野神社境内西側)
<鵯塚跡(惣構の南端)>
兵庫県伊丹市伊丹7丁目
(有岡小学校南側)
その他市内各地に遺構があります。

【別名】
有岡城、在岡城
【形態】
平城
【天守構造】
不明
【築城主】
伊丹氏
【築城年】
南北朝時代
【主な改修者】
荒木村重
【主な城主】
伊丹氏、荒木村重、池田之助
【廃城年】
天正11年(1583年)
【遺構】
石垣、土塁、堀跡
【指定文化財】
史跡(国指定)

【城のあらまし】
南北朝時代、
摂津国人の伊丹氏によって建築され、
文明4年(1472年)に改築されるまでの
伊丹城が日本最古の天守台を持つ
平城となっていました。
けれども、天正2年11月15日
(1574年11月28日)、
荒木村重によって攻め落とされ、
のちに伊丹氏の伊丹城を大改修し、
有岡城に改称しました。

荒木村重はその後に謀反を起こし、
有岡城は織田信長に攻められて
落城となりました。

【城の構造や範囲】
城の範囲は南北1.7km、
東西0.8kmで南北に細長く、
本丸は城の東側(JR伊丹駅付近)に位置し、
有岡城跡史跡公園となっています。
明治時代の鉄道敷設のため、
本丸東側の大半を失ってしまいました。
防御の要所に3つの砦が配置され、
北に「きしの砦」(現猪名野神社付近)、
西に「上臈塚砦」(現墨染寺付近)、
南に「鵯塚砦」が築かれていたとのことです。

【総構え(惣構)】
総構え(惣構)とは、周囲に堀と土塁をめぐらし、
街屋敷や町屋を配置し、
防御帯を設けた城郭構造のことを指します。
大坂城や江戸城などにもあった
惣構えの最古(2005年現在)の遺構が
発掘されています。
城の東側を流れる伊丹川との間は崖になっており、
さらにその東側には駄六川と猪名川が流れており、
これらの河川が天然の要害となっていました。
西側と南側は人工の堀を設け、
東西0.8km、南北1.7kmもの、
総構えとなっていました。
総構えの構造は、
荒木村重が大改修によって
完成させたものだそうです。
織田信長の大軍による攻撃にも、
一年にわたって耐えるほど
強固な構造であったことがわかっています。




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【石垣の先駆けと天守も?】
有岡城の土塁の下から石垣積みが発見され、
墓石などの転用石材があり、
石垣の先駆ではないかと注目されています。
また日本で最初の天守が備えていたとも
言われており、
城内には北ノ砦、上﨟塚砦、鵯塚砦、岸ノ砦、
昆陽口砦などが築かれており堅城でした。

<有岡城の石垣>
有岡城の石垣

<有岡城の井戸跡>
有岡城・井戸跡

<有岡城礎石>
有岡城・礎石

【有岡城の戦い】

有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい)は、
天正6年(1578年)7月から
翌天正7年(1579年)10月19日に
かけて行われた籠城戦の事を指します。
織田信長の配下の荒木村重が、
突然謀反を起こしたことに端を発しています。
「伊丹城の戦い」とも呼ばれています。

【開戦まで】
天正6年(1578年)7月、
三木合戦に参戦し、
羽柴秀吉軍に属していた荒木村重は、
突然戦線を離脱して
居城であった有岡城(伊丹城)に
帰城してしまいます。
織田信長に謀反を起こしたのでした。

【謀反の原因】
謀反の原因は、織田信長の部下に対する
苛酷な態度にあったのではないかと
推察されています。
荒木村重は波多野氏の氏族と言われており、
37万石の所領で織田信長より
摂津守護を拝命していました。

【1.石山本願寺
石山合戦で織田信長と交戦中の石山本願寺へ、
毛利勢と通じた荒木村重が兵糧を
密かに搬入したとの噂が流れていました。
織田信長の命により石山本願寺に、
和睦の交渉役として出向いた時に、
城内の困窮ぶりを目のあたりにし、
交渉を有利にすすめるために、
単独で米100石を提供したという説もあります。

