鎌倉殿の13人

平賀義信~源氏御門葉及び御家人筆頭として権勢を誇る。平賀氏は2つの系統があります。

報国寺 竹の庭



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【平賀義信】

平賀 義信(ひらが よしのぶ/
源 義信 みなもと の よしのぶ)は、
平安時代末期の河内源氏の武将です。
父は新羅三郎義光の四男で、
平賀氏の祖である源盛義です。
諱は義宣とも。

【時代】
平安時代末期⇒鎌倉時代初期

【生誕】
康治2年(1143年)

【死没】
不詳 
※承元元年(1207年)2月20日以前

【改名】
義宣、義信

【別名】
平賀四郎

【官位】
武蔵守

【氏族】
清和源氏義光流(平賀氏)

【父】
源盛義(平賀盛義)

【妻】
比企尼の三女

【子】
大内惟義、
平賀朝雅、
小野朝信、
平賀隆信、
小早川景平

【平治の乱】
信濃国佐久郡平賀郷
(現在の長野県佐久市)を本拠として、
平治元年(1159年)の平治の乱に、
源義朝に従って出陣しました。
「平治物語」には平賀四郎義宣と記され、
三条河原での戦いで
奮戦する平賀義宣(義信)を見た源義朝が、
「あぱれ、源氏は鞭さしまでも、
をろかなる者はなき物かな。
あたら兵、平賀うたすな。義宣打すな。」
と郎党達に救うように
命じている様が描かれているとのことです。
源義朝敗戦の後、
その東国への逃避行に付き随った
7人のうちの1人となりました。
「平治物語」では、尾張国知多郡内海の
長田忠致館で源義朝の最期を知った直後、
逃亡に成功して生き延びます。
その後、地理的に本拠地のある
信濃へ向かったと考えられていますが、
以後20年余に渡って
史料からは姿を消したのでした。

【「従子」の意味】
なお「平治物語」には、
佐渡式部大輔重成(八島重成)
と共に「従子」と記されています。
この従子は現代語訳では
従兄弟と訳されることも
あるとのことですが、
この場合は血縁上の従兄弟ではなく
「一門ではないが、近い源氏」
という意味であるとのことです。
また文脈から
「一族同様に信頼した若武者」
と解釈する向きもあるとのことです。

【治承・寿永の乱】
月日は流れ治承4年(1180年)、
源頼朝が挙兵し、
更に少し遅れて源義仲が信濃で挙兵します。
この時の平賀義信の動向は不明ですが、
平家の全盛期は本拠地である
信濃の佐久郡平賀郷に
ひっそりと暮らしていたと
考えられています。
木曽義仲は木曾から上州に移動した後に、
佐久郡丸子町依田を拠点として
養和元年(1181年)6月に
横田河原の戦いに臨んでいます。
「玉葉」ではこの戦いの反乱の信濃源氏軍を
「木曽党」「サコ党」「武田之党」で
構成されていると記しており、
「サコ党」は佐久党と考えられています。
そして佐久党の中心には
平賀氏が存在していたと見られています。

源頼朝に参じる】
最終的には源義朝の遺児で
平治の乱後の逃避行を共にした
源頼朝の麾下に平賀氏は参じました。
寿永2年(1183年)に
源頼朝が木曾義仲を討つために
軍を信濃に出陣します。

木曾義仲との和解】
結果的には木曾義仲の長男である木曾義高と
源頼朝の長女である大姫の縁組として
和解していますが、
この時の源頼朝軍は
碓氷峠を越えて佐久郡に入り、
依田城を落して善光寺平で
木曽義仲軍と対峙していました。

【木曾義仲との和解に平賀氏あり?】
この源頼朝が木曾義仲に対する
優位性を確立した重要な争いにおいては
佐久を本貫地とする
平賀氏の協力なしに
成し得なかったと
見る考えがあります。
その根拠としては
木曽義仲が挙兵した場所であること、
信濃における重要拠点の一つの
佐久地方がほとんど無抵抗で
制圧されていること、
以上の事からです。

