史跡・城跡

長篠・設楽原の戦いの古戦場~織田・徳川連合軍と武田軍の決戦の地です。

設楽原決戦地 馬防柵



スポンサーリンク



【長篠・設楽原の戦いの古戦場】

長篠・設楽(ヶ)原の戦い
(ながしの したらがはら の たたかい)
が繰り広げられた場所です。
戦国時代の天正3年5月21日(1575年6月29日)、
三河国長篠城(現・愛知県新城市長篠)をめぐり、
3万8千人の織田信長徳川家康連合軍と、
1万5千人の武田勝頼の軍勢が激突し、
激しい合戦となりました。

長篠・設楽原合戦屏風絵図

決戦地が設楽原(設楽ヶ原、したらがはら)
および有海原(あるみ原)
(「藩翰譜」、「信長公記」)だったため、
長篠・設楽(ヶ)原の戦い
(ながしの したらがはら の たたかい)
と記すようになりました。
以前は長篠の戦い(ながしののたたかい、
長篠の合戦・長篠合戦と表記されていました。
(自分が学生の頃はそうでした)

長篠・設楽原の戦い布陣図

その中でも設楽原は
織田・徳川連合軍が鉄砲や
馬防柵を使い武田軍と戦った決戦の地です。
現地では馬防柵が約100mにわたって
再現されているほか、
周辺には戦いで命を落とした
武将たちをまつる墓が点在しています。
また、6月6日に行われる
「決戦場まつり」には
鉄砲隊演武などが行われ、
タイムスリップしたかのような体験ができます。
また近くにある設楽原歴史資料館では
散策マップを受け取ることができます。

<馬防柵>
設楽原 馬防柵

【設楽原歴史資料館】
<所在地>
〒441-1305
愛知県新城市竹広字信玄原552

<電話番号>
0536-22-0673

<開館時間>
午前9時~午後5時
(入場は午後4時30分まで)

<休館日>
●毎週火曜日
(火曜日が休日の場合は次の平日が休館) 
※ただし、夏休み期間中は開館
●年末年始
(12月29日から1月3日)

<入館料>
個人
団体(20名以上)
一般:330円(220円)
小中学生:100円(50円)

<共通観覧料>
(設楽原歴史資料館と長篠城址史跡保存館の共通券)
個人
団体(20名以上)
一般:440円(330円)
小中学生:150円(80円)

<駐車場>
50台

<交通アクセス>
(車)
新東名「新城」ICより1.5km
「豊川」ICより15.8km(約30分)

【設楽原決戦場】
<所在地>
〒441-1304 愛知県新城市大宮清水1−9
※馬防柵がある辺り。

【交通アクセス】
(電車・徒歩)
JR飯田線「三河東郷」駅より徒歩約25分程度。
(車)
新東名「新城IC」より1.3km(約3分程度)

【駐車場】
ありませんが駐車できる場所はある模様です。




スポンサーリンク



【開戦に至る経緯】
甲斐国・信濃国を領する武田氏は
永禄年間に、駿河の、今川氏の領国を併合し、
元亀年間には遠江国・三河国方面へも侵攻していました。
その間、美濃国を掌握した尾張国の織田信長
足利義昭を擁して上洛しており、
当初は武田氏との友好的関係を築いていました。
けれども将軍足利義昭との関係が険悪化すると、
元亀3年には反織田信長勢力を糾合した
将軍足利義昭に挙兵されます。
そこで将軍足利義昭に応じた武田信玄が、
織田信長の同盟国である
徳川家康の領国である三河へ侵攻したため、
織田氏と武田氏は手切れとなったのでした。

けれども武田信玄の急死によって
三河侵攻作戦は頓挫し、
武田勢は本国へ撤兵を余儀なくされたのでした。
一方の織田信長は、朝倉氏・浅井氏ら
反織田信長勢力を滅ぼして、
将軍足利義昭を京都から追放し、
自身が「天下人」としての地位を
引き継いで台頭したのでした。

武田氏の撤兵に伴って三河の徳川家康も
武田領国に対して反攻を開始し、
三河・遠江の失地回復に努めました。
天正元年(1573年)8月には、
徳川方から武田方に転じていた
奥三河の国衆である
奥平貞昌(後の奥平信昌)が、
秘匿されていた武田信玄の死を疑う
父の奥平貞能の決断により
一族を連れて徳川方へ再属[注釈 5]。
すると徳川家康からは、
武田家より奪還したばかりであえう
対武田の前線である長篠城に配されました。

