鎌倉殿の13人

矢部禅尼~三浦義村の娘で北条泰時の正室、子供達は相模三浦氏や戦国大名の蘆名氏につながる。

会津若松城 麟閣



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【矢部禅尼】

矢部禅尼(やべぜんに、文治3年(1187年)⇒
建長8年4月10日(1256年5月6日))は、
鎌倉時代前期から
中期にかけての三浦一族の女性です。
鎌倉幕府の有力御家人である
三浦義村の娘です。
3代執権である北条泰時の前妻(正室)で、
第4代執権の北条経時、
第5代執権の北条時頼の祖母にあたります。

【矢部禅尼の生涯】
建久5年(1194年)2月に13歳の
北条泰時が元服した際、
源頼朝の命により三浦義澄の孫から
良い娘を選んで北条泰時と
結婚させる事が決められました。
この8年後の建仁2年(1202年)8月23日、
三浦義澄の嫡男である
三浦義村の娘(のちの矢部禅尼)が
北条泰時に嫁ぎ、
翌年には長男である
北条時氏が産まれましたが、
後に北条泰時とは離別しています。

【離婚の理由は不明】
時期は不明ですが
北条泰時の後妻である
安保実員の娘が北条泰時の次男である
北条時実を建暦2年(1212年)に
産んでいる事から、
それ以前には離縁したものと
考えられています。
離縁の理由は
特に不仲が生じたわけでも無く、
理由は不明です。
ただ、後年になって
宝治合戦で三浦宗家は滅び、
三浦一族の大半も滅ぼされます。
もしかしたらその下準備は既に
開始され、そのために離婚した可能性も
考えられますね。

ちなみに北条泰時の嫡男・次男・娘が
短期間で亡くなっている時期があります。

【再婚】
その後、三浦氏佐原流の
佐原盛連に再嫁して
三子
(蘆名光盛・加納(三浦)盛時・新宮時連)を産み、
夫の佐原盛連の死後は
三浦矢部郷に帰って出家し、
法名禅阿、矢部禅尼と称しました。
嘉禎3年(1237年)6月、
幕府から矢部禅尼に
和泉国吉井郷が与えられ、
孫の北条時頼が
三浦矢部郷まで下文を届ける使いをしています。




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【宝治合戦】
北条氏との対立によって
三浦一族が滅亡した宝治元年(1247年)の
宝治合戦では、佐原氏の多くは
三浦氏側について滅びましたが、
矢部禅尼の子達は北条氏側として戦っており、
これは矢部禅尼が関わっていたと考えられています。

三浦泰村とその一族の墓(鎌倉)

【北条氏側についた理由】
矢部禅尼の子供達は、
三浦一族であるにも関わらず、
北条氏側に味方しました。
再婚先の佐原氏もその多くが
三浦氏側についています。
矢部禅尼の孫である北条時頼は
松下禅尼ですが、その父親は
三浦氏打倒を仕掛け、
三浦氏排除の強硬派である
安達景盛です。

矢部禅尼は実家や再婚先と
袂を分かつことになっても
北条氏側に味方をしたのは、
三浦氏が攻め込まれる事と
事前に知らされていた可能性があります。
よって北条家に味方をすれば、
悪いようにはしないと懐柔された
かもしれませんね。
佐原氏の子供たちと共に、
北条氏に味方することが、
矢部禅尼の血を引く子供や
孫の全員が、生き残る道だと
苦渋の決断をしたことでしょう。
また後継者と期待されていながら
若くして亡くなった
北条泰時の嫡男の為にも。

【立札】
1247年に起きた宝治合戦は、
鎌倉・鶴岡八幡宮の鳥居前に
「三浦泰村と一族が反逆する」と、
何者かによって立札が建てられます。
そのため、三浦泰村は、
謀反のつもりが無いことを証明するため、
武装解除したのですが、
その時に狙っていたかのように、
北条時頼と安達義景ら鎌倉勢が
三浦勢を襲撃したとのことです。
従ってこれは予め仕組まれていた可能性が
極めて高いこととなります。
そしてその立札をたてるように行動を
させた人物は安達氏であると推測されています。

三浦泰村の正室は北条泰時の娘ですが、
宝治合戦が起こる前に亡くなっています。

相模三浦氏蘆名氏
加納盛時は後に三浦姓を名乗って
三浦家を再興し、相模三浦氏となっています。
更に、再婚相手の佐原盛連の父親は佐原義連で
のちに戦国時代の大名となる
蘆名氏の初代とされています。
そしてその「蘆名」姓を名乗るのは、
矢部禅尼が産んだ蘆名光盛からとされています。

【最期】
建長8年(1256年)4月10日、
不食の所労により70歳で死去しました。
北条時頼は祖母の死にあたり
50日の喪に服しています。




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【配役などは?予想】
さて、2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」ですが、
果たして矢部禅尼は
ドラマに登場するのでしょうか?
北条泰時の正室で三浦義村の娘ですから、
恐らくはドラマに登場すると考えます。
北条時氏を産んだ後に北条泰時とは
離縁してしまいますが、
離縁するに至ったことも
ドラマでは描かれるのでしょうか?
ドラマに登場するとなると、
演じられる女優さんは
どなたになるのでしょうか?
三浦宗家滅亡後の三浦氏再興と
蘆名氏関係でも重要な関りがある人物。
北条泰時に嫁ぎながらも離縁していしまう
三浦義村の娘。
現在、「鎌倉殿の13人」で語りを
されている長澤まさみさんが
演じられてたら面白いなーと思ってしまいます。
ドラマ後半に向けて一層華やかになりますし。
期待してしまいます。

2022年NHK大河ドラマ
「鎌倉殿の13人」で登場している「初」が
こののち、北条泰時の妻になり、
成人した「初」の配役がこの度発表されました。
この「初」がおそらくは矢部禅尼であろうと思われます。

2022年NHK大河ドラマ
「鎌倉殿の13人」では「初」役として
福地桃子(ふくちももこ)さんが演じられます。

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