【門葉筆頭として】
元暦元年(1184年)3月、
子である大友惟義が
伊賀国の守護に任じられました。
そして平賀義信自身も
同年6月に源頼朝の推挙により
武蔵守に任官し国務を掌握し、
以後長きに渡って善政を敷いて
国司の模範とされたのでした。
また文治元年(1185年)8月には
大友惟義が相模守となり、
鎌倉幕府の基幹国といえる
両国の国司を父子で務める
ことになるのでした。




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【勝長寿院での源義朝の遺骨埋葬】
また文治元年(1185年)9月、
勝長寿院で行われた源義朝の
遺骨埋葬の際には、
平賀義信と大友惟義が
源義隆の遺児である源頼隆と共に
遺骨に近侍することを許されるなど、
平賀義信への源頼朝の信頼は
最後まで変わることは
なかったとのことです。
この時期の席次において
源氏門葉として
御家人筆頭の座を占めています。

勝長寿院跡

源頼家の乳母父となる】
また源頼朝の乳母である
比企尼の三女を妻とし、
二代将軍となる源頼家の乳母父となりました。

【養子が曽我兄弟の仇討で自害】
建久4年(1193年)の
曾我兄弟の仇討ちでは、
妻の連れ子(伊東佑清の兄の死後引き取っていた)
で平賀義信の養子となっていた
河津祐泰の遺児が事件の連座で
自害しています。

河津八幡神社

【源頼朝の死後も門葉の首座】
正治元年(1199年)の
源頼朝死後も源氏一門の重鎮として
重きをなしていました。
行事交名を見ても、
平賀義信より上席だったことが
あるのは源頼政の子の源頼兼だけで、
他の源範頼も足利義兼も、
もちろん北条時政も常に
平賀義信の下座だったとのことです。
これは平賀義信が
源氏一門(門葉)の首座にいたことを
示しているとのことです。

【晩年】
建仁2年(1202年)3月14日、
永福寺で源頼家と北条政子が、
源頼家の乳母を務めた
比企の尼三女で
平賀義信の妻の供養を行っています。
建仁3年(1203年)9月に起こった
比企氏と北条氏の対立による
比企能員の変では、
双方と縁戚関係を持つ
平賀氏では北条時政の婿である子の
平賀朝雅が北条氏側として
比企氏討伐軍に加わっています。
乱後に3代将軍として擁立された
源実朝の元服の際には
加冠役(烏帽子親)を務めています。




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【没年の時期】
没年ははっきりとはしていません。
が、「吾妻鏡」の承元元年(1207年)2月20日に
「故武蔵守義信入道」とあるので、
それ以前であることは確実であるとのことです。

【平賀氏】

平賀氏は以下の2つの系統があります。
<1>
信濃国を本領とした
清和源氏義光流の一族は
信濃平賀氏です。

<2>
安芸国南部を本領とした
藤姓良房流の一族は安芸平賀氏です。

【信濃平賀氏】

新羅三郎義光の子である盛義が
佐久郡平賀邑を有したことに始まり、
子の平賀義信の代に、
源氏御門葉として、
また御家人筆頭として隆盛を誇りました。

【大内惟義】
平賀義信の子である大内惟義は
文治元年(1185年)に
相模守となります。
2代将軍源頼家以降では
京都守護として活躍し、
幕府から伊勢・伊賀・越前・
美濃・丹波・摂津という
近畿6ヶ国の守護を任され、
更に朝廷の後鳥羽上皇の近臣となり、
大内冠者と呼ばれました。
最終官位は修理権大夫で
四位に昇進したと考えられています。
大内惟義は、承久元年(1219年)正月27日、
3代将軍実朝の右大臣昇進の
鶴岡参宮行列に列したのを
最後に記録上から姿を消しました。

