【越中国守館跡】
国府は、射水郡にありました。
現在の高岡市伏木古国府です。
現在の勝興寺の附近が国府跡とされており、
境内に「越中國廰址」の石碑が立てられています。
また、近くの高岡市伏木気象資料館(旧伏木測候所)が
「東館(ひがしだち)」という小字名から
国司館跡と想像され、
こちらには「國守館址」の石碑が立てられています。
<石碑(後ろ)>
閉館日で敷地内には入ることができませんでした。
けれども、敷地内からは
9世紀の建物跡が発掘されてはいますが、
奈良時代のものは確認されてはいません。
平安時代末に新湊(現射水市)に移されたことがあり、
太平記には新湊での戦いが記録されているとのことです。
天平18年(746年)、
に大伴家持が国司として赴任してくると、
この地を中心に万葉集の数多くの歌が詠まれました。
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【眺めの良い場所】
大伴家持が暮らした国守館が伏木測候所付近とすると、
国府の100m東側にあたり、台地の東端になります。
そこからは、晴れていれば、
射水川(小矢部川)、富山湾、川、海、
平野越しに立山連峰が何も遮るものがなく、
くっきりと見えるそうです。
朝は海または立山から登る太陽、
昼には、海から吹くあゆの風を感じ、
夕暮れには二上山に沈む夕日もみることができます。
【所在地】
〒933-0112 富山県高岡市伏木古国府12-12
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【交通アクセス】
◆JR氷見線 伏木駅から徒歩3分
◆JR新高岡駅から
●新高岡駅2番のりばから
加越能バス
(伏木駅経由氷見市民病院行き、
伏木駅経由磯はなび行き、
高岡ふしき病院経由西回り伏木循環)
「伏木駅前」下車 徒歩3分
●車で20分
◆高岡駅から
・高岡駅古城公園口(北口)4番のりばから
加越能バス
(伏木駅経由氷見市民病院行き、
伏木駅経由磯はなび行き、
高岡ふしき病院経由東回り伏木循環、
高岡ふしき病院経由西回り伏木循環)
「伏木駅前」下車 徒歩3分
●車で15分
◆能越自動車道 高岡北ICから15分
◆北陸自動車道 高岡砺波スマートICから30分
<駐車場>
伏木駅前観光駐車場(無料)
徒歩3分
【越中国】
越中国(えっちゅうのくに)は、
かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。
北陸道に属し、現在の富山県にあたる地域です。
【5世紀】
5世紀代に設置された西部の
伊彌頭国造・利波氏や
東部の鳥取部氏族の領域が
律令制の施行に伴って統合されました。
【越中国の成立】
7世紀末には、越国(高志国)が分割されており、
後の越前国、越中国、越後国の前身となる
行政区分が置かれていたと考えられています。
大宝元年(701年)8月3日⇒
同2年(702)10月14日までに、
大宝律令が制定され、
全国的な施行に至ることから、
遅くともこの頃までには、
令制国としての越中国が
成立していたと見なされています。
【文献上の越中国の初見】
律令施行時の大宝2年(702年)3月17日に、
越中国の4郡
(頸城郡・古志郡・魚沼郡・蒲原郡)を分ち、
越後国に属するという記録があります。
これが文献上の越中国の初見となります。
越中国は礪波郡・射水郡・婦負郡・新川郡
の4郡で構成される令制国となり、
現在の富山県とエリアをほぼ同じです。
【越中国と能登国】
養老2年(718年)5月2日に、
越前国から分立して成立した能登国を
天平13年(741年)12月10日に
越中国と併合しましたが、
天平宝字元年(757年)に
能登国は越中国から再び分立しています。
【大伴家持の赴任】
天平18年(746)に
大伴家持が国司として赴任してくると
万葉集の数多くの歌が詠まれました。
天平宝字2年(758年)、
越中国に駅鈴が初めて設けられました。
宝亀6年(775年)3月2日、大小目員を設置しました。
延暦23年(804年)6月10日、
上国に定められました。
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【豪族や国人】