【2.神吉城の攻防戦】
あるいは、神吉城の攻城戦で、
城内の内通者であった神吉貞光(藤太夫)は、
荒木村重と旧知の間であったため、
落城後に羽柴秀吉は
神吉貞光の助命を許しました。
けれども、神吉貞光は、
直後に別所長治のもとに走って
羽柴軍と対峙することになりました。
ためらうことなく、
すぐに別所のもとに走ったことから、
神吉貞光と荒木村重は通じており、
荒木村重も
疑われることになったという説です。

【3.摂津の国人の抵抗】
織田信長の支配強化の動きに
反発する摂津の国人や、
百姓の間で織田信長への
反抗の動きが見られたことから、
彼らによる下からの
突き上げを受けた荒木村重は、
彼らに排除されるよりも先に、
彼らに呼応する形で織田信長との
決別を選択したとする説もあります。

【4.織田信長の家臣との確執】
信長の側近・長谷川秀一の傲慢に
耐えかねたという説がありますが、
これは信ぴょう性には乏しいとされています。
けれども、織田信長の側近衆と
何らかの対立があったとみる説があります。




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【5・足利義昭や石山本願寺と親しかった】
両者の要請を受けて信長に反逆したという説。
荒木村重が支配していた摂津は
羽柴秀吉と明智光秀らにとって重要な地点でした。
荒木村重が反逆した場合、
両者は孤立するので、
それを目的としての謀反という説。
事実として、幕府奉公衆の小林家孝が
有岡城に入城して連絡係を務めていました。

【6.村重の家臣の横流し】
荒木村重の家臣であった中川清秀が、
密かに石山本願寺に
兵糧を横流ししていたため、
それが織田信長に発覚した
場合の処罰を恐れての謀反という説。

【7.将来を悲観】
将来に希望が持てなくなったからという説です。
石山合戦では先鋒を務め、
播磨国衆との繋がりもありましたが、
本願寺攻めの指揮官が
佐久間信盛に、
播磨方面軍の司令官も、
羽柴秀吉が就任したことから
活躍の場がなくなり、
このまま干されてしまう・・と
荒木村重が
思い詰めてしまったからとのことです。

以上の様に、色々な説があり、
何が原因で謀反に及んだのか、
真相はよく解っておらず、
荒木村重のみぞ知る・・・
ということになっています。

【悲観説は明智光秀にも影響?】
ところで、この「悲観説」ですが、
後年、明智光秀が本能寺の変を起こした時も、
一つの説として挙げられております。
そして、一時は、娘婿の父親で親戚であった
荒木村重の行いを見て、
自分と重ねてより悲観の気持ちが強くなり、
決行するに至ったとも
考えられている、という説です。

【明智光秀らの説得】
荒木村重の謀反に驚いた織田信長は、
糾明の使者として明智光秀、
松井友閑、万見重元を有岡城に派遣させました。
特に、明智光秀の娘は、
荒木村重の嫡男である
荒木村次の妻となっていたため、
親戚の縁で選ばれたと考えられています。
これを聞いた高槻城高山右近も、
有岡城へ説得に向かい、
荒木村重が織田信長から受けた
これまでの数々の恩や、
織田信長に勝つのは不可能なこと、
敗北した際には厳しい罰が下るであろうことを
説いたとされています。
高山右近はまた、彼らの疑念を解くために、
すでに荒木村重に2名の人質を
差し出していたにもかかわらず、
さらに長男まで荒木川に人質として
預けたとされています。
人質を差し出すことによって、
謀反を阻止しようとしましたが
失敗に終わりました。

中川清秀の説得により】
荒木村重は、一度はこれらの説得を聞き入れ、
母親を人質に釈明すべく、
息子と共に安土城へ向かったとされます。
けれども、道中の茨木城に立ち寄った際、
家臣から通達を受けたのでした。
「安土城に出向くのはもってのほか、
安土城に行って切腹させられるより、
摂津国で一戦に及ぶべき」
と中川清秀に引き止められたと
説得されたそうです。
荒木村重の家臣らは
「自分たちは信長につく気はなく、
ただちに引き返してこない場合、
他の者を領主とする」
と言ってきたそうです。
これを受け、荒木村重は、
不本意ながらも有岡城へ戻り、
織田信長への逆意を明らかにしたのでした。

