史跡・城跡

山王堂の戦い~上杉謙信VS小田氏治の野戦で激戦、上杉勢の「神速」で小田勢は敗退し小田城が陥落。

山王堂(茨城県筑西市山王堂)



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【山王堂の戦い】

山王堂の戦い(さんのうどうのたたかい)は、
戦国時代の永禄7年4月28日
(1564年6月7日)に
常陸真壁郡山王堂
(現在の茨城県筑西市山王堂)で
行われた野戦です。

【年月日】
永禄7年4月28日
(1564年6月7日)

【場所】
常陸国真壁郡山王堂(現・筑西市)

【結果】
上杉軍の勝利

【指導者・指揮官】
<上杉勢>
上杉謙信
柿崎景家
色部勝長
北条高広
中条藤資

<小田方>
小田氏
菅谷政貞
信太治房

<戦力>
(上杉)
8000余騎
(小田)
3000余騎

<損害>
(小田)
甚大(2000余との説あり)

【山王堂の戦いの概要】
越後の上杉謙信
常陸の小田氏治を破った戦いです。
当時関東で関東管領の上杉謙信と
相模の北条氏康の二大勢力が
激しく敵対していました。
小田氏治は当初上杉方でしたがが北条方へ離反。
上杉軍の常陸侵攻を招き、
小田氏治は居城・小田城を出て
野戦に及びましたが、激戦の末敗退します。
小田城は陥落して小田氏治は上杉謙信に降伏し、
北条氏の勢力圏は常陸から消失しました。
この戦いにおける上杉謙信の並外れた速さは、
神速」と表現されているとのことです。

【合戦までの経過】
【常陸国の情勢】
常陸では小田城の小田氏治と
太田城の佐竹義昭が対立していました。
当初は両者とも上杉方でしたが、
小田氏治は北条氏康の誘いに乗り
北条方に通じたのでした。
さらに佐竹義昭と敵対する
下野の那須資胤および
下総の結城晴朝と相応援することを
約したのでした。
これにより一時的に関東北東部は、
上杉方の佐竹義昭・宇都宮広綱・多賀谷政経と、
北条方の小田氏治・結城晴朝・那須資胤
という対立関係となったのでした。




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【小田氏と佐竹氏の対立の激化】
永禄6年(1563年)2月、
佐竹義昭が上杉謙信の
関東出陣に参加すべく常陸を
留守にした隙を突いて、
小田氏治は三村の戦いにおいて
佐竹義昭の縁戚で
佐竹方の府中城主大掾貞国を破りました。
貞国が敗れると、
佐竹義昭は大掾氏の家督に
実弟昌幹(後の小野崎義昌)を送り込み、
常陸中部における佐竹氏の勢力を固めます。
小田氏と佐竹氏の対立はいよいよ激しくなり、
佐竹義昭は宇都宮広綱・多賀谷政経・
真壁氏幹らと連署して、
上杉謙信の出馬を要請しました。

【上杉謙信の出馬】
永禄7年(1564年)4月、
上野国平井にいた上杉謙信は
佐竹義昭らの要請に応え、
ただちに陣触れして出陣します。
長尾一党・新発田重家(揚北衆)・
柿崎景家・山本寺定長・色部勝長(揚北衆)・
中条藤資(揚北衆)・竹俣清綱(揚北衆)・
北条高広・河田長親らを前後に従え、
夜に日をついで一気に押し進みます。
宇都宮氏家原を経て、
27日(6月6日)夜には
常陸国山王堂に着陣。
あまりの速さに関東諸大名の
援軍は間に合わず、
兵力は8000余騎でした。
援軍要請した真壁氏幹が、
使者の持ち帰った上杉謙信の返書を
披見している時に、
上杉謙信の先手は早くも
宇都宮の氏家原に進軍したという
注進に仰天したと伝わっています。

【山王堂の地形】
山王堂はなだらかな丘陵地で、
すそには差し渡し四町ばかり
深泥の所があり、
その向こうに三十町四方ほどの
芦原があったとのことです。
戦略地形としては申し分ない所であり、
上杉謙信はここに本陣の旗をたて、
諸軍を配置。
地元の者を呼んでこの辺りに
名の知れた武士はいないかと聞くと、
その者は海老ヶ島の平塚入道自省と
小田四天王の菅谷・飯塚・
赤松・手塚の名を挙げ、
夜討ちの可能性があるから
御用心あれと告げたとのことですが、
上杉謙信は意に介しなかったとのことです。
山王堂 古戦場
(茨城県筑西市)

