【桶狭間古戦場公園】
「桶狭間古戦場公園」
この一帯は、桶狭間の戦いの中心地とされています。
おけはざま山の本陣から
追われた今川義元が、
服部小平太と毛利新介によって
打ち取られた最期の地と言われています。
地元では、田楽坪とも呼ばれております。
今は合戦当時の地形、城、砦などをジオラマ化し、
中央には織田信長と今川義元の銅像を配した
桶狭間古戦場公園として、
合戦から450年目の
2010年に整備されました。
園内には、他に、
今川義元の墓碑、今川義元馬つなぎの杜松、
今川義元首洗いの泉、
漢詩碑、合戦の解説板などあります。
<ジオラマ>
実際の地図を模型的に配置するもので、
ここでは織田信長や今川義元の進軍路もあり、
沓掛城・大高氏と・鳴海城、
各砦などの位置関係がジオラマ化されており、
合戦の様子を実感することができます。
<丸根砦>
<沓掛城・鎌倉街道>
<義元首洗いの泉>
今川義元水汲みの泉とも言われ、
泉の中にくるくる回る桶があったので、
桶廻る狭間が桶廻間、
桶狭間となったとも言われています。
<馬つなぎの社松>
今川義元が馬をつないだと言われる
「ねずの木」です。
触れると熱病に罹るとの伝承があり、
ねず塚にあったものを移植し
今は枯木として残しています。
<駿公墓碣(すんこうぼけつ)>
田楽坪のねず塚から
出土した「駿公墓碣」と刻まれた墓碑です。
苔むしていますが
その建立年は不明です。
また、隣接して昭和8年に
建立された墓碑もあります。
「駿公墓碣」の「駿」とは、
すぐれた又は秀でたの意味し、
駿公とは駿河の国(現在の静岡県)
のすぐれたりっぱな人との意味です。
墓碣とは頭部が丸い形状をした墓石で、
方形をした物は墓碑と言います。
【交通アクセス】
●名鉄名古屋本線「有松」駅下車。徒歩22分程。
●市バス「幕山」下車。徒歩5分程
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【駐車場】
古戦場公園には専用の駐車場はありません。
【所在地】
〒458-0913 愛知県名古屋市緑区桶狭間北3丁目1001
【トイレ】
小ぶりですがあります。
所要時間:20分~
徒歩5~10分程度の場所に「瀬名氏俊陣跡」があります。
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