【村重に対する織田家臣の人間関係】
織田軍の中には、
荒木村重の出世を
快く思っていない者もいたそうです。
細川藤孝は織田信長に対して
「村重に反意あり」と
謀反三か条なるものを
織田信長に差し出していたとのことです。

信長と対決するにあたり、
荒木村重は足利義昭、毛利輝元、顕如のもとに
人質と誓書を差し出し同盟を誓ったとされています。




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【明智光秀の娘、実家へ戻る】
荒木村次の妻となっていた
明智光秀の娘は離別させ、
明智光秀の元に帰らせました。
この報に接した織田信長は
福富直勝、佐久間信盛を派遣し、
更に同年11月3日に二条城に移り、
明智光秀、松井友閑、
羽柴秀吉を有岡城に向かわせています。
荒木村重はこれに対して
野心はないと答えたとありますが、
人質に母親を差し出せとの
織田信長の命に従わず、
交渉は決裂となったといいます。

黒田官兵衛捕らわれの身になる】
この後、小寺孝隆(黒田官兵衛)が
単身有岡城に来城したが、
そのまま荒木村重によって
幽閉されてしまいました。
同盟関係にあった小寺政職の手前、
捕えて牢獄に閉じ込めてしまったと
思われています。

【荒木村重軍の配置】
<有岡城>⇒荒木村重
尼崎城>⇒荒木村次(嫡男)
<大和田城>⇒安部仁右衛門(村重の家臣)
<吹田城>⇒吹田村氏(吹田氏、荒木村氏)
<高槻城>⇒高山右近(切支丹大名)
<茨木城>⇒中川清秀(右近とは従兄弟)
<多田城(山下城)>⇒塩川国満
<能勢城(丸山城)>⇒能勢頼道
<三田城(さんだじょう)>⇒荒木重堅(村重の寵臣)
花隈城>⇒荒木元清(村重の親戚)

これらの城は、
石山合戦の包囲網を備えるために
織田信長が村重に命じて
築城や修築させたりした城でした。
一方織田信長は石山本願寺と荒木村重の両軍を
敵に回すのは得策でないと考えたと推測され、
村井貞勝を使者として、
石山本願寺に和議を申し入れています。
けれども石山本願寺は、
毛利氏の承諾が必要と主張し、
すぐには快諾とはならなかったとあります。

【織田水軍、鉄甲船で毛利水軍を破る】
そのような状況の時、
天正6年11月6日(1578年12月4日)、
第二次木津川口の戦いで
織田水軍の鉄甲船が出撃して
毛利水軍を大敗させました。
補給路が途絶えた石山本願寺の戦力は
幾分そぎ落とされ、
同年11月9日に、織田信長は
山城と摂津の国境にある
山崎に5万の兵力で進軍し、
翌10日に滝川一益、明智光秀、蜂屋頼隆
氏家直昌、安藤守就らが茨木城を攻囲しました。
同時に荒木軍の切り崩しも着手します。




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【高山右近の動向】
高槻城の高山友照・右近父子は
切支丹大名でした。
城内は、徹底抗戦を訴える父である高山友照らと
開城を求める派で真っ二つとなっていた模様です。
高槻城は要衝の地であったため、
織田信長は高山右近を味方につけるべく、
ジョアン・フランシスコ、
ロレンソ了斎、他2名の宣教師達を
説得に向かわせたとあります。
高山右近は織田方につく意思はありましたが、
荒木村重の下にある
人質達の処刑を恐れ、
判断し兼ねていたのでした。
そこで、高山右近は、
織田信長に領地を返上することにより、
織田との戦を回避し、
尚且つ荒木村重に対しての出兵も回避し、
人質処刑のはさせないという打開策に出ます。
高山右近は紙衣一枚で城を出て、
織田信長の前に出頭したとあります。
荒木村重は、
城に残された高山右近の家族や家臣、
人質を殺すことはありませんでした。
結果的に、高山右近の離脱が、
荒木勢の敗北の大きな要因となったと
見られています。
後に荒木村重の重臣であった
中川清秀も織田軍に寝返りました。
11月16日、
高山右近は織田信長の下に赴き礼を述べています。
織田信長は喜び、高山右近に、
自身が着用していた小袖を与えました。
更には馬も与えました。
そして、この右近の功績を認めて、
再び高槻城主としての地位を安堵し、
摂津国芥川郡を与え、
2万石から4万石に加増させました。

