【鹿島城】
鹿島城(かしまじょう)は
茨城県鹿嶋市城山1丁目にあった中世の日本の城郭です。
【別名】
吉岡城
【城郭構造】
連郭式平山城
【築城主】
鹿島政幹
【築城年】
伝治承年間
【主な改修者】
鹿島義幹
【主な城主】
鹿島政幹、鹿島幹重
鹿島義幹 鹿島氏
【廃城年】
不明
【遺構】
堀、土塁(わずか)
【鹿島城の歴史】
常陸平氏の鹿島政幹が
平安末期に築いた城です。
それ以降鹿島氏の居城となりました。
本丸の跡地は現在、
鹿島城山公園として
市民の憩いの場になっています。
二の丸跡地は
茨城県立鹿島高等学校・附属中学校が立地しています。
築城以来、改修や拡大をつづけてきましたが、
特に知られるのは鹿島義幹による
大改修といわれています。
かつて鹿島城の縄張りの東端は
現在の鹿島神宮二の鳥居の
あたりまでであったということです。
現在実質的な鹿島神宮の表参道である
大町通りは往時の鹿島城内であり、
中世においてはここで
流鏑馬がおこなわれていたということです。
天正年間に常陸平氏の国人領主たちが
佐竹氏に虐殺されたいわゆる
「南方三十三館の謀殺」後に、
佐竹氏は鹿島城に兵を差し向け、
これを落城させたのでした。
佐竹氏は鹿島城の跡地に
陣屋を築いたということです。
(鹿島神宮文書)
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徳川幕府が成立すると、
佐竹氏は国替えになり、
元の鹿島氏が再興しました。
現在の国道51号線と茨城県道18号
茨城鹿島線が交わる
鹿島小学校前の交差点の付近に
鹿島城の大手門があったと云われています。
国道51号線は大船津から
鹿島神宮に至る道があったので
これを圧迫する作用もあり、
51号線を通す際に
空堀を埋めて道路を造ったのでした。
また県道18号線の鹿島城の
縄張り内をとおる部分には
鹿島城の堀があったということです。
鹿島城はかつて二重、三重に
掘があったとされています。
けれども江戸時代にはいって
「平和の時代には不要」として
埋められたのでした。
【掘】
現在の鹿島城は本丸跡の
鹿島城山公園に若干の遺構を
残すのみです。
大部分の遺構は
様々な事象や理由によって
破壊されてしまいました。
【交通アクセス】
JR鹿島線・鹿島臨海鉄道大洗鹿島線
「鹿島神宮」駅より徒歩10分程度。
【所在地】
〒314-0038 茨城県鹿嶋市城山1丁目1
【駐車場】
あり
【鹿島氏】
鹿島氏(かしまし)は日本人の姓氏。苗字。
幾つかの系譜があります。
<中臣鹿島氏>
(なかとみかしまうじ)
鹿島神宮の社家であり、大宮司職を世襲しました。
<平姓鹿島氏>
(たいらせいかしまし)
常陸平氏大掾氏の分家であり、
常陸国鹿島の有力な武家(軍事貴族)で
在庁官人となりました。
中世以降、地頭として
鹿島神宮惣大行事職を世襲しました。
山階宮から臣籍降下した
鹿島萩麿を初代とする鹿島氏も存在します。
【平姓鹿島氏】
鹿島氏は平高望・国香親子の末裔である
大掾氏の一族であるとのことです。
通字は「幹」(もと)。
平国香の六世孫である鹿島成幹が
常陸国鹿島郡の領主となり、
鹿島氏を称したのが始まりであるとのことです。
鹿島成幹は河内源氏の棟梁であった
源義忠を姉または妹の舅である
源義光の命を受けて暗殺しますが、
その源義光の息のかかった
源義光の弟、快誉に殺害されました。
その死後、六人の息子に遺領は分割され、
三男とされる鹿島三郎政幹が惣領となりました。
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【鎌倉時代】
治承・寿永の乱(源平合戦)において、
平家の知行国であった
常陸国の在庁官人を輩出していた
常陸平氏は親平家の立場であったとみられており、
鹿島政幹も多気義幹や下妻広幹、
行方景幹らとともに当初は
平家方であったとみられています。
けれども、鹿島政幹は早い段階で
源頼朝方に転じ、
養和元年3月12日(1181年4月27日)に
源頼朝は鹿島政幹を
鹿島社惣追捕使に任じました。
(「吾妻鏡」)
鹿島社惣追捕使は
鹿島社惣大行事とも称され、
鹿島神宮の神領の検断を任されるとともに、