鶴岡八幡宮

【平賀朝雅】
大内惟義の弟である平賀朝雅は、
父の平賀義信に次いで武蔵守となり、
北条時政の娘(牧の方所生)を妻としました。
けれども義父である北条時政の寵愛が災いし、
元久2年(1205年)、
牧の方が平賀朝雅を
将軍にしようとした
陰謀(牧氏事件)が発覚、
京都で誅されました。

【平賀氏の没落】
平賀朝雅の死後及び
北条時政の失脚後も
大内惟義の権威は
揺らぐことがありませんでしたが、
鎌倉幕府内では
執権北条氏の権威が確立し、
当初は御家人筆頭であった席次も
北条氏の下座に着くようになりました。
また大内惟義の後を継いだ
大内惟信は、
承久3年(1221年)の
承久の乱で京方に付き、
平賀氏は没落しました。

【平賀氏の子孫と新田一族】
なお、「楠木合戦注文」に
元弘3年(1333年)の
元弘の変の楠木正成
討伐する幕府軍に動員された
新田義貞の指揮する軍中に
「新田一族、里見一族、豊島一族、
平賀武蔵二郎跡、飽間一族、
薗田淡路入道跡」とあり、
武蔵守に補任された
平賀義信及び平賀朝雅の子孫が
鎌倉御家人として
存続したことがわかります。
これは新田義重と
平賀盛義との深い親交や、
新田義重が平賀氏一族の
義隆、義澄、義資(義職)を
猶子としたことが、
新田氏との間の姻戚関係に
発展して新田荘内に所領を得て、
平賀氏本宗が
新田氏一党に内包されていったものと
考えられています。

生品神社 境内

【その後の平賀氏】
その後は、平賀郷の在地豪族などが
平賀姓を名乗っていましたが、
信濃源氏小笠原氏の庶流である
大井氏の勢力下となったとのことです。
庶流の岩村田大井氏出身の
平賀玄信が記録に残されています。




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平賀源内の登場】
平賀玄信の滅亡後、
一族は陸奥国白石に移り
伊達氏に仕え、名字を白石に改めました。
伊達秀宗が伊予国宇和島藩に移転した際に
讃岐国に足軽として帰農した伝承があります。
江戸時代後期の平賀源内は、
この岩村田大井氏系
平賀氏の子孫と自称して、
平賀姓に復したということです。

【安芸平賀氏】

安芸平賀氏は太政大臣であった
藤原良房の後裔を称し、
松葉資宗(すけむね)を始祖としています。
松葉資宗は源頼朝に協力して
治承・寿永の乱(源平合戦)で
数多くの功を挙げ、
出羽平鹿郡、安芸高屋保、
上総桜尾郷、越中油田条を与えられました。
松葉資宗の子である
松葉惟泰(これやす、平賀惟泰)の頃に
出羽平鹿郡に下向、
在所の名を取って平鹿氏(平賀氏)を称しました。

平賀惟泰の兄である松葉朝宗(ともむね)は
建保2年(1214年)4月19日に
3代将軍である源実朝を
烏帽子親として元服して
その1字を与えられて
初め実宗(さねむね)、
のち朝宗と名乗りました。
平賀惟泰自身も
貞永2年(1232年)7月11日に
北条泰時の邸宅で元服して
「泰」の字を与えられ、
また弟の松葉惟時(これとき、平賀惟時)も
北条時頼の邸宅で元服して
「時」の字を与えられています。

【安芸高屋保に築城】
文永11年(1274年)頃に
平賀氏の一族が元軍の攻撃に備えて、
大陸や半島に近い
他の御家人らと共に西国に下向しました。
そのまま所領の
安芸高屋保
(広島県東広島市高屋町)に
御薗宇城を築いて居城としました。

【家督相続で本拠が安芸高屋保に】
鎌倉幕府が滅亡すると、
高屋保を領していた
平賀共兼(ともかね)は
足利尊氏に従って活躍しました。
けれども、庶長子であった
平賀共兼は平賀氏の惣領であった
弟の平賀直宗(なおむね)と
家督相続で対立します。
この抗争に惣領の
平賀直宗が勝利した結果、
平賀直宗が高屋保に下向して
高屋保の支配にあたりました。
これより平賀氏の本拠は
安芸高屋保となり、
出羽平鹿郡等は
徐々に失われていったのでした。