越中には大きな勢力がなく、
豪族や国人と呼ばれる小勢力が散らばっていました。
彼らは時勢にしたがい木曾義仲や
北条氏の支流で
守護名越氏、桃井直常などに協力し活躍したのでした。
【室町時代】
室町時代には、
桃井氏や斯波氏との抗争を勝ち抜いた
畠山氏が守護職を得て守護大名となりましたが、
守護自身は在京して、
現地の統治は神保氏といった
守護代に任せることが多かったのでした。
【放生津幕府】
明応の政変で神保長誠の手によって
将軍足利義材が放生津に迎えられ、
一大政権を築き放生津幕府と称されました。
また、この頃に浄土真宗が広まり、
一向一揆も多発していったのでした。
【戦国時代】
戦国時代になると、
守護畠山氏は神保氏と仲違いをし、
代わりに分家の能登畠山氏の力を借りて
統治を維持しようとしました。
けれども畿内における内紛が
激しくなる中で勢力を失っっていきます。
そうした中、神保氏を始めとする
畠山氏の被官の氏族が台頭してきます。
新川郡の守護代である椎名氏が
越後長尾氏(上杉氏)の支援を受け、
射水郡・婦負郡の守護代である
神保氏と抗争を始め、
やがて越中大乱と呼ばれる争いが勃発しました。
【魚津城の戦い】
この抗争は上杉氏側の国人が勝利しましたが、
敗れた神保氏も織田信長の支援を受け、
柴田勝家を司令官とする
織田氏の北陸侵攻が始まり、
やがて越中の上杉氏の勢力は駆逐されていきました。
【柴田勝家・佐々成政・前田利家】
本能寺の変で織田信長が横死した後、
柴田勝家の支援の下で
佐々成政が越中を統一しましたが、
柴田勝家が羽柴秀吉に敗れると、
佐々成政は秀吉に帰服しませんでした。
そして羽柴秀吉方の隣国の
加賀・能登の前田利家と争いました。
前田氏を支援した
羽柴秀吉による富山の役により、
佐々成政は敗北しました。
その所領は新川郡のみとなり
礪波郡・射水郡・婦負郡は前田氏に与えられたのでした。
【江戸時代】
江戸時代初期には土方氏の布市藩がありましたが、
能登国内の領地と交換して、
越中全域が前田領となりました。
後に加賀藩の支藩として
富山藩(婦負郡と新川郡の一部)が置かれましたが、
国内の大半は加賀藩領でした。
その後は改易されることもなく、
廃藩置県を迎えたのでした。
【大伴家持】
大伴 家持(おおとも の やかもち)は、
奈良時代の公卿・歌人。
大納言・大伴旅人の子。
官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人。
小倉百人一首では中納言家持。
【父親は「令和」と関りがある人物】
なお、大伴旅人は、
日本の元号「令和」の選定元としても知られる
梅花の宴(うめのはなのうたげ、ばいかのうたげ、ばいかのえん)
を開いた人物。
梅花を題材とする32首の和歌が詠まれた宴会のことです。
『万葉集』巻五にある梅花の宴の歌32首の序文に記された
一節を典拠として、新元号「令和」が選定されました。
【生誕】
養老2年(718年)頃
【死没】
延暦4年8月28日(785年10月5日)
【大伴家持とは?】
「万葉集』の編纂に関わる歌人として
取り上げられることが多いですが、
大伴氏は大和朝廷以来の武門の家です。
祖父・安麻呂、父・旅人と同じく
律令制下の高級官吏として歴史に名を残し、
延暦年間には中納言にまで昇進しました。
【経歴】
天平10年(738年)に内舎人と見え
18天平12年(740年)
藤原広嗣の乱の平定を祈願する
聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
天平17年(745年)に従五位下に叙爵し、
翌天平18年(746年)3月に宮内少輔、
次いで6月に越中守に任ぜられて
地方官に転じました。
赴任中の天平21年(749年)、
従五位上に昇叙される一方で、
223首の和歌を詠んでいます。
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【エリート街道を進む】
天平勝宝3年(751年)少納言に任ぜられて帰京後、
天平勝宝6年(754年)兵部少輔、
天平勝宝9年(757年)兵部大輔と
孝謙朝後半は兵部省の次官を務めました。
この間の天平勝宝7年(755年)難波で
防人の検校に関わりましたが、
