鎌倉殿の13人

河津三郎祐泰と血塚・伊東祐親の嫡男で曽我兄弟の父親であり曽我兄弟の仇討はここから始まりました。

河津三郎佑泰



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【河津三郎祐泰】

河津三郎祐泰(かわづ さぶろう すけやす)は、
平安時代末期の武将であり、伊豆国の豪族です。
工藤氏の流れをくむ
伊東祐親(河津祐親)の嫡男であり、
曾我兄弟の仇討ちで知られる
曾我祐成・曽我時致の父親です。祐通とも称します。

【時代】
平安時代末期

【生誕】
久安2年 (1146年)?

【死没】
安元年2年(1176年)10月

【別名】
祐通、三郎

【墓所】
静岡県伊東市 東林寺

【氏族】
伊東氏、河津氏

【父】
伊東祐親

【兄弟】
祐泰、伊東祐清、
北条時政前室、
三浦義澄室、
万劫御前(工藤祐経前室、土肥遠平室)、
八重姫、ほか
妻 横山時重娘(工藤茂光の孫)
子 祐成、時致、原小次郎、律師

【河津姓】
父親の伊東祐親から河津荘を相続したため、
河津姓を名乗りました。
豪力の者として聞こえ、
伊豆巻狩の際に
源頼朝の前で行われた相撲で、
日本一の名を得ていた
俣野五郎をのちに「河津掛」と称される
技で破っています。

同時期、工藤一族内では
伊豆国伊東荘を巡る
所領争いが起きていたのでした。

河津三郎佑泰館跡(河津八幡神社)>
この地で曽我兄弟が生まれたとされています。
河津三郎佑泰館跡(河津八幡神社)

【工藤祐経の恨み】
親族の工藤祐経が相続した伊東荘でしたが、
これに不満を抱いた伊東祐親は、
工藤祐経の上洛中に伊東荘を奪った上、
工藤祐経に嫁がせていた
娘の万劫御前とも離縁させてしまいました。

最も伊東祐親からすれば、
伊東荘は元来父親の所領であり、
父の死後に祖父が後妻の連れ子が
産んだ子を嫡男に据えて伊東荘を与え、
嫡孫である自分を次男として
養子に迎えたこと自体が
理不尽な仕打ちであったとして、
その後妻の子の息子から
伊東荘を取り戻しただけという
認識だったとされています。
けれども工藤祐経はこれを深く恨み、
郎党に伊東祐親の暗殺を命じたのでした。




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【矢に当たり落命】
安元2年(1176年)、伊豆に流された
源頼朝の無聊を慰めるべく
狩りがおこなわれました。
その帰り道で待ち伏せたのは、
工藤祐経の配下の大見小藤太成家と
八幡三郎行氏の二人です。
共に弓の名手で、
街道を行く伊東祐親と
河津祐泰親子を
遠矢で射殺そうとしたのでした。
街道を眼下に見おろす
椎の木三本に身を潜ませて、
何名かの武将が通るのをやり過ごし、
やがて先に馬に乗って河津三郎祐泰は現れました。

椎の木三本

目の前を通り過ぎるのを待って
八幡三郎が放った矢は、
鞍の後ろをかすめて
河津三郎祐泰の腰を貫いたのでした。
剛の者である河津三郎祐泰は
応戦しようとしましたが、
力尽きて落馬しました。

続いてやって来た伊東祐親を狙った
大見小藤太の矢はわずかにそれて失敗しました。
他の武将も異変に気付いたために、
二の矢を放つことなく二人の刺客は退散しました。
伊東祐親は落馬した息子を抱きかかえましたが、
既に河津三郎佑泰は虫の息でした。
河津三郎佑泰は最期の力を振り絞り、
自分を射た者が八幡・大見の両名であり、
工藤祐経の企みであろうと告げたとのことです。
そして言葉を継いで、
残される子供を案じつつ
息絶えたのでした。
享年は31歳と「曽我物語」にあります。

<河津三郎佑泰夫妻の宝篋印塔>
河津三郎佑泰の館跡とされている
河津八幡神社横にあります。
河津三郎佑泰夫妻の宝篋印塔

<河津八幡神社の所在地>
〒413-0515 静岡県賀茂郡河津町谷津375

<交通アクセス>
伊豆急行「河津」駅から徒歩で5分

【妻の再婚と二人の子供】
河津祐泰の妻(横山時重の娘)は
5歳の十郎(祐成)、3歳の五郎(時致)の
2人を連れて曾我祐信と再婚しました。

曽我兄弟の仇討】
父である河津三郎佑泰の死から17年後の
建久4年(1193年)5月28日、
2人の兄弟は富士の巻狩りで
父の仇である工藤祐経を討った後、
兄の曾我十郎祐成は仁田忠常に討ち取られ、
弟の曾我五郎時致は捕らえられて処刑されました。
兄の曾我十郎祐成は享年22歳で
弟の曾我五郎時致は享年19歳でした。