【野戦・山王堂】
小田氏治は上杉謙信率いる上杉勢が
押し寄せたと聞いて、
菅谷政貞を先鋒として
3000余騎を率いて小田城を出発。
大島、酒寄を駆け抜け、
茨城郡稲野村西念寺前諸塚あたりから
筑輪川(筑波川)を渡りました。
山王堂近くの三十町四方の芦原に
着陣したのは28日の明け方でした。
川を背にして推尾村(押飛村)の南に
旗を立て、先手を山王堂に向け、
深田を前にして陣をとりました。




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【野戦開始】
28日(7日)辰の刻(8時)、
上杉軍は丘上から静々と降りてきましたが、
突如疾風の如く、鬨の声をあげて
深田を真一文字に突き進んできたとのことです。
小田方の菅谷政貞、信太治房、
平塚弥四郎、赤松凝淵斉らは
敵を寄せつけじと、
弓・鉄砲・槍・薙刀で応戦。
多くの死者が出ましたが、
上杉勢は怯まず、討たれた味方の
人馬を足代にして泥田を踏み越え、
叫びながら切り込んできたとのことです。
さすがの小田勢も、この猛攻に耐え切れず
十町ばかり退いて陣容を立て直そうとしましたが、
上杉勢が追撃にかかったので、
両軍入り乱れて鎬を削り、
鍔を割り、黒煙を蹴立てて戦ったとのことです。

【若者は見た!】
この時の戦闘の激しさを、
真壁氏幹の郎従・稲川石見守という
18歳の若武者が目撃していたとのことです。
「武者ぼこりの一面に立つ中に、
打ち合わせる太刀の光が
電光のように煌めくだけであって、
戦い終わってからも
戦場に黒い霧が立ち込めたように、
おぼろおぼろに見えた」と後に語ったとか。
小田方の先鋒・菅谷政貞は
大いに戦功を上げましたが、
嫡子である彦次郎政頼は弓弦絶え、
矢種尽きて苦戦しているので、
左右の者はひとまず退くことを
勧めましたが、
命を捨てて忠節を
尽くすのはこの時ぞと叫び、
群がる敵中に切り込んで
討ち死にしたということです。
山王堂 古戦場
(筑西市)

【疲労困憊の中、小田城に帰還】
申の刻(16時)まで激戦は続き、
小田勢は地の利を生かして
奮戦しましたが
敗色は濃くなる一方でありました。
小田氏治は朝方渡った
筑輪川に馬を乗り入れ
引き返そうとしましたが、
あまりに馬が疲れているので
馬首を川上に引き向けて
水を飲ませているところへ、
上杉勢が6~7騎追いかけて来て
矢を放ったとのことです。
幸い札よき鎧なので裏まで貫通せず、
小田氏治は川岸を駆け上り
敗れた兵をまとめて小田城に帰還し
防御に手筈をして
上杉勢の攻撃に備えたのでした。
小田城跡

【小田城の戦い】
上杉謙信に出兵を要請した
佐竹義昭・真壁氏幹は
山王堂の戦いが終わった頃に
ようやく到着し、
敗走する小田勢を追撃して
小田城に殺到しました。
小田氏治は篭城しましたが、
小田城は平城で防御がさほど
強固ではありませんでした。
大軍に包囲され攻め立てられては
持ち堪え切れなかったのでした。
北条の後詰もなく、小田氏治は
夜ひそかに数十騎とともに
藤沢城へ逃れました。
小田氏治に代わって戦い指揮を執った
老臣・信太治房は最後まで城内で戦い
自害しました。
こうして小田城は落城となったのでした。




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【参戦武将】
<上杉方>
上杉軍
上杉謙信
柿崎景家
色部勝長(揚北衆)
北条高広
中条藤資(揚北衆)
山本寺定長
新発田重家(揚北衆)
竹俣慶綱(揚北衆)
河田長親
佐竹軍(小田城の戦いのみ)
佐竹義重
大掾昌幹
宇都宮軍(小田城の戦いのみ)
宇都宮広綱

<小田方>
小田軍
小田氏治
菅谷政貞
信太治房(討死)
平塚弥四郎
赤松凝淵斉
菅谷政頼(討死)

