【山木判官平兼隆館跡】
治承4年(1180年)8月17日の夜、
源頼朝は挙兵するとその手始めとして
伊豆目代平兼隆(もくだい たいらかねたか)の屋敷を襲いました。
奇しくもその日は三島大社の例祭の日でした。
そのため館の郎党は祭りに出かけて守りが手薄であったそうです。
激戦の末、平兼隆の首を討ち取ったのは加藤影廉でした。
館に火を付けて、北条屋敷で激戦を待ち焦がれている
源頼朝への知らせとし、
これが源氏再興ののろしとなったとのことです。
<駐車場>
専用の駐車場はありません。
近くにある「江川邸」と合わせて
見学するのがおすすめです。
江川邸には駐車場があります。
江川邸から徒歩数分の場所です。
※「山木判官平兼隆館跡」は住宅地にあります。
近隣住民の迷惑にならないよう、
静かに見学をお願いします。
【平兼隆】
平 兼隆(たいらの かねたか)は、平安時代後期の武将。
山木兼隆(やまき かねたか)または
大掾兼隆(だいじょう かねたか)とも称していたそうです。
桓武平氏大掾氏の庶流和泉守・平信兼の子でした。
【伊豆国山木へ流されるが勢力を持ち始める】
検非違使少尉(判官)として別当平時忠の下で活躍し、
白山事件にて天台座主であった明雲が
処分されることになった際には
その警備にあたっていました。
ところが、父の訴えにより理由は不明ですが、
有罪となり、治承3年(1179年)1月、
右衛門尉を解任され、伊豆国山木郷に流されました。
治承3年の政変の後、懇意があった
伊豆知行国主・平時忠により伊豆目代に任ぜられました。
そのために平兼隆は伊豆で勢力を持つようになったのです。
【曽我物語より】
「曽我我物語」などにりますと、
北条時政が大番役で京へ上っていた間に
娘の政子が源頼朝と恋仲になり、
帰国の道中に平兼隆との縁談を進めていた
北条時政は平家の怒りを恐れ、
政子を平兼隆のもとへ送ろうとします。
けれども勝気ではありますが、
一途に源頼朝に恋していた政子は
逃げ出して源頼朝のもとへ行ってしまうのでした。
平兼隆は激怒しますが、
源頼朝と政子は
伊豆山権現に庇護され手が出せなかったということです。
【物語としてのフィクション】
けれども、平兼隆の伊豆配流は
治承3年(1179年)の事であり、
源頼朝の長女である大姫の生年などから見て、
平兼隆と政子との婚姻話は物語上の創作と思われています。
(時政の野望って表立ってはいえないし?)
【フィクションを裏付ける事実】
更に、治承3年当時の伊豆国の知行国主は源頼政でした。
以仁王の乱によって源頼政と伊豆守であった
息子の源仲綱が討たれた後の
治承4年(1180年)6月29日に
平時忠が伊豆の知行国主、
猶子の平時兼(平信国の子)が
伊豆守に任命されたことが指摘されており、
平兼隆の目代任命から源頼朝に討たれるまで
2か月弱しかなかったとのことです。
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【山木館襲撃】
治承4年(1180年)8月、
源頼朝は以仁王の令旨を受け挙兵、平兼隆の館を急襲します。
襲撃のターゲットの理由としては、
羽振りが良く、伊豆での勢力が大きくなりつつあったようです。
それゆえに旧知行国主系の工藤氏、
北条氏の攻撃の標的とされることとなった、
との見方があるようです。
【挙兵の際の裏事情?】
また平時忠が伊豆国の知行国主に
任命されたのはこの年の6月29日であったそうです。
その目代と言っても
その在任は1か月余りであったことから、
源頼朝と平兼隆の戦いを同じ京から下った「流人」同志、
あるいは「流人」を中心とした
中央・地方の人的ネットワーク同士の衝突とする
見方もあるとの事です。
更に、この源頼朝の挙兵は
本来は自らに近い源頼政系の源氏が
伊豆からいなくなってしまったため
工藤茂光が急遽、源頼朝を代理の旗頭に
仕立て上げたとの説もあるそうです。
【真実は一つ!】
けれども、裏事情はどうであれ、
源頼朝が挙兵し、
それが鎌倉幕府樹立への第一歩となったのは
紛れもない本当の事です。
【その気にさせるのが上手い頼朝】
挙兵を前に、源頼朝は
工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、
天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉らを
一人ずつ私室に呼んだとされています。
そして、それぞれと密談を行い
「未だ口外せざるといえども、
ひとえに汝を頼むによって話す」
と言い、彼らは自分だけが
特に頼りにされていると喜び奮起したそうです。
【佐々木兄弟の到着】
そして挙兵の前日になって
佐々木定綱、経高、盛綱、高綱ら
佐々木兄弟が参ぜず、
源頼朝は佐々木盛綱に
計画を漏らしたことを後悔しますが、
挙兵の当日になって、