源頼朝が篤く信仰していた
鹿島神宮の振興の一翼を担うことになったのでした。
また、鹿島政幹の息子である宗幹・弘幹兄弟は
他の板東平氏と共に家来を率いて
源頼朝軍に参加して、
屋島の戦いで戦死したとされています。
【鎌倉幕府中枢とは距離を置く】
その結果、鹿島氏は
鎌倉御家人として認められ、
鹿島政幹は弟の六郎頼幹(林氏始祖)と共に、
源頼朝上洛、御所昇殿の砌に
他の御家人と共に付き従うなど、
鎌倉幕府の諸行事に参加するなどしました。
(「吾妻鏡」)
源頼朝の後継者は源頼朝ほど
鹿島神宮を信仰しなかったので、
鹿島一族は次第に
幕府中枢からの距離ができましたが、
それは幕府の内紛に巻き込まれることなく、
三浦氏などの御家人のように
粛清されることもないという
側面も生んだでした。
その後、鹿島氏は梶山氏、
立原氏など庶子を近隣に配して
勢力を拡大していきました。
【南北朝以後】
鎌倉幕府が倒れ、南北朝時代になりますと、
鹿島氏は北朝方について功績がありました。
そこで、足利氏は鹿島氏当主を
鹿島神宮の惣大行事職に補任し、
代々世襲していくことになりました。
また、併せて鹿島氏当主は
従五位相当官(おもに受領)に
任官するようになりました。
「鹿島治乱記」によりますと、
幼少にして鹿島氏の家督を継いだ
鹿島義幹は姦臣を近づけ、
暴政を布いたために、
家老たちが示し合わせて
近隣の江戸氏や行方氏の兵を鹿島に入れ、
謀反を起こしたとのことです。
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実際、鹿島城は中世の城郭としては
尋常な規模ではなかったとのことです。
鹿島義幹は700名の兵とともに
鹿島城にたてこもりましたが、
相手は3000名をこえていました。
そこで、鹿島家の親戚である
林、東の両氏が、
「この城はまだ改築中であり、
十分な防衛ができるとは思えません。
ひとまず、房総に退き、
下総の加勢をまって
情勢の立て直しを図ってはどうでしょう」
と提案したとか。
ちなみに林氏も東氏も
将軍家直臣であって、
鹿島義幹に意見できる身分であり、
鹿島義幹もこれを無下には
できなかったといわれています。
【鹿島・高天原合戦】
鹿島義幹は最初逡巡しましたが、
下総の東城
(須賀山城のことと思われる東氏の居城・
現在の千葉県東庄町)に退きました。
家老たちは鹿島義幹の姪を
大掾氏の男子にめあわせて
新たな当主としたのでした。
なおこの姪は江戸氏当主の
姪にもあたるので
江戸氏の外圧を受けて
鹿島義幹を追放した勢力には
好都合であったのでした。
鹿島義幹は東城で、機会を伺っていましたが、
同族の島崎氏が流した
「今こそ鹿島を奪回する好機である」
と嘘の情報を真に受け、再起をはかるべく、
東城から出撃し、
現在の茨城県鹿嶋市高天原に上陸し、
城方もこれを迎えうって合戦となったのでした。
これが高天原合戦として後世に語られています。
この戦いにおいては、
松本備前守や塚原卜伝のような
剣豪も参加しました。
鹿島城は皮肉にも鹿島義幹の改築によって、
非常に堅固になっていました。
しかし鹿島義幹はこの合戦において
討ち死にし、鹿島義幹方の兵は
東城に引き上げていったのでした。
鹿島義幹は戦死しましたが、
鹿島義幹の孫治幹(治時)は
鹿島家当主につくことができました。
ところが、鹿島氏は戦国時代後期になると、
3度にわたる内紛を起こした上に
急速に衰退していきます。
【戦国時代後期の鹿島氏】
【江戸氏との同盟強化】
永禄12年(1569年)3月、
鹿島治幹(治時)の次男・氏幹と
三男・義清が家督を巡って争い、
鹿島氏幹は千葉氏の、
鹿島義清は江戸氏の援軍を受けました。
鹿島氏幹は一時鹿島義清を
鹿島から追放しましたが、
10月8日になって
家臣によって暗殺されたため、
家督は鹿島義清が継承して
江戸通政の娘を娶って
江戸氏との同盟を強化しました。
天正7年(1579年)頃から
鹿島氏家臣内部の争いが深刻化してきました。
天正9年2月13日になって
鹿島義清が重臣の林氏に
殺害されたために
再び家督争いが発生しました。
千葉氏側にあった治幹(治時)の子である