武田氏の後継者となった武田勝頼は、
遠江・三河を再掌握すべく
反撃を開始します。
奥平氏の離反から2年後となる
天正3年(1575年)4月には
大軍の指揮を執り三河へ侵攻し、
5月には長篠城を包囲しました。
これにより、長篠・設楽原における
武田軍と織田・徳川連合軍の衝突に至ります。
また、大岡弥四郎(大賀とも)の
内通事件が、天正3年(1575年)の
事件であるとする説が出され、
大岡の調略に成功した武田軍が
岡崎城を目指したものの、
内通が発覚して
大岡が殺害されたために
長篠方面に向きを変えた可能性もある、とのことです。

【長篠城攻城戦】
1万5000の武田の大軍に対して、
長篠城の守備隊は500人の寡兵でしたが、
200丁の鉄砲や大鉄砲があり、
また周囲を谷川に囲まれた
地形のおかげで武田軍の猛攻にも
何とか持ちこたえていました。
けれども兵糧蔵の焼失により食糧を失い、
数日以内に落城必至の状況に追い詰められました。
5月14日の夜、城側は奥平貞昌の家臣である
鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)を密使として放ち、
65km離れた岡崎城の家康へ
緊急事態を訴えて、
援軍を要請させることにしたのでした。

長篠・設楽原一帯の地名と鳥居強右衛門

夜の闇に紛れ、寒狭川に潜って
武田軍の厳重な警戒線を突破した鳥居が、
15日の午後にたどり着いた岡崎城では、
既に織田信長の率いる援軍3万人が、
徳川家康の手勢8000人と共に
長篠へ出撃する態勢でした。
織田信長と徳川家康に戦況を報告し、
翌日にも徳川家康と織田信長の大軍が
長篠城救援に出陣することを知らされた鳥居は、
この朗報を一刻も早く長篠城に伝えようと
引き返します。
が、16日の早朝、
城の目前まで来たところで
武田軍に見付かり、捕らえられてしまいます。




スポンサーリンク



最初から死を覚悟の鳥居は、
武田軍の厳しい尋問に臆せず、
自分が長篠城の使いであることを述べ、
織田・徳川の援軍が長篠城に向かう
予定であることを堂々と語ったとのことです。
鳥居の豪胆に感心した武田勝頼は、
鳥居に向かって
「今からお前を城の前まで連れて行くから、
お前は城に向かって
「援軍は来ない。
あきらめて早く城を明け渡せ」と叫べ。
そうすれば、お前の命を助け、
所領も望みのままに与えてやろう」
と取引を持ちかけたとのことです。
鳥居は表向きこれを承諾。
けれども実際に城の前へ引き出され時、
鳥居は、
「あと二、三日で、数万の援軍が到着する。
それまで持ちこたえよ」と、
武田勝頼の命令とは全く逆のことを
大声で叫んだとのことです。
これを聞いた武田勝頼は激怒し、
その場で部下に命じて鳥居を磔にして、
槍で突き殺したのでした。

鳥居強右衛門 磔の地

しかし、この鳥居の決死の報告のおかげで、
援軍が近いことを知った奥平貞昌と
長篠城の城兵たちは、
鳥居の死を無駄にしてはならないと
大いに士気を奮い立たせ、
援軍が到着するまでの二日間、
見事に城を守り通すことが
できたということです。

織田信長軍3万と徳川家康軍8千は、
5月18日に長篠城手前の設楽原に着陣。

長篠・設楽原合戦屏風絵図 徳川家康

設楽原は原と言っても、実際は
小川や沢に沿って丘陵地が
南北に幾つも連なる場所でした。
ここからでは相手陣の深遠まで
見渡すことはできませんでしたが、
織田信長はこの点を利用し、
3万の軍勢を敵から見えないよう、
途切れ途切れに布陣させ、
小川・連吾川を堀に見立てて
防御陣の構築に努めました。
これは、川を挟む台地の両方の斜面を削って
人工的な急斜面とし、
さらに馬防柵を設けるという
当時の日本としては異例の野戦築城でした。
織田信長側は、無防備に近い
鉄砲隊を主力として
柵・土塁で守り、
武田の騎馬隊を迎え撃つ戦術としました。

