【清龍寺】
清瀧寺(せいりゅうじ)は、
静岡県浜松市天竜区にある
浄土宗知恩院の末寺です。
山号は信康山で院号は長安院。
本尊は阿弥陀如来です。
応永12年(1405年)、
長安坊がこの地に草庵を構えたのが
始まりという浜松市天竜区二俣町にある古刹です。
戦国時代さなかの天正7年(1579年)9月25日、
徳川家康の長男である松平信康(徳川信康)は、
妻である徳姫(織田信長の娘)に
武田方に内通した嫌疑を掛けられ、
二俣城で自刃となりました。
その後、胴体が城下の清瀧寺に葬られて、
松平(徳川)信康の墓所となっています。
【由緒】
徳川家康の嫡男でありながら、
織徳同盟の時代に徳川家康の命により
切腹させられた松平(徳川)信康の廟所として、
徳川家康によって建立された寺です。
この寺の本堂へ向う坂の途中には池があり、
その池に一筋の水が滝のように落ちています。
この水は、裏山から湧き出た水で、
未だに枯れたことがないとのことです。
織田信長に謀反の疑いをかけられ
自害となった、嫡男・松平(徳川)信康の
涙が流れ続けているのかとも云われているとか。
遠州二俣には当時、
松平家の尊崇する浄土宗の寺がなく、
草庵のあったこの地が埋葬地として
選択されたとのことです。
天正8年(1580年)9月には
徳川家の菩提寺である
三河国岡崎の大樹寺(だいじゅじ)の
一五世呑誉(どんよ)和尚を招いて
本葬が営まれています。
天正9年(1581年)、
徳川家康は、寺に参詣し、
清水の湧き出るのを見て、寺名を清瀧寺と改め、
松平(徳川)信康に
清瀧寺殿と諡(おくりな)を付しています。
清瀧寺は、京・知恩院の末寺となっており、
本尊は阿弥陀如来です。
境内には信康廟のほか、
殉死した吉良於初、
当時の二俣城主・大久保忠世、
三方原で討死した中根平左衛門正照、
青木又四郎吉継らの墓もあります。
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【井戸櫓】
境内にある二俣城の井戸櫓は、
元亀3年(1572年)、
武田勝頼軍が、
天竜川に大量の筏(いかだ)を流して
二俣城水の手櫓を破壊し、
落城させた際の水の手櫓とのことです。
この建築物は再建となります。
廃城ののちに清瀧寺へ移築され、
明治時代に改築、
さらに荒廃したため現存する櫓は
昭和37年に再建されたものです。
山門は寛文8年(1668年)に
建立された四脚門です。
江戸時代はこの門前に
「下乘」の高札が建っており、
馬をもって乗り入れることが
許されなかったとのことです。
なお、清瀧寺に葬られているのは
松平信康の胴体で、
首塚は岡崎市にある若宮八幡宮です。
なお、若宮八幡宮は岡崎城主だった
松平信康(徳川信康)がご祭神となります。
東京都新宿区にある西念寺は、
松平信康(徳川信康)の介錯人だったとされる
服部正成(半蔵)が開基した寺で、
松平信康のために服部正成が
建てたとされる供養塔が現存しています。
【逸話】
「本田技研工業の創業者である
本田宗一郎が二俣尋常高等小学校
(現在の浜松市立二俣小学校)に
在学中のある日、『腹が減った』と
授業中に教室から抜け出して
裏山の清瀧寺の鐘楼に赴き、
正午前に鐘を突き、
持ってきた弁当を食べた」という実話が、
清瀧寺の歴史の一部として語り継がれています。
【所在地】
〒431-3314 静岡県浜松市天竜区二俣町二俣1405
【駐車場】
浜松市立二俣小学校の道路を挟んだ向かい側に
現在は目的をもった無料駐車場としてあります。
趣旨に沿ってご利用ください。
【トイレ】
お寺の井戸槍そばにある
本田宗一郎ものづくり伝承館の裏に
男女別の公衆トイレがあります。
現地所要時間:30分程度。
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