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【安芸国人領主】
安芸国人領主となった平賀氏は
勢力の拡大に腐心し、
近隣の国人との連携を
深めていったとされています。
室町時代及び
戦国時代における
歴代当主は大内氏当主より
偏諱を受けています。
応永の安芸国人一揆でも
指導的役割を果たし、
毛利氏の家督を巡る
内紛にも介入して、
毛利宗家と庶家の和解に
尽力したとされています。

【戦国時代】
戦国時代に入ると、
当主の平賀弘保は
文亀3年(1503年)に
白山城を新たに築きました。
永正5年(1508年)、
周防・長門の大内義興が
足利義稙を奉じて上洛した際には、
平賀弘保も他の安芸国人と共に上洛して、
船岡山合戦等でも活躍しました。

周防大島からの瀬戸内海

【尼子か大内かで身内同士の争い】
その後、大内氏と尼子氏両者の争いが激化しました。
大永3年(1523年)6月、
大内方の鏡山城が落城すると、
平賀弘保は居城であった
白山城の防備に不安を感じ、
近隣の頭崎山に頭崎城を築城します。
そして嫡男の平賀興貞を城主としました。
ところが、平賀興貞は父の意向を無視して
尼子氏に属してしまいます。
こうして大内方に味方した平賀弘保と
孫の平賀隆宗及び
平賀新九郎(後の広相)兄弟と、
父親の平賀興貞でも
大内派と尼子派に分かれて
争いを繰り広げることになってしまいました。

【平賀氏の次の当主】
天文9年(1540年)、
大内義隆の命を受けた毛利元就
高屋保へと進出、頭崎城を攻略。
敗れた平賀興貞は出家して、
平賀氏の家督は平賀興貞の嫡子である
平賀隆宗が相続しました。
平賀隆宗は大内方として
活躍しましたが、
天文18年(1549年)に
備後神辺城を攻撃中に死去しました。

【大内氏の策謀】
平賀弘保は家督を新九郎に
継がせようと考えましたが、
大内義隆の策謀によって
平賀氏の家督は
小早川氏庶流(沼田小早川氏一族)の
義隆の寵童が改名して相続し、
平賀隆保と名乗りました。

【大内義隆の死】
天文20年(1551年)に
大寧寺の変で大内義隆が
陶隆房によって殺害されると、
陶方に味方していた毛利元就は、
大内方であった頭崎城の
平賀隆保を攻めて自害させ、
家督を新九郎に継がせたのでした。

【「広」を与えられた平賀広相】
新九郎は毛利氏よりその祖先である
大江広元に因む「広」の字を与えられて
「広相」と改名し、毛利氏との関係強化に努め、
近隣の小早川氏に養子に入った
小早川隆景と義兄弟の仲となりました。
そして国人としての自律性を有しながらも
毛利氏への従属を深めていったのでした。
これに伴い偏諱も毛利氏当主から
受けるようになっています。
永禄10年(1567年)に
平賀広相が死去すると家督は嫡男の
平賀元相が継ぎました。

【減封による家禄の返上】
毛利氏が最大勢力を築いていた頃には、
平賀氏の所領も最大となり
1万8000石を領する
規模まで成長していました。
けれども、慶長5年(1600年)の
関ヶ原の戦いの後、
毛利氏が防長移封となりますと、
平賀氏もそれに随行して移住し、
所領も4000石と
大幅な減封となったため、
平賀元相はそれに苦悩して
翌年の慶長6年(1601年)に
家禄を返上して上洛しました。
そして京都での隠棲生活に入ったのでした。

【嫡男が毛利家臣として復帰】
後に嫡男の平賀元忠(もとただ)が
300石の毛利家臣として復帰しました。
なおも京都に住み続けた平賀元相でしたが、
寛永13年(1636年)に
孫の平賀就忠(なりただ)からの
要請を受けて萩に戻りました。