設楽原 鉄砲構え

一方、織田信長到着の報を受けた
武田陣営では直ちに軍議が開かれました。
武田信玄時代からの重鎮たち、
特に後代に武田四名臣といわれる
山県昌景馬場信春内藤昌秀らは
織田信長自らの出陣を知って
撤退を進言したと言われていますが、
武田勝頼は決戦を行うことを決定したのでした。
そして長篠城の牽制に3千ほどを置き、
残り1万2千を設楽原に向けたとのことです。
これに対し、武田信玄以来の古くからの
重臣たちは敗戦を予感し、死を覚悟して
一同集まり酒(水盃)を飲んで
決別したとも云われています。
「信長公記」にある武田軍の動きは、
「長篠城へ武将7人を向かわせ、
勝頼は1万5千ほどの軍勢を率いて
滝沢川を渡り、織田軍と二十町(約2018m)
ほどの距離に、兵を13箇所ほどに分けて
西向きに布陣した」という記述となっています。




スポンサーリンク



武田軍のこの動きを見た織田信長は、
「今回、武田軍が近くに布陣しているのは
天の与えた機会である。ことごとく討ち果たすべきだ」
と、味方からは1人の損害も
出さないようにしようと作戦を考えたと
信長公記8巻にあります。
鉄砲を主力とする守戦を
念頭に置いていたため、
武田を誘い込む狙いであったとのことです。

【鳶ヶ巣山攻防戦】
5月20日深夜、織田信長は
徳川家康の重臣であった
酒井忠次を呼び、
徳川軍の中から弓・鉄砲に優れた兵2千ほどを
選び出して酒井忠次に率いさせ、
これに自身の鉄砲隊50と金森長近ら検使を加えて
約4千名の別働隊を組織し、奇襲を命じたとあります。
(「信長公記」)。
別働隊は密かに正面の武田軍を迂回して
豊川を渡河し、南側から尾根伝いに進み、
翌日の夜明けには
長篠城包囲の要であった
鳶ヶ巣山砦を後方より強襲したとのことです。
鳶ヶ巣山砦は、長篠城を包囲・監視するために
築かれた砦であり、本砦に4つの支砦、
中山砦・久間山砦・姥ヶ懐砦・君が臥床砦
という構成でしたが、
奇襲の成功により全て落とされたとのころです。
これによって、織田・徳川連合軍は
長篠城の救援という第一目的を果たしました。
さらに籠城していた奥平軍を加えた
酒井奇襲隊は追撃の手を緩めず、
有海村駐留中の武田支軍までも
掃討したことによって、
設楽原に進んだ武田本隊の退路を
脅かすことにも成功したのでした。

この鳶ヶ巣山攻防戦によって
武田方の動きは、
主将の河窪信実(武田勝頼の叔父)をはじめ、
三枝昌貞、五味高重、和田業繁、名和宗安、
飯尾助友など名のある武将が討死。
武田の敗残兵は本隊への合流を図って
豊川を渡って退却しましたが、
酒井奇襲隊の猛追を受けたために、
長篠城の西岸・有海村においても
春日虎綱の子息・香坂源五郎が
討ち取られています。
このように酒井隊の一方的な
展開となりましたが、
先行深入りしすぎた徳川方の
深溝松平伊忠だけは、
退却する小山田昌成に反撃されて討死しています。

【設楽原決戦】
5月21日早朝、
鳶ヶ巣山攻防戦の大勢が決したと
思われる頃の設楽原では、
武田軍が織田・徳川軍を攻撃。
戦いは昼過ぎまで約8時間続いたとのことです。
織田・徳川軍から追撃された武田軍は
1万名以上の犠牲(鳶ヶ巣山攻防戦も含む)
を出したのでした。
織田・徳川軍の勝利で合戦は終結しました。

有海原地区 戦国の陣没将士墓苑

<有海原地区 戦国の陣没将士墓苑・説明>
有海原地区 戦国の陣没将士墓苑・説明

織田・徳川軍には
主だった武将に戦死者が
見られないのに対し、
「信長公記」に記載される
武田軍の戦死者は、
譜代家老の内藤、山県、馬場を始めとして、
原昌胤、原盛胤、真田信綱真田昌輝
土屋昌続、土屋直規、安中景繁、
望月信永、米倉丹後守など
重臣や指揮官にも及び、
被害は甚大であったのでした。




