江戸時代

石川数正~徳川家康の懐刀として西三河の家老になるも豊臣家に出奔、その真相は如何に?

松本城



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石川数正

石川 数正(いしかわ かずまさ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名です。

徳川家康の片腕として
酒井忠次と共に活躍していましたが、
小牧・長久手の戦いの後に出奔して
豊臣秀吉に臣従しました。
深志城主10万石となり、
信濃松本藩の初代藩主と
見なすことが通説となっています。

【生誕】
天文2年(1533年)

【死没】
文禄2年(1593年)?

【改名】
助四郎(幼名)、
数正⇒康輝⇒吉輝

【別名】
通称:与七郎、伯耆守、
出雲守、
法号:箇三寺

【墓所】
長野県松本市島立の正行寺
愛知県岡崎市美合町の本宗寺

【官位】
従五位下・伯耆守

【主君】
徳川家康⇒豊臣秀吉

【氏族】
石川氏

【父】
石川康正、

【母】
松平重吉娘

【兄弟】
数正、女(松平家信室)

【妻】
正室:内藤義清娘

【子】
成綱、康長、康勝、政令、康次

【生涯】
【出自は石川源氏】
家系は河内源氏の八幡太郎義家の六男である
陸奥六郎義時が河内国壷井
(現在の大阪府羽曳野市壷井)の石川荘を相伝し、
陸奥六郎義時の三男の義基が石川源氏・
石川氏の祖となったということです。
石川数正の家は三河国に下った
石川氏の与党と自称していました。

【誕生】
天文2年(1533年)、
石川右馬允康正の子(異説に石川右近正勝の子)
として三河国で誕生しました。
石川清兼は祖父、
石川家成は叔父、
石川康通は従弟にあたります。

【徳川家康の懐刀】
徳川家康が駿河国の大名である
今川義元の人質になっていた
時代から近侍として仕えていました。

今川氏真との交渉】
永禄3年(1560年)、
今川義元が桶狭間の戦い
織田信長に敗死し
松平元康(家康)が独立すると、
石川数正は今川氏真と交渉し、
当時今川氏の人質であった
徳川家康の嫡男である信康と亀姫
駿府に留め置かれていた
徳川家康の正室の築山殿を取り戻しました。
永禄4年(1561年)、
家康が織田信長と石ヶ瀬で
紛争を起こした際には、
先鋒を務めて活躍しました。




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【清洲同盟に貢献】
永禄5年(1562年)、
織田信長と交渉を行ない、
清洲同盟成立に大きく貢献しました。

【三河一向一揆では家康に尽くす】
永禄6年(1563年)、
三河一向一揆が起こると、
父である石川康正は
徳川家康を裏切ったとみられますが、
石川数正は浄土宗に改宗して
徳川家康に尽くしました。
石川宗家の家督は
叔父の石川家成が
徳川家康の命で継ぎましたが、
これは石川家成が
徳川家康の従兄妹にあたるためでもあります。
けれども、徳川家康に
近習していたこともあり、
戦後に徳川家康から家老に任じられ、
酒井忠次、石川家成らに次いで
重用されるようになりました。

【嫡男・信康の後見人、西三河の旗頭】
信康が元服するとその後見人となりました。
永禄12年(1569年)には、
西三河の旗頭であった
叔父の石川家成が
遠州東部の要である掛川に転出すると、
代わって西三河の旗頭となりました。

岡崎城代】
また、軍事面においても
元亀元年(1570年)の姉川の戦い
元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い
天正3年(1575年)の長篠の戦いなど、
多くの合戦に出陣して数々の武功を挙げました。
天正7年(1579年)に信康が切腹すると、
岡崎城代となりました。

羽柴秀吉との交渉役】
天正10年(1582年)に
織田信長が死去し、
その後に織田信長の重臣であった
羽柴秀吉が台頭すると、
石川数正は徳川家康の命令で
羽柴秀吉との交渉を担当しました。
このため天正12年(1584年)の
小牧・長久手の戦いにも参加しました。
この戦いにおいて徳川家康に
羽柴秀吉との和睦を提言したともされています。