こうして高槻城は織田信長の軍門に降りました。
高山友照と人質が処刑されることはありませんでした。




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【本格的な攻防へ】
右近についで茨木城の中川清秀も帰服し、
大和田城、多田城、三田城も織田信長に寝返り、
荒木村重は孤立しました。
その上、荒木軍の兵は逃亡してしまい、
1万~1万5千いたはずの軍勢は、
いつの間にか5千にまで減ってしまいました。

【織田軍VS荒木軍の激突】
これで戦局有利、と見た織田信長は、
石山本願寺との和平交渉をすぐに打ち切り、
11月14日、
滝川一益、明智光秀、蜂屋頼隆、氏家直昌、
安藤守就、稲葉良通、羽柴秀吉、
細川藤孝軍と荒木村重軍の先鋒隊が激突しました。

その後、織田信長も有岡城と猪名川を挟んだ
古池田(池田城)に本陣を移して有岡城を攻囲します。
池田城は荒木村重の元居城で、
この当時は廃城になっていたと考えらえています。
織田軍は、まず別動隊として動いていた滝川一益、
丹羽長秀隊が同年12月4日、
兵庫の一ノ谷を焼き払い塚口付近に布陣しました。

【本格的な戦闘開始】
本格的な攻城戦は、
12月8日酉刻(午後六時頃)からで、
まず織田軍の鉄砲隊が有岡城に乱射、
次いで弓隊が町屋を放火していきました。
けれども有岡城は、戦国時代の城としては
珍しい総構えの城で守りが堅く、
夜の暗さで攻め切れず、
逆に戦闘が終了した亥刻(午後十時頃)には
織田軍は万見重元ら多くの近臣と
2千もの兵を失ってしまいました。
その後織田信長は有岡城の周りを固めて、
11日には古池田まで陣を戻し、
15日には安土城に帰城しました。

【兵糧攻めに変更】
12月8日の戦いが思いのほか
損害が大きかったことから
力押しの攻城戦を変更し、
兵糧攻めに切り替えられたと
考えられています。

【援軍来ず】
荒木村重は毛利軍と石山本願寺軍の後詰を
期待していましたが
増援軍は現れませんでした。
食糧も欠乏しつつあり、
士気を高めるために
織田信長の嫡男である
織田信忠隊がいる加茂砦に、
翌年の天正7年(1579年)
の正月明けに夜襲をかけます。
加茂砦には織田信忠が率いる
美濃・近江3千兵が陣を張っており、
そこに荒木村重自身が指揮をとり、
500を北ノ砦より出撃させ、
3町離れた加茂砦の西方より
火を放って切りかかったとされています。
また東に待ち伏せていた一隊は、
逃げてくる敵を押しつつ
討ち取っていったとされています。

【嫡男・信忠は無事だったが】
加茂砦の急襲を知った刀根山砦にいた兵たちが
直ちに織田信忠隊の救援に駆け付けましたが、
馬や兵糧を奪われて加茂砦は炎上した後でした。
織田信忠は無事でしたが、
「荒木村重軍強し」との評判は京都まで伝わり
今様が流行るまでになりました。
織田軍はその後警戒が厳重になり、
織田信長自身も有岡城に督戦に訪れました。
同年4月18日に、
有岡城方より討って出て
有岡城の城兵3兵が
討ち取られた模様ですが、
それ以外の記述はなく、
9月までの戦闘経緯は不明です。

【こっそりと尼崎城へ移動】
9月2日夜半、
荒木村重は5,6名の側近を引き連れ、
妻と家族を残したままで
夜陰にまぎれて船で猪名川を下って、
嫡男である荒木村次がいる
尼崎城(大物城)へ移っていました。

一年経過して、窮地に陥っている状況なのに、
一向に援軍を送ってこない毛利家に
荒木村重自ら安芸に出向き、
毛利氏と直接交渉するための
脱出であるとか、
有岡城は内陸であり、
戦略的判断から尼崎城に移ったと、
いろいろと推測されてはいますが、
戦場に部下である兵たちを残したまま、
こっそりと逃げ出すのは、大将としては、
とにかく最低だと思います。
細川藤孝は、このように
突然城と家族を捨て、
茶道具と共に夜逃げした
荒木村重を皮肉って歌を詠んでいます。