スポンサーリンク



武田勝頼はわずか
数百人の部下に守られながら、
一時は菅沼定忠に助けられ
武節城に篭りましたが、
信濃の高遠城に後退したのでした。

上杉の抑え部隊1万を率いていた
海津城代春日虎綱(高坂昌信)は、
上杉謙信と和睦した後に、
武田勝頼を出迎えて、
これと合流して帰国したということです。
高坂昌信はこの時武田勝頼に
敗軍の将を感じさせないため
に立派な武具に着換えさせたということです。

【長篠合戦の政治的な影響】
長篠における勝利、
そして越前一向一揆平定による
石山本願寺との和睦で
反織田信長勢力を屈服させることに
成功した織田信長は、
「天下人」として台頭しました。
また、徳川家康は三河の実権を完全に握り、
遠江の重要拠点である諏訪原城
二俣城を攻略していき、
高天神城への締め付けを強化していきます。

武田氏は長篠において、
重臣を含む多くの将兵を失う大敗を喫し
領国の動揺を招いたのでした。
武田氏は長篠の敗退を契機に
外交方針の再建をはかり、
小田原北条氏の甲相同盟に加え、
越後上杉氏との関係強化や
佐竹氏との同盟)、
さらに里見氏ら関東諸族らと
外交関係を結んだのでした。

天正6年(1578年)には
越後において上杉謙信の死後、
ともにその養子であった上杉景勝
上杉景虎との間で
家督を巡る御館の乱が起こり、
武田勝頼は小田原北条氏の要請で出兵しましたが、
武田方と接触していた上杉景勝と同盟を結び、
両者の調停を図ります。
武田勝頼の撤兵後に上杉景勝が乱を制したことで、
小田原北条氏との関係は手切となったのでした。

【武田氏の滅亡】
武田勝頼は関東諸族との同盟により
小田原北条氏を牽制し、
武田家に人質としていた
織田信房を織田家に返還して
織田信長との和睦を試みましたが、
天正10年(1582年)3月には
織田・徳川連合軍による
武田領国への本格的侵攻が行われ、
甲斐源氏の名門である武田氏は
ここに滅亡したのでした。




スポンサーリンク



【奥平松平家】
長篠城主・奥平貞昌は
この戦功によって
織田信長の偏諱を賜り「信昌」と改名し、
徳川家康の長女である亀姫を貰い受け正室とした上、
徳川家康所有の名刀「大般若長光」
も賜るという名誉を受けました。
さらにその重臣含めて知行などを
子々孫々に至るまで保証するという
お墨付きを与えられ、
奥平貞昌を祖とする奥平松平家は
明治まで続くこととなります。
なお、近年において、元亀年間の段階で
「信昌」の名乗りが用いられている
可能性が指摘されています。
奥平信昌は織田信長ではなく
武田晴信(信玄)の偏諱を
与えられたとする説が浮上しています。

【鳥居強右衛門の子孫】
また、武田に処刑された
鳥居強右衛門は後世に
忠臣として名を残し、
その子孫は奥平松平家家中で厚遇されたのでした。

鳥居強右衛門 墓苑

所要時間:20分~数時間

長篠城 (日本100名城)~城をめぐる激しい攻防戦で有名、国の史跡に指定されています。

鳥居強右衛門~奥平家の家臣で長篠の戦いで英雄となった戦国時代の「走れメロス」

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

松平信康~将来を有望されていた嫡男でしたが、築山殿と共に非業の死を遂げます。

大岡弥四郎(大賀弥四郎)~民政や算術に長け岡崎の町奉行であったが武田と通じ謀反を画策する。

伊奈忠次~松平信康の家臣で伊賀越え貢献で帰参、利根川東遷や荒川西遷、江戸幕府の財政基盤の確立に寄与。

渡辺守綱~家康とは同い年で「槍半蔵」と呼ばれ「鬼半蔵」の服部正成と並び称されました。

奥平信昌~攻防最前線である奥三河の国人、徳川家康の娘婿となり、武田軍猛攻の中長篠城を死守する。

鳥居元忠~竹千代時代からの側近で伏見城にて玉砕、その最期は血染め畳と血天井として後世に伝えられています。

石川数正~徳川家康の懐刀として西三河の家老になるも豊臣家に出奔、その真相は如何に?