【長寿をまっとうし大往生】
正保2年9月3日(1645年10月22日)、
戻った萩で当時では大変な長寿となる
99歳で大往生を遂げました。
平賀氏はその後も毛利氏家臣として続いたのでした。

【平賀氏庶流】
平賀氏庶流は毛利氏の防長移封に従わず、
帰農した者や平賀氏庶流木原氏のように
商人として生きていく道を
選んだ人々もいました。
また浅野氏に仕え広島藩士として
仕えた者もいました。
そうした末裔の中には、
大正から昭和にかけて活動した
平賀徳太郎海軍少将や、
夕張型軽巡洋艦や
高雄型重巡洋艦、
大和型戦艦を設計した
平賀譲造船技術中将らがいます。

2つの「平賀氏」はどちらもそれぞれ
鎌倉幕府から縁がある
長い歴史を持つ家系であることがわかります。

河内源氏の栄枯盛衰~形成から興隆、衰退、初の武家政権となった鎌倉幕府と次の室町時代。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

源義朝の墓(鎌倉)、忠臣の鎌田政家(政清・政長)と共に眠るもう一つのお墓。

勝長寿院跡、源頼朝が建立した源氏の菩提寺で大御堂といいます。当時の鎌倉の三大寺社の一つでした。

源頼家~悲劇の2代目~北条VS比企、時々朝廷、そして東国武士の権力闘争が渦巻く時期。

源実朝~3代将軍にて天才歌人~繊細で思慮深く秘めた志あり、やがて雪の中に散っていく。

木曾義仲(源義仲)河内源氏の一族で源頼朝とは従兄弟、美男子で信義と情を備えていたが武骨で公家文化には疎かった

源(木曽)義高~大姫の婚約者~幼くも純粋な愛を育むが源頼朝により命を散らす

大姫~源頼朝と北条政子の長女~生涯をかけて愛を貫いた儚くも一本気な姫、静御前と心を通わせる

足利義兼~足利宗家2代目で足利尊氏のご先祖様さま、源頼朝の門葉で妻は北条時子で足利公方邸を構えました。

結城朝光~誇り高く抜け目ない政治力と巧みな弁舌で鎌倉幕府に重きを成していきます。

伏見広綱~源頼朝の有能な右筆、のハズが頼朝の兄嫁への恋文の使いと亀の前を匿って遠江に流罪となりました。

比企尼~源頼朝の乳母~ずっと支え続けた偉大なゴッドマザーで鎌倉幕府創立の陰の功労者。

北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。

牧の方~北条時政を操り?陰謀を巡らせジャマな将軍や御家人たちを消したヤバすぎる人

平賀朝雅~源氏門葉の一族で妻は北条時政と牧の方の娘、故に権力争いの渦中に巻き込まれていきます。

河津三郎祐泰と血塚・伊東祐親の嫡男で曽我兄弟の父親であり曽我兄弟の仇討はここから始まりました。

城前寺~曽我兄弟の菩提寺、曽我兄弟のお墓と養父・曽我祐信と母・満江御前の墓があります。

大江広元~四男の毛利季光は毛利氏の祖となりやがて戦国大名の毛利氏へと続きます。

北条時房~初代連署で六波羅探題南方、北条義時の弟で甥の北条泰時とは最高の相棒であり好敵手でした。

北条泰時~第3代執権で道理の人~北条執権政治の中興の祖で御成敗式目を制定した人物

三太刀(みたち)城跡~小早川氏の祖である土肥遠平の御館か?~相模から安芸国沼田荘へ。

高山城~小早川(本家)氏の居城で隠れた人気のある山城です。

三原城 (続日本100名城)・小早川隆景が築城した三原の街歩きをしたくなるほど大規模な海城。

安芸木村城~竹原小早川家の本拠地で築城は鎌倉時代中期、戦国時代に小早川隆景が養子に入りました。

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