【大柳館】
大柳館(おおやぎやかた、だいりゅうかん)は、
千葉県長生郡睦沢町北山田にあった日本の城です。
【概要】
大柳館の所在については、
「房総逸史」「上総国誌」などの記録から、
睦沢町大八木字表台の
安養寺付近とされてきました。
しかし、睦沢村史編さん室に
提出された天正18年の「北山田郷水帳」に
「ふきら前、青柳、城の下、こやの谷、沼田」
などの地名が記載されていることから、
同室で調査した結果、
同町北山田の台地に
所在していたことが
浮かび上がってきたとのことです。
「千葉伝考記」には、
「二男常家をして
上総国長柄郡一ノ宮大柳城に居らしめ
上総介に任ず」というくだりがあり、
大柳館が上総広常まで
代々の上総氏居城だったのと考えかたもあります。
けれども、上総広常の居城にまつわる伝承地は多く、
高藤山城、布施殿台城とともに
その1つとの見方が大方とのことです。
上総広常が誅殺されると、
その所領の多くは千葉常胤が拝領しました。
千葉常胤の子・胤正の次男である常秀は、
建保元年(1213年)ころ、
大柳館に入ったとみられています。
常秀の子・秀胤は、
宝治元年(1247年)6月の
宝治合戦の際、
三浦泰村の妹を妻にしていたため
巻き添えとなり、
千葉氏一族の大須賀胤氏・東胤行らに
大柳館を攻め込まれました。
秀胤は館内に薪炭を積み重ね、
これに火を放って、
ついには自身も火中に身を投じて
自害したということです。
宝治合戦の後、大柳館は廃城となっています。
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秀胤には美人のいいなずけがおり、
死後もいいなずけに会いたくて
閻魔王のところへ行ったところ、
「この御札を授けるので、
それに符合する札を持つものが
尋ねるいいなずけである」といわれ、
早速地獄に行って探し当てたという
伝説があります。
【構造】
北山田の台地下に
「史跡大柳館址」の標柱があり、
そこから道を上がると
三之宮神社があります。
その周辺に土塁などの遺構が
残っているとのことです。
台地上は、富喜楽古墳群の
分布地となっていますが、
その中心的な古墳と思われる
前方後円墳の西側に大きな郭があります。
その北西に、次いで大きな郭があり、
ほぼ平坦となっているとのことです。
東側の台地下は、
道路に沿って堀状の溝が回っており、
館跡の存在を示している
可能性があるかもしれません。
【交通アクセス】
JR外房線「茂原」駅から小湊バス
上市場下車 徒歩15分程度。
※バスの運行に関しては最新の情報をご確認ください。
【所在地】
〒299-4404 千葉県長生郡睦沢町北山田235
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