酒井忠次~東三河の旗頭で徳川家康第一の功臣、嫡男の信康切腹事件では防げなかったとありますが果たして?

榊原康政~徳川四天王、部隊の指揮に優れ能筆家で、井伊直政・本多忠勝とは特に仲が良かったとされています。

本多忠勝~徳川四天王の中でも屈折の剛勇者で愛槍の「蜻蛉切」で主君を救いました。

織田信長について~駆け足で手短にわかる織田信長の49年の華麗で残酷な生涯

佐久間信盛~織田家筆頭家老として30年間織田家に身を粉にして仕えるも追放される。

武田勝頼~甲斐源氏・戦国大名としての甲斐武田氏最後の当主、素質と環境が合わず悲劇が訪れます。

山県(飯富)昌景~武田家重臣の筆頭格で部隊の軍装「赤備え」が有名です。

穴山信君(穴山梅雪)~武田氏の家臣で御一門衆、信玄から厚い信頼がありましたが、勝頼の代になると裏切ります。

真田昌幸~武田信玄を敬愛し「表裏比興の者」は死しても徳川家に恐怖を与えました。

真田信幸(信之)~真田昌幸嫡男で真田家存続の功労者、信濃松代藩は江戸期を続き明治維新を迎えました。

真田信繁~「日本一の兵」と評された日本の国民的武将で英雄の真田幸村です。

千石墻の砦~小幡信真の配下であった浅香播磨守重明が秩父地方の攻略時に築いた砦とのことです。

武蔵・引田城~甲斐武田氏家臣で北条氏の庇護を受けた志村景元の居城でした。

水野信元~徳川家康のかなり頼れる伯父だが、最期は織田信長から殺害命令が下る。

今川氏真~お坊ちゃま育ちで蹴鞠の名手、家は失えど強かに生き抜き明治まで子孫を繋ぎました。

亀山城~群馬からやってきた奥平氏が築城し、やがては山家三方衆と呼ばれる有力土豪になった。

奥平貞勝と亀穴(滝山)城~松平氏・今川氏・織田氏・徳川氏・武田氏と戦国の世を渡り歩き84歳まで生きた。

高天神城(続日本100名城)~武田信玄・武田勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた要衝

高遠城~国の史跡で日本100名城、春には珍しい品種の桜であるタカトオコヒガンが咲き誇ります。

関連記事

  1. 神田藏屋敷稲荷神社(大宮城跡) 駿河大宮城跡~築城は国衆で神社大宮司の富士氏、武田信玄・今川氏真…
  2. 頼朝の一杯水 頼朝一杯水~源頼朝が伊豆山への逃避中に休息し水を飲んだと伝わる場…
  3. 明王院 五重塔 本堂 明王院(広島)~歴史ある古刹で国宝の本堂と五重塔が自然の中に調和…
  4. 黒井城址 黒井城~丹波三大山城~250年間続いた中世から戦国時代の貴重な城…
  5. 虎女(虎御前)住庵の跡 虎御前~曽我兄弟の兄・曽我十郎祐成の愛妾、山下長者屋敷(住吉要害…
  6. 延命寺(坂東市) 山門 延命寺~「島の薬師」と親しまれているお寺で、平将門公持護仏の薬師…
  7. 亀井城(川崎 月讀神社) 亀井城(川崎 月讀神社)~伝亀井六郎(源義経四天王)の居城、戦国…
  8. 今江城 石碑 今江城~加賀一向一揆出陣の城~時を経て織田軍との対戦し、落城する…



スポンサーリンク




コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

おすすめ記事

  1. 泉岳寺~徳川家康が創建の曹洞宗の寺院で赤穂義士の墓所がある忠臣蔵の聖地です。 泉岳寺 山門

ピックアップ記事

  1. 豊太閤産湯の井戸(常泉寺)
  2. 高瀬城 出雲
  3. 芦名城址 相模
  4. 鶴岡八幡宮
  5. 白河関跡(関の森遺跡)
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
PAGE TOP