この仇討ちは「曽我物語」として
日本三大仇討ちの一つとして、
やがて広く世に知られる事になるのです。




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【河津三郎祐泰の末子】
河津祐泰の討たれた5日後に生まれた末子は、
河津祐泰の弟である
伊東祐清の妻(比企尼の三女)に引き取られ、
その妻が再婚した平賀義信の養子となり、
出家して律師と号していました。
曾我兄弟の仇討ちの後、
兄に連座して鎌倉へ呼び出され、
7月2日に甘縄で自害しています。
また8月20日には
曾我兄弟と同腹の兄弟である
原小次郎(北条本「吾妻鏡」や
「曽我物語」では「京の小次郎」)が、
曾我兄弟の仇討ちに連動して
失脚した源範頼の縁座として処刑されています。
なお、原小次郎は曽我兄弟の母の連れ子です。
河津三郎と結婚する前に一度結婚して
一男一女を産んでいます。

【河津三郎血塚】

閑静な住宅地の外れに血塚の入口があります。
車止めの先は石畳の道、
そして両脇にはよく手入れされた林が続いています。

河津三郎佑泰血塚 入り口

元々この道は伊豆半島の東海岸を通って
下田へ至る主要な街道であった
「東浦路」の一部であり、
近年自治体が整備して
遊歩道としました。

「東浦路」

石畳の道の奥にあるのが、河津三郎の血塚です。
ここは河津三郎佑泰が落命したと
伝承されている場所となっています。
伊東市指定史跡です。

河津三郎祐泰は伊東祐親の嫡男で、
河津荘を領有していたために
「河津」を名乗っていました。
土地と妻を奪われた工藤祐経の遺恨より
安元2年(1176年)、
工藤祐経の配下である八幡三郎行氏に
矢で射殺されました。

椎の木三本 現地周辺

河津三郎佑泰の血塚は、
曾我兄弟の仇討ち発端の地として知られ、
多くの文人墨客が訪れたとされています。
塚が建てられた時期は不明ですが、
塚の頂上に置かれた宝篋印塔は
南北朝時代の特徴を持つとされており、
おそらくその時代に
伊東氏の一族の者が
塚を造ったのではないかと推測されています。

河津三郎佑泰血塚

<所在地>
〒413-0232 静岡県伊東市八幡野1741−253

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
山口 祥行(やまぐち よしゆき)さんが
演じられます。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

城前寺~曽我兄弟の菩提寺、曽我兄弟のお墓と養父・曽我祐信と母・満江御前の墓があります。

曾我城跡~曾我兄弟が育った曽我氏の館。北条氏康に滅ぼされたが嫡流は足利将軍や徳川家に仕え出世した。

曽我兄弟の縁の地・富士宮市~井出の代官屋敷・曽我八幡宮・曽我兄弟の供養塔・曽我の隠れ岩・音止の滝 

曽我兄弟の縁の場所(富士市)~化粧坂少将(姫宮神社)・曽我寺・曽我八幡宮・五郎の首洗い井戸

満江(万劫)御前~曽我兄弟を含めて5人の子供のお母さんで狩野茂光の孫娘です。屋敷跡やお墓があります。

平賀義信~源氏御門葉及び御家人筆頭として権勢を誇る。平賀氏は2つの系統があります。

伊東佑親~源頼朝の配流地の監視役で八重姫の父であり、北条義時・曽我兄弟・三浦義村の祖父。

伊東佑清~八重姫の兄で曽我兄弟の叔父、親交のあった源頼朝を父から助けるが平家方につく。

虎御前~曽我兄弟の兄・曽我十郎祐成の愛妾、山下長者屋敷(住吉要害)で生まれ育ったとされています。

大見城跡(伊豆)~鎌倉御家人の大見氏はやがて越後に行き、水原氏から杉原氏となる。

工藤佑経~復讐の連鎖の果てに~曽我兄弟の仇討の相手で後見人の伊東祐親に所領と妻を奪われてしまった人

宇佐美氏とは?~祖は宇佐美祐茂・宇佐美城と宇佐美一族の墓

源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく

仁田館跡~慶音寺に今も残る土塁と堀。仁田忠常について。

御所五郎丸~曽我兄弟の仇討事件で源頼朝の危機を救ったとされている人物です。

土肥実平とその妻~武士団「中村党」の中心であり頼朝から厚い信頼を受けた宿老~小早川家の祖。

比企掃部允~比企尼の夫、ナゾ多き人物で居住していた三門館跡にもナゾがあります。

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