【御門御墓(平将門居館?)】
「みかどおはか」と読みます。
別名は将門塚です。
平将門の供養塔とされる
4基の五輪塔があります。
向かって一番左から水輪と風輪、
他の3つは風輪がない状態とのことです。
敷地内は手入れが
されているとのことですが、
草木生い茂る季節はできれば
避けたほうが良いと思います。
実際に8月に行き、
足を踏み込むのに躊躇しました。
造られたのは鎌倉時代初期とのことです。
土地に残る伝承では、
かつてこの地に平将門の居館があり、
平将門の霊を粗末にすると
祟りがあると信じられたために
造られたとされています。
【名称と地名】
「御門御墓」という名称は、
平将門が乱を起こした際に「新皇」と
称したところから付けられたものであり、
さらに「三門」という地名も
そこから派生した物であると
考えられているそうです。
当地の地名(字名)である
「三門(みかど)」は、
将門が「新皇」と自称し、
「帝」⇒「御門」⇒「三門」と
変化したものとか。
【平真樹の治める土地】
この辺りは、平将門の乱の頃、
平真樹(たいらのまさき)の治める土地でした。
平将門の妻であった「君の御前」の父であり、
平将門の同盟者であるとのことです。
「君の御前」こそ正妻ともいわれています。
当時の風習では通い婚が通例でした。
足繁く通う平将門のために館が
設けられていたものと考えられています。
この付近には君の御前を祀る后神社があります。
この4基の五輪塔はちょうどその神社と
向かいあう形で置かれています。
これもこの五輪塔が
平将門にまつわる伝承を持つもの
であるとする証拠とされています。
当地の南東、約1km(直線距離)のところに
ある「后神社」の地名は(字名)は
「木崎(きさき)」=后で、
「三門(みかど)」=帝と対を
なしているというとのことです。
もともと、その領地をめぐって
常陸大掾・源護と対立し、
平将門は平真樹側につくことになります。
「御門御墓」は平真樹の供養塔でもあると
見られているとも言えます。
【平将門の本拠地】
平将門の本拠地が
どこであったかということについては
諸説あるとのことです。
通説では現在の茨城県坂東市岩井周辺とのことです。
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【所在地】
〒309-1244 茨城県桜川市大国玉三門
〒309-1244 茨城県桜川市大国玉3803付近
【交通アクセス】
JR水戸線「岩瀬」駅(タクシー約15分)
桜川・筑西IC約15分
<場所>
(ご参考まで)
茨城県道148号線(東山田岩瀬線)
「前原十字路」から北東へ約1.2km、
「大国郵便局」のある道路へ入る。
約240m進んだところで左折(西~北西へ)、
約400m進んで左折(西へ)、
狭い道路を約200m、突き当りの直ぐ左側。
<目印>
「光明寺」という寺院の反対側
(西へ直線距離で約280m)辺り。
【駐車場】
ありません。
付近は狭いです。
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