この時の防人との出会いが
「万葉集」の防人歌収集につながっていました。
【橘奈良麻呂の乱で処罰を免れる】
天平宝字元年(757年)に発生した
橘奈良麻呂の乱では、
越中国赴任時に深い交流を持った
大伴池主を始めとして、
大伴古麻呂や大伴古慈斐ら
一族が処罰を受けましたが、
大伴家持は謀反に与せず処罰を免れました。
けれども、乱の影響を受けたものか、
翌天平宝字2年(758年)に
因幡守に任ぜられ再び地方官に転出しました。
翌天平宝字3年(759年)正月に
因幡国国府で「万葉集」の最後の和歌を詠んでいます。
【藤原仲麻呂の暗殺計画の露見】
天平宝字6年(762年)、
信部大輔に任ぜられ京官に復帰しますが、
淳仁朝で権勢を振るっていた
太師・藤原仲麻呂に対して、
藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の
3人とともに暗殺計画を立案しました。
しかし密告により計画は露見し、
天平宝字7年(763年)に
4人は捕えられてしまいます。
【左遷される】
ここで藤原奈良麻呂が
単独犯行を主張したことから、
大伴家持は罪に問われませんでしたが、
翌天平宝字8年(764年)正月に
薩摩守へ左遷されてしまいました。
九州に下向していたためか、
同年9月に発生した
藤原仲麻呂の乱での動静は伝わりませんでした。
その後、神護景雲元年(767年)、
大宰少弐に転じ、
称徳朝では主に九州地方の地方官を務めていました。
【再びエリート街道へ】
神護景雲4年(770年)9月、
称徳天皇が崩御すると
左中弁兼中務大輔と要職に就き、
11月の光仁天皇の即位に伴って、
21年ぶりに昇叙されて正五位下となりました。
光仁朝では式部大輔・左京大夫・衛門督と
京師の要職や上総・伊勢と
大国の国守を歴任する一方で、
宝亀2年(771年)従四位下、
宝亀8年(777年)従四位上、
宝亀9年(778年)正四位下と順調に昇進。
宝亀11年(780年)、
参議に任ぜられて公卿に列し、
翌天応元年(781年)には従三位に叙せられました。
【解官されるも更なる昇進へ】
桓武朝に入ると、
天応2年(782年)正月には
氷上川継の乱への関与を疑われて解官されます。
しかしながら早くも同年4月には、
罪を赦され参議に復し、
翌延暦2年(783年)には
先任の参議であった
藤原小黒麻呂・藤原家依を越えて中納言に昇進。
また、皇太子・早良親王の春宮大夫も兼ねました。
【持節征東将軍となる】
さらに、延暦3年(784年)には
持節征東将軍に任ぜられて、
蝦夷征討の責任者となったのでした。
翌延暦4年(785年)4月には
陸奥国に仮設置していた
多賀・階上の両郡について、
正規の郡に昇格させて
官員を常駐させることを言上し許されています。
【最期と死没地について】
同年8月28日薨去。
最終官位は
中納言従三位兼行春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍。
兼任していた
陸奥按察使持節征東将軍の
職務のために滞在していた
陸奥国で没したとされていますが、
あるいは遙任の官として在京していたとの両説があります。
したがって死没地にも平城京説と多賀城説とがあります。
【没後にまさかの追罰と官籍からの除名】
没した直後に藤原種継暗殺事件が
造営中の長岡京で発生、
大伴家持も関与していたとされ、
追罰として、埋葬を許されず、
官籍からも除名されました。
子の永主も隠岐国への流罪となりました。
大伴家持は没後20年以上経過した
延暦25年に恩赦を受けて従三位に復しています。
【歌人として】
長歌・短歌など合計473首が
「万葉集」に収められており、
「万葉集」全体の1割を超えています。
このことから大伴家持が
「万葉集」の編纂に拘わったと考えられています。
勅撰歌人として、
「拾遺和歌集」(3首)以下の
勅撰和歌集に60首が採られています。
太平洋戦争中に玉砕を報せる
大本営発表の前奏曲として流れた
「海ゆかば」(作曲:信時潔)は、
大伴家持の「賀陸奥国出金詔書歌」
(「万葉集」巻十八)によっています。
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