「君に引く荒木ぞ弓の筈ちがい
居るにいられぬ有岡の城」

【滝川一益の調略開始】
荒木村重の逃亡は、
しばらくは伏せられていましたが、
織田信長の間者に知られます。
12日に有岡城の攻城軍だった半数を
織田信忠を総大将として
尼崎城へ向かわせました。
滝川一益は調略を開始します。
上﨟塚砦にいた砦の守将の中西新八郎と
副将の宮脇平四郎に、
荒木村重の逃亡の事実を使い、
寝返りを誘い、成功します。

10月15日亥刻(午後十時頃)、
織田軍は有岡城に総攻撃を開始します。
有岡城の城兵はただちに各砦へ配置し
臨戦態勢を整えましたが、
上﨟塚砦に押し寄せた滝川隊は、
何の抵抗も受けることなく城内へ侵入します。
これは中西新八郎と宮脇平四郎のみが
裏切ったわけではなく、
中西らの説得に応じた
守備兵力の足軽大将らが加わった結果でした。




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【有岡城の陥落】
総構えの有岡城でしたが、
内からの攻撃には弱いのが弱点でした。
守備兵はことごとく討ち取られていき、
北ノ砦の渡辺勘太郎、
鵯塚砦の野村丹後の両大将は
降伏を申し出たが受け入れられず、
切腹して果てました。
増援軍の雑賀衆も白兵戦には弱くほぼ全滅。
総構えの城とは城内に百姓、
町人の住居も多数ありました。
織田軍は城内を焼き討ちにし、
郷町から侍屋敷へ
火の手が広がっていきました。
非戦闘員は二の丸に逃れましたが、
そこに織田軍が突入してきたので
本丸に避難していきました。
本丸は三方を堀で囲まれ、
南側は空堀を隔てて二の丸に面しており、
さすがの織田軍も
本丸への侵入は不可能であったようです。

11月19日、
城守をしていた荒木久左衛門は、
開城を決意します。
津田信澄が接収部隊を率いて
本丸に入城します。
ここに有岡城の戦いの戦闘は終結したのでした。

<有岡城の石碑>
有岡城・石碑

【逃げ出した代償】
荒木久左衛門が開城を決意したのは、
織田信長から講和の呼びかけがあり
「荒木村重が尼崎城と花隈城を明け渡すならば、
本丸の家族と家臣一同の命は助ける」
とした為でした。
荒木久左衛門は、手勢300兵を率いて
尼崎城に向かいましたが、
荒木村重はこの説得に
応じることはありませんでした。
荒木村重への説得を
約束していた荒木久左衛門は、
織田信長に顔向けできないと思ったのか、
300兵ともども姿を消してしまいました。
この報告を聞いた織田信長は、
不憫と思いながらも
「荒木一族は武道人にあらず」
と人質全員を処刑するように命じます。

【荒木一族と家臣の処刑】
まず荒木村重の室(継室もしくは側室)であるだし、
ら荒木一族と重臣の併せて36名が妙顕寺に移送。
ついで12月13日辰刻(午前9時頃)に
尼崎城の近く、織田信忠が陣をはっていた
七つ松に有岡城の本丸にいた人質が護送され、
97本の磔柱を建て、
家臣の妻子122名に死の晴着をつけ、
鉄砲で殺害されたとのことでした。
それが終わると今度は、
男性124名、女性388名が
四軒の農家に入れられ、
生きたまま農家ごと火をつけたとあります。

一方妙顕寺に移った荒木村重の室のだし、
荒木一族と重臣36名は、
同時刻に妙顕寺を出立し
京市中引き回しの上、
六条河原で首をはねられていったとされています。
この中には荒木久左衛門の息子である
荒木自然(自念、14歳)、
懐妊中であった荒木隼人介の妻(20歳)も
含まれていたとのことでした。

【有岡城の戦いで処刑を命じた人数】
<荒木一族と重臣衆>
36名
<家臣の妻子衆>
122名
<それ以外の人質衆>
男性124名・女性388名
合計:約670名

その後、荒木村重は
12月中に尼崎城を抜け出し、
花隈城に移動していました。
そして花隈城の戦いへと続いていき、
ここでも敗れ、今度こそ
毛利氏のもとに亡命していったのでした。