天正13年(1585年)3月までに
石川数正は康輝(やすてる)と改名しており、
以降短期間ではありますが、
「康輝」名義の文書を発給しています。

豊臣家への出奔】
ところが、天正13年(1585年)11月13日、
徳川家康の下から豊臣秀吉の下へ出奔しました。
理由は「豊臣家との和睦派として
家中で孤立を余儀なくされた」
「秀吉から帰順を説得された」
などとされていますが、
はっきりした理由は分かっていません。
石川数正は三河勢の軍事的機密を
知り尽くしており、
この出奔は徳川家康にとっては致命傷でした。
以後、三河勢は機密漏えいに
対応するため三河以来の軍制を
武田流に改めることになったのでした。




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【豊臣秀吉の家臣として】
その後、豊臣秀吉から河内国内で
8万石を与えられ、
豊臣秀吉の家臣として仕えました。
この時、通称を出雲守に改め、
豊臣秀吉より偏諱を賜って吉輝と改名し、
出雲守吉輝を称したと伝えられています。

【信濃国松本10万石】
天正18年(1590年)の
小田原征伐で小田原北条氏が滅亡し、
徳川家康が関東に移ると、
豊臣秀吉より信濃国松本
(領地は筑摩郡と安曇郡)
10万石に加増移封されました。
なお、松本の石高に関しては
従来の8万石、10万石の2説があります。
石川数正は松本に権威と実戦に備えた
雄大な松本城の築城と、
街道につないで流通機構の経路を
掌握するための城下町の建設、
天守閣の造営など
政治基盤の整備に尽力しました。

【最期】
文禄2年(1593年)、死去しました。
享年は61歳とのことです。
けれども没年には異説もあり、
文禄元年(1592年)12月に
京都の七条河原で葬礼が行われているため
(「言経卿記」)、
それ以前に死去した説もあります。
肥前の国の陣中で亡くなったとされています。

【家督と分割相続】
なお、家督は長男の康長が継ぎましたが、
遺領10万石のうち、康長は8万石、
二男の康勝は1万5000石、
三男の康次は5000石を
それぞれ分割相続することとなりました。

【出奔の理由】
石川数正が出奔したことは
徳川家康を大きく動揺させ、
軍制の改正を余儀なくされたとも
されていますが、
出奔の理由には諸説あって
定かではありません。

【秀吉との外交関連】
<器量に惚れた>
次第に豊臣秀吉の器量に惚れ込んで
自ら豊臣秀吉に投降したという説。

<恩賞>
秀吉得意の恩賞による篭絡に
乗せられたとする説。

<立場が著しく悪化>
対豊臣秀吉強硬派である
本多忠勝らが石川数正が豊臣秀吉と
内通していると猜疑し、
石川数正の徳川家中における立場が
著しく悪化したためという説。

<密約>
豊臣秀吉との間で
(秀吉のところに行けば)
徳川家康との戦を回避するとい
う密約があったとされる説

松平信康関連】
<信康切腹後の家康との不仲>
松平信康の後見人を務めていたため、
天正7年(1579年)の
松平信康切腹事件を契機に
徳川家康と不仲になっていたという説。

<岡崎衆の立場がなくなった>
松平信康切腹後、徳川家の実権が
石川数正を筆頭とする岡崎衆(松平信康派)から
酒井忠次ら浜松衆(徳川家康派)に移ったため、
石川数正は徳川家中で立場がなくなったという説。

【その他】
<傍流扱い>
父である石川康正が
徳川家康と敵対して失脚すると、
徳川家康の縁戚である叔父の石川家成が
石川氏の嫡流とされ、
石川数正はその功績にも関わらず
父の一件ゆえに傍流に
甘んじざるを得なかったからとする説。

<スパイ>
徳川家康と示し合わせ、
徳川家の為に犠牲となった形で
投降したふりをしたという説。




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<本多忠勝、榊原康政ら家臣団>
豊臣秀吉との交渉を行う中で
現状を知る石川数正が、現状を知らずに
主戦論を主張する本多忠勝、
榊原康政ら家臣団に対し
主戦論を放棄させるため投降したという説