貞信(七郎)と清秀(六郎)兄弟が
千葉氏一門である国分氏の支援を受けて
鹿島復帰を図りますが、
同年5月になって江戸重通が
自ら鹿島を攻めてこれを放逐しました。
翌天正10年3月27日になって
江戸重通は治幹(治時)の末子である
通晴を当主に擁立しました。
【北条氏側となる】
天正14年(1586年)になって
鹿島貞信・清秀兄弟が
再度鹿島を攻めて2月25日に
通晴を自害に追い込み、貞信が当主となります。
これに対して江戸氏は翌年の
天正15年(1587年)になって
鹿島を攻めて一時鉾田城を攻め落としましたが、
江戸氏側についた鹿島氏重臣が
貞信に切り崩されたために敗退しました。
貞信は妹を国分胤政に嫁がせたましたが、
天正17年(1589年)に死去し、
清秀が鹿島氏を継ぎました。
これによって従来は
佐竹氏ー江戸氏ー鹿島氏の関係にあって
反北条氏側に立っていた鹿島氏の姿勢が、
北条氏ー千葉氏ー鹿島氏へと
変更されることになるのでした。
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【佐竹氏に暗殺される】
ところが、小田原の役後に、
常陸南部の安堵を獲得した
北部の大名・佐竹氏が鹿島氏当主(清秀か)を
他の常陸南部の地頭たちと一緒に謀殺し、
軍を鹿島に差し向けたのでした。
鹿島軍も善戦しましたが、
当主不在もあってか落城となりました。
【徳川時代】
徳川氏の代になると、
鹿島氏の子孫は下総に落ち延びていたので、
旧家臣たちが幕府に嘆願し、
家の再興を願い出ました。
徳川家康はこれを許し、
鹿島惣大行事家として
存続することになりました。
石高は200石。
なお、鹿島氏の一族は、
庶子等も含めると、旗本になったもの、
水戸藩藩士になったもの、
高松藩藩士になったもの
(高松藩は水戸家の分家のため)、
帰農したものと多岐に渡りました。
塚原城~大掾氏一族で鹿島氏分流の塚原氏が居城し、剣聖として有名な塚原卜伝も城主となりました。
島崎城~常陸大掾氏の一族である島崎氏の居城、よく整備され遺構もわかりやすく登城しやすい城です。
常陸・長山城~大掾氏の庶流行方氏の一族の長山氏が居城し、同族の島崎氏に攻められました。
塚原卜伝~剣聖と謳われ、室町幕府将軍の指南役にもなった剣士の生涯について。
小田城跡(つくば市)~鎌倉初期に八田知家が築城し、戦国時代の小田氏15代の居城でした。
藤沢城~小田城主の小田氏の支城であり、小田城を奪われた際には何度も拠点とした城です。
関城跡(常陸国)~南北朝時代に南朝方であった関宗祐・宗政親子が北朝の標的に晒されながらも戦いました。
大宝城(茨城県)~関東最古の八幡宮である大宝八幡宮境内にあり下妻氏によって築城された城です。
伊佐城~伊達氏の祖とされる一族の伊佐氏が築城し、南北朝時代には南朝側について戦いました。
小栗城~坂東平氏の流れをくむ常陸小栗氏が築城、室町期の関東地方の激動の渦にのまれていきました。
真壁城~大掾氏の一族である真壁氏が支配、江戸時代に浅野長政が真壁藩5万石を与えられます。
土浦城~伝説上では平将門の砦、文献上では八田知家後裔の若泉氏が築城、戦国期を経て土浦藩となる。
阿波崎城~南北朝時代に南朝方の北畠親房が転戦した古城跡です。
神宮寺城(常陸国)~南北朝時代に築城された南朝方の城で遺構が良好な状態で残っています。
古渡城(常陸国)~築城は山岡景友、後に丹羽長重が大名再スタートとなった城です。
江戸崎城~常陸土岐氏である土岐原氏が築城し約200年の統治後に、蘆名氏(佐竹氏)、丹羽長重が入封しました。
木原城~土岐氏の家臣であった近藤氏の居城と伝えられており、城主の近藤利勝の肖像画が発見されました。
平将門公本據豊田館跡~平将門誕生の地と伝わる場所、後に豊田氏の向石毛(向石下)城址となりました。
豊田城(常陸国)(常総市)~桓武平氏の豊田氏が築城、平安時代から戦国時代まで豊田郡を本拠としました。
江戸太郎重長と武蔵江戸氏について~武蔵国の武家で秩父氏一族であり所領のあった場所が東京の地名に今も残っています。
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