【田中城】
所在地: 〒520-1217 滋賀県高島市安曇川町田中
田中郷の領主・田中氏の居城。
「上寺城」・「上ノ城」の別称があります。
<遺構>
曲輪跡、土塁、堀跡、土橋。
ほぼ完全な形で保存されています。
遺構を見学しやすいように整備されています。
「田中城」の「看板」から見学ルートの案内板があります。
<構造>
天主台があったと推定される曲輪の標高は2220m、
平地との比高差はわずか60m程で
同時期の山城と比べて標高の低い場所に位置しています。
しかし、城域の要所に堀切、土塁、武者隠しなど外敵を防ぐための遺構が見られ、
相当の規模であったことが遺構から推測されます。
曲輪が土塁に沿ってきちんと配置されており、
方位を確認しないで歩き回ると、
方向感覚が分からなくなってしまう程、だそうです。
なので、登城される際には、
方向や、散策・登城してきたルートの確認や
方位磁石などを携帯されると良いかと思われます。
<区分>
中世山城跡
元亀元年(1570年)4月、
織田信長は越前の朝倉義景を討つため
「田中の城」に逗留したと「信長公記」に記されています。
浅井長政の勢力下に置かれた田中城は
元亀4年(1573年)に信長の手によって攻略され、
其の後明智光秀の支配を受けて終焉を迎えます。
また、光秀が語ったとされる文書(米田文書)の内容に
「高嶋田中籠城之時」がありますが、この城のことということです。
この城の位置は湖西から越前方面へ向かう交通の要衝です。
光秀は後の元亀2年(1571年)に滋賀郡に領地を与えられています。
<米田文書>
「米田文書」(個人蔵)に含まれる『針薬方』が
現在においては、光秀の史料上の初見とのことです。
その中に、光秀自身が「高嶋田中籠城之時」に語った内容を含んでいます。
永禄9年(1566年)10月20日に
米田貞能(米田求政)によって作成された写本とのことです。
医術の心得が記されているとの事です。
また朝倉家の塗り薬の記述が見られるとの事です。
【米田求政】
米田求政(こめだもとまさ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
室町幕府13代将軍・足利義輝に仕えていました。
永禄8年(1565年)の永禄の変で義輝が三好三人衆などに殺害されると、
三人衆や松永久秀によって興福寺に幽閉されていた
将軍の弟・覚慶(後の15代将軍・足利義昭)を
細川藤孝、三淵藤英、和田惟政、一色藤長、仁木義政らと共に救出しました。
永禄12年(1569年)からは細川藤孝に仕えています。
元亀元年(1570年)11月23日には
求政の主催で藤孝、里村紹巴らと連歌百韻を催しました。
元亀2年(1571年)には山城国勝竜寺城の普請を務めます。
<子孫>
子孫は熊本藩上卿三家の家老二座として
1万5000石と長岡姓を与えられ、
明治維新後には男爵となったそうです。
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【田中氏】
田中城築城は「高島七頭」の一族である田中氏でした。
田中氏は佐々木信綱の二男高信の分流で佐々木一族です。
築城は鎌倉時代後期、田中氏綱ともいわれています。
田中城の位置には、かつて「高島七力寺」の一つである、
「松蓋寺(しょうがいじ)」と呼ばれた天台宗の寺院ががあったとされ、
田中城はその寺院遺構の一部を使用する形で
築城されたとも伝わっているそうです。
【田中吉政】
この田中氏の流れをくむ田中吉政(たなかよしまさ)は、
秀吉、家康に相次いで仕え、三河国岡崎城主、
筑後国柳川城主として城下町の建設・整備に手腕を発揮しました。
豊臣秀次の重臣となり、
秀次の領地である近江八幡の町づくりに尽力しました。
秀次の 死後は秀吉に仕え、
天正16年(1588)三河国岡崎城を与えられ、
さらに関ケ原の合戦では東軍(徳川方)について働き、
慶長6年(1601)には筑後国
32万石の領主として柳川城に入りました。
この地で筑後川の水路工事を始めとする
土木工事や有明海沿岸の干拓による
新田開発などに手腕を発揮したと伝えられています。
<田中城の行き方>
「上寺」バス停付近に案内板があります。
その近くの建物は「上寺区草の根ハウス」
滋賀県高島市安曇川町田中4278-1
<そのすぐ近くにある田中城案内図>
<田中城への案内小看板>
上の案内図から山の方向にあります。
矢印に沿って進みます。
麓の屋敷群に入り、設置されている案内の矢印通りに進むと、
「田中城跡」の石碑があります。
後ろの金網の扉を開けて登城します。
扉は開けたら必ず閉めましょう。
近年、獣害が多く、この付近の方々を大いに悩ませているとの事です。
県道297号線「安曇川高島線」
<地図>
<公共交通機関でのアクセス>
JR安曇川駅から横山・田中線バスで「馬場」下車、徒歩約20~25分
付近にはお店などないのであらかじめトイレなど済ませてから
行かれるとよいでしょう。
また、飲料水の持参もお忘れなく。
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