<徳川家康の影武者>
家康の影武者である
世良田二郎三郎元信が
立場を利用して信康を殺し、
松平(徳川)家を乗っ取ったためという説。
この説によりますと、
徳川家康が何らかの形で不慮の死を遂げ、
松平家存続のために
世良田元信が君主に挿げ変わっていました。
石川数正もこのことは承認していましたが、
それはいずれ跡取りである
信康が成長すれば、
松平(徳川)氏の家督は
信康が継ぐものと信じていたためでした。
けれども松平信康は織田信長の処断要求に乗じた
徳川家康(元信)の命令で切腹となってしまいます。
徳川家康と松平家に対し
強い忠義心を持っていた石川数正は、
これに激しい怒りを覚えていたとされています。
ただし、この影武者説は
専門外の素人によるものであり、
アカデミズムの立場からは否定されてます。

【真相は如何に??独り言】
実は徳川家康は双子だった・・・
という説もあるほどです。
アカデミズムの立場から否定されている説程、
実は最も真実に近いのかも・・・しれません。
個人的には、嫡男である松平信康がらみで
出奔となったのはないかと
考えています。
岡崎衆と浜松衆の立場もあるとは思いますが、
松平信康の後見人であった石川数正なので、
出奔の理由や真相はもっと
根深い処であったと思います。
大河ドラマではどのように描かれるのか楽しみです。

2023年NHK大河ドラマ
どうする家康」では
松重 豊(まつしげ ゆたか)さんが演じられます。

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

松平信康~将来を有望されていた嫡男でしたが、築山殿と共に非業の死を遂げます。

若宮八幡宮~徳川信康(松平信康)の首塚が祀られてある神社です。

清龍寺(浜松)~徳川信康(松平信康)の墓所となる信康廟があります。

築山殿(瀬名)~徳川家康の正室で松平信康と亀姫の生母ですが、後に非業の死を遂げます。

祐傳寺~石川数正が葬った築山御前の首塚があります。

八柱神社~祐傳寺に葬られた築山御前の首塚が移されひっそりと眠っています。

西来院・月窟廟~徳川家康の正室である築山御前の墓所となります。

水野信元~徳川家康のかなり頼れる伯父だが、最期は織田信長から殺害命令が下る。

五徳(徳姫)~織田信長の長女で徳川(松平)信康に嫁ぎ二人の娘が誕生、が夫と義母の罪状を出す。

鳥居元吉~岡崎譜代の忠臣で徳川家康を支え「三河武士の鑑」と称された人物です。

鳥居元忠~竹千代時代からの側近で伏見城にて玉砕、その最期は血染め畳と血天井として後世に伝えられています。

本證寺~三河一向一揆の拠点で城郭寺院(城郭伽藍)で国の史跡です。

三河・小川城~それぞれの生誕地の一つで小川的場丘城は本多正信、小川志茂城は石川数正となります。

空誓上人~徳川家康の三大危機の一つである三河一向一揆の中心人物です。

酒井忠次~東三河の旗頭で徳川家康第一の功臣、嫡男の信康切腹事件では防げなかったとありますが果たして?

平岩親吉~徳川家康に幼年から仕え、嫡男の松平信康の傅役、名古屋城築城の総指揮官となりました。

羽柴秀吉(豊臣秀吉・木下藤吉郎)下層民から天下人の生涯を手短に!

本多忠勝~徳川四天王の中でも屈折の剛勇者で愛槍の「蜻蛉切」で主君を救いました。

服部正成(服部半蔵)~家柄は松平清康からの家臣で伊賀衆と甲賀衆を指揮、彼自身は忍者の頭領にあらず。

榊原康政~徳川四天王、部隊の指揮に優れ能筆家で、井伊直政・本多忠勝とは特に仲が良かったとされています。

大久保忠世~家柄は松平清康からの家臣で、武功を上げ武田信玄からも称賛されたほどでした。

井伊直政~徳川四天王の最年少、小柄で容顔美麗ながら井伊の赤鬼として勇猛果敢に生涯を駆け抜ける。

長篠・設楽原の戦いの古戦場~織田・徳川連合軍と武田軍の決戦の地です。

大岡弥四郎(大賀弥四郎)~民政や算術に長け岡崎の町奉行であったが武田と通じ謀反を画策する。

奥平信昌~攻防最前線である奥三河の国人、徳川家康の娘婿となり、武田軍猛攻の中長篠城を死守する。

お田鶴の方(椿姫)~今川一族で祖母は寿桂尼、夫亡き後の城を守り緋威の甲冑を纏い家康と最期まで戦った烈女。

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