洪水により遅れ、急ぎ疲れた体で
佐々木兄弟が参着すると、
源頼朝は涙を流してねぎらったといいます。
【注進されないように】
平兼隆の下級の職務の男と
源頼朝の家の下女と恋仲で、
その日も来ていたそうです。
多くの武者の集まっていると
注進(起こったことを急いで報告すること)
される恐れがあるので用心のため生け捕ったとか。
【襲撃は朝駆けの予定でした】
襲撃は当初は朝駈けを図っていたそうですが、
佐々木兄弟の遅参によって
計画がくるってしまったそうです。
源頼朝は明朝を待たずに
直ちに山木館を襲撃すべしと命じ、
「山木と雌雄を決して生涯の吉凶を図らん」
と決意を述べたそうです。
また、山木の館を放火するよう命じ、
それをもって襲撃の成否を確認したいとのことでした。
【挙兵の第一歩だから大道を通ります。】
北条時政は
「今宵は三島神社の祭礼だから人が多い。
間道の蛭島通を通ってはどうか」と進言したそうですが、
源頼朝は「挙兵の草創であり、大道を通るべし」と命じたとか。
【そして襲撃決行】
そして深夜に進発。
途中の肥田原で北条時政は
佐々木定綱に平兼隆の後見役の堤信遠は
優れた勇士であるので軍勢を別けてこれを討つよう命じます。
佐々木兄弟は堤信遠の館に向かい、
佐々木経高が館に矢を放ったとか。
「吾妻鏡」はこれを
「源家が平家を征する最前の一箭なり」と記しています。
堤信遠の郎従が応戦して矢戦になり、
そして堤信遠を討ち取られました。
なお、堤信遠は田方郡に勢力を築きつつあり、
北条氏にとっては競合関係にある豪族でもあったのでした。
流石はぬかりない北条時政です。
北条時政らの本隊は山木館の前に到着。
その夜は三島神社の祭礼で
郎党の多くが留守だったため
平兼隆は満足に戦うことができませんでした。
そこへ堤信遠を討った佐々木兄弟も加わります。
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源頼朝は山木館の方角を遠望しますが、
火の手はなかなか上がらなかったそうです。
焦燥した源頼朝は警護に残っていた
加藤景廉、佐々木盛綱、堀親家を
山木館へ向かわせました。
更に加藤特に景廉には長刀を与え、
これで平兼隆の首を取り持参せよと命じたそうです。
そして加藤景廉によって平兼隆は討たれたのでした。
館に火が放たれます。
源頼朝は庭先で兼隆主従の首を検分したとのことです。
19日、源頼朝は平兼隆の親戚である
史大夫知親の伊豆国蒲屋御廚での非法を
停止させる命令を発給したとのことです。
「吾妻鏡」は
「関東御施政の始まりである」
と特記しているとのことです。
【異説・子孫の行く末】
異説では、平兼隆は基饒という法名をもち、
その子孫は武蔵国秩父郡に逃れたといいます。
其の後は八巻氏と称して
甲斐国の武田氏、
常陸国の佐竹氏、
越後国の上杉氏、
陸奥国の伊達氏に仕えたということです。
伊豆の国市が「北条の里さんぽ路」として
市内に数多くある頼朝・政子、北条氏ゆかりの歴史スポットや、
四季それぞれの花の名所であるお寺を紹介するマップを作成したそうです。
伊豆の国市公式サイトより⇓
頼朝・北条の里と花のお寺めぐりマップが完成しました。
江川邸及び旧韮山代官所跡、世襲代官の江川家は900年続く清和源氏で日本の歴史に関わっています。
堤信遠~山木兼隆の後見人で伊豆の権守、源氏が平家を征する最初に放った矢となりました。
源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。
北条氏邸跡(円成寺跡)~北条氏の本拠地で鎌倉幕府滅亡後は尼寺として一族の冥福と鎮魂を祈った地
蛭ヶ小島~源頼朝が20年間過ごし北条政子と夫婦となった配流地~
中村宗平~中村党の祖で源頼朝を支えてきた武士団で、鎌倉党とは大庭御厨を巡る対立がありました。
土肥実平とその妻~武士団「中村党」の中心であり頼朝から厚い信頼を受けた宿老~小早川家の祖。
加藤景廉~頼朝挙兵以来の側近で承久の乱まで生き残る。長男は遠山氏の祖で有名となった子孫あり!
梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。
大庭景親~坂東八平氏の鎌倉氏の一族~最期まで平家に忠誠を尽くした人物です。
北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。
北条宗時~北条時政の嫡男であったが石橋山の戦いで散る~異説有り。
北条義時~鎌倉幕府2代執権~冷酷無情・現実を客観視して行動できる理想家なのか?
北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。
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