なお、高山右近の人質は返されました。
高山友照は越前で牢に入れられ、
しばらく後に許された、とのことでした。

【その後の荒木村重】
天正10年(1582年)6月、
織田信長が本能寺の変で横死すると、
荒木村重は堺に戻りそこに居住しました。
豊臣秀吉が覇権を握ってからは、
大坂で茶人として復帰しました。
そして、千利休らと親交をもちました。




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けれども、有岡城の戦いで
キリシタンに恨みを持っていた荒木村重は、
小西行長や高山右近を讒訴して失敗し、
豊臣秀吉の勘気を受けて
長く引見を許されることはありませんでした。
さらに、豊臣秀吉が出陣中、
荒木村重が、豊臣秀吉の悪口を言っていたことが
北政所に露見してしまいます。
よって、荒木村重は処刑を恐れてまたしても逃亡し出家し、
荒木道薫(どうくん)となったとされています。

天正14年(1586年)5月4日、
堺で死去しました。
享年は52歳でした。

【荒木村重の子孫たち】

岩佐又兵衛
江戸時代初期に絵師として
活躍し浮世絵の祖といわれている人物です。
織田信長による処刑から
乳母の機転によって
生き延びた子孫の一人とされています。

【荒木善兵衛】
荒木村重の子とされています。
有岡城落城の際に、
幼い善兵衛を細川忠興
預かって家中で育てたとされています。
成長すると無役の御知行三百石を賜り
後に丹後大江山の
細川家高守城代などを務めたとされています。

【荒木村】
現在の大阪府岸和田市荒木町。
有岡城陥落時に、荒木村重の子の岩楠が
乳母と共に当地へ逃れ来て、
吉井村の荒地だった当地を開墾して土着。
後に荒木村が成立したという伝承があるそうです。

【荒木克之】
熊本藩に息子である
荒木村勝の子の系統が仕官しているとのことです。

【荒木夢仁斎源秀縄】
荒木流拳法は、
創始者を荒木村重の孫である
荒木夢仁斎源秀縄としています。

亀山城(丹波国)~明智光秀の丹波経営の拠点~やがて本能寺へ向かう

福知山城~初代城主は明智光秀~領民に慕われた証の御霊会、城代は婿で重臣の明智秀満

明智光秀について~駆け足で手短にわかる明智光秀の生涯~

黒田長政~朝鮮出兵で活躍するも石田三成と対立、徳川方になり関ケ原では一番の功労者となる。

妻木城と士屋敷と崇禅寺~明智光秀の正室・煕子の出身と妻木築城主の明智(土岐)頼重とは?

内藤如安~明智光秀の丹波攻め~ナゾに包まれた八木城と丹波内藤氏の栄枯盛衰

黒井城~丹波三大山城~250年間続いた中世から戦国時代の貴重な城郭

赤井直正~丹波の赤鬼・悪右衛門~光秀を追い詰めた武将、黒井城攻防と丹波平定

興禅寺~黒井城の下館~明智光秀の重臣・斎藤利三が治めた春日局の生誕地

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細川藤孝(細川幽斎)~武道・文芸・芸術・コミュ能力と多才多芸な武将~巧みに世を渡り、運も引き寄せる

足利義昭・最後の室町幕府将軍、懲りずに粘って兄の分まで生きる!歴代足利将軍の中で最も長生き!

槇島城・足利義昭が籠城し、室町幕府の実質的な終焉の地~忘却の城跡~巨船出現す!!

細川忠興~正室は明智光秀の娘・ガラシャ~文武両道のハイスペック武将で何事にも極め人。

筒井順慶・松永久秀のライバルで、与力であり友人でもあった明智光秀に味方しなかった人物

石山本願寺~11年にも及んだ石山合戦~織田信長VS本願寺顕如及び浄土真宗

織田信長について~駆け足で手短にわかる織田信長の49年~

池田恒興~織田信長とは乳兄弟で育ち幼馴染、最古参の家臣となり、長久手にて戦死します。

佐久間信盛~織田家筆頭家老として30年間織田家に身を粉にして仕えるも追放される。

水野信元~徳川家康のかなり頼れる伯父だが、最期は織田信長から殺害命令が下る。

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