【小田城の奪還】
戦いに勝った上杉謙信は
小田城を佐竹義昭
(多賀谷政経・真壁氏幹)に渡し、
翌日の末明けに早くも陣払いして
上野平井へ戻り、
その後越後へ帰国しました。
一方「常陸国志」では
小田城を佐竹義昭に
預けたとしています。
翌年の永禄8年(1565年)、
藤沢城へ結集した小田勢は
小田城を急襲、
敵方の城兵を駆逐して
小田城を奪還しました。

【上杉謙信の卓越した指揮統率力】
山王堂の戦いは上杉謙信が
小田領に領土的野心が
あってのことではなく、
佐竹らの要請によって
北条氏の一翼である小田氏に
一撃を加えたものでした。
その用兵の果敢さ、
進退の速さは突出していました。
上杉方の関東諸将は
大半が山王堂の戦いに間に合わず、
戦いが終わってようやく
駆けつけて上杉謙信に
賀辞を述べるありさまで
あったとのことです。
また小田方の兵が3000余りしか
集まらなかったのは、
上杉謙信の常陸への進軍が素早く
合戦が甚だ急だったので、
小田家旗本など全兵力が集まらず、
まして北条氏の後詰めなど
到底間に合うはずがなかったと
信太治房は述べていたとのことです。

【小田氏治の人望】
敗れた小田氏治は本城を失い、
多くの将兵が討ち死にする等
その損害は多大でありました。
しかしながら1年足らずで
小田城を奪還する
驚異的な回復力を示しました。
これは小田氏を守る譜代の
家臣団の団結がいかに
強固であったかを物語ると同時に、
小田氏治の戦国大名としての
力量の高さを示すものであったのでした。




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【敵将・佐竹義昭による氏治の評価】
小田氏治と宿敵関係にあった
佐竹義昭は上杉謙信に宛てた書状の中で、
「氏治は近年弓矢の道は衰えたものの、
右大将家(源頼朝)以来、
名望のある豪家であり、
氏治もまた普通に優れた才覚があり、
譜代の家人も覚えの者が多く、
とにかく家名を保っている」
と評価しているとのことです。
(「関八州古戦録」)

【山王堂古戦場・所在地】
〒300-4514 茨城県筑西市山王堂86

【山王神社・所在地】
〒300-4514茨城県筑西市山王堂162-1

【交通アクセス】
最寄り駅:
黒子駅(関東鉄道常総線)より6260m
※車で行くのがよろしいかと思います。

小田城跡(つくば市)~鎌倉初期に八田知家が築城し、戦国時代の小田氏15代の居城でした。

上杉謙信について~越後の龍・49年の生涯~駆け足で超手短に!

海老ヶ島城~室町時代に結城成朝が築城、子が海老原氏と名乗り、やがて結城氏と小田氏で城の争奪戦となり勝者は佐竹氏。

結城城~結城朝光が築城、室町時代の結城合戦の舞台、その後廃城になるも水野宗家が入り幕末まで続きました。

真壁城~大掾氏の一族である真壁氏が支配、江戸時代に浅野長政が真壁藩5万石を与えられます。

烏山城~下那須氏が築城した北関東有数の巨大城郭で国の史跡、蛇姫伝説があります。

北条氏康~小田原北条3代目~相模の獅子 ・関東八州にその名を轟かした猛将は戦国随一の民政家。

北条氏政~小田原北条4代目~最大の領土を築くも、生きた時代と合わなかった慎重派で愛妻家で家族思い。

筑波山神社~万葉集にも登場する「筑波」~山頂からの眺め良し!日本史を見守ってきた山。

坂戸城(常陸国)~宇都宮氏家臣の小宅氏の居城、この城を巡り宇都宮氏と小田氏で激戦が繰り広げられました。

多気城 (常陸国)~伝承では大掾氏の平維幹が築城した「多気の山城」、現時点は戦国時代に築城とされる謎の城。

土浦城~伝説上では平将門の砦、文献上では八田知家後裔の若泉氏が築城、戦国期を経て土浦藩となる。

藤沢城~小田城主の小田氏の支城であり、小田城を奪われた際には何度も拠点とした城です。

水戸城~馬場氏が平安時代に築城し、江戸氏、佐竹氏が居城、その後は御三家・水戸徳川家の居城になりました。

宇都宮城~800年の歴史を誇る関東七名城~宇都宮氏が築城し本多正純が築いた城下町

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